最強の男






ちょっ と相談があるの。

その時、三木清良は千秋真一にそう言った。

それは、 清良のカントナ国際コンクール3位入賞祝賀会が終わった次の日の夜だった。
黒木もその日の夕食には、誘っていたのだが、前日にター ニャのことを突付かれたのがよほどこたえたのだろう。
清良と峰も来るのだからと言っても、どうしても来ようとしなかった。
自 分の作った久しぶりの日本食を皆が堪能してくれたのに満足していた千秋は、いきなりの清良の発言に戸惑いを隠せなかった。

「相 談…?」
「うん、千秋くんにどうしても相談したいことがあって」
「…そりゃ、別にかまわないけど…」
「ちょっ と外に出ない?」
「…ここじゃ駄目な話なのか?」
「うん」

自分の彼女 が他の男に、そんなことを聞いていて黙ってるような峰龍太郎ではなかった。

「おいっ!!清良!!」
「… なによ」

煩そうな表情で冷ややかに峰を見る清良。

「千秋に相談ってな んだよ、俺に相談すればいいじゃないか!!彼氏なんだから!!」
「…悪いんだけど、龍じゃ役不足なの」
「なんだ とーーーっ!!俺じゃ役に立たないっていうのか!!」
「うん」

けろっとした表情でこともな げに言う清良。
食事の時のワインが残っているのか、酔いでほんのりと色よくなっていた峰の顔が、さらに怒りで真っ赤になった。
わ あわあとまだ騒ぎたてている峰を気にすることもなく、清良は千秋を促す。

「行きましょう、千秋くん」
「… 俺は別にかまわないが…あれ、いいのか??」

あれ…とは、もちろん一人で怒って一人で騒いでいるサル(笑)のこ とである。
清良は、雑音には我関せずといった顔で、ドアを出る時に振り向いてにっこりと笑った。

「じゃ、 行って来るから、食べたお皿洗っておいてね、り、ゅ、うv」

バタンと扉が閉まる。

くっ そーーーーーっと龍は地団太を踏んだ。

「なんだよ、あれ!!。
 いくら千秋がプロの指揮者 で、俺がしがない中華料理屋の出前持ちだからって、俺に内緒でこそこそする話ってどんなことだよ!!。
 そもそも付き合っている2人 の間に隠し事っていうのは、ルール違反じゃないのかよ!!。
 なあ、お前もそう思うだろう!!」

そ う言って、峰はソファーに寝そべっているその塊に声をかけた。

「のだめ!!」

そ れは、家に帰ってから一言も口を発していない、食事にも手をつけていない、まるでミイラのようにしぼんでしまったのだめだった。
のだ めはうつろな視線を漂わせたまま、何も答えない。
あんまりにも心配なので、千秋に大丈夫かと尋ねると、よくあることだからほっとけと 言われた。
多分すぐに立ち直って、夜中にお腹が空いてこそこそと一人で残り物をキッチンに漁りにくるからと、千秋はのだめの分の食事 を取り分けて丁寧にラップで包んで冷蔵庫に入れていた。
その姿を見て、千秋も以前とは変わったんだな…と感心していた峰ではあった が。

それにしても……。

昨日はあんなに元気だったのに。
先 輩とやりたい曲が見つかったのだとあんなにはしゃいで、ピアノを聞かせてくれたのだめが、一日のレッスンでミイラだ。

お そるべしかな、コンセルヴァトワール(笑)。

のだめは、ゆっくりと物憂げに峰に向かってこう言った。
 
「… 別に…先輩がのだめに隠し事をすることは、よくある事ですし…。
 いちいち気にしてられないですヨ……」

の だめの声も普段よりかなりオクターブ下がっている。
かなり鬱が入っているようだ。
峰は、のだめの肩を掴んで、思 いっきり揺さぶった。

「おい!!。大丈夫か?のだめ!!。
 …お前…よっぽど、今日のレッ スンがこたえたんだな…。
 どうしたんだ?。
 担任の先生に何かひどいこと言われたのか??」

先 生…という単語が出た時に、のだめが一瞬びくっとしたような気がした。
あちゃー。
もしかしていけないところに触 れちゃったのかなと、峰がのだめの肩からおそるおそる手を離す。

「…別に」

の だめは俯いたまま、ぼそっと呟いた。

「…別に、ひどいことなんて言われてません。
 ただ… のだめはべーべちゃんのまんまなんデス」
「ベーべちゃん?」

その時、峰の頭をよぎったの は、あのキュービー人形のようなものだった。

「…こちらの言葉で、赤ちゃんっていう意味です」
「赤 ちゃん??」

峰は頭をひねる。

「えーっと、赤ちゃんみたいにのだめが 可愛いとかいう意味じゃないの?」
「違いマス!!」

のだめはテーブルをダンッ!!と勢いよ く叩いた。
飲みかけのワインのグラスがや、お皿が倒れそうになって峰は慌ててテーブルを押さえた。

「お い!!。お、落ち着けよのだめ。
 物に当たるな!!」
「いつまでたっても、ヨーダは、のだめのことを、赤ちゃん としか見てくれないんデス!!」

今まで押さえていたものが溢れ出す。
峰はこんなに何かに向 かって興奮したのだめを見たことがなかったので、驚愕する。

「どんなに頼んだってコンクールにも出してくれな い!!。
 他の生徒達はどんどんコンクールに出て、実績を重ねているっていうのに。
 のだめには、課題、課題、 課題、試験、試験、試験、そればっかり念仏のように繰り返すだけ!!。 
 あげくの果てには、ちゃんと目の前の音楽に向き合えてない だって!!
 向き合ってるに決まってるじゃないですか!!。
 こんなに…」

俯 いたのだめの顔から、大きな雫がぽたりと落ちた。

「こんなに…頑張っているのに…」
「のだ め……」

峰は言葉を無くした。
のだめがこんな風に感情を露にするのも、泣いている姿を見る のも初めてだった。
大学の頃は、もっとのほほんとして、何に対してもこちらが歯がゆいくらい執着が無かったのに…。

「こ のままじゃ…先輩にいつまでたっても追いつけない…。
 その前に、こんな調子でこの先ピアノでやっていけるのかどうかもわからな い…。
 こんなところまで…フランスのパリまでやってきたのに…」

悔しい。

と のだめが小さな声で呟いたのを、峰は聞き逃さなかった。

悔しい、悔しい、悔しい…。

「す ごく不安なんです…自分がこのまま何もできずに終わってしまうんじゃないかって…。
 …いつまで頑張ればいいんですか?。
  のだめには先が見えません…自分の未来がどうなるのかわからないんです…」

峰は、ふうっとため息を一つつくと、 のだめの肩に手を置いた。
そして、優しくソファーに座らせた。

「よくわかんねえけど…」
「………」
「… お前、今、苦しいんだな」

のだめの肩がびくっと震えた。

「………」
「頑 張ってるのに、なかなか認めてもらえなくて、すごくすごく苦しいんだな」

のだめが、しばらくの沈黙の後、小さく 頷いた。
下を向いているから、表情は見えないが鼻をすする音が聞こえた。

「…そういうこと を千秋に相談してみたか?」

峰の質問に対して、のだめは大きく首を振った。

「そ んな…そんなこと言えませんよ」
「なんで?」
「そんな…みっともないこと言ったら…先輩に…き…」
「… き?」
「…き、嫌われちゃうから…」

次の瞬間。
峰が、大声で腹を抱え て、わっはっはっはと笑い出した。
あまりにも大笑いされているので、さすがののだめもむっとしてくる。

「… なんですか。そんな笑って…」
「いや、ゴメン、ゴメン…」

不機嫌な表情ののだめに対して、 ひーひーと腹を押さえながら峰は言う。

「いや、あまりにもお前の考えがおかしくってさーっ」
「… へ?」
「そんなこと、ある訳ないだろう、千秋がお前を嫌いになるなんてこと」
「だって…」
「あ いつ、信じられないけど、お前にベタ惚れだぜ。
 どっちかというと、いつかお前に捨てられるんじゃないかってびくびくしてると思う よ」
「そう…ですかネ?」

のだめには、とてもそう思えない。
そんなこ とを思えるほど自分に自信がないし、そのゆとりもない。
峰はそんなのだめの不安を抑えるがごとくこう言った。

「千 秋は、お前がどんなに落ちていっても見捨てるような奴じゃない。
 …これだけは断言できる
 こんな日本から遠く 離れたところまで連れてきて、あっさり見捨てるような奴じゃ、俺の親友じゃない。
 それに、お前だけじゃなく誰だって、未来が不安に なる時もあるよ」
「え?」

のだめが不思議そうに言う。

「そ れでもさ…こんなことを考えたりするんだ」

そう言いながら、峰は遠くを見るように語った。
そ の口元は軽く緩んでいて、楽しげで、今にも歌いだしそうだった。

「俺は、清良と結婚する。近い将来。うん。多分 な」
「…なんですか、のろけですか」

こんな時にと…ちょっと気分を害したようなのだめも気 にもせずに、峰は続ける。

「子供は多分2人だな。
 女の子と男の子。
  両方ともヴァイオリンを習わせてさ、有名な私立の音楽学校に通わすんだ。
 俺と清良の子だから、絶対に優秀だろう?」
「………」
「清 良は世界的なヴァイオリニストだから、きっとあちこち世界中を飛び回るだろう。
 その間、子供達の面倒は俺とオヤジが見る。
  俺はしがない中華料理屋の出前担当で、ほんでもってR☆Sオケの代表だな」

いつから峰はR☆Sオケの代表になっ たのだと突っ込みたい気持ちはあるのだけれども、面倒くさいのでのだめは聞き流した。

「…そして…」

そ こで、峰は一度言葉を切った。

「…そして、その俺の未来予想図に、お前がいる光景って…そんなに…別に…違和感 がないように、俺には思えるんだ」
「ハイ?」

峰はにかっと笑って愉快そうな表情でのだめを 見る。

「もし。
 これは…もしもの話だ。
 お前が、こっちでピアノで 成功しなくて、千秋ともうまく行かなくなって、行き場が無くなってしまったとする。
 もちろん、もしもの話だぞ、言っておくけど。
 … その時は、迷うことはない。
 日本に帰って来い」
「………」
「部屋は裏軒の2階にある物置 小屋を片付ければ、どうにかお前一人くらいは寝られるだろう?。
 ほら、俺の部屋の隣だよ」
「ああ…あそこデス ね…」

確かに、峰の部屋の横には4畳半の小部屋はあった。
だけれども、そこは峰の趣味のバ ンドのための音楽機材で埋まっていてとても住める部屋ではなかったようにあるのだが…。

「そしてお前はオヤジの 手伝いをして店を手伝ってくれたり、子供の面倒を見てくれたりして過ごす。
 まかないは毎回、残り物や試作品の麻婆だぞ。
  お前は麻婆が好きだし、オヤジはお前のことを気に入っているから、かなり好条件だぞ」
「…毎日、ご飯が麻婆ですか…そ、それはあんま り…」

麻婆は確かに好きだけれども、それが毎日続くことはちょっとうんざりするかも…と思いながらも、のだめは 言った。

「あの…その…でも、もし、峰くんや峰パパがいいと言ったとしても、清良さんがいいっていうかどう か…。
 友人とはいえ、明らかに他人の女性ののだめが同じ屋根の下で同居するなんて…ちょっと」
「そっか?。
  あいつは、そんなに心の狭い女じゃないぞ?。
 なんたって俺の選んだ女だからな!!」

はっ はっはと豪快に笑い飛ばす峰を見ながらのだめはため息をつく。
そうかなあ。
清良さんだって女性なんだから、自分 の旦那が他の女性の面倒を見るなんてこと、面白くないような気がするんだけれども。

「そして、店の中央にはピア ノを置く!!」
「…へ?」
「お前は、店の手伝いの傍らに、来ているお客さんたちのためにピアノを弾く。
  クラシックでも、ポップスでもなんでもいい、食事をしている客が楽しめるように」
「あ…あの…」

そ りゃあ、ピアノの生演奏を聞きながらお酒や料理を楽しむ店なんていうのは珍しくはない。
だけど、そんなピアノを置いている店なんて、 フレンチレストランとか、イタリアンのお店が普通であって…。

あ の 裏 軒 で??。

そ んなのだめの考えを見越したように、峰はふんぞりかえって自慢気に笑った。

「日本初!!。生ピアノ演奏がある中 華料理屋だ!!。
 ベートーベンを聞きながら、お洒落な店内で、麻婆豆腐を食べる…一日の疲れを癒してくれる最高のひと時だよな。
  いや〜どうして今まで無かったのかが不思議なくらいだよな〜。
 俺ってやっぱ天才??」
「峰くん、それはちょっ と…」

のだめは、峰のあまりの突飛な考えに頭がくらくらしてきた。
そんなのだめに峰がこう 続ける。

「それでも…もし…お前がそれだけで物足りなかったら」
「………」
「ど うしても本格的にピアノが弾きたくなったら…R☆Sオケで弾けばいいじゃないか」
「…え?」
「R☆Sオケ専属の ピアニストになってくれよ」
「………」
「一緒にコンチェルトをやろうぜ。
 全国を回ったり してさ、地方巡業って奴?。どさ周りとも言うか。
 だけど、真澄ちゃん達はお前が帰ってきたら絶対に喜ぶぞ〜。
  あ、でも高橋くんは嫌がるかもな(女だから)。
 松田さんはもしかしてかえって喜ぶかもしれないな。お前、胸でかいし」
「… 峰くん…」
「えーと、何が言いたいのかっていうと、まあ、その、なんだ」

そこで峰は大きく 息を吸い込むと、しっかりとのだめの目を見据えて言った。

「…のだめ。
 とにかく、よけい なことは考えずに今ある目標に向かって悔いがないようにやれ。
 必死で頑張って頑張って…。
 …それで、どうし ても駄目だったら、帰って来い」
「………」
「…大丈夫だ。
 お前の帰ってくる居場所は、俺 が命がけで守っててやる。
 …どんなことをしてでもな」
「………」
「不安そうな顔するん じゃねえよ、お前の明日はライジングだ!!」

何を言っているのかはもはや意味不明である。

「あー、 でもその前に公演の予定たてなきゃな〜っていうか、その前に指揮者だ…」

ぶつぶつと眉間に皺を寄せて考え込む峰 を見ながら。
のだめは胸に何かがこみあげた。
不覚にも涙が出そうになって、ぐっと唇を噛み締めた。


変 わってない。

大学を卒業してから、こんなにも遠く離れてきてしまったというのに。

… この男は。

この峰龍太郎という男は。

いつも太陽のように明るくて、他 人のことばかり気遣っている優しい心…昔も今も少しも変わることはなく…。

彼自身、けっして未来に不安が無い訳 ではない。
現に指揮者が不在の状況が続いて、R☆Sオケが存続できないような状態になっていることを、のだめも千秋から聞いて知って いる。

それでも。

それでも、自分達の帰る場所を守ってくれると言い 切ってくれる…。

それは…。


「峰くん…」

の だめは口を開いた。
少しでも気が抜いたら大声で泣き出してしまいそうだった。

この気持ちを なんと表現したらいいのだろうか。
もちろん、彼に対する感情は、けっして恋愛なんかじゃない。
それよりももっ と…。
絶対に心から信頼できる…何があっても受け止めてくれる…男女という枠を越えた…。

最 強の…。

のだめは泣き笑いの表情になったまま、峰に向かって言った。

「の だめは…」
「ん?」
「…のだめは、一緒にお風呂に入ってもいいくらい…峰くんのことが大好きですヨ」

そ れを聞いた峰は、いつもどおりの屈託の無い全開の笑顔でこう答えた。

「おう、俺も同じ気持ちだぜ。ソウルメイ ト」





「へえ…」
「… そう」
「ふーん…」
「一緒にお風呂に…」
「入ってもいいくらいにねえ…」


ふ と気がつくと、千秋と清良が部屋の前に立っていた。
いつの間にか、相談とやらを終えて戻ってきていたらしい。
2 人とも、どす黒いオーラを出して、異様な目つきでのだめと峰のことを睨んでいた。

「いや…その…お前らいつから そこにいたの?」
「お風呂に一緒に入るってとこくらい…」
「…いったい…どういう意味なのかしら?龍」

清 良の目がマジだ。
蛇ににらまれた蛙のように、峰はひいいっと首をすぼめた。

「おい…清良… お前、何か誤解を…」
「誤解とか言ってるんじゃないわよ!!…この浮気者ーーーっ!!」

峰 の首を締め付けて、殴りかかる清良を、のだめが背後から必死で押さえる。

「清良さん、あの…のだめ、そんな深い 意味で言ったつもりじゃ…」
「のだめちゃんは黙ってて!!」
「真一くん、助けてくださーい!!」

の だめは助けを求めるように、後ろを振り返る。
…そこには、清良よりももっと鋭い視線で睨みつける千秋の姿があった。
の だめの背中が恐怖でぞくっと震える。
千秋がにやりと不気味に笑う。

「…この俺様が…どうし て?」

本気で恐ろしいものを見たような気がした。

「ぎゃ ぽーーーーっ!!」


結局、土下座させられて千秋と清良に、許しを請うのだめと峰の姿があっ た。
きゃんきゃんと大声で説教する清良。
それをぶすっとした表情のまま見つめる千秋は、先ほど清良に頼まれてい たことを考えていた。

R☆Sオケの指揮をしてくれる人、誰かいないかしら。

も ちろん、清良に言われるまでもなく、すでに片平とジャンに連絡を取って、話を進めていた千秋ではあったのだが。

目 の前にちょこんと座って、頭を下げている峰とのだめが、傍目から見ると仲のいい兄妹のように見えて。
その2人の間には、自分や清良は 一生入っていけないんだろうなと思うとなんだかとても悔しくなってきて。
腹が立って、胸がムカムカしてきて、しょうがなくて。

やっ ぱり峰の手助けをするのはやめようか…と本気で考え直していた千秋だった。






終 わり。