ま
たしても「ピアノの貴公子」の熱愛報道が水面上に浮かび、世間の注目を集めている。
そ
の記事はそんな文章で始まっていた。
20日に発売の「○○○○」で、
多忙な過密スケジュールの合間をぬっては、ある女性の元に足しげく通っていると報じられたのは、ピアニストのリュカ・ボドリー。
天賦
の才に恵まれ、成功に次ぐ成功を収め、若くして世界的な名声を獲得したピアニストである彼は、女性との恋愛遍歴も豊富なことで知られている。
昨
年も美人女優○○○との破局報道が報じられたばかりだ。
そんな彼の今度のお相手が今、世間から注目されている。
彼
女の名前はメグミ・チアキ。
天才指揮者として彗星のように音楽界を駆け抜け、そのあまりにも若すぎる死去に世界が悲しんだという、シ
ンイチ・チアキの未亡人である。
そして彼女自身もプロのピアニストとして、夫の死を乗り越えてその活動を再開したばかりだ。
リュ
カとメグミが知り合ったのは、コンセルヴァトワール学生時代で、その頃からリュカはメグミに好意を寄せていたといういくつかの噂もある。
し
かしメグミはリュカより10歳も年上で、しかも8歳になる娘までいる。
週刊誌では、パリ郊外にあるメグミとその娘が住む家で、まるで
家族のように過ごしているリュカの姿を詳細に報じていた。
これが単なる友人関係なのか否か。
その答えが今後、お
おいに注目されることだろう。
約
束3 2話
リュカは、たま
らなくなり、見ていたインターネットを閉じてパソコンの電源を落とした。
そして、椅子に深く背をもたれかかると、ふうっとため息をつ
いた。
「けっこう騒ぎになっちゃってるわね」
その声に振り返るとエ
リーゼが、眉間にしわを寄せて気難しい顔をして、リュカを睨みながら仁王立ちをしていた。
「……すみません」
何
が悪いんだろう。
どうして謝らなければならないんだろう。
僕とのだめがいったい何の悪いことをしたっていうんだ
ろう。
それすらもわからないままリュカは、ただ、頭を下げた。
自分でも意外なほど神妙な声
が出た。
エリーゼはそのリュカの姿を見て、少し驚いたような顔をした。
「……
初めてじゃない」
「え?」
「貴方が謝るの」
「………」
「いつもだった
ら、どんな記事すっぱ抜かれても、鼻で笑って「プライベートなことは自由でしょ?」っていう感じなのに」
「………」
「ま
あ、いいわ」
エリーゼはゆっくりと立ち上がった。
「貴方の場合、こう
いう記事はいつものことだしそんなに問題はないわ。
世間にもリュカ・ボドリーは女性関係が派手ということで通ってるし、今更、そん
なことで仕事に影響を受けることはないもの」
「……はあ」
喜んでいいのやらどうなのやら、
複雑な心境だった。
「事務所でも、よっぽどなことがない限り、貴方のプライベートには目を瞑るつもりよ。
つまり、貴方にはそれだけの 商 品 価 値 があるってこと。
……よく覚えておいてね。
今の貴方は、基本
的にはどんな相手と遊んでいても許される立場にあるのよ。
こないだみたいに、たとえ貴方の嗜好がゲイで、松田幸久とよからぬ関係に
あるとかいう噂があったとしてもね」
「言わせていただきますが、それは、大いなる誤解です!!」
は
あ……とリュカは大声で叫ぶとため息をついた。
何がどうなってそうなったのかは知らないが、そういう記事が流れたこともあった。
当
の本人2人は、鳥肌が立つくらい嫌がってるとは露知らずに。
「でもね」
エ
リーゼは机に両手をつき、ゆっくりとリュカに顔を近づけた。
「法に触れるような問題なら別よ」
「……
は?」
「貴方、ロリコン?」
「……えええっ?」
リュカにはエリーゼ
が、いったいなんの話をしているのかわからない。
「リュカ・ボドリーは実は幼女嗜好趣味で、目的はのだめじゃな
くて、チアキとのだめの娘さんだってことになれば、未成年者保護条例に反するわよ」
「ちょ、ちょ、ちょっとなんてこと言うんです
か!!」
「……まあ、それは冗談だけど」
冗談の趣味が悪すぎる。
リュ
カは憤慨して、ぶすっとしたまま、平然とした顔のエリーゼをにらみつけた。
「……若くして世を去った天才的なマ
エストロの未亡人。
しかも昔からずっとずっと好意を抱いていた存在だった年上の女性。
……世間では、若くし
て死去したシューマンとその妻クララ。
そしてシューマン亡き後30年も14歳年上のクララを支え続けたブラームスの関係に例える記
事もあったわ」
「………」
リュカは何もいえなかった。
い
つもリュカが訪れるたび、ぱっと花が咲いたような笑顔になり、駆け寄ってきて腕に嬉しそうにじゃれつく可愛らしい琴音のことを思った。
微
笑みながらいつもそんなリュカと琴音を見守る穏やかなのだめの笑顔を思った。
あの家は、リュカの聖域だった。
誰
にも知られたくない。
誰にも邪魔されたくない。
リュカにとっては神聖な……神聖な秘密の場
所の筈だった。
ずっとそのままに。
そっと静かに。
年
月がどんなに経とうとも、季節がどんなに変化していっても、ゆっくりと穏やかに、変わることなくあの2人には平和に過ごして欲しかった。
そ
のためには、どんなことがあっても、守りつづけようと思っていた。
……そう思って今までずっと大切にしてきたの
に。
リュカは美しく清らかなあの母娘が、あのひっそりとした隠れ家のような神聖な場所が、醜いゴシップ記者達に
土足で踏みにじられ汚されたような気がして怒りが止まらなかった。
知らず知らずのうちに手をぎゅううっと固く握る。
エ
リーゼは、ふうとため息をついた。
「まあ、そんな記事、貴方にとってはどうでもいいようなことだけど」
「………」
リュ
カは落ち着こうと腰を下ろした。
顔が激情で真っ赤に染まっているのが自分でもよくわかる。
自分のことなら何を言
われてもかまわない。
所詮、若い頃から才能を認められて、たまたま顔立ちもそれなりによいということで、アイドル的に若い女性からの
支持層が多いだけの存在だ。
別にそんなの見限られたってどうってことはない。
そんなイメージは一新してしまえば
いい。
この世界は才能が全てだ。
どんなスキャンダルがあっても、それを払拭するような、才能を世にありありと見
せ付ければいい。
リュカにはその自信があった。
だけど。
だ
けど、のだめ達は……。
そんなリュカの考えを読んだかのように、エリーゼが珍しくも困ったような顔をして言っ
た。
「困ったのはのだめなのよね」
「……え?」
「仕事の日程調整もあ
るから、連絡を取りたいんだけど、自宅にも携帯にかけても電話に出ないのよ。
貴方、何か知らない?」
「………」
……
そうなのだ。
問題はそこじゃない。
の
だめが、あの記事が出た日から、電話に出ない。
メールを打っても、返事が返って来ない。
……
それが、いったい何を意味するのか……。
リュカは不吉な思いを抱えた
まま、ただ、うなだれているしかなかった。
tururururururu……。
リュ
カの携帯が鳴った。
反射的に飛びつくようにして携帯を手にとって、受話部を耳にあてた。
「も
しもし……?」
電話の向こうの相手の存在を知って、リュカは驚いた。
「ヤ
ス……?」
そ
のアパルトマンはパリ市内の中心部にあった。
けっして広くはないが、安全で感じのいい地域にある、いかにもパリらしいアパートだっ
た。
リュカはごくっと息を呑んで、インターフォンを押す。
室内でドアに駆け寄ってくる足音
がする。
「ハーイ、リュカ!!」
ドアを開けたのは、ターニャ・ヴィシ
ニョーワ……もとい、現在では、クロキ夫人となっているターニャだった。
相変わらず奇抜な、ゴールドと紫色の豹柄の派手派手な格好で
迎えられた時は、何か一言言おうかとも思ったが、彼女の夫である黒木泰則がそれでいいと思っているならそれでいいのだろうと、ぐっとこらえた。
そ
して声を絞り出すようにしてこう言った。
「……やあ、ターニャ、素敵なドレスだね……」
「そ
う?この間、買ったばかりなのよ。ヤスも似合うって言ってくれたしv」
ドレスを誉められて嬉しそうなターニャと
はうらはらに、リュカはため息をついた。
ヤス……そこまで洗脳されてしまったんだね(笑)。
リュ
カは哀れな目で周囲を見渡すも、部屋自体はすごくお洒落だった。
簡潔で余分なものはない、趣味のよい綺麗な内装と、落ち着いた雰囲気
がここに暮らす人達の快適さを物語っていた。
多分、これはヤスの趣味だろうとリュカは思った。
そして、黒い髪と
瞳を持つ、昔と変わらない落ち着きを持った人物がゆっくりと部屋の角から近づいてくる。
「ヤス……」
「リュ
カ、久しぶりだね」
そして、その傍らにいた一つの小さな固まりが、たまらないようにリュカに飛びついて来た。
「リュ
カ……!!」
「琴音……」
琴音はリュカの腰に手を回ししがみついたまま、肩を震わせてい
た。
昼間、黒木から電話があって、今、のだめと琴音が黒木達のアパルトマンに身を寄せていると知ったのだった。
黒
木が静かな抑えたような声で言った。
「……メグミちゃんから電話があった時はびっくりしたよ。
なんでも報道陣が押し寄せてきて、あの小さな田舎ではとても日常生活が送れる状態じゃないらしい」
「………」
「こ
の家も、かなり狭いけど、メグミちゃん達の眠るスペースくらいあるし……どうにか暮らしていけないことはないし、よかったら……って言ったんだけど」
「……
ごめん」
「リュカが謝ることはないよ……」
黒木は寂しそうな瞳をして言った。
全
ての事情を察しているようで、リュカは彼の顔が見れなかった。
その時、突然、琴音がリュカの腰にしがみついたまま、顔をあげた。
そ
の目は涙でぐしょぐしょになって、必死に歯をくいしばっていた。
「……リュカ」
「どうした
の、琴音」
そう優しく言ってリュカは腰を下ろした。
いつもしているように、まだ小さい琴音
の話がきちんと聞けるように。
ちゃんと目を見て話が出来るように、背を低くして琴音の視線に真正面から向き合った。
「……
あのね、あのね、知らないおじさん達がいっぱい来たの」
「……うん」
「私が学校から帰る時とかに、学校の前と
か、家の前で待っていて」
「……うん。」
「おじさん達は、私に向かって皆、こういうの。
あのリュカ・ボドリーはよくここの家に泊まりに来るの?。
どこの部屋で寝てるの?。
もしかしてお母さんと一
緒の部屋かな?。
リュカ・ボドリーが、新しいお父さんになったら嬉しいかな?。
琴音ちゃんは本当のお父さん
のシンイチ・チアキとリュカ・ボドリー、どっちが好きかな?」
琴音の頬をいくつもの涙の線がポロポロと流れ落ち
ていく。
「……そんなの、わかんないよ。
だって、リュカはリュカ、シンイチくんはシンイ
チくんでしょう。
どっちが好きだなんて、そんなこと言われても、そんなの選べないよ……」
そ
う言って、琴音は大きくしゃくりあげた。
わんわんと隠しもせず大きな声をあげて。
玉の雫のような大粒の涙をポロ
ポロと惜しげもなく流れていた。
今まで抑えていたものが解き放たれたように、リュカの首にかじりついてそのシャツをとめどなく涙で濡
らした。
リュカは琴音の体を強く強くぎゅうっと抱きしめた。
激しい怒りで頭が沸騰しそうになる。
……
こんな小さな子供になんてことを……言うんだ。
お前ら、そんなことを言って恥ずかしくないのか?。
お
前らのしていることは、ただの弱者を痛めつける暴力じゃないのか?。
夫を失った傷心の夫人とその子供を世間の好奇心の目に晒している
だけじゃないのか?。
なあ、そうじゃないのか。
初めて、パパラッチに今までに感じたことの
ない殺意を感じた。
リュカは、ただただ泣きじゃくる琴音の体を強く強く抱きしめることしかできなかった。
琴音の
涙が、リュカの肩のシャツをどんどん濡らしていく。
暖かい筈の涙はすぐに冷えて冷たくなってしまう。
そして、
リュカはふと顔をあげて呆然としたようにこう言った。
「……のだめは……どこ?」
黒
木とターニャは顔を不安気に見合わせる。
「……奥の部屋にいるよ」
「なんだかすごくショッ
クを受けたみたいで……ご飯も食べないし、口もろくに聞かないの……」
「………」
それを聞
いたリュカはしばし沈黙を保つと、ゆっくりと泣きじゃくる琴音の肩をそっと外した。
「琴音。……大丈夫だよ」
「………」
「何
が起こったって、僕は僕だよ。君達をずっと守り続けるって約束しただろう?」
「………」
そ
れでも琴音の不安気な表情は消えなかった。
「……ちょっとのだめと話をしてくるね」
そ
う言うと、リュカは琴音から離れた。
あっけないくらい簡単に。
そうして、リュカは奥の部屋
のドアの前に立つ。
奥の部屋はしんとして人のいる気配がまるでなかった。
のだめがどういう
気持ちで、今、奥の部屋にいるのか、リュカにはわからない。
もしかしたら、このドアを開けたら2人の関係は変
わってしまうのかもしれない。
とりかえしのつかないことになってしまうのかもしれない。
そ
れは……リュカにもわかっていた。
この日が来るのはずっとわかっていた。
それでもずっと
ずっとこの日が来ないようにと思っていた。
2人の関係がずっと変わらないようにとただ願っていた。
ずっ
とずっとこのままでいたかった。
本当は、楽園のような静かで美しいあの場所をずっとずっと守り続けていたかっ
た。
……だけど。
リュ
カは奥の部屋のドアをノックする。
「のだめ。……リュカだけど……入るよ」
続
く。