久しぶりのパリ。
こ
の俺にぴったりな、芸術の都・パリ。
ああ、夜の空気が日本とは違うな。
でもそれがどこか懐
かしくもある。
今は活動拠点を日本に移したといっても、ここはやっぱり俺のホームと言っていい。
そ
んな街をふらふらと一人歩く今夜。
不思議と特別な何かが起こりそうな、そんな予感がずっとしている。
『C'est
la vie』
公演が済んで、客ももうまばらなブラン劇場のロビー。
今
夜はちょうど時間もあったし当日席もあったから、俺の「かわいい」後輩の公演を聴いてやったんだが・・・。
先刻
からすれ違う人々の口からは、マルレと後輩に対して異口同音に賞賛の言葉が囁かれている。
はっきり言って、面白
くない。
本当に最近は全然ちっとも「かわいくない」。
まあ、俺だってバカじゃないから、多少は認めてやって
も・・・。
だけどやっぱり、ムカツクな。
あーあ、と伸びをして、さて、この後どうしよう
か、と考える。
客演で呼ばれているルセール管のリハが始まるのはまだ数日先。
真っ直ぐホテ
ルに戻って、上階のバーででも飲むか?
一人で?
それとも誰か誘う?
な
ら今から控え室に寄って、奴を誘うか?
あの「変態」彼女の話を根掘り葉掘り聞き出すのも一興かもしれない。
う
ん、そうしよう。
そう思って控え室へと足を向けようとして、ロビー入り口に佇む一人の女性が目に入った。
背
はそんなに高くはないが、すらっとした立ち姿が美しい。
柔らかそうなウェーブの淡い金髪。
横顔しか見えないが、
かなりの美人とみた。
人待ち顔だが、待ち人はまだ現れていないようだ。
是
非お近づきになりたいタイプ、だな。
そうと決まれば、方向転換して彼女のほうへと歩み寄る。
俺
に気付いた彼女が顔を上げた。
「こんばんは、マダム」
長い睫毛で縁取
られた、まるでエメラルドのような瞳が俺を見上げると、彼女は小さく「あ」と呟いた。
「違っていたらとても失礼
なのだけど・・・ムッシュー・マツダ?」
鈴を転がしたようなソプラノの声。
「Oui。
あなたのような美しい人から名前を呼ばれるなんて光栄ですね」
「あら、お上手ね」
俺の言葉
に照れずにくすっと笑った顔が魅力的だ。
年齢は俺と同じくらいか・・・?
近づいて分かる、
彼女の品の良さ。
そして理知的な瞳。
着ている物は派手でも地味でもない、シンプルで上質なもの。
「そ
れで私に何かご用かしら?」
歳相応の落ち着いた物腰に、しっとりとした雰囲気。
俺の勘で
は、きっと彼女は金持ちのお嬢様で、頭もいいに違いない。
その上日本人の俺を知っているという事は、多少は音楽に通じているって事
だ。
もしかして、もしかしなくても、これは「運命の出会い」?
退屈し
のぎで聴きに来た公演だったが、とんだ幸運が舞い込んだようだ。
「待ち人がまだいらっしゃらないようなら、私と
一緒にお茶でもいかがかと・・・」
「それは素敵ね。でも私、そんなに時間がないの。約束の時間はもうすぐだから」
そ
う言った彼女に食い下がろうとした時、彼女のバッグの中で携帯が鳴った。
ごめんなさい、と一言俺に告げると、彼女は携帯に出る。
「リュ
カ?ええ、ロビーにいるわ。あらそう、いいわよ。それじゃ、待ってるわね」
リュカ・・・男の名前だ。
恋
人なんだろうか?
どんな奴なんだ?
大した事ない男だったら、俺が彼女を奪うっていうのもあり、か?
そ
の場から何となく去りがたくて、だからもう少し彼女と話が出来ないかと試みようとして、でもそれは聞き覚えのある声に遮られた。
「松
田さん?」
奥からこちらにやってくる、茶色いおかっぱ頭。
あれは間違いなく奴の「変態」彼
女だ。
その隣には金髪の男。
何だ?アイツとは別れたのか?
「変態ちゃ
ん、久しぶり」
「『変態ちゃん』じゃありマセン、のだめデス!」
「じゃあ、のだめちゃん。千秋とは別れたの?」
「は
あ?何言ってんデスか!のだめたちはラブラブデスよ!松田さんこそどうしてここに?」
「仕事でね。今夜は時間があったから、ちょっと
聴きにきてやったんだ」
「えらそーデスね」
「そう?で、彼は?」
「へ?リュカデスか?ガコ
の友達デス。一緒に先輩の公演を聴きにきたんデス」
俺がそちらを見ると、リュカと呼ばれた男が会釈をした。
リュ
カ・・・さっき彼女の口から出た名前だ。
だとしたら、電話の相手はコイツか?
のだめちゃん
が学校の友達というからには、コンヴァトの学生なんだろう。
綺麗な顔立ちをした、まるで絵本の王子様のような容姿の男だな、と思う。
で
も彼女の恋人と言うには、いささかというかかなり若すぎやしないか。
「リュカ、こちら松田さんデス。えっと、先
輩と同じ指揮者デス」
「のだめ、僕知ってるよ。ユキヒサ・マツダ。ルセール管の元常任だった人でしょ?」
「そな
んデスか?」
「知り合いじゃないの?」
「えと、ちょっとだけ?」
「あの、今度の公演、僕聴
きに行くんです。楽しみにしてます」
のだめちゃんに呆れた顔をしたリュカが俺を見て、にっこりとそう言った。
全
く邪気のない、素直な好青年、という印象。
「ありがとう」
ここは大人
らしく、俺も素直に応えた。
だが何故かリュカの俺を見る瞳に既視感を憶える。
何で
だ・・・?
すると俺の横を通って金髪の彼女が彼に声をかけた。
「リュ
カ」
「あ、ママ」
・・・・・・・・・ママ?
「こ
んばんは!」
「のだめちゃん、こんばんは。今夜はリュカを誘ってくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまし
て」
「ねえ、のだめ。千秋はまだ帰れないんだろ?だったらママがアパルトマンまで送ってくれるから一緒に帰ろうよ」
「ほ
わぁ、ありがとデス」
くるっとのだめちゃんが俺を振り返る。
「それ
じゃ、松田さん、さよなら〜」
そう言うと、リュカと彼女も会釈して、三人が談笑しながらロビーを出て行った。
そ
して彼女が通り過ぎた後に、彼女がつけていた香水の香りだけが微かに残った。
ガツン、と頭を殴られたような、そ
れとも頭が一瞬で真っ白になったような・・・そんな気分。
ショックだ。
何がって・・・ま
あ、色々と・・・。
はぁ・・・。
ママ、ね・・・。
―――37
歳くらいで 俺に似合いの美女で金持ちの才女となら 結婚してもいいかもしれない。
しかしシット深いのとか うたぐり深い人じゃヤ
ダ。
わかっていてもだまって見守っていてくれる そんな女が俺は好きだ。―――
俺
の予定にあるような、俺に相応しい理想の女が現れたかと思ったのに、そう簡単には「運命の出会い」なんてないんだな。
予
定はやっぱり未定、という事か・・・。
こうなったらまだ帰っていないという奴の控え室に押しかけて、これは、ま
あ予定通り?今夜はとことん酒に付き合ってもらうとするか。
End