「ほ
ほう〜あの時、千秋くんは博多駅からタクシー使って来よったとね」
「……はい……」
「そら、そがんごとしたら、
がばいお金もかかったろうに」
「………」
のだめの父辰男の呆れたような口調に、千秋はむ
すっとした表情になった。
あの時のことにはできるだけ触れられたくないのだ。
そう、あのマラドーナコンクールで
落選して、失意のうちに福岡県大川市に帰郷していたのだめを迎えに行った時のことだ。
のだめのコンサートが、福
岡県の福岡シンフォニーホールであったので、ついでに実家に帰ることになったのだ。
ちょうどそれに合わせてパリから一時帰国していた
千秋も一緒に……という自然な流れに。
今回は西鉄天神大牟田線の天神駅から電車に乗り、柳川駅で降りる。
柳川駅
には、のだめの父辰男が車で迎えに来てくれていた。
「先輩は、あの時はのだめのことを考えるのに必死で、交通
ルートも考えなかったんデスよ、ね」
「ば……バカッ!!あの時はお前が、実家は都会だからって行ってたから……」
「ふー
ん、そんなに千秋くん必死だったんだ〜」
千秋は車の助手席からバックミラーごしにニヤニヤ笑う男を、後ろから忌
々しげに睨み付ける。
そう。
何故か、そこには松田幸久が座っていたの
だ。
HERO
ど
うしてこういうことになってしまったのかわからない。
今回のコンサートが松田が常任指揮者を務めるMフィルのコンサートで、地元出身
のピアニスト野田恵の共演ということになったのは確かだ。
コンサート終了後、のだめの楽屋に行った千秋はそこでふてぶてしく煙草を
吸っている松田と対面した。
それだけでもムッと来ていたのに。
「あれ?千秋くんも来てたん
だ」
「ハイ、先輩もちょうど日本に帰国していたので、わざわざ見に来てくれたんデスよ」
「それはご苦労様〜」
含
み笑いをする松田。
そのにやついた顔を見ていると、先ほどまでの素晴らしい演奏の感動が一気に吹っ飛ぶ。
せっか
く一言くらいは誉めてやろうと思っていたのに。
「ところで、千秋くん達どこで泊まるの?」
松
田がのだめの方を振り向いて言う。
千秋はよけいなことを言わないように、必死で目線を送るが、当ののだめは全然気が付かない。
「ハ
イ、今日はのだめの実家に行くことになってマス」
「何?もうそんな実家に泊まるような間柄なの?」
「もちろんデ
ス!!」
嬉しそうに返事をするのだめに、千秋は思わず頭を抱える。
「へ
え〜。のだめちゃんの実家ってどこ?」
「福岡県の大川市デス」
「ここから近いの?」
「え
えっと……ええっと……ちょっと遠いデスが……まあ、近くデス」
微妙だ。
「の
だめちゃんの実家か〜」
松田は、天井を見上げて煙草をくゆらせる。
「な
んだか興味があるなあ(変態ちゃんがどうやって育ったのか)。俺も行ってもいい?」
仰天して目を見開く千秋に対し、のだめはにっこり笑ってこう言った
のだった。
「ハイ、いいデスよ」
……
そうして、現在の不可解な状況にある訳なのだが……。
「……松田さん、Mフィルの皆で打ち上げがあるんじゃない
んですか?」
不機嫌さを隠そうともしないで千秋が言う。
「あ、いいの
いいの。福岡には何度も来てるし」
「それにホテルオークラ取ってたんじゃ……」
「大丈夫だよ。さっきキャンセル
の電話入れたから」
松田はにっこり笑って言うと、後ろを振り返って言った。
「そ
んなに、俺がのだめちゃんの実家に行くのが嫌?」
「……っていうか、行かないでしょう、普通」
後
輩の彼女の実家になんて。
「のだめちゃん、俺が行くの迷惑?」
「そんなことないデス
よ!!。今回のコンサートでは松田さんにお世話になったし……。実家にも真一くんの先輩が来るって言ったら大喜びでした!!」
「なん
か、母ちゃん上寿司よーけ頼むって言っとったばい〜」
「ムキャー!!ウニの入ってる寿司ですネ!!」
呑
気なのだめ父娘を見ながら、千秋は、今日何度目になるかわからない溜息をついた。
「ま
あ〜千秋くん、いらっしゃい!!」
「久し振りたい〜」
「あらあらこがん遠くまで、わざわざ来よんさってご苦労さ
んだったばいね〜」
「義兄さん、元気しとったと?」
野田家のメンバーが一斉に玄関まで迎え
に出る。
相変わらずのハイテンションだ。
その時、のだめの弟の佳孝が、千秋の後ろを見て目を見開いた。
「あ
〜〜〜!!この人!!」
佳孝は松田を指さして言った。
「今、コーヒー
のCMに出てる人じゃなかと?唐○寿明と一緒に……」
「あーーーーっっ!!そう言えばそうったい!!」
「違いの
わかる男!!」
皆の注目を一斉に浴びた松田は、照れようともせずにしらっとして言った。
「い
やあ……お恥ずかしい。ご覧になられてたんですか」
「だって、毎日テレビで流れようもん!!」
「本当はCMなん
かに出演するつもりはなかったんですが……是非にと無理強いされてしまいまして……」
「あの〜良かったら、後でサインもらっても良か
ですか?」
「あー母ちゃん、ずるかばい!!。おいも欲しかよ!!」
わいわいと松田を取り囲
む野田家の人々。
ぽつんと取り残された感の千秋に、のだめは心配そうな顔でそっと小声で言った。
「先
輩……ごめんなさい」
「……え?」
「……だって……せっかく来てくれたのに……。さっきから先輩、眉間に皺が
寄ってるから……」
神妙な顔で申し訳なさそうに言うのだめに、千秋はふっと笑ってのだめの頭にポンと手を置い
た。
「いいよ、別に」
「でも」
「……あの人に振り回されるのはいつも
のことだし」
その時、すでに部屋に上がっているのだめの母洋子が、2人にむかって声をかけた。
「何
しとるばい〜?はよう上がらんね〜」
宴
会の席でも、松田は常に話題の中心だった。
「いやあ、恵さんは、本当に才能あるピアニストですよ!」
「ほ
んなこつ?」
「本当ですよ……今日の演奏も素晴らしかったですし……ね、千秋くん」
さきほ
どからテーブルの端でぐいぐい酒を飲んでいた千秋に急に話を振る。
「あ……はい」
「千秋く
んも良か男やけんど、松田さんも男前ばい〜♪」
「ほんな〜♪」
特に洋子と祖母静代の女性陣
は、千秋とは違った松田の大人の魅力に釘付けのようだった。
「新作餃子が焼けたばい!!」
そ
こへ佳孝が両手に皿を抱えてやって来る。
大学を卒業した佳孝は、もともと好きだった調理の道を選んで飲食店に勤めているのだ。
「今
日のは佐賀有明海産海苔と、ねーちゃんの土産のフランスのチーズを使った特製餃子たい!!」
「うまかごとしとっやっか〜」
「よっ
くん、相変わらず料理うまかね〜」
「松田さん」
辰男が隣に座っていた松田に声をかけた。
「ラ
〜ユ〜レディ〜(ラー油入れてもいいですか)」
一瞬、場が固まった。
……
また、それかよ!?。しかも前の時と全然変わってないし!!
千秋は心の中で激しく突っ込んだ。
と
ころが松田の反応は違った。
動じることなく目の前にあったすし桶を手にとって、微笑む。
「オ
〜ケ〜(桶)」
……… ……… ………
わ
ああっと盛り上がる野田家の食卓。
「ぎゃはははーーーーっっ!!」
「桶がオーケーだって
〜っっ!!」
「お父さん、良かったね〜反応してもらえたの初めてやん〜!!」
そんな情景を
千秋は呆然と見つめていた。
何故……何故、オヤジのダジャレにつきあえる!!。
何故、この家にこんなにもとけ込める!!。
ま
さに恐るべし松田幸久だった。
「先
輩……飲み過ぎじゃ……」
隣で気遣うのだめをよそに、千秋はぐいぐいやけ酒をあおっていた。
面
白くない。
もちろんハイテンションの野田家に取り囲まれるのは疲れるので、のだめの実家に来るのは半分面倒くさ
いと思っていたのは事実だが。
かと言って、のだめの恋人でもなんでもない松田の方に話の中心が行くのも……なんとなく嫌な感じだ。
やっ
ぱり面白くない。
ぐいぐい酒を飲んで……薄れいく意識の中でこんな声が聞こえた。
「……
そんなに……ですか」
「おお!。なんだったら明日……出すから一緒に行かんかね?」
「いいですね!!是非!!」
ボ
ン……ボン……ボン……。
聞き慣れない音と、振動で千秋は目を覚ます。
いつの間にか朝に
なっていたようだ。
あれ……おかしい。
千秋は違和感を覚える。
昨
日は……のだめのコンサートが終わってから、のだめの実家に行って……酒をかなり飲んで……。
ふと。
匂
いがした。
……それは、潮の香りだった。
千秋は周囲を見渡した。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!」
自
分の今いる場所に気が付いた途端に、千秋は目を白くして大声で叫ぶ。
今、千秋は船の上にいた。
しかもどうやら海
のど真ん中だ。
「ぎゃーーーーっっ!!ぎゃーーーーっっ!!ぎゃーーーーっっ!!」
叫
び続ける千秋の元にのだめが駆け寄ってくる。
「先輩、大丈夫デスか?」
「な、な、な、なん
でこんなところにっっ!!」
「それが……昨日の夜中に、いきなり釣りに行くことが決まって……辰男が船を出してくれてるんデス」
「お、
お前っっ!!」
俺が海が苦手なの知ってるだろっ!!。
そう言って責め
るような口調でのだめを睨み付ける千秋に、のだめは申し訳なさそうな表情で言った。
「……のだめも先輩は海が嫌
いだからって反対したんですが……松田さんが、『海嫌い?そーんなの、船に乗れば治るって。荒療治も必要だよのだめちゃん』って言って無理矢理……」
「降
りるっっ!!俺は今すぐ船を下りるっ!!岸につけてくれ!!」
「そうは言ってもね〜もう、港から40分くらいのところに来ちゃってる
からさ〜」
のほほんとくわえ煙草で松田がやって来た。
「よ……40
分……」
千秋は意識がまた遠くなりそうだった。
「先輩っっ!!先輩、
大丈夫デスか!!」
結局、
千秋は船の中央で(一番海から遠いと思われるところ)毛布を被ってのだめにしがみついてガタガタ震えていた。
「ほ
〜千秋くんはそんなに海が好かんとね〜」
「……だから言ったろうもん。先輩は海が嫌いやけんって」
の
だめが文句を言う。
「だって松田さんが、千秋くんを抱えてきたけんが、それほどとは思わんかったとよ〜」
「まっ
たくもって情けないですね。そんなんじゃ、彼女が溺れた時には全然頼りにならないんじゃない?男としてはちょっと情けないよね〜」
千
秋は反抗する気力もない。
そんな千秋に変わってのだめがムッとしてくってかかった。
「そん
な事ありまセン!!。先輩はちゃんといざという時には、のだめを助けてくれるんデス!!」
「さあ〜どうだかね。あ、お父さん、仕掛け
はこれでいいですか?」
松田は辰男の方を向いて言う。
初めて知ったのだが、松田は結構釣り
が趣味なのだそうだ。
そう言われて見てみると釣り竿を構える姿もなんとなく様になっている。
今日の狙いはヒラメ
だ。
20号のヨーズリ天秤付鉛関東型にハリス5〜6号を一ヒロ、針はチヌ針8号.海津針の小、竿は2.7mの鉛負荷20〜40号、小
型両軸リールにPE2〜4号を仕掛ける。
エサは一般的にはイワシ等小魚が主流だが、有明海では芝エビの10pサイズを使う。
松
田は器用な手つきで、芝エビの根本に針を仕掛けて水面に下ろした。
「そうそう、有明海のヒラメは水深20mぐら
いのとこにおっとるけんね〜。海底まで下ろして、2〜3m巻き上げるとよ」
それからしばらくの間、アタリを待
つ。
松田が叫んだ。
「あ、来ました!!」
すぐに
駆け寄る辰男。
「小さなアタリじゃ駄目じゃけん、じっくりエサを食い込ませるとよ!!」
「お、
なんだか大物の感じですよ、これは」
「そうそう……タイミングを合わせて……今だ!!」
辰
男のかけ声とともに、松田が思いきりリールを回す。
釣り竿がしなるように動き、大物が釣れたことを意味していた。
そ
してピチピチと跳ねるようにしたヒラメが海上に姿を現し、辰男が素早く網で掬った。
「うわっ!!大きい!!」
「ほ
〜これは60cmくらいはありそうやね。恵も見てみんさい」
さきほどからむくれていたのだめだったが、ヒラメに
は興味があったらしく覗き込むようにした。
「先輩、ちょっと待っていてくださいネ」
「の
だ……」
のだめは、千秋のそばを離れると船端の方へ言った。
「うわ
〜っ!!大きいデス!!」
「松田さん、結構上手かね〜」
「いや〜そんなことないですよ、たまたまです」
そ
う言って、松田は千秋の方を見てニヤリと笑った。
唇をギュッと噛みしめる千秋。
「恵、そこ
の釣り竿取ってくれんか?新しい仕掛けをするけん」
「ああこれね」
そう言って、のだめが釣
り竿を取ろうとした瞬間。
ガタン。
船が大きく揺れた。
す
ぐ近くを同じような釣り船が通ったから波が押し寄せたのだ。
バランスを崩してのだめはふらついた。
「あ……」
そ
のまま海に転落するのだめ。
「恵!!」
「のだめちゃん!!」
突
然の出来事に対応できない2人の脇を素早く横切って、誰かが海に飛び込んだ……。
柔
らかいものが千秋の唇に押し当てられる。
そしてふーっと温かい息が何度も吹き込まれた。
千
秋はゲホっとむせた。
飲み込んでいた海水を一気に吐き出す。
しばらく咳き込んでいたが、やがてうっすらと目を開
けた。
始めはぼやけていたが、だんだん傍らで心配そうに千秋を見つめるはのだめ、松田、辰男の姿が見えてくる。
「あ……」
「先
輩っ!!……良かった……」
びしょぬれの、のだめが千秋の首にすがりついて泣き始めた。
「の
だめ……お前、大丈夫だったか……」
千秋がまだ意識がはっきりしないながら言う。
「大
丈夫だったか……って」
松田が苦笑しながら言った。
「カナヅチなのに
海に飛び込む阿呆がどこにいるんだよ。のだめちゃんは1人でも泳げたんだよ」
「でも、来てくれたでしょう」
の
だめが松田の方を振り返りながら言う。
「結局は、のだめちゃんが溺れた千秋くんを助けたんじゃない」
「……
でも、先輩はちゃんと助けに来てくれました」
のだめは濡れた髪を払いもしないでにっこりと笑った。
そ
の顔は太陽の光を受けて輝くくらいに眩しかった。
「だから言ったでしょう。先輩はいざという時には、ちゃんとの
だめを助けてくれるって」
「………」
「先輩は、いつだってのだめのヒーローなんデス」
「の
だめ……」
呆然とする千秋とずっとにこにこと微笑むのだめ。
そんな2人を見ながら、松田は
肩をすくめた。
この馬鹿ップルめ。
その呆れた顔はそう言っていた。
「ハ
イハイ、わかったよ。千秋くんはのだめちゃんのためなら何だってできるってことが」
辰男も優しい目で千秋を見な
がら、その手を力強く握った。
「ありがとう……息子よ!!」
そのまま
ガバッと抱きつく。
「お……お父さん、苦しいですっっ!!」
「ムキャーッッ!!辰男!!。
今、ちょうどいいところなんだから邪魔しないでくだサイッッ!!」
「あ、そういえば」
松田
が思い出したかのように言った。
「さっき溺れて水飲んでた千秋くんの人工呼吸したの俺だから」
………
……… ………
「えーーーーーーーーーーーーっっっ!!」
「すみま
セン……のだめ、人工呼吸のやり方知らなくって……」
申し訳なさそうに言うのだめに、千秋は顔を青ざめる。
「知
らないって、オイッッ!!」
「いやあ〜柔らかかったなあ〜、千秋くんの唇」
「そんな言い方やめてくださ
いっっ!!悪寒が走りますからっっ!!」
松田の勝ち誇ったような笑い声が船の上に響いた。
終
わり。