「嫌…デス…!
やめてください!」
のだめが叫ぶ。
千秋はそんな声など全く聞こえてい
ないかのように無理矢理にそのしなやかな肢体を組み敷く。
ドンドンと激しく胸を叩いて抵抗する両手を押さえつける。
「っ
先輩…!やめて…」
着ているワンピースを襟元から思いきり引きちぎる。
ボタンが飛んだ。
あ
らわになった白い胸を手を這わせ揉み上げ、耐えきれないように吸い付く。
その間にも千秋のもう一つの片手はスカートの裾に潜り込み、
中心に向かって腿をなで上げる。
「…!?…いやっ!」
のだめの目から
涙がこぼれる。
そして。
…
夢…だったのか。
千秋はベッドのなかでしばし呆然とする。
「…なんつー…夢だ」
の
だめの泣き叫ぶ顔とか手に残る柔らかい胸の感触などが、生々しく記憶に残り、
心臓が爆発してしまうんじゃないかと思うくらい動悸が激
しい。
千秋は雑念を振り払うかのように頭をぶんぶんと振る。
…あんな奴に…あんなこと…す
る夢を見るなんて。
ー俺、疲れてるのかな…。
コーヒーでも飲んで頭をすっきりさせようと起
きあがろうとしたその瞬間。
手にさらっとした柔らかい髪の毛の感触がした。
見ると、千秋の隣ですやすやと心地よ
い寝息をたてて眠っているのは…のだめ。
「ーお前は、こんなところで何寝てるんだーっ!!」
「今
朝は寒かったから…人肌が恋しくなっちゃって」
あれから千秋に叩き起こされたのだめは、ちゃっかりと椅子に座り
パジャマのままコーヒーを飲んでいる。
もちろん、千秋がいれたものだ。
「どうやって入っ
た!」
「あー鍵、開いてましたヨ」
不用心ですネ〜とにこにこ笑うのだめに、千秋は怒りでぷ
るぷると体が震える。
「お前…そういうの不法侵入っていうんだぞ!」
「まあまあ、いいじゃ
ないデスか。妻なんだし」
「妻じゃねえっっ!!」
怒鳴る千秋にも、のだめは全然懲りた様子
がない。
「お前…仮にも男のベッドに潜り込むなんて…いったいどういう教育受けて来たんだ」
「は
う…もしかして先輩、のだめの寝顔にムラムラきちゃいましタか?」
「ぜっっっったいそれは無い!」
激
しく否定をする千秋に、のだめは不満そうに口を尖らせる。
「こんなに若くて可愛い子が添い寝してあげようってい
うのに…先輩って欠陥人間じゃないデスか?」
「ーお前にだけは、絶対に言われたくないっ!」
は
あ、と深くため息をつく。
「今日はなんて日だ…。朝から…夢見は悪いし…」
「…?。先輩、
何か悪い夢見てたんですか?ーどんな、夢ですか?」
「…」
言
えるか。
お前を襲っていた夢だなんて。
「怖
い夢でも見てたなら、のだめを起こしてくれれば良かったのに」
「…起きたらもっと悪夢のような状況が待ってたんだよ」
「む
きゃーっ。それはどういう意味デスか!」
「もう学校へ行く時間だぞ。
早く用意しろ」
「ハ〜イ」
なんだかんだでのだめはしっかりと朝ご飯まで食べ(ちなみに今朝
はパンとベーコンエッグだった)、珍しく
片付けだけでもしようと食器を流しまで運ぼうとした。
とたんに。
ー
ガシャン!。
手が滑って皿が床に落ちて割れる。
「あ〜ごめんなサ
イ!」
「…何やってんだよ」
割れた陶器のかけらをしゃがみ込んで互いに拾おうとする。
触
れ合う指先。
「…!」
まるで熱い物に触れたかのように千秋がばっと手
を引っ込める。
「…?」
のだめはそんな千秋を不思議そうに見た。
「…
ここはいいからもう学校へ行け。かえって邪魔だ」
「…せんぱい?」
いつもと違う。
く
るりと背を向け表情を隠した千秋に、のだめは違和感を隠ずにいた。
大
学で講義を終え、キャンパス内を歩きながら千秋は一人考え込んでいた。
今まであれだけいつも一緒にいながら、の
だめに『女』を感じたことはただの一度もなかった。
ー当然だろう?。
風
呂は1日おき、シャンプーは5日おきというのは、女としてというよりそれ以前の問題だ。
一般的な常識人の千秋としては考えられない。
部
屋は散らかり放題に散らかっており、食べ物は腐りハエがたかりきのこが生え異臭がしている。
あんな不潔きわまりない人間に誰が欲情す
るっていうんだ。
生理的に受け付けないだろう。
考えられない。
そうは思いつつも頭の中に、
今朝見た夢がフラッシュバックのようによぎる。
「っ先輩…!やめて…」
夢
の中での自分は確かに、のだめに欲情していたような…気がする。
無理矢理にでもあの柔らかい身体を手に入れた
い。
男として本能のままに欲望を打ち付けたい。
ーそんなことを…考えていたような…。
…っ
ちょっと待て!…俺!!
千秋は激しく動揺して自分に突っ込みをいれる。
いくら最近、そう
いった行為をしてないからといって、なんだって相手があいつなんだ!?。
どうしてよりにもよって…のだめ!?。
…
もしも…と考えたくはないが敢えて考えてみる。
もし…一時の衝動だけで…のだめとコトを起こしてしまったら…。
考
えるだけでぞっと寒気がした。
一生それをタネにつきまとわれること間違いなしだ。
今でさえあまりの積極的な行動
に辟易してるっていうのに。
胸がざわつく。
千秋はそういった行為にあ
まり執着するタイプではなかった。
もちろん経験がない訳ではない。
今までだって彼女は途切
れずにいたし、求められればそれなりのことはしてきた。
つい最近までは。
の
だめに出会ってから、千秋に所かまわずにまとわりつく彼女がいることで、周囲の女性達は近寄りがたくなったのだろう、
遠巻きに熱い視
線を送るだけで直接モーションをかけられることは少なくなっていた。
それを不自由に思わないばかりか、かえって音楽に集中できると安
心しきっていたのに。
ーなぜ。
なんでいまさらこんなふうに気持ちをか
き乱されなければならない
「ーせんぱ〜い!!」
千
秋の姿を見つけたのだめが、後ろから腕にすがりついてきた。
ぎゅうっとしがみつく。
…どうにもタイミングが悪
い。
「今から帰るんですか?のだめも今、授業終わったんデス。一緒に帰りましょう〜」
ふ
わっと無防備な笑顔を千秋に向ける。
「今日は寒いから、晩ご飯はお鍋がいいですネ〜」
い
つもなら当たり前に向けられていた筈のその笑顔。
…なんだって…今日に限ってこんなにいらいらさせられるんだ。
「…
うるさい…」
荒々しく邪険に腕を振り払う。
つきまとうな。
「…
なんだって俺がいつもお前の晩飯の用意までしなくちゃならないんだ!」
千秋の激しい声に、のだめがえっという顔
をする。
「勝手に家に入り込んだり、朝飯まで食っていったりずうずうしいにもほどがある…。
ー
別に俺はお前とつき合ってる訳じゃないんだぞ」
どうしたんだろうと思う。
今までいくら邪魔
に思っててもそんな言い方、直接のだめにしたことなかったのに。
「もう家に来るな」
「ー
うっとおしいんだよ」
「せんぱい…」
冷たく言い捨てて立ち去る千秋の
後ろ姿を、のだめはただ呆然と見送ることしかできなかった…。
なんと
なく家に帰りづらくて、行きつけのバーで千秋は一人酒を傾けていた。
琥珀色のウィスキーのグラスの氷がカラリと鳴る。
ー
あんなことを言うつもりじゃなかった。
千秋はため息をついた。
…いく
らあいつでも…傷ついただろうな…。
千秋が発言をした瞬間、大きく目を見開いたのだめを思い出す。
あ
いつ…メシちゃんと食えてるかな。
ショックが大きすぎて…また蛍みたいになってないといいけど…。
そんなことを
考えてると、隣に誰かが座る気配がした。
「一人で飲んでるの?」
と、
若い女性がにっこりと笑った。
髪にゆるくウェーブをかけた長い髪がよく似合っている。
歳は千秋よりも2,3歳上
だろうか、きりりとした目元をしていて結構美人の部類にはいるだろう。
…どことなく…彩子に似ている…。
と千秋
は思った。
「私も一人なの…。良かったら一緒に飲まない?」
女性は耳
を寄せてそっと囁いた。
今までだってこんなことは何度もあった。
その度に一人の静けさを好む千秋は即座に断って
いた。
…今までなら…。
「…いいですよ」
何
故かそう言っていた。
…それからしばらくして二人はあるホテルの一室にいた。
女
性がシャワーを浴び、バスタオルを巻いたままベットに近寄ってくるのを、千秋は他人のことのように見ていた。
バスタオルを床に落とし
た彼女の裸身が千秋の首にからみついてくる。
有線だろうか。なんだかかすかに曲が聞こえる。
白
いすらりとした裸体。
豊満な胸が強く押しつけられるのを感じる。
熱い吐息が耳にかかる。
唇
が寄せられる。
口紅が残ってるのであろうなんだかべたべたした感触が千秋を不快にさせた。
安っ
ぽい石鹸の香りが妙に鼻につく。
女性が甘やかな声を上げながら、長い指を怪しげに千秋の背中に滑らせる。
ー
嫌悪感にぞくっとした。
ーなんでだろう。
こんなものをちっとも望んで
いない気がしていた。
求めているのはーもっと自然でもっと柔らかくもっと温かいもの。
こ
んな安っぽく耳障りなメロディーより、あの大きな手で奏でられる素晴らしいピアノの旋律を聴きたいと思った。
こ
ろころと変わる表情はいつまで見てても全然飽きることがなくて。
転ぶからやめろというのに遠くから見つけるとぱたぱたと子犬のように
走ってきて。
息を切らしながら顔を上げ、笑顔満開でにこおっと笑う。
これ以上にないくらい幸せそうに。
「…
せんぱい…」
声が聞こえたような気がした。
千秋は急に我に返るとが
ばっと女性を引き剥がした。
怪訝そうな表情で千秋を見つめる彼女。
「ー悪い」
自
宅に帰ったのはもう深夜過ぎだった。
あれからすぐに女性と別れ、それからもかなり飲んだので足下がふらついている。
ぼ
んやりしながらエレベーターに乗り込むと、そのまま壁に身体をもたれかせる。
…しばらく死んだように動けない。
エ
レベーターが着いた。
さすがにあいつも寝ている時間だよな。
…俺には関係ないけど。
そう言
い聞かせながら重い身体を引きずるようにして玄関へ向かう。
「…おかえりなサイ…」
驚
いて目を開いた。
…のだめが千秋の部屋の前に立っていた。
「…こんなところで何してん
だ…」
ぶっきらぼうに千秋が言う。
「あ…あのデスね、先輩もう寝
ちゃったかな〜と思ってちょとうろうろとしてたんですよ。
別に不法侵入しようとしてた訳じゃないですヨ!ーストーカーとかでもないで
すから!」
慌てて手を振って否定するのだめ。
千秋はその手を掴んだ。
「…
いつからいたんだ」
「ハイ、友達と会っていて…今帰ってきたばかりデス」
のだめは手を掴ま
れて赤くなりながら目を逸らす。
ピアノ弾きなのにこんなにも手が冷たくなっている。
寒いのか小刻みに震えてい
た。
…おそらく今帰ってきたばかりというのは嘘だろう。
「友達って誰?」
「…
別に先輩には関係ないデス」
確かにそうだ。
はあっとため息をつき千秋は鍵を出してドアを開
けた。
「入れば?」
「…いいデス」
何故かのだめ
は立ちすくんだまま動かない。
「もう家に来るなって言われましタ」
「…それはもういいから
とにかく入れ。風邪ひくぞ」
のだめが千秋の顔を見上げる。
「先輩…石
鹸の香りがしマス」
ドキリと心臓が高鳴る。
動揺を隠せないまま、のだめの方を見る。
の
だめは澄んだ目でまっすぐに千秋を見据えていて…その目には表情が浮かんではいなかった。
しばらくそのまま見つめ合って…先に目を逸
らしたのは千秋の方。
「…じゃあお休みなサイ」
くるりと踵を返し、の
だめは自分の部屋へ帰ろうとした。
「ーちょっと待て!」
思わず腕を引
き寄せていた。
「…!?」
そ
のまま玄関のドアから引きずり込む。
のだめの履いているブーツをはぎ取るようにして脱がせた。
「…?
ちょ、ちょっと先輩、何してるんですか!痛いデス!」
それには答えないまま、のだめの膝裏に片手を入れ、胸に抱
え上げ寝室へ向かう。
「…え…え…え?」
のだめは混乱していて状況が
よく飲み込めていない。
ボスッ。
のだめをベッドに放り投げると、起き
あがる隙も与えないまま、千秋は上から覆い被さる。
「…ちょ…せ、せんぱい!?」
の
しかかる重みにのだめは恐怖を覚える。
耳にかかる荒い息にびくっと身体を震わせる。。
「…
せ…んぱいっ…なんか…あったんデスか…なんだかすごく酔ってて…酒臭い…」
両手を突っ張ってなんとか千秋の身
体を押しのけようとするが、びくともしない。
あんな華奢に見えて、鍛えられた筋肉質な千秋の身体はやはり男性のものだと思った。
両
手をベッドに縫いつけられた。
「…のだめ…」
今まで無言だった千秋が
初めて口を開く。
のだめの顔を見下ろした。
窓からかすかに漏れる光が顔を照らしていて、綺麗な顔…と、そういう
状況じゃないのに思わずのだめは見とれてしまう。
「…のだめ…俺は…、…お前のこと好きじゃない…」
突
然の言葉にのだめの目が大きく見開かれる。
じわりとその目尻に涙がたまった。
「…
だけど、…今はお前を抱きたい…」
息を呑む。
「…いいか?」
千
秋は自分がひどいことを言っているとわかっていた。
いっそこのまま自分のことを嫌いになってくれればいいのに。
も
う何もかもがどうでも良くて。
「…あの…」
のだめは何かを言いかけ
て、…やめた。
目をさまよわせながら顔を苦しそうに歪めて一生懸命に言葉を探しているのがわかる。
千秋は黙った
まま続きを待った。
「…先輩、は…」
また言いかけて、…やめる。
目
を閉じてじっと黙り込む。
そして再び目を開けるとゆっくりと千秋の顔を正面から見た。
「…
いいデスよ」
「…」
「…先輩が…のだめのこと好きじゃなくても…」
千
秋の目をしっかりと見据えながら言う。
「…のだめが先輩のコト好きですから」
そ
う言って穏やかな顔でふわりっと笑う。
そして千秋の首に手を回して頭をぎゅうっと引き寄せた。
「…」
千
秋は無言でのだめの首筋に顔を埋める。
唇でうなじのラインをなぞると、のだめの身体がビクッと震える。
のだめは
きゅうっと強く目を閉じた。
ふっと千秋の身体が離れた。
のだめはおそ
るおそる目を開く。
起きあがってのだめを見下ろしているその表情は暗くてよくわからない。
「…
冗談だよ…」
千秋がため息をつきながら言う。
「…悪かったな…。
…
ちょっと酒を飲み過ぎたみたいだ」
そういうとすとんと立ち上がった。ーまるで何事もなかったみたいに。
「…
シャワー浴びてくるからお前もさっさと部屋へ帰れ」
寝室の電気をパチンとつけるとシャワー室へ消えた。
あ
とには明るい室内で顔を真っ赤にして呆然と横たわったままののだめが残されていた。
シャーッ。
熱
いお湯が千秋の混沌とした頭のもやと酔いを晴らしてくれるようだ。
…彼にはわかっていた。
背
中に回された彼女の指先が微かに震えていたことを。
押し当てられた胸が破裂しそうなくらい激しく動悸していたことを。
今
にも消え入りそうだったその声がかすかに震えていたことを。
…何をやってるんだ…俺…。
きゅっ
とシャワーのお湯を止める。
タオルで頭を拭きながら部屋に戻ると、電
気があかあかとつきのだめが楽しそうにピアノを弾いていた。
流れるような旋律の…ベートーベン。
「お
い…帰れと言っただろう」
「レッスンでうまくいかなかったところを先輩に聞こうと思ってたんデスよ〜」
「…それ
にしたってこんな夜に近所迷惑…」
「この部屋、防音がしっかりしてるから大丈夫ですヨ。っていうかもう明け方ですし」
あ
ははとのだめが笑う。
ーいつものように。
さっきまでのことが何もなかったかのように。
千
秋は目を閉じる。
そしてわざとぶっきらぼうに言った。
「ーそれにしても、なんだ!その演奏
はあいかわらずデタラメじゃないか!」
「どきっ」
「ここの3小節からひいてみろ…やっぱり音ふやしてんじゃねえ
か!楽譜をちゃんとみないか!!」
「ぎゃぽーん!!暴力反対デ〜ス!!」
結局いつもの毎日
に戻るのだろう。
何も変わりやしない。
ーいや、敢えて変えようとしな
いのは自分なのだと千秋は思う。
今ののだめとの関係が妙に心地よくて、自分のまだ曖昧な気持ちにはっきりと区切
りをつけるには勇気がなくて。
それをしてしまったら二人の関係が変わってしまいそうで。
ず
るいかもしれないと思う。
卑怯かもしれないとも思う。
でもあとしばらく…もうしばらくだけ
はこの生ぬるいお湯につかったような関係が続いてくれれば…と思う。
だけど。
と
千秋はピアノを弾いているのだめの後ろ姿を見ながらひとり呟く。
この俺の曖昧な態度が、いつかお前を深く傷つけ
てしまう日がくるのかもしれない。
それだけが怖いんだよ。
「…また間
違えた」
「…はうう…」
「ここは、タッタラタ〜じゃなくて、タッタラッタ〜だろ。なんでリズムを変える?」
「…
その方が…かっこいいかなあなんて」
「…かっこいいとかいう理由で勝手に編曲するなーっ!!」
ぎゃ
んぎゃんと怒鳴る千秋に不満げに口を尖らせるのだめ。
いつか彼女のことを、本当に一人の女性として見る日が来る
のもしれない。
その日は案外早く来たりするのかもしれない。
だけど。
ど
うか。
その日までは。
今のままで。
終
わり。