龍太郎はある大きな建物の前に立って
いた。
たくさんの人間が談笑しながら、その建物の中の中央ホールを目指して入っていく。
今日はそこで押売新聞社
主催の日本最大の音楽コンクール(略して押コン)ヴァイオリン部門本選が行われるのだ。
龍太郎は先ほどから、中に入ろうとして…また
やっぱり引き返して…と同じ事を何度も繰り返していた。
清良の演奏を聞こうと思ってここにやってきたのだけれども、どうにもふんぎり
がつかない。
この間、清良と喧嘩をしてしまった。
ー
というか、一方的に龍太郎が腹を立てて怒鳴って立ち去ってしまっただけなのだが。
龍太郎
は、はあとため息をつく。
ー清良は悪くない、と思う。
少なくとも自分のことを本当に心配して言ってくれたのだと
思うし、カイ・ドゥーンにも本気で掛け合ってくれる気だったのだろう。
それに対して自分がこんなに器量の小さい男だとは思わなかっ
た。
どちらかというと小さいことにはこだわらず、プライドなんて欠片もない人間だと自分のことを思っていた。
ー
怖くって逃げてるだけじゃないの!
清良の言葉が蘇る。
ー
そうだな、清良。本当にその通りだよ。
龍太郎はぐっと唇を噛みしめる
と、ホールへ進むために足を一歩踏み出した。
何
人かの演奏者の演奏が終わった。
皆、本選に残っているだけあって、素晴らしい技術と表現力の持ち主ばかりだ。
次
はいよいよ清良の番だ。
龍太郎は自分のことのように緊張したまま客席から舞台上を見つめた。
袖の方から清良が深
紅の大きく肩を露出したステージ衣装で出てくる。
演奏が始まる。
客席の人間はその繊細な音色にうっとりした。
だ
が。
ー何か…おかしい。
龍太郎だけはそのわずかな異変に気がついてい
た。
いつものような大胆で赤く燃えるように情熱的な、あの清良独特の演奏のキレがない。
どこか上品なお嬢様風で
よそよそしい雰囲気を与える。
ー清良!?。
い
つも教科書に載っている手本のようにビシッと背筋が伸ばして、綺麗な姿勢で演奏をする清良がどこかをかばうような仕草をしていた。
…
どうしたんだ。
ーどこかを痛めたのか。
ー肩?
龍
太郎ははっと気づいた。
ーいや、違う。首だ!。
「お
めでとう!」
「おめでとう三木さん!」
集まった多くの報道陣のカメラ
からフラッシュが炊かれる。
ウィーン国立音楽大学に留学中で数々のコンクールで入賞し、ニナ・ルッツ音楽祭ではコンミスを務めた三木
清良は
その才能と美貌で押売コンクール開催前からマスコミの注目の的だったのだ。
「こっ
ち向いてくださーい」
「三木さんインタビューお願いします!」
何故か
清良は壁に手をついて背を向けたまま、俯いて報道陣の呼びかけにも答えない。
「どうですか
『2位』入賞の感想は?」
「…」
「予選までと違ってとてもデリケートで繊細な演奏でしたね!?」
「三
木さんこっち向いて!」
なかなか正面を向こうとしない清良にカメラマンも戸惑っていた。
メ
モ帳とペンを手に持った記者が清良に懸命にインタビューを試みる。
「今、ウィーン国立音大
に在学中とのことですがー」
その時。
「清
良!!」
龍太郎が遠くからマスコミに囲まれた清良を見つけて駆け寄ってきた。
呆
然とした表情の清良はその声に反応して初めて振り向く。
龍太郎は周囲にいる記者やカメラマン達には目もくれずに、清良に近寄り首もと
に手をやった。
「おまえ、首どーしたぁ!?」
清
良の目頭が熱くなる。
ーどうして。
…どうして、この男は誰も気づかな
いような私の異常をいち早く察知しているのだろう。
「ね……、寝違えた……」
ヒィィ
と龍太郎が悲鳴を上げる。
「なに?首をどうかした!?」」
め
ざとく聞きつけた記者が質問をするが、二人ともそちらの方には全く注意を払わない。
「…生
まれて初めて…寝違えたのが…なんで今日?。…なんで…」
龍太郎にはかけるべき言葉も見つ
からない。
ーうわあーん!!
突然清良が泣き声を上げて龍太郎に飛びつ
きその胸に縋り付いた。
龍太郎も目に涙を浮かべながら、そんな清良の肩をそっと抱きしめる。
事情はよくわからな
いが、とりあえずとっとけとっとけーと言わんばかりに次々とカメラのフラッシュが炊かれた。
「ー
そんなに落ち込むなよ、清良!」
龍太郎は清良を励まそうとわざと明るく言った。
コ
ンクール会場から駅までの道のりを、とぼとぼと二人で歩いている途中だった。
「コンクール
なんか、これから先、世界中でたくさんあるんだろう?。お前なら次は軽い軽い!」
ーそう。
確かに次はある。
でも今年度の押売コンクールはこれ一回しかなかったのだ。
誰もが清良が優勝すると思っていて、
清良自身も1位を誰にも譲るつもりはなかった。
それなのに…結果は2位。
…それもあんな馬鹿げた理由で…。
「ー
どうした?」
先を行っていた龍太郎が後ろを振り返る。
清良は急に顔を
くしゃくしゃにして泣き出した。
「……龍……」
龍
太郎は道端で、先ほどのようにべそをかいている清良を抱きしめると、まるで小さい子をあやすかのように
よしよしとゆっくり背中を撫で
始めた。
「……ふぇ……りゅ、りゅう……」
「あーよしよし…。大丈夫
だ大丈夫だ。ー清良が精一杯頑張ったことは、他の誰よりもオレがよく知ってるよ。
ーだから…、そんなに泣くな…」
清
良は龍太郎の胸でしゃくりあげながら何度も頷いた。
自分でも不思議なくらいポロポロポロポロと涙がこぼれて止まらない。
ー
清良はクールだね。
留学先で昔つき合っていた彼氏の言葉を思い出す。
ー
君は何事にも冷静沈着で…男の前で取り乱したりすることなんてないんじゃないか?
とんでもないと思う。
だっ
たら今この、髪を振り乱して化粧もボロボロ落ちて、わんわん男の胸で泣いている自分はいったい誰なんだろう。
龍太郎は何も言わずに
黙って清良の背中を撫で続けた。
ひとしきり泣いて…泣いて…泣き続けたら……少し、落ち着いて来たようだ。
夜も
更け、歩いている人影もめっきり少なくなっていた。
「ー清良……少し、落ち着いたか…?」
龍
太郎が心配そうに声をかける。
「うん…」
清
良はゆっくりと龍太郎の胸から身を離した。
二人の目と目が合う。
ーしばらくして、龍太郎はぷいと清良から目をそ
らすと、何気ないように言葉を出した。
「…さあ、早く帰らないとまた終電なくなっちまう
ぞ。え〜と清良の家、どこだったっけ。ー確か都内だったよな〜
家まで送ってやるよ!」
そ
ういって龍太郎は先に立って歩き出した。
…数歩行った所で、清良が自分について来ていないことを不思議に思って振り返る。
清
良は立ち止まったまま同じ場所に動かずにいた。
「ー清良?」
「…
龍…」
清良は絞り出すように声を出した。
「…
今日は…帰りたくないの…」
「…清良」
「…行かないで…そばにいてよ…」
そ
う言って清良は手の甲を目に当てて、また子供のようにしゃくり上げた。
龍太郎は…戸惑ったような…とても困ったような顔をした。
シュ
ポッ。
薄暗い明かりの中でライターを鳴らし、清良は煙草に火をつけた。
ジジッと煙草の先が燃えて、すぐに煙が辺
りに漂う。
清良は軽く首を押さえた。
ー寝違えたなんて言い訳にはならない…。
体
調管理もコンクールに対する演奏者の課題の一つだ。
『デリケートで繊細な演奏でしたね!』
ー
それが今日みんなが聴いた清良の演奏の感想だった。
悔しい…!
清良は
ぎゅっと唇を噛みしめる。
私の本当の演奏はあんなんじゃない。
あんな…体調不良で不本意な
成績を残したままウィーンに帰りたくない。
ーもう一度、舞台に立ちたい。
今度こそ、本当の自分の演奏を聴いても
らいたい!!。
か〜っとイビキが聞こえてきて清良は傍らに目をやる。
隣
には裸のまま眠りこけている龍太郎の姿があった。
かくいう煙草を吸っている清良もシーツ以外何一つ身にまとっていない。
ー
あれから二人は近くの安っぽいラブホテルに来た。
部屋に入るなり、お互いに唇を求め合い、服を脱ぎ、お互いを貪り尽くした。
く
わあ〜!とまた一段と大きい龍太郎のイビキに清良は眉をひそめる。
…何よ…こいつ。コトが済んだ途端、気持ちよ
さそうに寝ちゃって…。
清良は悔しくなって、龍太郎の頬をつつく。
龍太郎のイビキが一瞬止
まり、くすぐったそうに顔をしかめるとムニャムニャと口を動かした。
くすっと清良は笑う。
ーこんなことになるな
んて、思ってもみなかったのに…。
それからふっと真顔に戻る。
…こうなってしまって、これから私達どうなるんだ
ろう…。
きっと以前の喧嘩仲間のような二人には戻れない。
そして来年、清良はウィーン国立音大にカイ・ドゥーン
と共に帰るつもりでいる。
そこでまだまだ勉強を続け…いずれ世界に通用するソリストを目指す。
龍太郎は決して日
本を離れることはないだろう。
これから…どうなってしまうのか。
霧の中に漂う小舟のような先の見えない不確かな
未来に、清良は深くため息をついた。
数
日後、龍太郎は考え事をしながらぼんやりと街を歩いていた。
一見そうは見えないが、彼だって深く物事を考えたりすることもあるのだ。
思
い出すのは…清良の白い肌。深い喘ぎ声。恍惚に満ちた表情…(結局それかよ)。
「うわ〜〜〜」
龍
太郎はいきなり路上で叫び声を上げて、ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる。
ー何、考えてんだ!オレは!。
そ
れから俯いたままじっと自分の足先を見つめた。
…好きになったって、どうしようもない相手なのに…。
あ
いつはいずれ遠くへ行っちまうってのに。
それはずっとわかっていた筈なのに。
引き止める勇気も、ついていく才能
もないっていうのに。
のに、のに、のにだな…。
自分のぐるぐる循環す
る出口のない考えに苦笑を浮かべて顔を上げた。
ー目の前にあったのは、以前清良と来たことのあるゲームセンターだった。
…
なんだか懐かしいなあ。
ほんのこの間のことなのにずいぶん昔のことのような気がする。
龍太
郎はふらりと店の中に入っていく。
ぶらぶらと店内を当てもなくうろついていたら…一台のUFOキャッチャーが目に入った。
ガ
ラスケースの中に所狭しと並べられた品物は、時計、指輪、ネックレスの数々…。
もちろんこんなところに無造作に入れているくらいだか
ら、おもちゃであって値打ち物ではないだろう。
しかし、その中の一つの指輪から龍太郎は目が離せなかった。
安っ
ぽい割にはシンプルなそれっぽいデザインで、赤く光るガラス玉のようなものがついていた。
何故か龍太郎は清良のヴァイオリンの演奏を
思い出した。
ー華やかで情熱的な…赤。
…もちろんこんなおもちゃみた
いなガラス玉が貴婦人のような彼女に似合うとは思えない。
きっと鼻で笑われるだけだろう。
それでも、何故か龍太
郎はその指輪が清良の指にはまっている姿を想像した。
それは意外にもよく似合っているように思えた。
ー
シャレだ、シャレ!。シャレでやっちまえ!!。
龍太郎は財布から100円玉を取り出すため、ジーンズの後ろのポ
ケットに手を入れた。
「…
おかしいなあ…オレ、こんなにUFOキャッチャーが苦手だったかな…」
龍太郎は首を傾げな
がら、独り言を言った。
結局、この指輪一つを取るのに5千円もの大枚を費やした。
どうでもいいようなものは簡単
に取れるのに、これぞと狙いを定めたものはどうしてこうも取れないのか。
先ほど、清良から電話があり二人で食事
をすることになった。
二人で一夜を明かしてから初めて会う訳である。
初めてのデートの時みたいに緊張して、胸が
ドキドキと高鳴った。
…え〜い、中学生か!オレは!。
待ち合わせの場
所で、清良は先に来て待っていた。
龍太郎の姿を見つけると、顔を染めて恥ずかしそうに微笑む。
その笑顔を見て、
龍太郎の胸の鼓動が更にいっそう早まった。
「…よお…」
「…久しぶ
り…」
ぎこちなく声を掛け合う。
そのまま会話もなく、黙り込む二人。
「あ
の…」
二人で同時に話しかけて、声が重なり互いにそのまま後を続けられなかった。
「ー
どうぞお先に…」
「…いや、そっちこそ」
沈黙が二人の間を漂う。
え
〜い、なんだ、このぎこちない雰囲気は!
今までにないような重苦しい空気に息がつまるような感じを覚えた龍太郎
は、何か脱出の糸口を見つけ出そうと試みる。
ーえ〜と、話題、話題。
ふ
と、ポケットに入れられた小さな指輪の箱のことを思い出す。
そーだ。今、どさくさにまぎれてやっちまえ。
ゲー
ムセンターで5千円もかかったんだぞ〜と笑い話にしてしまえばいい。
後ろのポケットに手を入れて箱を掴む。
「あ
のさ…」
龍太郎が言いかけた瞬間、清良が赤く染まった耳に髪を掻き上げた。
さ
らりと流れる髪。
ーそして、その指にはめられている指輪には紅い石がキラリと光っていた。
「あっ…」
思
わず龍太郎は声を上げる。
清良は不思議そうに首を傾げて尋ねた。
「何?」
「ー
い、いや。…その指輪…キレーだな〜と思って!」
「ああ、これ?」
清
良は指輪をもう片方の手で押さえるとふふっと笑う。
「コンクールに落ちた腹いせに衝動買い
しちゃったの。ーちょっと厄落としも兼ねてね。
こう見えても本物のルビーだから、けっこう高かったのよ!」
「…
あ、ああ…」
「ー何よ、反応いまいちね。似合ってない?」
「…い、いや…よ、良く似合ってる…」
龍
太郎はしどろもどろに答える。
「…良かった!。ねえ、今日何食べに行く?」
清
良はにっこりと笑うと、自然な感じで龍太郎の腕に腕を絡ませてきた。
なんのブランドかはわからないが高そうな香水の香りがする。
龍
太郎はポケットの中にある箱を思わずギュッと握りしめた。
「は
あ…」
峰は上半身を深く折り曲げると、桃ヶ丘音大にある休憩コーナーのテーブルにうつ伏せ
た。
思いついたかのようにごそごそと後ろのポケットから指輪の箱を取り出すと、ことんと目の前に置く。
顎を持ち
上げて、可愛くラッピングされたそれを見る。
…結局…渡せなかったな…。
「ー
峰くん、久しぶりデスね!」
目の前に影が出来たなあと思っていたら、いつの間に来たのだろ
うか、のだめが目の前に座って龍太郎の顔を覗き込んでいた。
「ーどこか、具合でも悪いんデ
スか?」
「いや…別に…。それよりも、のだめ、久しぶりだな」
彼のマ
ブダチであるのだめと会うのは久しぶりだ。
最近、自分は新しいオケと自己練習でずっと忙しかったし、…なんだか、のだめもずっと裏軒
にも来なかったような気がする。
「あれ?のだめ…お前…」
清
良は、構内をハイヒールでカツカツと音を立てながら歩いていた。
ふと、遠くに見慣れた金髪の後ろ頭が見える。
「りゅ…」
声
をかけてそばに駆け寄ろうとして…その時、龍太郎のテーブルの向かい合わせの椅子にボブカットの可愛い女の子が座った。
二人で何かを
話しているようだが、残念なことに清良のいる位置では会話の内容は聞こえてこない。
…あの子は…確か。
初めて龍
太郎に会ったとき一緒にいた。
龍太郎がその子の頬にすっと手を伸ばすのが見える。
清良の胸がギュッと締め付けら
れた。
「のだめ…お前、最近見ないうちにやせたんじゃないか?」
「え
〜そうデスか?自分では気づかないけど」
「なんか、顔色悪いし。…そういえば、千秋も元気なかったな。ーなんかあったのか?」
「イ
エ…ただ、ちょっと知り合いに不幸があったんで…でも、のだめ、元気ですヨ!」
そういう
と、のだめは両手に握りこぶしを作りガッツポーズをとる。
無理に笑うその姿がなんだか痛々しい。
「本
当に、大丈夫か…。なんかあったらオレに相談しろよ」
「ハイ。ありがとうございマス!。峰くんこそ、新しいオケストラ頑張ってます
か?」
「う〜ん、まあ、ぼちぼち」
何だかオーケストラどころじゃなく
なって来ているけど。
「あ、それ何デスか?」
の
だめがテーブル上の箱に目ざとく気づいて指を差す。
「あー、これね。…そうだのだめ、お前
にこれやろうか」
「ふぉ?」
「まあ、ただのゲーセンで取ったおもちゃだけどなー」
「開けて
みてもいいデスか?」
「ああ」
清良が見ていると、龍太郎は女の子に可
愛くラッピングされたプレゼントのような物を手渡した。
女の子がリボンを解き箱を開ける。
ーそして、中に入って
いた物を取り出すと、驚いた表情でそれを指でつまんで太陽にかざした。
指輪だった。
紅
い石が遠くから見て太陽の光を受けてキラリと輝いた。
龍太郎と彼女は、まだ何かを話しているようだったが、清良
はそれ以上その光景を見続ける勇気がなかった。
ー何よ…。あいつ…やっぱり彼女いたんじゃない…。
清
良はギュッと唇を噛みしめるとくるりと踵を返してその場を立ち去った。