『ブ ルーバード』


「確かこのあたりを通ったような…」

パ リの街並み、空気、そしてこの雰囲気。久し振りの思い出の地に感慨にふけっていた。
日本での仕事が終わり、R管の客演まで少し期間が あったが、休暇のつもりで予定より
早くこちらに来た。

パリには彼女がいるから…

た またまウィーンで久しぶりに会い、最初はからかうつもりだったのに彼女と話しているうちに
どんどんと彼女に惹かれていた。

… あの時、一瞬彼女が欲しいと思った…

しかし彼女には生意気な後輩の彼氏がいる。
オレだって さすがにアイツの女にまで手を出す気はない。
頭では分かっているんだが、体は勝手にあいつのアパルトマンの方へ歩いていく。

も し彼女がいたらという淡い期待を抱いて…

ふとかすかにピアノの音色が聞こえた。
少し気に なってその音に導かれるように歩いた。だんだんと音色がはっきりしていった。

…何だよ、この曲は。すげーでたら め。
テンポ、強弱、まったく作曲者の意図が全然分かってない。
…ん?ちがう、そうじゃない。確かにでたらめだけ どうまい!音がきらきら輝いている。
こんなの聴いたことがないぞ。いったい誰が…

歩く速度 はだんだん近づくにつれ早くなり、その場所へ着いた。
そこは、千秋が住んでいるアパルトマン。
もしかして…とか すかな期待を持ってオレは部屋へと続く階段を上った。
ピアノの音の主はやはりこの部屋―千秋の部屋―からだ。

せっ かくの演奏を途中で壊したくはなく、少しドアの前で聴いていたが、ドアノブに手をかけると鍵は掛けてなくゆっくりと回した。

千 秋はいるんだろうか?そして彼女は?
物音をたてないようにゆっくりとピアノの音がするほうへ歩いて行った。

… 不法侵入だな、これじゃあ…

少し自分が滑稽に思えたが、音楽家としてどうしても知りたかった。

こ の部屋に続く扉はラッキーなことに開いていた。
オレはゆっくりと辺りを見回した。どうやら千秋はいないみたいだ。
オ レの予想通り、ピアノを奏でていたのは彼女だった。

軽く目を閉じ、口が尖っている。
なんだ か彼女らしいといったら彼女らしいが。
オレは初めて彼女のピアノを聴いた。

あいつが惚れた 音。聴く人間にもよるがもしかしたら万人に愛される音。
そんな音を奏でる彼女。
そしてその彼女の音を見初めた千 秋に嫉妬した。

…なぜもっと早くに彼女と出会えなかったのだろう。もしかしたら…

開 いたドアにもたれながら目を閉じて聴いていた。

楽しい時間は過ぎ曲が終わった。
ゆっくりと ピアノから指が離れる。あの時も思ったが手が大きく指が白くて長い。
まさに理想のピアニストの手だ。

ふ と、彼女の目から涙が零れた。それは彼女の頬を伝い、膝の上に添えた手に落ちていく。

なんだかそのままにしたく なくて、オレは自分の存在を知ってもらうようにわざと大きく手を叩いた。

「まったく滅茶苦茶だ。作曲者の意図を 読んでないでたらめの演奏だ。でも…音は良かったよ」

ビクッと大きく肩が揺れ、大きな目を見開いてこっちを見 た。

「むきゃ?ま、まつださん…」