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シューベルト ピアノ・ソナタ 第16番D.845 ――
シューベルトが曲家人生の中で数少ない完成されたピ
アノソナタの一つ。
冒頭のユニゾンから曲が始まり、途中左手のシンコペーションが不気味に感じる。
全
体的に暗い感じの曲想だが、突如幻想的なテーマが現れまた元に戻る。
彼女はこんな曲調なものでも楽しく弾いてい
る。よほど音楽が楽しくて好きらしい…
そんな思いが伝わるようだ・・・そしてその思いの中には・・・
…
まったく、本人がいないのにこんな愛の告白をされたら聴いてるオレがむなしくなるじゃないか、まっ、これできれいさっぱり諦めがつくな…
し
ばし彼女がつくりあげる音の世界に傾けていると、カチャっと違う音がした。
…やっと本人が来たか…
オ
レがいるのを見て一瞬驚いて声を出そうとするがオレは人差し指を出し、口にあてた。
せっかくの彼女の作りあげた世界を壊したくなく
て…
彼女はあいつが来たことも分からないようで、一心にピアノを弾いている。
千秋はブスッ
としながらもオレの横に腰掛けた。
「なんでここにいるんですか」
「い
や〜近くを通ったらあまりにも耳に残る音が聞こえたから?」
千秋はオレの方を向いて少し睨んだが、ピアノへ目を
やった。
「この前は悪かったな」
「えっ?」
「い
や、ウィーンで彼女にお酒飲ませちゃったこと」
「いいですよ、もう…」
こ
のことが原因で喧嘩したのもあってか、バツが悪い顔をしていた。
「もとはといえば、あの人が悪いんですから」
「マ
エストロもやるもんだな。弟子に内緒で恋人を一緒に連れてくなんて」
「あいつはあの人のお気に入りなんですよ」
千
秋の目はオレと話しているにもかかわらず、視線はピアノのほうへ。
そして、オレも…
しばら
く沈黙が続きいたが、まだピアノの音は止まなかった。
「なあ」
「は
い」
「お前は何を恐れてるんだ。彼女か?彼女の音楽にか?それとも…」
―
彼女が自分のところからいなくなることにか―
千秋は一瞬目を開いたが、オレのほうをじっと見てまた目線をピアノ
に戻した。
会話がない中で彼女のピアノだけが聞こえた。
「たぶん…です」
「ん、
そうだよな。彼女の音を聞いてそう思った。オレも怖いと思う。いい意味で」
「……」
彼
女はきっとすごいピアニストになるだろう。だって千秋やオレをも魅了させる音楽を持っているから。
彼女なりに努力もしているようだが
この音色は努力だけでは作れない。
まさに音楽の神に愛されているのだ、彼女は。
「のだめ
ちゃんがプロになった時は真っ先にコンチェルトを頼むよ。そう伝えておいて」
「それは無理です。松田さん」
「あ
いつとコンチェルトをしたいと思う奴はまだいますからね」
…ったく素直じゃないな、こいつは…
オ
レはゆっくり立ち上がり、ドアの近くで振り向いた。
「ごちそうさまって伝えといて、じゃあな」
彼
女の音の邪魔にならないようにゆっくりとドアを開け、もとの世界へ戻った。
彼女の中には千秋しか入ってない。そ
して千秋も…
まったくやってらんないな〜
「青い鳥か…」
幸
福の青い鳥、幸せはすぐ近くにあるものでなかなか気付きにくいものだというが、
オレの青い鳥はどこにいるだろう
チ
ルチルとミチルのように探す旅にでてもよさそうだな。
とりあえず今は…
パリの石畳の上でオ
レは上着から携帯を取り出し電話をかけた。
「あ、アロー。オレだけど…」