『 ブルームーン   』





朝 の爽やかな風が通る、真一の部屋。

真一の話し声でのだめは 目を覚ました。

シーツの中で、う〜んとひと伸びして、振り 返ると、下着姿の真一が電話をしている。

―――ドイツ語?

の だめが起きようと足元に丸まったショーツに手を伸ばした時、

電 話を終えた真一がベットに近づいてきた。

「のだめ、明日、 明後日休みだよな?」

「はい。」

「急 なんだけど、舞踏会に行くぞ。」

「ええ〜っ?」

「今、 事務所から連絡があって、予定が入ったんだ。」

「… はぁ…。」

「C&C主催の舞踏会。本格的 らしい。古城でやるそうだ。」

「C& C?」

「ほら、世界中のコンビ二にかならず売ってる棒付き のキャンディーの会社だよ。」

「あ〜あれの?」

「明 日、俺はそこで一仕事。予定した指揮者が急病で、その代役。…夫人同伴だから、おまえも一緒に行こう。」

「夫 人同伴?!いいんですか?」

「おまえしかいないじゃない か…。」

「や・やった〜!…嬉しいです、せんぱい。」

「は しゃぎすぎだ…。」

―――学校も夏期休暇中だし、ちょうど いいよな。突然のシュトレーゼマンの命令だが、有り難く受けよう。じじいの言う通り、政財界に売り込むいいチャンスだ。

「の だめ、ドレスはじじいが手配してる、後で、その店に行こう。」

「ふぉ 〜。シンデレラみたいです〜。」

のだめは急いで、キャミ ソールだけ身に着けると、バスルームへ直行した。


*****


翌 日、真一は自分の車にのだめを乗せて、店に寄り、直しを頼んだドレスを受け取り、

会 場である川沿いの古城を目指した。

「ふぉ〜!大きなお城。 ここでやるんですか…?」

「みたいだな。」

真 一は駐車場係らしき男とフランス語で話している。

そしての だめに振り向き、

「俺たちの部屋もここに用意されてるらし い。」

と言う。

二 人はまるでお伽の世界に入ったような心持であった。



通 された部屋は石造りで天井が高く、小さめの窓がわりと高いところに切ってある。

深 緑の天蓋付きのベットが据えてあり、壁には狩をする貴族たちの絵と大きな鏡がかけてある。

「本 当にシンデレラ…?」

「…ぶっ…おまえ、面白すぎ…。ほ ら、荷物、整理しろ。」

「…ぁ…はぁい。それにしても凄い です…。」

―――トゥルルル・…トゥルルル・…

真 一は備えづけの電話にでて、また、フランス語で話している。そして、バックから、衣類を出しているのだめに声を掛けた。

「も う、楽員が集まってるらしい。俺、顔出してくるから、支度し始めていて。

俺 の燕尾もカバー外しておいて。じゃ、行ってくるから。」




部 屋に残されたのだめは眉頭を寄せて、口を尖らせた。

「…ひ とりぼっちです…。」

それでも、言われたように真一の燕尾 服を整え、自分のドレスを広げた。

艶のある濃紺の上質のシ ルクで、銀色のビーズとパールが大きくスクエアに開いた。

胸 元から、パネルに切った裾まで天の川のように散りばめられ、ふんわりとした裾は、その下に幾重にも同色のシフォンが重ねられている。

「ほ んと、お姫様みたいです。」

それから、大事に緋色の小箱を 開くと、そこには四角くカットされたダイヤとブルートパーズで繊細に編まれたイヤリングと揃いの指輪が入っている。

「借 り物ですもんね。大事にしないと…。でも、ほんとに綺麗…。」

の だめはシャワーを浴びると、夜会の支度を始めた。

高窓から はパパラチアンオレンジの夕陽が差している。

「今夜はきっ と綺麗な星空ですね…。」

のだめはそっと微笑むと、燕尾服 に目をやった。


*****



一 方、真一は急な代役ではあったが、持ち前のテクニックで楽団を巧くまとめ、一応、納得のいく事が出来た。そして、ひとりでスコアをもう一度確認している と、

聞き覚えのある声が聞こえた。

「じ じい…。」

「千秋。ご苦労様です。この楽団はいいでしょ? ジュリアンのお抱えだからね。」

「ええ、とっても。」

「紹 介します、ジュリアン。私の唯一の弟子、千秋真一です。」

「は じめまして。よろしくお願いします。千秋真一です。」

「お お、はじめまして。この方が君のお弟子さんなんだね。千秋雅之氏のご子息でもある…。」

「………」

「君 はなかなか才能あると聞いてます。今日は楽しみにしてるよ。」

「は い。ご期待に添えるよう、尽くします。」

「千秋、私とジュ リアンはお友達です。ジュリアンはいい人!私もいい人!」

「フ ランツ、でもふかひれマーメードキャンディーはいただけないよ。どんなにヨイショしてもね。」

「え 〜いいじゃない。美味しくって、健康的。東洋の神秘。中国4000年!なのに?」

「売 れるものじゃないとね…。」

「はなくそ味は作ったで しょ?」

「あれは、ああいう映画用で…。売れるから。」

「じゃ あ、マーメードは〜っ?」

「はいはい、分かった、フラン ツ。…それじゃ、千秋くん、また後ほど。お連れのご婦人を紹介してね。」

「は い。」

だだっ子のような師匠とこの会の主催者を見送りなが ら、真一はこっそり溜息を吐いた。

「さあ、部屋に戻る か…。」

真一はその時気づきもしなかった、自分を凝視する 人物がいる事を。



そ の様子を柱の陰で見つめる人物―――松田幸久である。



*****



真 一は部屋に戻ると、そこにはペチコート姿ののだめがいた。

「せ んぱい、いつ頃ドレス着ればいいんでしょう…?」

「今、俺 シャワー使うから、それから着るの手伝ってやる。」

そう言 うと、真一はバスルームに消えていった。



真 一は言葉通り、シャワーを済ませると自分の支度より先に、のだめを手伝ってやった。

濃 紺のドレスは真一の見立て通り、のだめの白い肌をより一層引き立てている。

真 一は一歩後ろに下がって、この恋人の艶姿を眺め、そして満足そうな口元で、

「今 度は、イヤリングだな。」と言った。

「でも、せんぱい。髪 はこのままでいいですか?」

不安げに尋ねるのだめに、真一 は、うんと小さく頷き、自分のワックスとのだめの持っていたくし型の髪留めで器用に夜会巻きを作った。そうして、宝石を身に飾ってやり、もう一度全身を眺 めてから、片眉を持ち上げた。横の鏡台の上の花瓶からピンクのミニ薔薇を一枝持ち出すと、短く折ってのだめの髪に差した。

「こ れで、いいだろう。」

「ありがとう、せんぱい。」

「お 礼は後ほど頂くよ。」



真 一も慣れた手つきで自分の支度をする。

そして、完璧に着 飾った二人は互いに見つめあい、微笑みあうと、自然と口づけた。

ゆっ くりと唇の柔らかさを堪能して、名残惜しそうに離れる。

「さ あ、行こうか。」

「はい。」

「主 催者の例の会長も紹介してやる。…のだめ、おとなしくしてるんだぞ。食い意地の悪さ出すんじゃないぞ。」

「は い、は〜い。」

「ハイは…。」

「一 つです。」

「よろしい。」

「カ ズオ…。」

「なに?」

「い いえ。何にも…。」




*****


舞 踏会場に足を踏み入れると、のだめは驚愕した。

ピカピカに 磨かれた御影石の床、大きく見事なシャンデリア。

まるで体 育館のように高い天井。その天井まで伸びる細長い窓。

据え られた灯火は金色に調度された壁に輝きを与え、

奥の壁面に は、かつてこの城の女主人であろうか、

ふっくらとした面差 しの貴婦人像が描かれていた。

「すご・…!」

「よ く見たら、ほんとに凄いな。しかも、音響もいいんだ。」

「しゅ てきです。」

「のだめ、じじいとオリバーが来ているから、 来るまで、飯でも摘んでいろ。…いいか、“摘んで”いろよな。」

「了 解です。せ・ん・ぱ・い。お仕事がんばってください。」

「お う。」


そういうと、真一は楽団たちの 方へ向かっていった。

のだめは真一の後姿を見ながら、

「ミ ルヒー来ないかな…。」とぽつりと呟いた。



疎 らだった人影が開始時間が近づくにつれて、会場が賑やかになっていく。

そ して、主だった招待客が到着のファンファーレと共に入場してくる。

の だめはその客たちを遠くでぼんやり眺めながら、真一と共にいる事で自分が変わってきている事を痛感していた。日本にいる時にはこんな所に来る事など予想だ にしなかった。

「せんぱいは…?」

視 界に入った真一は今、当にタクトを振り上げるところだった。

の だめはその姿にうっとりとして、思わず惚けてしまう。

シャ ンパンを勧める声にも気づかないほどだ。



そ んな彼女を見つめる人物―――松田幸久がいた。




一 段高い指揮台に立つ真一は初めての事など信じられないほど、堂々とこなしている。

… 千秋、いい気になって…。それなら、ちょっとからかってやろうか…?




松 田は持っていたシャンパンを一気に飲み干すと、ある人物に向かって歩き出した。

薔 薇色のたっぷりとしたドレープを取ったカーテンの前に独りで佇む女性。

今 夜の夜空のような深いミッドナイトブルーのシルクの夜会服を纏った女性。

――― そう、あの千秋の想い人、野田恵である。



「君 を壁の花にはさせられないよ。一曲、いかがですか?」

そう 言うと、松田は手を差し伸べた。

予想もしなかった人物に驚 いたような表情をしたが、

のだめは指揮台の上の恋人を一瞥 して、

すっと息を吸って背筋を伸ばし、それから微笑んで松 田に言った。

「いいですよ。」




ゆっ たりとしたワルツ。

流れるような旋律。

そ れは、真一の愛撫を思い起こさせて…。

松田の腕に包まれな がらも、のだめは陶酔と昂揚感に包まれる。

上気した頬は紅 を刷いたように色づき、白い肌が一層艶めく。

肌とドレスの 濃紺とのコントラストはシャンデリアの下で眩いほどであった。

松 田は新鮮な驚きを喜んだ。

自分のパートナーが美しいのは嬉 しい。

例え、ひと時でも…。

し かし、その喜びは、ヨーロッパの財界人にまで目を掛けられる憎らしい後輩、

千 秋真一に対する競争意識に拍車を掛けた。



「松 田さん、ダンス、上手ですね。」

「のだめちゃんもね。」

「私 は、先輩に教えてもらったから…少しだけですけどね。日本じゃ、ワルツなんてしないでしょ?」

「確 かに。俺はね、こっちに来てから…こんな夜会に呼ばれる事もあって、それからかな…。」

二 人のステップがだんだんと合っていく…。

「もっと、大きく 足を運んでいいよ。リードするから。」

「はい。」



確 かに、松田のリードは申し分なかった。

このような場所に慣 れていないのだめを思いやって、慎重にリードする。

無理の ないように大きく軌道を取って、たっぷりとスペースを確保する。

そ んな気遣いをおくびにも出さず、余裕を装って、耳元で囁いた。

「あ んまり千秋ばかり見てると、足縺れるよ。それなら、あいつのまん前に行こうか?」

「!」

「次 のフレーズから移動するよ。いい?」

のだめはこの言葉に一 瞬目を大きく見開いたが、とび色の瞳を輝かせ松田を見上げる。

松 田はその表情にはっとする。

―――こんな顔するんだ…。



松 田は大きくのだめの体を廻し、軽やかにステップを続け、どんどん千秋に近づいていく。

慣 れない状況で指揮をする真一は、まだ、二人に気づいていない。

松 田はわざと千秋に聞こえるように

「のだめちゃん、次、飛ば すよ。」

と言った。

の だめは訳が分からず、ステップを踏み続ける。

耳がいい真一 が松田の言葉に振り向いた時、

のだめがふわりと空に舞っ た。

「松田さん、足踏んじゃった!」

「い いの。わざと。リフトしたんだよ。」

「ふぉ〜!」

の だめが尊敬の眼差しを松田に向ける。

その顔を真一は見逃さ なかった。

一瞬、真一は目を大きく見開き、口元を歪ませた が、すぐに楽団の方に向かい、

何事も無かったように指揮棒 を振り続ける。

「面白かった?」

松 田が耳元に囁くと、のだめは零れるような笑顔で、

「とって も。」と答えた。

「じゃあ、この後は何か飲もうか…。」

一 曲踊り終えたとき、松田が誘った。



の だめは、しばらく真一の背中を見ていたが、自分の視線に気がつかないのに、

す こし失望して、

「喉渇きますよね。」とダンスフロアを後に した。



真一がど んなに嫉妬しているか知りもせずに。


*****


松 田はのだめの一歩先を歩きながら、窓側に向かう。

途中で シャンパンとごく薄いパンで作ったハムサンドも手にした。

窓 は風通しの良いように開けられていて、窓辺は、室内のシャンデリアの明かりとは違う明るさであった。

そ こに据えられたネストテーブルに皿を置いて、松田はのだめにフルートグラスを渡した。

「今 夜の月に乾杯。」

「えへっ。」

松 田とのだめ、目を合わせながらグラスのシャンパンに口を付ける。

「… ふっ…君は分からないね。俺の予想に反して…なんて言うのかな…いい意味で裏切られるよ。」

「?」

中 から、真一の音楽が聞こえる。

ゆったりと、漂うような旋律 はそのまま、のだめが見上げる夜空に溶けていく。

梢を掠め て見える月は青みがかって、しっとりと夜露を含んだ大気に青い色を付ける。

「ブ ルームーン…。」

「え?」

「あ り得ない話って言う意味さ。」

「今、君を口説きたいってこ とさ。本気だよ。…千秋の女なのにな…。」

「…」

「い ろんな女を知ってるけど、…君のこと、もっと知りたい…。」

「…」

「… 今度は、だんまりかよ。前みたいに、奇声を発しないの?」

「… なんて言っていいか、分からなくて…。」

「本当に口説く よ。」

松田の手は、のだめの二の腕に添えられて、彼女の柔 らかさを感じていた。

火が点ったように熱い指先に、冷たい 肌は心地よく、松田はどうしようもなく彼女を抱き寄せた。

「松 田さん?」

のだめは廻された腕をやんわりと解くと、とび色 の瞳で松田を見上げる。

「のだめは真一くんのものです。」

「… ん…そうか…。」

ふぅ〜と息を吐き、松田は頭を掻きなが ら、椅子に座ると、

「すまん。忘れてくれ…。俺、酔っ ちゃったかな〜?さっき、ガンガン飲んだから。」

「もう、 本気にしちゃったじゃないですかぁ。」

「悪い。…もう、 行っていいよ。姿見えないと、あいつ心配するよ…。」

「あ! そうですね。やばい。」

のだめはまたシャンデリアの光に溶 けていった。

松田は青いドレスが去って行くのを黙って見て いた。



「ブルー ムーン…あり得ないのにな…。」



――― でも、千秋の奴、顔、引きつってたよな…?


(お しまい?)