黒い髪の男の人が、こっちに走ってきた。
さっきから、わたしの前を走り回ってるのは、金色や茶色の髪の人ばっかりだったから、すごく嬉しかった。
真剣な顔しているその人は、なんだかとっても格好いい。
よっくんがすきな「オニレンジャー」の赤い服着た男の人みたい。
その人は、はあ、はあ…と息を吐きながら、わたしこう言った。

「のだめ……大丈夫か?」

……何を言ってるんだろう。
わたしは、のだめなんて名前じゃないよ。
それにあなたにも会ったことがないし。
だからわたしは、こう言ったの。

「おじさん、誰?」








お母さんみたいな先輩







「おじさん、誰?」

目の前ののだめからそう言われた瞬間、千秋はしばらく動けなかった。
のだめはきょとんとした顔で千秋を見上げてる。

「お迎えが来るって聞いてたけど、この人辰男じゃないよ〜。全然知らない人だよ」

そういうと急にお腹を押さえて足をばたつかせて叫びだした。

「それよりもお腹空いた〜!なんか食べたい〜!!お菓子ちょうだいっ!!」

騒ぎ立てるのだめを看護婦が慌てて別室へと誘導する。
千秋は呆然としたまま後ろにいた白衣の医師を振り返った。

「……ご説明します。こちらへどうぞ」







「……退行催眠……ですか?」

千秋は衝撃を隠せないまま、医師の言葉を繰り返す。

「退行催眠とは、催眠状態を誘導し深いリラックス状態になることで潜在意識に働きかけ、症状や悩みを取り除いていくという催眠療法の一つです。
 睡眠状態で自分の過去にさかのぼり過去に作ってしまった傷ついた心を癒したり、現在に問題を作っている思い込みを書き換えようというものです。
 そうすることで過去の出来事のとらわれから解放されて、自由な行動ができるようになるのが目的…なんですが」


千秋は今朝の会話を思い出していた。



「催眠術セミナー?」

千秋が聞くとのだめはふふふと笑った。

「そうなんデス。ほら。この広告に載ってるでしょう。『あなたでも簡単に催眠療法士になることができます』って!」
「……そんな、いかにも怪しげな広告……」
「のだめ、けっこうそっち方面の才能あると思うんですヨ」

顔をしかめる千秋に対し、のだめはフンッと鼻息をたててふんぞり返った。

「先輩が飛行機に乗れるようになったのも、のだめの催眠術のおかげなんデスよ」
「……何言ってるんだよ。素人のお前にそんなことができる訳ないじゃないか」
「ムッキャー!!。本当デス!!先輩が覚えてないだけなんデス!!」

のだめに催眠術をかけられたという記憶が全然残ってない千秋に、のだめは頬をふくらました。

「……とにかくですネ。
 飛行機は(とりあえず)克服できて乗れるようになりました。
 あとは、海が平気になれば完璧デス!。
 先輩の海嫌いを克服して、今年のバカンスは海で一緒に泳ぎましょう!!」
「勝手なこと言ってるんじゃねえっ!!。俺は絶対に海になんか行かねえからなっ!!」
「……のだめの水着姿、見たくないんデスか?」
「………」

千秋は黙った。
先日、のだめがターニャと一緒に買い物に行ったということは知っている。
白くて可愛いビキニがあったんですヨ〜と報告してきたから、気にはなって……はいた。

「……何か想像してまセン?」
「……してねえよっ!!」

まあとにかく…と言いながらのだめは立ち上がる。

「先輩の海克服のためにも、のだめ、完璧な催眠術をマスターしてきマス!」
「オイ……多額の授業料とかぼったくりされるのがお決まりのコースだぞ」
「大丈夫デス!この『無料体験コース』に行って来マス!!」
「だからそれが怪しいんだって……おい、のだめ、待てったら!!」

千秋が止めるのも無視して、のだめはドアへ向かった。
そして振り返るとにっこり笑った。

「一緒に、海で泳ぎましょうね!シンイチくん!!」



医師の話は続く。

「なんでも催眠術セミナー中、講師の催眠療法士に手本として催眠術をかけられたそうなのですが……記憶が退行したまま元にもどらなくなったらしいんです。
 どうやらインチキ催眠療法士だったようで、かけた本人は自分の手に負えないと思ったのか行方をくらましてしまって……。
 埒があかないということでこの病院に運び込まれたんです。
 幸いにもうちに日本に留学していたという看護婦がいたので、意志のやりとりは出来たのですが……」
「そんな……」

千秋は頭を抱えた。

なんだ……。
いったい何が起こってるんだ?。

千秋には現在の状況が信じられなかった。

「催眠術は放っておいても時間がたてばいずれ解けるものなんですが、どういう訳かいっこうに催眠状態から抜けません。
 かけた本人がどういう方法で、催眠状態にしたのかがわからないんで、こちらとしても手の打ちようがないんです。
 時間がたてば何かの拍子に解けることも考えられますが……現在の段階でははっきりしたことは言えません」

千秋は大きく息を吐くと手を額にあてて目を閉じた。
それから、真剣な表情で医師に問いかける。

「……それで、あいつは……のだめは……現在いくつなんですか?」

医師は鎮痛な面持ちで千秋に宣告した。

「……5歳だ……と本人は言ってます」  







さっきからおじさんは、小さな機械みたいなものに向かって、なにかを真剣に話している。
よく聞きとれないんだけど

「……とにかく、今はあまり刺激させないようにお願いします」

とかなんとか言ってるのがわかって。
おじさんは、急に振り向くと、その機械をわたしにくれた。

「……これなに?」
「……携帯電話だ。……そうか、お前が小さい頃にはまだ普及してなかったかもな……とりあえずここに耳を当てて」

おじさんの言うとおりに、その機械を耳に当ててみる。
すると声がした。

「恵〜大丈夫!?。お母さんよ〜」
「ヨーコ!?」

お母さんのヨーコだ!!
わたしは、機械に向かって大声でさけんだ。

「ヨーコ!!今、どこにいるの?
 早くお迎えにきてよ!!」

涙がじわっと出てきた。
怖い。
誰も知らない人ばっかりで、それもみんな宇宙人みたいな変な言葉をしゃべってる。
わたし、宇宙人に誘拐されちゃったのかな。

「いい?恵。よく聞くとよ。
 今からお迎えに行くばってん……すぐには行かれんとよ」
「……なんで?」
「……ちょっとそこは遠すぎるとよ……。
 今からすぐ飛行機に乗っても……明日、着けるかどうか……。
 だからね、今、あんたに電話を渡してくれた格好いい男の人がいるよね?」

わたしは、ちらりと 隣に立っているおじさんをみた。
おじさんは、心配そうな顔をしてわたしを見てる。

「うん……」
「お母さん達が迎えに行くまで、その人が恵のお世話をしてくれることになったから、その人の家にお泊まりして待っててね」
「え?なんで……?」
「なんでって……どうしても、しょうがないとよ……」
「………」
「絶対にお迎えに行くから……必ず行くから……その人のところで待っててほしいんよ」

なんだか、よくわからない。
ヨーコはどこにいるんだろう。
飛行機に乗らないと来れないような、遠い所にいるのかな。
よくわからないけど……とにかくヨーコとタツオは、すぐに来れないんだ。
そしたらしょうがないよね。

「うん……わかった!」
「……大丈夫?」
「平気だよ?だって、わたしもう5歳になったんだもん!!」

するとヨーコは、ほっとしたような声で言った。

「恵……いい子ね。千秋くんの言うことよく聞くんよ」

ぷつっと電話が切れた。
わたしは、その機械をどうしたらいいかわからないまま、困ったようにそれを見つめていた。
そしておじさんのほうを振り返って、言った。

「あのね、あのね、ヨーコ、遠くにいるから、すぐに来られないって。
 だから迎えに来るまで、おじさんのところにお泊まりして待っててだって」
「……ああ」
「幼稚園では知らないおじさんに付いていったらいけないって言われてるけど……ヨーコがそう言うんだったら、おじさんは知らない人じゃないよね!」
「………」

おじさんは、なんだか苦しそうな顔をしていた。
だから慰めてあげたくなった。

「……おじさん……どうしたの?」
「え?」
「……なんだか、泣きそうな顔してるから……どこか痛いの?」

わたしがそう言うと……おじさんはやっと笑ってくれた。
おじさんは、わたしの頭を優しく撫でてくれた。

「大丈夫……どこも痛くないよ……。心配してくれてありがとうな」

笑うととっても優しい顔になる。
なんだか私も嬉しくなって、にこにこと笑った。

やっぱりこの人、格好いい!!。

「ただ……その……一つだけ、お願いがあるんだが……」
「なに?」

おじさんは、下を向いたまましばらく考えていたんだけど…顔を上げて、すごく困った顔をしてこう言った。

「……俺をおじさんって呼ぶのは止めてくれないか……?」







結局、わたしはその人のことをシンイチくんって呼ぶことになった。
ヨーコは千秋くんって言ってたけど、シンイチくんはシンイチくんって呼ばれる方がいいんだって。

わたし達は病院を出ると、シンイチくんの車に乗った。
赤くて格好いい車!。びゅーんとスピードが出そう!!。
……でも、なんだか変だな。

「シンイチくん…」
「なんだ?」
「あのね、んっとね、くるくるってする奴がどうしてこっち側にないの?」
「ああ……その、ハンドルのことか」

シンイチくんはうーんと考えると言った。

「え…っとな。ここは日本じゃないんだ」
「どうして?」
「フランスっていう外国の国なんだ」
「どうして?」
「だから、ハンドルも右じゃなくて左についてる……」
「どうして?」
「日本だったら車は左車線を走ることになってるけど、こっちでは右車線を走るんだよ」
「どうして?」
「どうしてって言われてもなあ……説明しようがないんだよ」
「どうして?」
「………うう………」

シンイチくんは頭を抱え込んだ。
答えにつまっているのがわかる。
だってわかんないからしょうがないんだもん。
しょうがないから、答えを諦めておとなしく隣の席に乗ってあげた。
だって、わたしは5歳なんだから、もうお姉ちゃんだもんね。
ブルルルル……音をたてて車は発進した。

「うわあーーーーーーーーっっ!!」
「おいっ!!顔を窓から出すなっ!!危ないっっ!!」

だって……だって……初めて見た景色なんだもん。
見たこともない壁のようにどんとそびえ立った建物が左と右にずっと続いていて。
東京タワーとは似てるけど、ちょっと違う高い塔が遠くに見えて。
なんだか道に植えている木の色や形もいつも見てるのとは違う気がする。
たくさんの車。
たくさん歩いている人達。

なんだか嬉しくなって、車のシートの上でポンポン跳ねた。

「こらっ!!跳ねるなっっ!!」
「えーっ?でも楽しいよ!シンイチくんもポンポンしようよっ!!」
「するかーーっっ!!」

……でもなんか変。
ポンッって跳ねるとすぐ頭がつっかえる。
なんだか、この車……。

「シンイチくん、この車、すごく小さいし狭いね〜」
「……それは、お前が……」

シンイチくんは何かを言いかけてやめた。
変なの。

その時。

「あっっ!!シンイチくん、車止めてっっ!!」

キキーーーーッ!!。

車が急に止まったから前にがくんとなった。

「なんだよ、急に……おいっ!!」

わたしはシンイチくんが止めるのも聞かずに車のドアを開けて走り出した。
だって……だって……あれは!!。

キキーーーーーッッ!!。

すごいブレーキの音がしたら、すぐ目の前に車が来ていた。

危ない!!ぶつかる!!……と思って目を瞑った瞬間。
誰かが急に飛びついてくるのを感じた。
そのまま抱き抱えられるようにして、道の脇に連れて行かれる。

「……………!!」

車の運転手のおじさんが何か怒鳴っている。
きっと「危ないぞっ!!」とかなんとか文句を言ってるんだろう。
それをぼうっと見ていたら、突然。

ゴツン!!。

と頭を拳骨で殴られた。
見ると、シンイチくんがとっても怖い顔をしてわたしを見てる。

「道に飛び出すなっ!!。車にひかれて死ぬところだったぞ、お前!!」


……わかる。

今はわたしが悪かった……と思う。

幼稚園でもヨーコ達からも駄目だって言われているのに、道路に飛び出したわたしが悪い。

……だけど……。


「……う……うう……うわああああああんっっ!!」


わたしはいろいろなことが我慢できなくなってとうとう泣き出してしまった。

頭が殴られて痛いよ。

シンイチくんの顔が鬼の様に怖いよ。

ここはいったいどこなの。

ヨーコとタツオはどうしてすぐに来ないの?。

……なんだか全部がわからなくて、胸の中が痛くて、とっても……悲しいよ……。


「お……お、おい、のだめ」

「わああああああんっっ!!」

「悪かった……殴ったのは悪かったから……」

「わああああああんっっ!!」

「ほら……皆が見てるから……」

「わああああああんっっ!!」

「頼むから……お願いだから……泣きやんでくれ……」

「わああああああんっっ!!」

「……何か……そうだ、何か、好きなもの買ってやるから……」

わたしはピタッと泣くのをやめた。
そして、さっき車から飛び出した原因の、目の前にあるお店を指さした。
そこはおもちゃ屋さんみたいで、店頭には私の大好きな「プリごろ太」のごろ太の大きなぬいぐるみが置いてあった。

「……ひっく……ひっく……じゃあ、あの……ひっく……ごろ太の人形が、欲しい……」

シンイチくんの額からたらっと汗が流れるのがわかった。

「え……あ、あれはお前……」
「あれが欲しいったら欲しいっっ!!」

私はもっと大声で泣くために一生懸命涙を溜めて、思いきり叫ぶ準備をした。
シンイチくんとの二回目の戦いを始めるために。









千秋はげっそりと疲れ切った表情で、横でチョコレートのアイスクリームにしゃぶりついているのだめを見ていた。
足下には大きなごろ太のぬいぐるみが包まれた袋が置かれてある。
2人は公園にあるベンチに座っていた。

……あれから、どれだけ恥ずかしい思いをしたことか。

「……こんなに、大きいのはちょっと……」
「ダメッ!!これじゃなきゃイヤッ!!」
「……もうちょっと小さいのにしないか?ほら、こっちの奴とか……」
「いやだ、いやだ、いーやーだーーーーーーーーっっっっ!!」

のだめは床に寝っ転がって、スカートであることもかまわずに手足をばたばたと振り回して泣き喚いた。
店員や行き交う通行人が好奇の目で2人を見る。
……当たり前だろう。
どう見ても20代前半の女性が、道ばたで大の字に寝ころんで泣き叫んでいるのだから。
もはや千秋になす術はなかった……。

そして千秋は大きくため息をついて、のだめを見る。
ごろ太の人形を買ってもらったことで、機嫌が直ったと思ったら、今度は「アイスクリームが食べたいっっ!!」と言って聞かない。
少しでも逆らおうものなら、もう一度暴れ出す気配だ。

5歳の子供って皆、こんなのなのだろうか……。

千秋は頭を抱える。

いや、由衣子は違った。
あいつは幼い頃から、とってもお利口さんで言うことをよく聞いていたし……。
こんなに、我が儘じゃなかった

……
由衣子は天使だった……。

ぶつぶつと自分に言い聞かすように何かを呟いている千秋。
のだめは口の周りが汚れるのもかまわずに、夢中でアイスクリームを食べている。
アイスクリームが溶けて垂れて服を汚すので、千秋は持っていたハンカチを首によだれかけのように巻いていた。

……やはりはたから見たら、異様な光景なんだろうな……。

そんな千秋の苦悩もつゆ知らず、のだめは千秋を見てにっこりと笑った。

「シンイチくん、ありがとうっ!!。とってもおいしいよっ!!」
「……それは、どうも……」
「一口あげようか?」

そう言ってでろでろに溶けかけたアイスクリームを差し出した。

「……い、いや、俺は甘いものがあまり好きじゃないから」
「ふうん……こんなにおいしいのにね」

そう言いながら、のだめはもう一度アイスクリームを食べようとして……突然動きが止まった。
不思議に思った千秋が見ていたら、のだめはお腹を押さえて泣きそうな顔をして、千秋を見上げた。

「………う○こしたい……」
「………は?」

千秋は自分の耳を疑った。ま、まさか……

「……お腹痛くなっちゃった……う○こ……」
「わーーーーーーーっっっ!!、頼むからそれ以上言うなっっっ!!」

千秋は両耳を塞いだ。
頼む、頼むから止めてくれ!!。
どんな理由があろうとも愛しい恋人の口からそんな単語聞きたくもないっっ!!。

トイレ……トイレはどこだ……。

きょろきょろと辺りを見回す千秋にのだめが言った。

「あそこの木の陰でしてきてもいい?」
「それだけは絶対に駄目だーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ!!」

千秋は必死でトイレを探す。
すると遠くの方に、それらしい建物が見えた。

「のだめ!!トイレだっ!!走れっっ!!」
「え〜〜〜だってお腹痛いよ〜〜」

愚図るのだめの手を引っ張るようにして、千秋とのだめはどうやらトイレの前にたどり着いた。
女性用のマークがついた入り口にのだめを連れていく。

「……ほら、トイレだ。行ってこい」

だが。
のだめはそれでももじもじしたまま動こうとしない。

ま……まさか……。

「お前……もしかして……一人でトイレに行けないんじゃないだろうな……」

おそるおそる聞く千秋にのだめは答えた。

「ううん、ちゃんとお家のトイレでは一人で出来るよ」

ほっと胸を撫で下ろす千秋だったが、次ののだめの言葉で硬直した。

「……だけど、よそのトイレだったら怖くて一人で入れないの……」
「……へ?」
「シンイチくん、ついてきて」

じっと千秋を頼るように見る子犬のような眼差しに、千秋は体中から血の気がさあっとひいていくのを感じた。

「………だ、駄目、それは駄目っっ!!。それは、絶対に無理だからっっ!!」
「だって〜なんだか、怖いよ〜」
「だ、だ、だ、大丈夫!お化けとかそんなの出ないからっ!!頼むから……お願いだから一人で行ってくれっっ!!」
「ふえええん……早くしないともれちゃうよ〜〜」


千秋真一25歳。

人生最大の危機に直面していた。









「た〜だ〜い〜ま〜っっ!!」

わたしはドアが開けられるといきおいよく部屋の中に飛び込んだ。
その部屋にはいろいろなものが散らかっていて、あちこちにゴミが山積みになってたりして、まるでわたしの家みたいで嬉しくなった。
とっても懐かしい感じがする。
何故かげっそりと疲れているシンイチくんが後から入ってきてため息をついた。

「また……これかよ。いったいいつから掃除してないんだよっ!!お前は!!」

そう言ってわたしに向かって言う。
わたしがきょとんとして見返すと、シンイチくんは、はっとしたようになった。

「いや……その……お前のこと……じゃないんだ」

そう言って上着を脱いで腕をまくる。

「ちょっと、掃除するから御飯少し待っててくれ」

わたしは不思議に思って部屋をぐるりと見渡す。

「え?どうして?掃除しなくても全然きれいだよ?」
「汚ねえよっ!!……とにかく、このままじゃ寝るスペースもないから……そこにあるDVDとかでも見て……」

でぃぶぃでぃ?
なんのことかわからなかったけど、シンイチくんはテレビのところにある機械にCDみたいなものをいれていた。
……すると。

ジャジャジャジャジャーン!!

プリごろ太だ!!。

それも……なんだか見たことがない奴!!。

「シンイチくん、シンイチくん、プリごろ太だよ!!すごいね、これシンイチくんの?」
「いや……俺のじゃない」

それからはもうわたしはテレビをずっとずっと見ていて。
知らない話がたくさんあって。
なんだかプリリンとごろ太の顔も少し違うけど、そんなのどうでも良かった。
ただ、ただ、ずっとテレビに夢中になって見ていた。
だから、、シンイチくんが何度か呼ぶのも少しもわからなかった。

プチッ。

いきなりテレビを消される。

「もおっっ!!」

と怒って後ろを振り向くと、いつの間にか部屋がピカピカになっていた。
すっご〜い……なんだか魔法使いみたいだなあ、シンイチくん。

「……テレビは1日2時間まで」
「やだやだ!!。もっと見たい!!」
「それよりも、お腹空いただろう。……御飯作ったけど食べるか?」

そういえば。
気づかなかったけどとてもお腹が空いていた。
台所の方からは、なんだかとてもいい匂いがしてくる。

「うん!!」

にこおって笑って、わたしはテーブルに向かって走り出した。








シンイチくんの御飯はとてもおいしかった。
「×○★☆@&%#」っていう名前の料理なんだって。
なんだか魔法の呪文みたいな料理みたい。

お腹がいっぱいになったら……なんだか眠くなってきた。
なんだか……今日は……疲れたみたい。

わたしがテーブルでうとうとしていると、シンイチくんが言った。

「……風呂に入れ。ほら、着替えここに出しといたから」

といってパジャマとかを出してくれた。
なんだか大人の人が着るみたいなパジャマで、きっとわたしにはぶかぶかだろうけど、それしかないんだろうな。
……でも、ちょっと待って。

「今日、何曜日?」
「……は?」
「だから、今日は何曜日なの?」
「……金曜日だけど」

なーんだ。

「じゃあ、お風呂に入らなくていい日だよ!!。わたしの家ではお風呂に入るのは水曜日だけって決まってるんだ!!」

にっこり笑ってそう言うと、シンイチくんの体がぷるぷる震えだした。
どこか具合でも悪いのかなあと思ってそうっと顔を見ようとした瞬間。

「風呂は毎日入れっっっっ!!」

いきなり怒鳴りつけられた。

「え、でも、でも、わたしのおうちでは水曜日しかお風呂に入らないよ」
「ここはお前の家じゃねえっ!!入れって言ったら入れ!!」
「は〜い」

わたしはしぶしぶ頷いた。
シンイチくんは格好いいけど……なんだか怒りんぼさんみたい。
そんなんじゃお友達できないよ?。

わたしはパジャマを持ってお風呂に行きかけて…振り向いて言った。

「シンイチくん、一緒に入ろ?」

その途端にシンイチくんが急にざざざっと後ろに後ずさった。
顔がひんまがったような変な顔になってる。

「な、な、な、な、な、なんでーーーーーーっっ!!」
「わたし、一人で髪の毛と体、洗えないの。だからいっつもヨーコとタツオと入ってるから……一人で入れないの」
「いや、でも、その、あの、」
「いいから、一緒に入ろう!!」

わたしはシンイチくんの手をぐいぐい引っ張った。








……変なことになってしまった。

千秋は服をだらしなく脱ぎ散らかしたままバスに飛び込むのだめを見ながら呆然としていた。
あいつは今の自分をどう思ってるのだろう。
5歳なのに、自分の姿が大人であることになんの疑問も抱かないのだろうか。
それとも……催眠術にかかると、そういうことも不思議に思わなくなるのかもしれない。
テレビの催眠術番組を思い出した。
数字の5という字は知っているのに、どうしてもその言葉が出てこないとか、そういう感じなのだろうか。

「シンイチくーん、早くおいでよ!!」

無邪気に自分を呼ぶのだめの声。

こないだ……一緒に風呂に入ったのはいつの時だっけ?。
あの時は俺が酔っぱらってて……いい感じになって……そのまま……。

千秋はそこまで思考を巡らせて……はっと気づいてそれを頭から追い出すかのように激しく首を振った。

いかんいかん……。
外見はどうであれ、あいつの中身は今は5歳の幼女だ。
ここで手を出したら、ものすごくとんでもないことになりそうな気がする……。

5歳、5歳。
由衣子を小さい頃、風呂に入れていた時と同じだ。

千秋はふーーーっと深く深呼吸をすると、潔く服を脱いで湯船につかった。
少しお湯の温度が高かったのだろうか。
のだめの肌はうっすらと桃色に染まっていて、とても色っぽく……釘付けになりそうな視線を外そうと必死になる千秋。

平常心、平常心。

「シンイチくーん!!お風呂って楽しいね!!」

のだめが千秋の首にかじりついてきた。
ふわっとした柔らかい胸が押しつけられるのがわかる。

修行、修行。

「い、いいから、もう十分あったまったみたいだから……髪と体、洗え!!」
「え〜もう〜?」
「とっとと風呂から出るぞ!!」
「は〜い」

のだめはしぶしぶながらもおとなしく風呂から出た。
白くすらりとした肢体が目に焼き付き、千秋の心臓の動悸が早くなる。

人間辛抱だ……。

千秋は理性を総動員させて、気持ちを落ち着かせようとする。
手にシャンプーをつけてのだめの柔らかい髪を洗う。
なんだか初めてのだめの髪を洗った時のことを思い出す。
あの時は、全然、女とかそんなんじゃなくて、ペットを洗ってる感覚だったよな。

うん。

そうだ。

ペットと思えばいいんだ。
ちょっと大きくて話ができる可愛いペット。
そう思うことにしよう。

自分の気持ちを置き換えながら、スポンジにボディシャンプーをつけようとすると……。

「あ、それ、嫌い」
「………へ?」
「なんだか、洗ったあとで体がひりひりするの」
「いや……これはそんなに痛くないと思うぞ」
「ヨーコは、いっつも手に石鹸つけて洗ってくれるよ。シンイチくんもそうして」

……… ……… ………

「えーーーーーーーーーーーーーっっっ!!」

千秋は思わず叫ぶ。

「いや、それは、まずいってっ!!」
「まずいって何?」
「………その………」
「ねえ〜早く洗ってよ。だんだん寒くなってきたよ」

……しかたがない。

これはペットだ。

だから、別に手で洗ってもおかしくはないんだ。
何も余計なこと考えることはないんだ。

うん。

千秋は手にボディシャンプーをつけると丁寧に泡立てた。
そしてのだめの背中を優しく撫でるようにあらう。
しっとりときめが細かいつるりとした肌。
何度味わっただろうその手のひらに吸い付いてくるような感覚が、千秋の心に波風を立てる。

ペット、ペット。

こいつは可愛いペットなんだ。

腕……脇……太股……お腹……そして……。

千秋は後ろから、のだめのふっくらとした豊満な胸を包み込んだ。
その柔らかさに思わず息が止まる。
石鹸の泡とともに包み込む丸いそれは、指の動きに合わせてぷるんと揺れる。
柔らかいが弾力のあるその感触が千秋の何かを刺激する。
思わずその頂上にある桜色の突起を指で引っ掻いてみる。

「あっ」

のだめが声を上げた。
その甘い声に、自分自身でびっくりしているみたいだ。

「……くすぐったいよ、シンイチくん!」

文句を言うのだめのその声で千秋は我に返った。

俺は……今、いったい何をしようと……。

あまりの馬鹿さに、自分で自分の頭をたたき割りたくなった。
そして高鳴る動悸を抑えながら、シャワーでお湯を出しのだめの体についている泡を落とした。

「……ほら、終わったぞ」

のだめはぶるんと体を震わせると後ろを振り返ってにっこり笑った。

「ありがとう!シンイチくん……あれ?」

のだめは不思議そうに下を眺めている。
その視線の先には……。

「あ……いや、その……」
「すごい!!」

のだめは興奮して大きな声を出した。

「シンイチくんのって、タツオよりキサブローよりよっくんよりすっごくおっきいんだね!!。ちょっと触ってもいい?」
「な……」

千秋が制止するよりも早く、のだめはそれに触れるとぎゅっと握りつぶした。

「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!」

……夜のアパルトマンに千秋の悲鳴が走った。







「シンイチくん、大丈夫?ごめんね」

わたしは心配そうな声でそう言った。
シンイチくんはさっきから股の間を押さえていて、とても痛そうだった。
わたしが強く握っちゃったからかなあ。

「………もう、いいから、(もうどうでも)いいから……寝るぞ」

今日一日で、なんだかげっそりと痩せたみたいに見えるシンイチくんはわたしをベッドに寝かせると、上から毛布をかけて……そして部屋を出て行こうとする。

「待ってよ!!」
「まさか……お前……もしかして……」
「わたし、一人で眠れない」
「……やっぱり」

シンイチくんは何故かがっくりとうなだれた。

「シンイチくんも一緒に寝よ?」

そうしてわたしは毛布をはぐると、隣の場所をポンポンと叩いた。
シンイチくんは、また妙な顔になって、あーだのうーだの言っていたけど、しばらくして諦めたようにのだめの隣にするっと入ってきてくれた。
嬉しくなって腕に絡みつく。
なんだかとっても懐かしい匂いがする。
タツオでも、ヨーコでも、キサブローでもない、この匂い。
……でもどこかで嗅いだことのある懐かしい匂いがする……。

「電気、消すぞ」

シンイチくんは電気を消した。

「………」
「………」
「………」
「………」
「……ねえ、シンイチくん」
「……なんだ?」
「なんだか眠れない……」
「大丈夫、じっとしとけば眠れるから」
「でも、どうしても眠れないの。なんだか眠くないの」
「目を瞑って……ほら」

シンイチくんの手のひらがわたしの目を包み込む。
あったかい指。

「……何か、お歌うたって!」
「……へ?」
「ヨーコはいっつも歌を歌ってくれたり、本を読んでくれたりするよ」
「……って言われても……」
「お願い!!」
「……わかった……」

そういうとシンイチくんはしばらく黙って何かを考えていて……そして静かな声で歌い始めた。
それはとてもよく知っている歌だったけど、シンイチくんの声で歌うとそれはなんだかとっても素敵で特別な歌のように感じられた。

ベッドがとっても柔らかくて気持ちがよくて。
シンイチくんの腕の中がとっても温かくて。
シンイチくんの歌声が耳の中にそっと響いてきて。

……いつしかわたしは眠りに陥っていた。







……どうやら眠ったみたいだな。

千秋はすうすうというのだめの寝息を確認すると、そっと腕枕を外した。
そうしてのだめの寝顔を見る。
すやすやと……邪気のない、可愛らしい寝顔。

千秋はそっとのだめの額の髪をかき上げた。

ふふっとのだめが笑う。
何か夢でも見ているのだろうか。

こんな状態がいつまで続くのだろうか。
明日、のだめの両親が来たら、事態は好転するのだろうか。
先のことを考えてもしょうがないとわかっていても、どうしようもない不安はつきなくて。

……でも、この愛しい寝顔をずっと見続けていたいような気もする。
世の中の母親達は、いつもこのように我が子の愛しい寝顔を眺めて幸せな気持ちになっているのだろうか。

だけど……。

それにしても……。

「生殺し……」

千秋はそう呟くとがっくりとうなだれた。










〜〜〜♪

どこからかピアノの音がする。
流れるように静かで滑らかで……とても綺麗な曲。
……誰が弾いてるのかな……。

わたしはがばっと目が覚めた。

そうだ。

ここはシンイチくんの部屋だった。
わたしは昨日シンイチくんのお家にお泊まりしたんだった。

だけど、隣で寝ていた筈のシンイチくんの姿はなくて。

そのかわりに隣の部屋から歌うようなピアノが聞こえてくる。
わたしはその音に吸い寄せられるようにして、ドアを開けた。

そこには大きなピアノがあって……先生のおうちにあるみたいな。
そのピアノを弾いているのはシンイチくん。
わたしはその音に耳をすまして目を閉じた。
こうすると頭の中にはピアノの曲しか入ってこない。
シンイチくんのピアノは、わたしの中に自然にすうっと入ってきて、まるで溶け込んでいくみたいだった。
こんな演奏を聴いたのは初めてだった。

演奏が終わる。

わたしは思わず拍手をしていた。

「すごい!!シンイチくん、ピアノ上手なんだね!!」

シンイチくんは振り向いて照れくさそうに笑った。
なんだか目の下にクマがある。
……昨日、わたしの寝相が悪くてよく眠れなかったのかな?。

「なんだ……起こしたか?。ごめんな」
「ううん!!とっても今のピアノ素敵だった!!。もう一回弾いてよ」
「別に……いいけど……」

シンイチくんはしばらく考えてこう言った。

「お前……弾いてみないか?」
「え……」

わたしは突然言われた言葉に心臓がどっくんと鳴った。
そのまま心臓はどっくんどっくんと激しく鳴り続ける。
息が苦しい。

「……や」
「え?」
「……いやだ。……ピアノ嫌い!!。大っ嫌い!!」

わたしがそう叫ぶとシンイチくんはびっくりしたような顔をしていた。
じわっと目に涙がにじんでくる。

「わたし、ピアノ大嫌いだよ!!」
「のだめ……」

シンイチくんは立ち上がるとゆっくりとわたしに近づいてきた。
わたしは泣きながら叫ぶ。

「どうして、ピアノをちゃんと言うとおりに弾かなきゃいけないの?
 どうして、楽譜どおりに弾かなきゃいけないの?
 どうして、もっと上を目指さなければいけないの?
 どうして、外国に行かなきゃいけないの?」

シンイチくんがどんどん近づいてくる。

わたしはただ楽しくピアノを弾きたいだけなのに。


「わたしは……ピアノなんて……大っ嫌い……」


わたしの目から大きな涙の粒がぽたぽた、垂れて、床に落ちる。
5歳になって泣くのは恥ずかしいのに。
こんなことで泣くなんて、シンイチくん呆れてわたしのこと嫌いになっちゃうかもしれないのに。
どうしても涙と泣き声を止めることができなかった。
わたしは鼻水をたらしながらただずっと泣き続けていた。


……その時。


ポン。

わたしの頭の上にあったかい手のひらがのせられる。
見上げると、シンイチくんがとても優しい目でわたしを見ていた。

そうしてゆっくりとわたしの頭を撫でる。

「……いいよ、弾かなくても」
「え?」

わたしはびっくりしてシンイチくんの顔を見た。

「……誰かの言うとおりになんて弾かなくてもいい。
 楽譜どおりに弾かなくてもいい。 
 ……上なんて目指さなくてもいい」
「シンイチくん……?」
「無理して弾かなくてもいいんだよ、のだめ」

なんでだろう。
シンイチくんの言葉がすうっと胸の中に入ってくる。
胸の奥がほわあって温かくなるような気がする。

シンイチくんの声でのだめ……って呼ばれると……とても嬉しい。

「……お前は、本当は……ピアノがとっても好きなんだ。
 その気持ちは……ちゃんとあるんだよ。ここに」

そう言ってシンイチくんはわたしの胸をトンッと叩いた。

「ピアノが好きだ……っていう気持ちは、どこにも行ってない……ちゃんとここに残ってるよ。
 ……胸の中の一番心の奥……ずっと底の方に。
 その気持ちは、これから先どんどん大きくなって……どんどん膨らんでいって……いつか外に溢れ出すだろう」
「………」 
「だから、その時に思いっきり弾けばいいんだよ」
「………」
「お前が好きなように、楽しいように、歌うように」
「………」
「……それでいい。……それで間違っていない……」
「シンイチくん………」
「だから……その時がくるまで、この気持ちは大事にここにしまって置こう」

そう言うとシンイチくんはにこっと笑った。

「な?」

わたしはただシンイチくんの顔をじっと見ていた。

今までそんなことをわたしに言ってくれる人は誰もいなかった。
上を目指せ!もっと努力しろ!!と叱り殴る先生はいても、こんな風にわたしに優しく言ってくれる人は誰もいなかった。

だから……。

だから……。

わたしはもっともっと泣きたくなってしまった。
悲しいのとは違う……もっと別な気持ち。
それをどう表現したらいいかわからなくて……わたしはシンイチくんにこう言った。

「あのね……」
「ん」
「わたし、本当はピアノ好きなんだよ」
「……ん」

シンイチくんはわたしが一番好きな笑顔になった。

「……うまいってみんなから誉められた曲があるんだ……。シンイチくんだけに特別に聞かせてあげるね」

そう言うとわたしはピアノの前に座った。
久し振りに座るその感触。
椅子の高さをシンイチくんが調整してくれた。
そして。
すうっと息を吸い込むと両手を上に上げた……。








CHOPIN  Etudes Op.10-4

『練習曲(エチュード)作品10第4番』は、フレデリック・ショパンによる『12の練習曲』の第4番目の曲。
 両手とも大変急速で、音階の細かい移動とオクターブを超える分散和音の動きが交互に現れ、ショパンの全練習曲中でも屈指の難曲となっている。
 超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニスト フランツ・リストですら『練習曲 作品10』を初見で弾きこなせなかったという。

のだめはこの難解な曲をいかにも子供が弾くような稚拙なタッチでありながらも見事に弾きこなしていた。

……この曲を5歳の子が弾いたとしたら……それは周囲は驚き、期待に胸を膨らませるだろう。
なんとしてでも海外へ連れて行き、それ相応の教育をさせ、世界有数のピアニストにしたいと心から思うだろう。
……のだめの先生であった人物の思いはよくわかる。

だけれども。

それではいけなかったのだ。

この気まぐれな音楽の天使は、自分の道しか歩いていけない。
自分が決めた、自分だけが切り開いていく道しか、進んでいけないのだ。

そのことが……今の千秋にはよくわかっていた。

……あせることはないんだよ、のだめ。

俺がどうしても海外へ行けなかったみたいに苦しい時代もあるだろう。
どうしても思うようにうまく行かなくて涙を流すこともあるだろう。

それでも、その「時」は必ず来る。

必ず来るんだよ。


だから………。

それまで………。


「………?」

突然、ピアノの旋律が変わった。

タッチが子供のお遊びから成熟したピアニストのそれに変わる。
各指が完全に独立し、しっかりと確実に音を捕らえて逃さない。
鬼気迫る燃えるような魂のエチュード……。

のだめはいつのまにか口を尖らせていた。
いつものように……。

そして、この無窮動的な曲を完璧に最後の一音まで弾きこなした。

旋律の余韻が部屋に吸い込まれるように途切れると、途端に静けさが訪れる。

「ふーっ」

突然、のだめが息を吐いた。
とてもすっきりとした表情をしている。

「久し振りに弾きましたネ、この曲。やっぱり指は覚えてるもんデスね〜」

そう言うと振り返り……後ろに立っていた千秋と視線が合う。

「ムキャッ!!先輩、いつの間に来ていたんデスか?」
「のだめ……お前……」

千秋は呆然としたようにゆっくりとのだめに歩み寄る。

「……先輩?」
「お前……のだめなのか……?」
「……何、変なこと言ってるんデスか?のだめはのだめデスけど……ムキャッ」

きょとんとした表情のままののだめを、千秋はその腕の中に閉じこめた。

「先輩……?」
「………」

そのまま肩に顔を押しつけて離れない。

「……先輩……」
「………」
「……もしかして……」
「………」
「……泣いてるんですか?」
「………」

千秋はそれに答えなかった。
のだめもそれ以上は何も言わなかった。
千秋は、そのままのだめを強く抱きしめてしばらくの間……ずっとずっと……そのぬくもりを感じていた。









「いや〜、びっくりしたとよ。必死こいてこっちに駆けつけて来たら、恵はもう元に戻っとるもんね」
「でも、よかったば〜い。無事に戻って」

その日に飛行機を乗り継いで駆けつけた辰男と洋子はほっと胸を撫で下ろしていました。
……なんだかとっても皆に心配をかけちゃったみたいデスね。

「はう〜のだめにそんな大変なことがあったんデスか」

あれから先輩に、昨日からのことを教えてもらったのだめはびっくりしました。

「……覚えてないのか?」

眉をしかめて問いかける先輩のために、のだめは一生懸命、一生懸命、思いだそうと頑張ってみたんデスよ。
……でも

「……全然、覚えていまセン……」
「………」

先輩ががっくりと肩を落としているのがわかりマス。

「俺が……俺が昨日一日、どんなに苦労をしたと思ってるんだ……」
「はうう……そんなこと言われても……」

だって、本当に覚えていないんデスよ。
気が付いたらショパンのエチュードを弾いていて、そしていつの間にか先輩がそばにいて……。
それにしても。

「でも、5歳に戻っていたなんて変な感じデス〜」
「恵が5歳の頃ね……」

洋子と辰男は昔を思い出してとても懐かしんでいるみたいデス。

「人見知りは全然しなくって、誰にでもひょいひょい着いていくような子だったばい」
「お菓子を買ってやるとか言われたらいちころだったとよ」
「その代わりお気に入りのものを買ってやらないって言ったら、スーパーで寝っ転がって泣いて泣いて泣き叫んで」
「あ〜りゃ、まいったとよね〜」
「……のだめ、そんなに我が儘じゃなかったデスよ……」
「………」

先輩は何か言いたそうに口を動かしたけど、それは言葉になりませんでした。
……何を言いたかったんでしょう?。

「トイレとかも一人でなかなかいけんかったとよね〜」
「それも、ぎりぎりまで我慢すっから、いっつもトイレに間に合わなくてその辺の木の陰でしたり」
「ムキャー!!そんなこと先輩の前で言わないでくだサイ!!」
「………」

先輩が天井を仰いでいるのが見えマス。
天井に埃でも溜まってるんデスかね。
ああ、そういえばいつの間にかのだめの部屋が綺麗になってマス。
先輩が掃除してくれたのかな?

「お風呂も嫌がって嫌がって、そりゃ大変だったばい」
「そりゃあ、お前があまりそういうこと気にしなかったからじゃとよ」
「そんな…私のせいじゃなかとよ。もう、いやいや言ってしょうがないから、お風呂は一週間にいっぺんだけにしたりして」
「そ、……そんなことないデスよ。だって今は毎日お風呂に入ってマスから……ね、先輩」
「………」

先輩は、何も言わずに、ため息をつきました。
……先輩!!。
そこは同意してくれるところですヨ!!。

「眠る時もいつまでもはしゃいでなかなか寝らん子だったばいね〜」
「毎日、毎日、歌を歌わされて、本を読まされて……」
「……でも、寝顔は天使のように可愛かったばい」
「………」
「………」

のだめはちらっと先輩の方を見マス。
今度はどんな表情をしているのかなって。
……あれ……?
先輩が……なんだか……ちょっと微笑んでるように見えマス。
……のだめの気のせいデスかね?
それよりも……辰男と洋子、許せまセン!!

「ムキャーッ!!。あんまり変な話ばっかり言わないでくだサイ!!」
「なーに、本当のことばい」
「子供なら誰でも当たり前とよ」

にこにこ笑いながら、辰男と洋子は言いました。

「さて、せっかくフランスまで来たからには観光でもせんともったいなかよね」
「そうそう、千秋くん、すまんけんど、観光案内頼むばい〜」

……なんだか心配して駆けつけたっていう割には、辰男と洋子はなんだか観光気分ですネ。
しっかり「パリ・ガイドブック」とか持っているし。

「え……」

急に話をふられて先輩はうろたえてるみたいデス。
あれ?でも、先輩……もうすぐ定期公演があるんじゃなかったっけ……

「いや……その……僕には仕事が……」
「たまにはよかばってん!!将来の息子になる間がらじゃけんな!!」

ぽんっと肩を叩く辰男とそばでうんうん頷く洋子。
……さすがのだめの両親ですネ!!
よくわかってマス!!
のだめは、はうん……と先輩に寄り添いました。

「いっそのこと、このまま教会で結婚式でもあげマスか?」
「するかーーっっ!!」

先輩はいつものように怒鳴るとはあ…っとため息をつきながらソファーに腰をかけました。

「いかん……このままでは、この親子のペースに巻き込まれてしまう……」

先輩は、何か一人でぶつぶつ呟いています。
とっても疲れきった表情でソファーに沈み込む先輩。
よっぽど……疲れたのでしょうか。
覚えていないとはいえ……のだめ、先輩にとても迷惑をかけたような気がしマス……。

「先輩……」

のだめは先輩の顔を覗き込みました。
そしておそるおそる言いマス。

「………」
「もしかして……のだめ……先輩に何か迷惑をかけちゃいましたか?」
「………」

先輩は何も言いませんでした。
沈黙が辺りを漂いマス。

……ってことは……。

……かなり、なことをしたんでしょうね……。

きっと、きっとすごく迷惑をかけただろうし……呆れて嫌われちゃいますかネ……。
思わずしゅんとなって、のだめは俯いてしまいました。
その時。

ポンッと頭に柔らかい感触がしました。

……あれ?。

……この感じは……どこかで……感じたことがあるような……。

とても……とても……心が安らぐような……。

そんな懐かしい感じ……。

先輩はのだめの頭に手を伸ばすと、髪の毛をくしゃっとかき回しました。

「……別に」
「でも……」
「別に、何もなかったよ」

先輩は……とっても優しい目でのだめを見ます。
温かくて……優しくて……とても懐かしい眼差し……。

まるで……まるで……お母さんのような。




……そんなことを言ったら、また叱られますかネ?。









終わり。