ドアを開けると、外は驚くほど深い夜の色だった。
星 すらも隠す冷えた闇に、ふたつの白い息がくっきりと浮かぶ。
 
 
「 空が真っ暗だ・・・のだめ、足元気をつけてね 」
 
「 む、リュカ、のだめは大人の女デスよ?そんなコドモみたいにつまず いたりするわけ ― ぎゃぼっ!! 」
 
「 ・・・もう、どこが大人の女なのさ 」
 
 
 
 
 
 
 
 
花と女神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「 ほわー今夜は冷えマスね〜。リュカ、寒くないデスか? 」
 
「 え、うん、寒くない・・・というか 」
 
 
 
むしろあたたかい気さえ、する。
となりを歩くのだめの肩が、さっきから触れそうなほど近くにあるから。
 

午後もうすぐ9時半のパリの街。
お とぎの国のような街並みがいつもより輝いて見えるのも、きっと、間違いなく、のだめがとなりにいるからだ。
夜の道を並んで歩くボクと のだめ。まるで恋人同士のように。
 
 
 
「 今日は来てくれてありがとう。おじいちゃんも喜んでたよ 」
 
「 のだめも楽しかったデス! 」
 
 
 
仄かな街灯の下、にっこりと笑うのだめ。
送ってい くと言った時、ママが眉をひそめたことに気付かないふりをしてよかったな、とこっそり思う。
それにこの笑顔のおかげで、今日のおじい ちゃんの誕生日パーティーは夢のように楽しかった。
 
一緒にピアノを弾いて歌って、みんなで競争するみたいにシャポンを食べ て。
でも日本の伝統芸能だというドジョウスクイ、あれは本当にお祝い事のダンスなのかな・・・
しかもタコの口が ポイントって、どんな意味があるんだろう。あ、両方とも身体や足が長いってこと?(長寿祈願?)
 

うきうきする心の片隅で一瞬首をかしげていると、 のだめがふいに立ち止まった。そして
 
 
 
「 ほわ・・・降ってきましたよ! 」
 
 
 
見上げると、暗い空にちらちらと舞う白い粒。
ボク の頬にもいくつかが落ち、ひやりとつめたく溶けていく。
 
 

「 どうりで冷える筈だね・・・ 」
 
「 でも、きれいデス・・・ 」
 
 

その声に誘われるように、花びらのような白雪がの だめの髪に落ちた。
ボクはそれに気付いて手を伸ばしかけ、そのまま固まる。
そしてまたひとつぶ、彼女の睫毛に。
 

パーティーでの子供のような表情とはまったく違 う、大人びた横顔。
見つめずにはいられないような、けれど決して触れられないような、儚く淡い彼女。
・・・これ が、さっきまでテヌグイを被ってタコ口ダンスをしていたのだめ?まるで知らない女性のような、このうつくしいひとが?
 

思わず息を呑み、歩道の真ん中で立ち尽くしてい た、その時
 
 
 
「 ―- のだめ? 」
 
 
 
彼女を呼ぶ低い声。
瞬時に浮かんだ嫌な予感と共に そろそろと振り向くと
 

「 ほえ・・・?あ!むきゃーせんぱい!どしたん デスかー? 」
 

途端、またいつもの幼い表情で道端のルノーに駆け 寄っていくのだめ。
運転席を覗き込む彼女の背中越しに、ふたりの会話が洩れ聞こえてくる。
 
 

−  リハの帰り。お前がアホみたいにぼーっと 突っ立てるのが偶然見えたから 
 
−  ぼへ?なんデスかアホみたいってー! 
  
−   そのまんまの意味だろ。とにかく、こんなところで突っ立てたら風邪引くぞ。送ってやるからさっさと乗れ 
    
−   ふお、ほんとデスか?やったー! 
 
 
 
心底嬉しそうに跳ねるのだめの陰に、一瞬頬をゆるめた黒髪の男が見え た。
それから男はその頬をひきしめ、ボクの方をちらりと見ると
 
 
 
「 ・・・お前も、家まで乗っていくか? 」
 
「 え・・・ 」
 
 
 
気付けば風は少し強まり、雪も勢いを増しつつある。けれど ―
 
 
 
「 ・・・いいよ、大丈夫 」
 
「 ほえ?エンリョしなくていいですよーリュカ。先輩、フランス生まれ のくせに運転は慎重派デスし 」
 
「 だから生まれは関係ねーだろ! 」
 
 
ぎゃあぎゃあ言い合うふたり。その声を聞きなが ら、さっきまであたたかかった体と心が冷えていくのがわかる。
・・・ああ、さっきまでとなりにあったぬくもりが、今はもう遠いから だ。
 
 
 
「 ・・・本当に大丈夫だよ。まだ小降りだし、走ればすぐだから 」
 

そデスか?と心配顔をするのだめに笑顔を作り
 

「 うん。それじゃあ、また明日ね 」
 
「 ハイ・・・リュカ、風邪ひかないでくだサイねー 」
 

手を振って、助手席側に回るのだめ。
そ の少しの間に、男は再びボクを見やり
 
 
 
「 ・・・気をつけて 」
 
「 ・・・そっちこそ 」
 
 
 
男は軽く目を見開き、一瞬の間のあと窓を閉ざす。
そ れからとなりに乗り込んだのだめの雪を、しかめっ面で乱暴に払った。
さっきボクが触れられなかった髪に、からだに、やすやすと手を回 して。
 
そしてもう一度、窓越しに合う目と目。
 
 
 

エンジン音が角に消えるのを見送って、ぐるりと回 れ右をした。
目の前の暗い帰り道に、何故だか唐突に決意する。
 
―  明日の朝は、のだめを迎えに行こう。
たとえ あいつが一緒だとしても、そんなことなど気付きもしないよう、無邪気さを装って。
 

吹き抜ける風に耳たぶがちりりと疼く。
頭 上には、相変わらず黙々と花を降らせる空。
 

(  ・・・このまま、  )
 

このまま見えなくなるくらい、目も眩むほどに舞え ばいい。すべて覆い隠すほど
 

(  このままボクの気持ちも埋もれてしまえば楽 なのだろうか  )
 

そんな声を、ボクに気付かせないほどに。
気 付かないふりくらい、わからないふりくらいさせてほしい
それくらいは赦してほしいんだ
 
ボクをまだ子供だと言うのなら。
 
 
 

ほろ苦い手札を胸に、挑むように雪道を歩き出す。 大きく吐き出すひとり分の白い息。
明日はきっと、ボクが彼女をさらう番。