響く




新 しいオケが本格的に始動した。

曲は黒木くんがソリストとなる、モーツァルトオーボエ協奏曲。

… そして、ブラームス交響曲第一番。
千秋がSオケでやりかけて、シュトレーゼマンに取り上げられた因縁の曲だ。

後、 小品一曲が確定してないが、近日中に決まるだろう。

長野音楽祭で集まった若き才能溢れるメンバーが集う。
そ のことだけでも興奮は高まる一方なのに、実際に指揮を振ってみて
その高い技術とカンの良さに、千秋は舌を巻く。


ー このオーケストラはいいー。


「バイオリン、転調をもっとしっかりと、ヴィブラートきかせ て!」

千秋の細かい指示にも打てば響くように答えてくれる。
悪いが、Sオケには無かった反 応だ。
ー最高だ。

気分良く指揮棒を振っていた千秋だが、…なんだか下腹に鋭い痛みを覚え た。
昨日から発熱と腹痛が続いていた。
だが、この軌道に乗り始めたオケの練習を休むわけにはいかない…そう思っ て、
我慢して振り続けていたが…だんだん痛みがひどくなる。
ガタンッ。
ついに膝をついた。 お腹を抱え込む。

「キャー!!千秋様ーっ!!」

真澄の声が練習室内に 響いた。




「先輩!」

の だめが病院の個室のドアをガラッと開けて慌ただしく入ってくる。
…騒がしいことこの上ない。
結局、あれから千秋 は救急車で病院に運ばれ、急性盲腸炎として緊急手術を受けた。
無事に手術が終わり、一週間の入院を言い渡されたところだ。

「の だめ、全然知らなくて、真澄ちゃんから連絡もらってびっくりしちゃって…
先輩、大丈夫デスか…先輩が死んじゃったら…のだめ…のだ め」

わーっとベッドの脇に覆い被さり派手に泣き伏すのだめに、千秋は消え入りそうな声で言う。

「… うるさい…傷に響くから…喋るな…」

麻酔がまだ効いているせいだろうか、千秋は意識朦朧としている。

「… 勝手に…人を…殺すんじゃねえ…」
「先輩…やっぱりいつもの迫力がありまセン」

またしても じわっと目を潤ませるのだめの肩に、ポンっと手が置かれた。

「まあまあ、のだめさん落ち着いて」

の だめが後ろを振り返ると、三善竹彦、俊彦、由衣子の3人が立っていた。
最初から部屋にはいたようなのだが、どうもパニック状態になっ ていたのだめの眼中には入って無かったようだ。

「私達も先刻着いたばかりなんだよ。なんといってもこの辺で唯一 の身内だからね。
母親の征子はちょうどはずせない仕事があってこちらには来れないが」
「ー真兄。征子ママからの 伝言」

俊彦が千秋の傍らに近づくとぼそっと言う。

「『ー大丈夫。盲腸 なんかで人間死にはしないわよ。私はそっちに行けないけど、きばりなさいね!』…以上」
「先輩のお母さん、イカしてますよネ」
「…」

何 か言いたげに顔を歪める千秋は、もう言葉も出ない。

「そこで、のだめさんお願いがあるんが」
「ハ イ?」

突然、竹彦から切り出されてのだめは振り向く。

「実は…私は仕 事ですぐこのまま戻らなければならないんだよ。俊彦も講習があるし。
こちらには他に知り合いがいないから、真一が動けない間、のだめ さんに身の回りのことをお願いしたいのだが…」
「ふぉぉぉ!!もちろんデス。それは妻として当然のことデス!」

キ ラキラと目を輝かせるのだめに、千秋はぞっと恐怖を覚える。

「…やめてください…竹おじさん…こいつを増長させ るようなことを言うのは…。
身の回りのことくらい、自分でなんとか出来ますよ…ここは完全看護だし」
「先輩、遠 慮なんて水くさいですよ!」
「遠慮じゃねえ…本気で嫌なんだ!」
「大丈夫!真兄ちゃま!由衣子、学校が明日から 連休だからこっちに泊まって毎日看病に来るわ!」

千秋の手をぎゅうっと握り心配そうに自分を見る由衣子に、千秋 は弱々しい笑顔を見せる。

「…由衣子…気持ちは嬉しいが…」
「大丈夫!真兄ちゃまが治るま で、のだめちゃん家に泊まらせてもらうから!」
「へ?」

思いがけない言葉に驚く千秋に、竹 彦がぽりぽりと頭をかきながら言う。

「いや〜由衣子は来る途中からそんなことを言って聞かないんだよ」
「ね、 ね、いいでしょう、のだめちゃん」

服に縋り付く由衣子にのだめは笑顔を見せる。

「ハ イ、もちろんいいですヨ」
「ー反対だ!」

千秋は意識が朦朧とする中、力を振り絞って声を荒 げる。

「あんな、雑菌が繁殖しているような部屋に由衣子を泊まらせられるか!」
「大丈夫で すヨ〜。だってのだめは生活してるんだし」
「お前と違って由衣子はデリケートなんだ!…それにまたガスが止められてるんじゃなかった か…」
「ぎゃぽ…そうでしタ。」
「のだめさんっていったい…」

三善家 の人々が青ざめて思わずひく。

「困ったな…由衣子一人をホテルに泊まらせる訳にも行かないし…」
「あ、 そうだ」

のだめが思いついたかのように言う。

「のだめと由衣子ちゃん が、千秋先輩の部屋に泊まればいいんですヨ〜」
「……は?」
「先輩の部屋なら綺麗だし、お風呂入れるし」
「… おい…そんなことを勝手に…」
「きゃーっt!賛成!!真兄ちゃまの部屋行ってみたかったんだ!」

即 座に却下しようとした千秋の声は、由衣子の黄色い声でかき消される。

「じゃあ、決まりですネ」
「そ うしてもらえると助かるな」
「真兄…お気の毒に…」

手術後で身体も動かすことも出来ない千 秋に、為す術はなかった。





そ れから一度、のだめは着替えなどを取りに帰り、面会時間ぎりぎりまで病院に居座った後、
千秋の文句を言いたげな目を完全に無視して二 人は千秋の部屋にやって来た。

「わあ…ここが真兄ちゃまの部屋なの」

由 衣子が目を輝かせながら、シンプルにモノトーンで統一された千秋の部屋を見渡す。
のだめが得意そうにフンっと鼻を鳴らす。

「ど うデスか?広くて綺麗に片づいているでしょ」
「…のだめちゃんの部屋じゃないくせに」
「…」

夕 食は竹彦達と済ませて来たので、後はもう風呂に入って寝るだけだ。

「お風呂、一緒に入りましょうか?」
「わー い!」

「のだめちゃん、胸おおきいね〜」

由衣子は熱い湯船につかって ゆだりそうになりながら、スポンジでゴシゴシ体を洗っているのだめを見て言う。

「いいなあ…男の人って、胸が大 きい人が好きなんでしょう。真兄ちゃまもそうなのかなあ…」
「そ、そ、そ、そ、それはどうだか知りませんが…」

の だめは思わず顔を赤らめる。

「由衣子の胸、こんなにちっちゃいし…のだめちゃんみたいに大きくなれるかなあ」
「絶 対、なれますヨ。のだめは小さい時から牛乳が大好きでたくさんたくさん飲んでたんデス」
「牛乳…う…苦手」
「鼻 つまんで飲んだら大丈夫デス」

のだめはザバーッと体の泡をお湯で洗い落とすと、湯船にするっと入る。
の だめの部屋よりもずっと大きい浴槽には二人で入ってもそんなに狭苦しさは感じない。
熱いお湯が疲れた体を解きほぐしてくれる。

「前 はこんな風にママと一緒に入ってたんだけどな…」
「…」
「ママ…どうして出て行っちゃったんだろう…。のだめ ちゃんは息抜きにちょっと出てるだけだって言うけど、
どうして由衣子も連れて行ってくれなかったのかな…。
ー由 衣子のこと…邪魔だったのかな…」

風呂の湯気のせいだけではなく、由衣子の声は濡れてくぐもってくる。
の だめはゆっくりと言う。

「ーそんなことないデスよ。…きっと由衣子ちゃんを連れて行ったらおじさんが可哀想と 思ったんじゃないデスか」
「…」
「おじさんは由衣子ちゃんにぞっこんLOVEですからネ。由衣子ちゃんのママは おじさんのことがとても大好きだから、
寂しい思いをさせたくなかったんですヨ」
「…そうかな…」
「ハ イ」

のだめはにっこり笑う。

「それに、ほんの少しの家出だけなら別に 連れて行く必要もありませんからネ。」
…きっとすぐに帰ってくるつもりなんですヨ」
「…」
「由 衣子ちゃん、頭洗ってあげましょうか?」
「うん!!」

由衣子は元気よく頷くと湯船から飛び 出した。




次の日、のだめと由衣子は早くから千秋 の病室を訪れた。

「あー先輩、思ってたよりも元気そうですね」
「…昨日の夜は麻酔が切れて 痛くて眠れなかったんだ。お前らどうしてこんなに早く来るんだ…」

千秋は憔悴しきった顔でいかにも不機嫌そうに 言った。
由衣子は心配そうな表情で言う。

「真兄ちゃま…。大丈夫?」
「大 丈夫だよ、由衣子。お前こそ大丈夫だったか?のだめにケガとかさせられてないか?」
「ムキャッ!失礼ですネ!」

の だめは唇を尖らせる。

「のだめと由衣子ちゃんは、昨日仲良くお風呂にも入ったし、枕並べて一緒に寝たんですヨ」
「ねー!」

口 を揃えてにっこり笑い合うのだめと由衣子に、思わず千秋の顔もほころぶ。
ーふと思いついたように千秋が言った。

「そ ういえば…オーケストラの方はどうなっているんだ。ー急に俺が倒れたから皆が混乱しているんじゃないか?」
「あー、それは大丈夫デ ス」

のだめは千秋を安心させようと笑いかけた。

「峰くんが皆に千秋先 輩はノロウィルスに感染して重症だと説明していマス。
非常に症状が激しくて病院に運ばれるなり、部屋中にゲロをまき散らし、
下 痢もひどくて一人で歩いてトイレに行けないのでオムツを着用しているということになってマス。
空気感染の恐れもあるから皆、くれぐれ も近寄らないようにとお達しが出ていマス」
「…」
「…真兄ちゃまが……オムツ…」

千 秋は無言で傍らにいたのだめの首を締め上げた。
ぎりぎりぎりと音がしてのだめは悲鳴を上げる。

「ー せ、先輩…。そんなに力を入れたら傷口開いちゃいますヨ!」
「うるさいっ!!お前ら絶対に息の根を止めてやる!」
「そ んなに怒らないでくださいヨ〜。峰くんとのだめの苦肉の策なんですヨ。そうでもしないと見舞客がひっきりなしで
先輩が休めないだろう からって…」
「問答無用だ!!今すぐ撤回しろっっ!!」

人間が誰かに対して殺意を覚える瞬 間は、このような時かもしれないと千秋は思った。




「あー、 本当に殺されるかと思いましタ…」

首をさすりながら、のだめは言う。
そうそうに病室を追い 出された二人は、磨き上げられた病院の廊下をとぼとぼと歩いていた。
かなり大きな総合病院なので、ひっきりなしに人が行き交う。
薬 品を乗せたワゴンを押しながら忙しそうに歩く看護婦もいれば、点滴をつけたままで歩いている寝間着姿の患者もいる。

「… いや…でも、真兄ちゃま…可哀想…」
「でも、千秋先輩もてますからネ〜。
病院に入院したなんて聞いたら、女の子 達が全員お花を抱えて駆けつけてきますヨ。
これはのだめの害虫予防策なんです!(対千秋)」
「…のだめちゃんっ て…結構ひどい…?」

そんなことを話しながら歩いていると、のだめはふと向こうの方からやって来る見知った顔を 見つけた。
あちらの方でも気づいたらしく、軽く手を挙げる。

「…谷岡先生?」



「知 らなかったなあ〜。千秋くんにこんな可愛い姪っ子さんがいたなんて」

谷岡の奢ってあげるよとの言葉に釣られて、 のだめと由衣子は病院内のカフェに来ていた。
何にしようかとメニューとにらめっこしていた由衣子は、可愛いと言う谷岡の言葉に恥ずか しそうに笑う。

「それにしても、千秋くんは大丈夫なのかい?かなり状態がひどいって聞いたけど…」
「あー… その話、もう谷岡先生の所まで広がってるんですか…」

さすがののだめも千秋に悪いと思った…。
ちょ うど注文を取るウェイトレスがやって来たので、コーヒーを二つとプリンアラモードを頼む。

「そういえば、谷岡先 生は誰かのお見舞いですか?」
「いや、僕はね、今日は院内学級の授業の日なんだ」
「院内学級?」

い つものようにふんわりと微笑む谷岡に、のだめは聞き返す。

「そう。この病院は小児科医療に力をいれていてね。そ の一環として院内学級というのがあるんだ。
長期入院を強いられていて学校に行けない子供達が勉強する為のものなんだ」
「… へー…」
「僕はピアノが専門だけど、子供達がいろいろな音楽を体験する手助けをしてみないかって言われてね。
週 一回くらいしか来れないんだけど、もう一年はやってるかな。
ただ楽器を扱うだけじゃ面白くないからね。ちょっと合奏みたいにして何曲 か皆で演奏出来るようにしようと思ってるんだ」
「そうなんですか…」

そういったボランティ アのようなことをするのがとても谷岡らしい…とのだめは思った。
一見彼は、ひょうひょうとしていて何を考えているのかはわからない が、とても素朴で誠実な人柄であることをのだめは
長年のつき合いで知っている。

「良かった ら後で見学していくかい?由衣子ちゃんと同じくらいの子も何人かいるよ」
「ハイ!ぜひ!!」



着 いた所は、病棟の中でも端のほうにある小ホールのような部屋だった。
ただ防音設備は床や天井に完璧にしているようで、中央には本物の ピアノが置いてあった。

「ちょっとしたミニコンサートくらいなら出来るかな」

微 笑む谷岡の姿を見つけた子供達が、ぱあっと笑顔になる。
付き添っていた看護婦や、幾人かのお母さん達が頭を下げた。

「先 生!こんにちは!」
「今日は何の曲やるの?」

それぞれ頭にスカーフをかぶってたり点滴をつ けていたり、足に治療用の器具を固定している子もいる。
でも皆、はじけるような笑顔を見せ、そこには病院の入院患者特有の暗さはみじ んも感じられなかった。

「やあ、こんにちは。今日はお客さんを連れてきたよ」

そ う言って谷岡はのだめ達を指す。

「以前僕が大学でピアノを教えていた学生さんで、野田恵さん。今は担当が替わっ たけどね。
そしてその友達の三善由衣子ちゃん」
「こ、こんにちは」
「よろしくお願いしマ ス!」

嬉しそうににこにこしているのだめと少し緊張している由衣子に、子供達はわあっと群がってくる。

「こ んにちは!」
「谷岡先生の生徒さんなの?」
「ハイ、そうですヨ」
「わーっ!じゃあ、ピアノ 上手?」
「大得意デス」
「後で、弾いてみせて!」

その時由衣子は、自 分達が中心となった輪からポツンと一人離れた所に座って何か本を読んでいる少年の姿を見つけた。
由衣子と同じくらいの歳だろうか、車 椅子に乗っている。
黒髪に端正な顔立ちは、どことなく千秋真一を思わせる。
その時、谷岡がその少年に声をかけ た。

「ヒビキくん、始めるよ」

少年が顔を上げた拍子に由衣子と目が合 う。

それが橘響希との出会いだった。






続 く