「谷岡先生…こいつら何しに来たの?」

響 希は不機嫌そうにのだめ達を見ながら、谷岡に問いかける。

「偶然、知人のお見舞いに来ていたところに遭遇し ちゃってね。見てもらおうと思って連れて来ちゃった」
「連れて来ちゃった…って、別に俺たち見せ物じゃないし」
「ご めん、ごめん」

はははっと屈託無く笑う谷岡に、響希ははあっとため息をついて見せる。

「ま あまあ」
「いいじゃん、響希くん」
「お客様が来てくれるとすごく嬉しいよ!」

周 りの子供達は口々にそう言って響希を宥める。
どうやらこの少年はこのクラスの中でも中心的な存在らしい。

「い いじゃないデスか。のだめ達邪魔しませんから、どうか演奏見せてくださいヨ」
「やだよ、ブス」

明 るく話しかけるのだめにそう言い放ち、響希はべーっと舌を出す。
のだめの肩がぷるぷると震える。
異様な気配を察 して、由衣子が響希に叫んだ。

「ヒィィィッ!殺されるわよ!逃げて!」
「えっ…」

意 外な言葉にとまどう響希の首根っこをのだめはグワッっと掴んだ。

「…大人をなめたこと言ってるんじゃないです ヨ…その舌を奧から引っこ抜いて便器の中に突っ込んで
流してやろうかコラ」
「く…苦しい…」

ぎ りぎりと締め付けられて響希が呻く。
由衣子は鬼の形相になったのだめに縋り付いて、必死になだめる。

「の、 のだめちゃん、子供相手なんだから…そんなにムキにならないで…。相手は病人なんだし…」

のだめは掴んでいた手 を離す。
急に自由になった響希は、ゲホゲホと喉を押さえる。

「由衣子ちゃんに免じて許して あげマス!」
「ーなんでこんな暴力的な女、連れてきたんだよ!先生!」
「いやあ〜、なんでだろうね〜」

の だめを指さして訴えかける響希に、谷岡は相変わらずほわわんとして口調で答える。

「響希くん、由衣子ちゃんは ね、僕がよく話をしていた千秋真一くんの姪っ子さんなんだよ」
「えっ…」

途端に響希の表情 が変わる。

「…あの、クラシックライフの『夢☆クラ』に出てた千秋真一…?」

由 衣子の両肩をぐわしっと掴む。

「ー本当かよ!お前!!」
「ええ…」

強 いまなざしで見つめられて、思わず由衣子の頬が赤くなる。

「会わせろよ!」
「え…別にいい けど…真兄ちゃま昨日手術したばっかりだし…」
「ーん?。千秋くん、手術したの?」
「あー先生、その話は話すと 長くなるのデスが…」
「まあ、だったらその話は後にして、練習始めようか。皆待ってるし」

他 の生徒やお母さん達は、一連の出来事をただあっけに見ているだけだった。





「響 希くんはね、このクラスの合奏の指揮者なんだよ。将来の夢も世界的な指揮者になることなんだ」

谷岡の説明にのだ めはへ〜と感心した声を出す。
響希は車椅子を回して、こちらに背を向け楽譜をチェックしていた。

「ま るで千秋先輩みたいですネ」

生徒達が楽器を取り出して用意する様を、のだめ達は手持ちぶたさで眺める。
ヴァ イオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスなどかなり本格的だ。

「子供の合奏だからリコーダーとかピアニカだと 思ってましタ」
「この子達には体力がないから本当はキーボードとかを勧められたんだけど、
どうしても本物の楽器 に触れさせてあげたくってね。まあ、ー体力的にも長い曲の演奏なんかは無理だけど。
病院側もそういう設備の投資には協力的だし、なに よりお母さんたちが中古なんかを頑張って集めてくれたんだよ。
僕も専門外だし本格的なことは教えてあげられないから、ヴァイオリン科 の先生にたまに来てもらったりしてるんだ」
「先生!用意できました!」

生徒の一人が大きな 声で谷岡を呼ぶ。

「よし…始めるか。ーあれ、真由ちゃんと倫太郎くんは?」
「すみません、 先生。二人とも急に体調が悪くなってしまって…」

看護師が申し訳なさそうに谷岡に言う。

「ピ アノとヴァイオリンの担当の子なんだよ。よくこういうことがあるんだ。
そうだ、野田くんピアノやってくれない?」
「へ?」
「君、 幼稚園の先生志望だし、きっと向いてると思うよ」
「ふぉ…なんだか楽しそうデス!」

のだめ はすぐに了解する。

「えっと…じゃあヴァイオリンは僕がやろうかな」
「あの…」

ヴァ イオリンに手をかけた谷岡に、由衣子がおずおずと手を挙げる。

「…良かったら…私、やります」
「え?」
「ヴァ イオリンは…小さいときから習ってるし。…あまりうまくないかもしれないけど」
「ありがとう、助かるよ」

谷 岡は笑顔になる。

「じゃあ、野田くんはピアノに座って…曲はこれをお願いするね。由衣子ちゃん、ヴァイオリン 持って、そこの場所
にいてもらっていいかな。始めるよ〜」



皆 が一斉に楽器を構える。
響希は、車椅子に乗ったまま指揮棒をかまえる。
最初はピアノ伴奏からだ。
響 希がのだめを見て、のだめがこくんとうなずく。
ゆっくりと響希が振る指揮棒の動きに合わせて、ピアノの前奏が始まる。
す ぐに弦楽が加わる。
入院生活で練習時間も限られている筈なのに、メンバーの演奏の高度さにのだめはびっくりする。
ー さすが、谷岡先生ですネ〜。
決して、体調が万全ではない子供達をここまで導いてくるには、かなり大変だっただろう。
の だめがそう感心しながらピアノを弾いていると…。

「おい、ピアノ!」

響 希が指揮棒でのだめをぴっと指す。

「お前、デタラメじゃないか!ちゃんと楽譜みてんのか!?」
「は… はうぅ〜。初見は苦手なんですヨ…」
「子供合奏のピアノ伴奏ごときで、初見とか言ってんじゃねえ!!お前本当に音大生か?」
「す、 すみまセン」

思わず謝るのだめを無視して、今度は由衣子をぎっと睨み付ける。
びくっとなる 由衣子。

「お前もだ!ーなんでお前だけそんなに音はずれてるんだ!」
「え、え、…」
「ヴァ イオリン習ってるんだろう?もうちょっと、しゃきっと弾けよ!」
「え…でも、私も初めての曲だし…どう弾いたら良いのか…」
「あ あ、もう、ちょっと貸せ!」

響希はまだるっこしくなったのか、由衣子のヴァイオリンをばっと取り上げると肩にあ てる。
流れるような旋律。
のだめと由衣子は思わずその流暢な音色に聞き惚れる。

「ー わかったろ、こんな風に弾けばいいんだよ」

呆然としたままののだめと由衣子とは対照的に、皆慣れているのか当た り前のようにもくもくと楽譜にチェックを入れたりしている。

「ほら!もう一回いくぞ!ピアノとヴァイオリン、 ちゃんとついて来いよ!」
「ふぉぉぉ…ミニ千秋先輩?」




「そ れで、その子すごかったんですヨ〜千秋先輩」

次の日、千秋の病室に行った二人は興奮して事の顛末を語り始めた。

「指 示も的確で、『ここは周りの音を聞いてフレーズを合わせて!』とか、言ってることが先輩そっくりでしタ」
「なんだか見た目も真兄ちゃ まに似てるよね〜。…格好よくて」

由衣子はポッと顔を赤らめる。
しかし、のだめはどうやら 不満そうだ。

「え〜。そうデスか?あんなくそガキ。先輩の方が100万倍も格好いいですヨ!」
「… 誰が…くそガキだって?」

後ろから聞こえてくるどんよりと怒りを含んだ声に、のだめと由衣子はそ〜っと振り向 く。
ーそこにはいつのまにか車椅子に乗ったままの響希が頬をひくひくさせながらいた。

「ヒィィィ、 響希くん…いたんデスか」
「いたんですか、じゃねえよ。このブス!ー今日はお前らに用事があってきたんじゃねえよ。
… 千秋真一に会いたくて来たんだ」

そう言って、響希は千秋に向き直った。ぺこりと頭を下げる。

「初 めまして…橘響希です…。クラシックライフ見ました」
「どうも…」

…クラシックライフっ て…あれか…。
千秋は思わず顔が引きつる。
あの…恥ずかしいピンナップに加えて…佐久間の悶絶するような文章が 添えられている奴…。

「クラッシックライフは…毎月買っているんだけど…あの時の『夢☆クラ』は特に衝撃的で…
谷 岡先生にも頼んで、Sオケの演奏会やシュトレーゼマンとの共演のビデオも見せてもらって…」
「…」
「なんだか… すごく感動しちゃって…プロでもなく学生なのに、日本でこんな才能ある人がいたんだって
思って…」
「…はあ」

な んだか千秋としてはくすぐったいばかりである。
響希はすうっと息を吸い込むと、覚悟を決めたかのように千秋に向かって頭を下げる。

「お 願いです!!俺をあなたの弟子にして下さい!」
「……はあ?」
「俺、将来はセバスチャーノ・ヴィエラのような世 界的な指揮者になりたいんです!」

真剣な少年のまなざしを受け、千秋は最初はぽかんと口を開けていたが思わず苦 笑がこぼれた。
ー昔、これと同じ事を言っていた奴がいたな…。
目をキラキラと輝かせながら、追い出されても追い 出されてもオーケストラに潜り込んでいた少年。
あの時のヴィエラ先生も、こんな風にとまどっていたのだろうか。
千 秋は、少年を傷つけないように言い含めながら言う。

「弟子って言われても…俺自身がまだ勉強中の身だから…」
「そ れでもいいです!師匠って呼ばせて下さい!!」
「師匠って…おい…」
「ふぉ!師匠って、格好いいですネ!」

響 希は途中で口出しをしたのだめの方を見て、ギロリと睨み付けると言った。

「ー師匠、この女、いったい師匠のなん ですか?うっとおしい…」
「いや、だから師匠って言うのは…」
「のだめは、先輩の妻デス!」
「… 妻じゃねえ…」

胸をはっていつもの台詞をフンッと答えるのだめに、千秋ははあっとため息をつく。

「ー 妻?」

響希は怪訝そうな表情になる。

「うそだっ!!師匠の趣味がお前 みたいながさつでブスな女の筈がない!!」
「ムキャーッ!なんですって!このくそガキッ!!」
「くそガキ言う なっ!」
「二人とも、やめてやめて!!」

掴みかかる二人を止めようと、必死でのだめの腰に しがみつく由衣子。
どうやら精神年齢はあまり変わらないらしい。
ついに千秋の雷が落ちる。

「ー 二人とも、いいかげんにしろ!!」
「…ハイ」

肩をすくめてシュンとおとなしくなる二人。
ー 面倒くさい奴が二人に増えた…。
千秋はまたしても、深いため息をついた。





「千 秋先輩、もう歩いても大丈夫なんデスか?」

4人は病院の廊下を歩いていた。
あのまま病室に いても喧嘩ばかりで騒がしいだけだったので、千秋が響希達の音楽室を見たいと言い出したのだ。
のだめが、点滴をつけたままゆっくりと 歩いてる千秋を気遣う。

「なんだかどんどん歩けって言われたぞ。その方がかえって傷口にいいらしい」
「結 構、ハードなことさせますネ」

由衣子は、遠慮しがちに響希に話しかけていた。

「響 希くんって…ヴァイオリン上手だよね」
「…うん、まあ、3歳の時から入院するまでずっとやってたからな。ーてゆうかお前が下手なん じゃない?」
「…」

がーんと傷つく由衣子。
千秋は、由衣子に無礼な口 をきく少年に何か言ってやろうと身を乗り出すが、まあまあとのだめに止められる。

「…良かったら、ヴァイオリ ン…教えて欲しいんだけど」
「お前、ヴァイオリン習ってなかったっけ」
「…でも、響希くんの教え方ってわかりや すいっていうか耳にすとんって入ってくる感じで…。
私の家遠いけど、土日とかには来るから(真兄ちゃまの家に泊まって←決定)空いた 時間でいいから…」
「まあ、別にいいけど」
「由衣子…ヴァイオリンなら俺が教えてやるのに…」

と 千秋がショックを隠しきれないように言う。
のだめは、そんな千秋の肩をポンポンと軽く叩いてやった。

「由 衣子ちゃんもお年頃なんですヨ」



「師匠!ここです」

響 希が嬉しそうに音楽室の扉を開く。

「勝手に入っていいのか?」
「一応、付き添いがあればい つでも入っていいことになってます。ー皆、体調のいい時間がバラバラなので、好きな
時間にやって来て勝手に練習してます」
「へ え…結構いい設備だな」

千秋がぐるりと室内を見回す。
中央のピアノの蓋を開けて、鍵盤を一 つ押す。

「ーうん、音もいい」

響希が急に思いついたようにぱあっと笑 顔になる。

「ーそうだ!師匠、あれ弾いて下さい!ラフマニノフピアノ協奏曲第2番!生で聞きてーっ!!」
「わ あ、由衣子も聞きたい!」
「お前ら…俺がこんな状態だってこと知ってるか?」

千秋は点滴が ついたままの腕を軽く上げる。
とたんにがっくりとくる二人。

「…そうですよね」
「ラ フマニノフなら、のだめも弾けますヨ」

のだめの言葉に響希がえーっと疑わしげに彼女を見やる。

「ー お前なんかに、ラフマニノフが出来るわけねーじゃん!あれ、結構難しい曲だぜ!」

むっとしてのだめが言う。

「ム キャッ。嘘じゃないですヨ!」
「そうよ、響希くん。のだめちゃんピアノ上手なんだから」
「何言ってんだよ。お 前、この間の合奏のときピアノ伴奏さんざんだったじゃないか」
「はぅ〜、それは…」
「一人で暴走しやがって…皆 が合わせられないっつうの!」

また喧嘩に発展しそうな雰囲気を察して千秋が言う。

「ー のだめ、ちょっと弾いてみろ」
「へ?」

響希が納得出来てないような顔で千秋を見る。

「師 匠…こんな奴にピアノを弾かせても…」
「ーいいから、一度のだめの演奏を聴いてみろ」

のだ めは、いいデスか〜と言いながら、ピアノの前の椅子に座る。
鍵盤を見つめて…表情が変わる。
ピアノを目の前にし た時のこの切り替えの早さはのだめの長所だと千秋は思う。

バーン。
最初のピアニッシモを フォルテッシモで弾く出だしはこの間と変わっていない。

「ちょっ…」
響希が文句を言いたげ に千秋の方を見る。
千秋はそんな響希に、最後まで黙って聞けと目で合図を送る。

響希がとま どうのも無理はない。
のだめが弾いてるのはラフマニノフであってラフマニノフではない。
楽譜にはない音を増やし て自分のいいように作曲しているし、しかもそのテンポの速さは普通耳にしている
曲とは違う。かなり早い。

の だめの口は尖り、完全に自分の世界に行ってるのがわかる。

飛ぶし、跳ねるし、相変わらずめちゃくちゃだ。

し かしその音の洪水に飲まれそうになりながら、響希は惹きつけられるようにのだめから目を離せないでいる。
…やばいな…。
千 秋は内心思う。
ーもし、響希が自分と同じ感性を持った人間であれば、のだめのこの『音』に惹かれずにはいられないだろう。
そ してそこからは簡単に逃れることはできないのだ。

今回は千秋が弾く伴奏部分は無かったが、のだめのピアノはその 存在のみで異様な迫力を醸し出していた。
その力強さ、うねる波、溢れる技巧。
響希は握りしめている掌にじっとり 汗をかいていることも気づかずにいた。

のだめは最後まで弾き終わると、ふーっと息をついた。
ー 違う世界に旅をしていた者が、やっと現実の世界に戻ってきたみたいに。
それから呆然としている響希の方を見て、

「ど うでしたか?」

とふわりと笑った。
響希は、その笑顔を受けて…ぼっと赤くなり…顔を背け る。

「…別に…いいんじゃない…」

……悪い予感が当たった、と千秋は ため息をついた。






続 く