>響 く3



由衣子は先ほどから不機嫌そうに歩い ている。
いろいろと、のだめが話しかけても返事もしない。
のだめは千秋にボソッと囁く。

「… 由衣子ちゃん…いったいどうしたんデスか?。さっきからずっとこんな調子なんデスが」
「…なんで由衣子でもわかるようなことを、お前 が気づかないんだよ…」

千秋はため息をつく。
響希はあれからぼーっとしたようになって、検 診の時間だからと自分の病室に帰って行った。
その視線はずっとのだめに向けられたままだった。

「そ ういえば、もうすぐ響希くん達のミニコンサートがあるらしいですネ」
「ふーん、谷岡先生も頑張っているな」
「見 に行きましょうヨ」
「ー俺は、そんなに暇じゃねえ…」
「でも、響希くん、明日からもまた先輩の病室に来るって 言ってましたヨ。入院生活もまだ5日間
あることですし。先輩の初めての弟子なんですから大事にしないと!」
「俺 は、弟子にするなんて一言も言ってねえっっ!!」




そ れから毎日、響希は千秋の病室に顔を出すようになった。
ひょこっとやって来ては千秋のスコアを覗き込んでいろいろと質問をする。

「こ こは、どうしてこうなるんですか?」
「…そこは旋律の繋ぎ目だから…弱く弾いて雰囲気を残したいんだ」

千 秋も邪魔になるとかなんとか、ぶつぶつ文句を言いながらも、結構相手をしてやっていた。

「師匠、新しいオーケス トラってどうですか?」
「…だから、その師匠っていうのやめてくれないか…」
「現在の若手が集まってて、すごい 注目のオーケストラなんでしょう。曲は何をやるんですか?」
「モーツァルトオーボエ協奏曲とブラームス交響曲第一番は決まってるけ ど、…後一曲がまだ考え中」
「じゃあ、あれやりましょう!」

だん!と響希は目の前の台を叩 く。

「マーラーの千人の交響曲!!格好いいですよ〜!」
「…お前もあいつらと同じ人種なの か…って何でお前が決めてんだよ」
「う〜俺も見に行きて〜」
「…外出とか出来るのか」

千 秋の言葉に、うーんとしばし腕を組んで考える。

「…よくわからないです。…その時の体調次第かな」
「じゃ あ、もし来れるようならチケット取っててやるよ」
「本当ですか!!」

響希の目がぱあっと輝 く。
千秋の手を取ってぶんぶんと振り回す。

「約束ですよ!絶対ですよ!」
「あ あ…」
「響希くん、来てたんデスか!」

のだめと由衣子がドアを開けて入ってくる。
響 希が急に頬を染めて、顔を背ける。

「…なんだよ。お前ら来たのか。由衣子…とドブス」
「ム キャ!なんか呼び方ひどくなってますヨ!相変わらず生意気な小僧デスね!」
「なんだと!」

喧 嘩になりそうな二人を、由衣子が止める。

「あ、あの…喉乾いちゃったから、お茶買いに行きたいんだけど…響希く ん場所教えてくれる?」
「ああ、いいよ」
「そしたら、のだめがこれ押してあげマス」

そ う言ってのだめは響希の車椅子の背を押す。

「いいって!自分で行けるから」
「まあまあ、い いじゃないデスか。遠慮しないで」






結 局、由衣子とのだめと響希の3人で購買に買い物に行くことになった。
のだめは車椅子を押して病院の廊下を歩きながら考え込む。

「… せっかくですからネ…。由衣子ちゃんここに乗ってください」
「は?」

言われるままに、由衣 子は車椅子の後部下についている横棒に乗って立つ。

「…いいデスか?−いっきますよ〜!」

そ のままのだめは全力で走り出した。

「ジェットコースター〜!!」
「きゃああああああ 〜!!」

由衣子が悲鳴を上げる。
響希はうおおっと喜んで声を出した。
の だめはすいすいと目の前から来る通行人を避けるようにして走り抜けた。
周りの景色がすごい勢いで遠ざかっていく。
す れ違う人々がみんな目を丸くして、この暴走車椅子を見つめる。

「行けーっ!!のだめ、突撃だーっ!!」

響 希が右手を高く天に突き出す。
のだめがくすりっと笑った。

「…響希くん…初めてのだめって 呼んでくれましたネ」
「いやあああーっ!やめてーっ!!」
「こら!あなた達!!何をやっているの!」

婦 長クラスの眼鏡をかけたナースが目を丸くして怒鳴りつける。

「やべ!あいつ特別うるさいんだ!のだめ、振り切る ぞ!!」
「了解デス!」
「ぶつかるーっっ!!」」



「ー 何をやってるんだ!お前ら!!」

結局、病院内を一周したところで捕獲され、千秋の所に首根っこ押さえられて連れ てこられ、
さんざん絞られる3人の姿がそこにあった。

「ー特に、のだめ!お前、いったい何 歳だ!」
「はぅぅ…すみません…」
「だいたいお前は社会人としての常識が…」

ま だまだ続きそうなお説教に、響希が由衣子にこっそり囁いた。

「おい、由衣子、バイオリン見てやるぞ。音楽室一緒 に行くか?」

由衣子はこくりと頷いた。
そーっと部屋を出て行く二人。
が みがみと怒鳴る千秋の声が、病室の外まで聞こえてくる。
響希の車椅子を押して廊下を歩く由衣子。
すれ違う患者達 が響希ににやにやしながら声をかける。

「よっ、ひびちゃん!さっきの走り、すごかったね〜。婦長カンカンだった よ!」
「いーんだよ、それくらい」

笑いながら受け答えをする響希。
ず いぶん人気者のようだ。
入院生活が長いというのをちらっと聞いていたから、知り合いも多いのだろう。

由 衣子はそこで、ずっと気になっていたことを響希に聞くことにした。

「…響希くんって…のだめちゃんのこと好きな の?」

思い切ったように由衣子が切り出すと、響希は真っ赤になって目にわかるくらい動揺した。

「な、 な、な、何言い出すんだよ!お前、突然!!」
「…いや、見ててそうかな…って思って…」

耳 まで赤くなったまま、響希はポツリと呟く。

「…俺、こんななりだからさ…初めて会う人は誰でも一瞬…ひるむんだ よ。
どんなににこやかに挨拶してくれても、この子、可哀想…っていう気持ちが相手の目の表情に浮かんでてさ。
わ かるんだよ。だから…なんだか、それが好きじゃなくて」

ーだから由衣子達が初めて行った時、不機嫌だっただろ う。

「…でも、あいつは違ってて…最初から俺の首締め上げるし、俺の車椅子なんかジェットコースターくらいにし か
思ってないみたいだし…なんだか他の奴とは違うんだ…それに…あのピアノ」
「ピアノ?」
「ー あいつのピアノを聞いた時、体中の震えが止まらなかった。あんなの生まれて初めてだった」
「…」
「なあ…のだめ と師匠って本当につき合ってるのか?」
「へ?」

今度は由衣子がとまどう番だった。

「の だめは妻だとか言ってるけど、師匠は思いっきり否定してるし、本当のところはどうなの?」

由衣子は首をかしげて 考える。
ー難しい。

「どうなんだろう…。よくわからない…。のだめちゃんは真兄ちゃまのこ とがすごく好きみたいだけど
真兄ちゃまの方は…別になんとも思ってないみたいな気がする」
「そっか…師匠がライ バルか…」

響希はうーんと腕を組んで考え込む。

「なかなか強敵だ な…」

年の差なんかを全然考えていないところが、響希らしいといえば響希らしい。
まず、何 よりもあの千秋をライバル扱い出来るところがすごい…と由衣子は思った。

「あ…えっと…大丈夫よ、私、協力して あげるから!」

由衣子は思わずそう口に出していた。

「真兄ちゃまが退 院しても、のだめちゃんここに誘って何度でも連れてくるし…響希くんのこと応援してあげる!」
「ーへ?なんで?」

訳 がわからないと言ったような顔の響希に、由衣子はあせる。

「なんでって…え、えーと、そう!ヴァイオリン教えて くれるお礼!!」
「ああ、そうか。ーよし、張り切って教えてやるからな!覚悟してろよ、由衣子」

にっ こり笑う響希とはうらはらに由衣子は心の中で泣きたい気持ちでいっぱいだった。

ーはあ…私、なにやってるんだろ う…。



音楽室の前に着くと、立っていた女性が二人の方を見て、にこっ と笑った。
ふわっとした髪の毛を後ろで束ねていて、とても優しそうな表情をしていた。

「こ んにちは」
「…こ、こんにちは」
「由衣子初めてだっけ。俺の母さんだよ」
「あ…は、初めま して!」

由衣子は慌てて頭をぺこりと下げる。

「由衣子ちゃんね。話は 響希から聞いているわ」
「こちらこそ、いつもお世話になっていマス…」
「お世話してやってるよな〜。由衣子、と ろいしバイオリン下手くそだし」

にやりと笑う響希に由衣子はふくれる。

「も 〜!響希くんの馬鹿!」
「だって本当のことじゃん」
「う〜」

じゃれる 二人を見て、響希の母親はくすくす笑う。

「響希!来たの?由衣子ちゃんも一緒じゃない」

頭 に真っ赤なバンダナをかぶった女の子が、音楽室の隅から笑いながら手を振る。
やはり母親がそばについていて、コントラバスの練習をし ているようだ。

「おー、恵理。なんだ、頑張ってるじゃん」
「だって、今度のコンサート終 わったら私また治療に入ることになってるし、そうしたら
しばらくは楽器に触れなくなっちゃうなあ…と思うと、少しがんばらなくちゃ ね」
「…そっか。あまり根を詰めるなよ」
「由衣子ちゃんはどうしたの?ヴァイオリンのレッスン?」

恵 理は由衣子に向き直る。

「は、はい」
「気を付けてね〜。響希って音楽のことになると本当に 厳しいんだから!みーんな泣かされて来たんだから」
「…そんな人のことを鬼みたいに言うなよなー」
「ごめん、ご めん」

笑いながら恵理は自分の所へ戻って行った。

「ー恵理ちゃんっ て…治療始めたら楽器できないの?」

遠慮しがちに聞く由衣子に、響希はぶっきらぼうに答える。

「… あいつの病気って結構重いんだよ。だから何回にも分けて治療するんだ。一回の治療はすごく痛くて苦しくて…
体力がかなり失われるん だ。とてもじゃないけど、楽器なんか出来る状態じゃなくなる。
そして時間をかけてその体力が元に戻って元気になったら、また治療をす る。
その繰り返しなんだよ」
「…」
「ここにいる子はだいたい皆、似たようなもんだ…俺だっ てー」
「え?」
「ーいや、何でもない」
「…」
「お前なんかさー。健康 でピンピンしてて、練習時間いくらでもあるんだからさ、もっと練習しろよな」

響希は由衣子のおでこを人差し指で ピンっとはじく。

「…ハイ」






「ー まったく…、由衣子と響希はどこに行ったんだ!」
「先輩のお説教長いですからネ〜。こそっと逃げ出したんですヨ」
「誰 のせいだと思ってるんだっ!!」

千秋とのだめは、二人を探しに響希の病室へとやって来た。

「あ、 のだめちゃん〜」

院内学級で仲良くなった同室の子供が目ざとくのだめを見つける。

「こ んにちは!響希くん探してるんだけど、知りませんか?」
「ーそういえば、朝からずっといないね。でも、良く音楽室に行ってるからそっ ちじゃないかな?」
「わかりましタ!ありがとうございマス!」

その時、一人の男性が病室に 入って来た。
スーツを着込んで背が高くひょろっとした姿は…響希に似ている。

「…あの、す みません、橘響希はどこに行ってるんですか?」



「そうデスか。響希く んのお父さんデスか」
「はい。ー息子がいつもお世話になってます」

3人は歩きながら音楽室 に向かった。

「「あの…」」

千秋と響希の父親が同時に言いかける。

「あ… いや、お先に」
「いえいえ、そちらこそお先にどうぞ」

譲りあった後、千秋がためらいがちに 切り出す。

「あの…ヴァイオリン奏者の橘一樹さんじゃないですか?Mフィルの」
「あ、そう です。あなたは…もしかして千秋真一くん?クラシックライフに載っていた」

佐久間〜!こんなところにまで…。
千 秋はこぶしをぷるぷると握り締める。

「…そうです」
「ああ、そうですか。さっきからそう じゃないかなとは思ってたんですよ」
「…どうも」
「息子とはどういった関係なんですか?」

ー まさか師弟関係であるとは言えない。

「いえ…ちょっと」
「お恥ずかしながら、ずっと息子に 会ってなくて…。最近のことは良く知らないので」
「…」
「半年ぶりくらいになります」





「ー ほら、もっと弓を動かせ!」
「ふえ〜」

先ほどからずっと由衣子は響希からヴァイオリンを 習っていた。
…これが、また厳しい。
どうやら、完璧主義者でねちっこい所も千秋に似ているようだ。

「あ の…響希くん…少し休まない?」
「下手くそのくせに休んでる暇なんかあるかっボケッ!!」
「ご、ごめんなさ いっ!!」

慌てて弓を構え直した由衣子だが…なんだか目の前の響希が少しおかしい。
車椅子 にかがみ込んで額を押さえている。

「響希くん…あの…大丈夫」
「ー別になんともねえよ。馬 鹿を相手にしてたから疲れただけ」
「…でも、顔色すごく悪い…」

すっと後ろから今まで黙っ て練習を見ていた響希の母親が隣に立った。
響希にかがみ込んで話しかける。

「響希…もう疲 れたんでしょう。今日はこの辺でやめといたら…」
「…平気だよ。このくらい」
「無理は禁物って言われてるでしょ う。もう病室に戻らなきゃ」

ーその時。

音楽室のドアが開いて、のだめ 達が入ってきた。

「あなた…」

傍らの男性を見て、響希の母親が驚いた ように立ち上がる。

「…久しぶり」
「ごぶたさをしています」
「ーちょ うど時間が空いたから、響希の顔を見に来たんだけど…。病室に行ったらこっちだって教えてくれたから…」
「ーすいません、わざわ ざ…。響希、お父さん来てくれたわよ」

響希は俯いたまま返事をしない。

「ー どうした」
「…それが、さっきから体調が悪くなっちゃって、今病室に戻ろうとしてたところなの」
「そいつはいけ ないな、俺が連れて行ってやる」

そう言って車椅子にかけた一樹の手を、響希はバシッとすごい勢いで振り払う。

「触 るな!!」

由衣子はびっくりして声もでない。

「響希…せっかくお父さ ん会いに来てくれたのに…なんてことするの?」
「ー俺は、別に会いたくない。…帰れ」
「響希…」

一 樹の顔が青ざめた。
のだめも千秋も状況がわからず、かける言葉もみつからないまま立ちつくすのみだ。
室内には重 苦しい空気が漂う。

「…それじゃあ…また…来る」

寂しそうに言うと一 樹は皆に背を向け、コツコツと床に靴の音を響かせながら出て行った。
バン。
ドアの閉まる音が静まりかえった室内 に、やけに大きく響いた。



続く。