それから響希はしばらく来なかった。
父
親が来て思わず取り乱してしまったから、あの意地っ張りな少年は、恥ずかしくて来れないのだろうと
思いそっとしていたが、とうとう連
休が終わり、明日由衣子は横浜に帰ることになった。
「のだめちゃん…響希くん、来ないね…」
「う
〜ん、後でこちらから会いに行ってみましょうか」
千秋の病室に飾っていた花瓶の花の水代えを二人でしていると、
通りかかった女性がのだめ達に声をかけた。
「由衣子ちゃんと…のだめさん?」
「あ…響希く
んのお母さん…」
「橘加奈子と言います」
三人は待合室のテーブルで缶ジュースを飲むことに
なった。
「この間は見苦しい所をお見せして、失礼いたしました」
「ーイエ…、響希くん最近
来ないけど、どうかしたんデスか?」
「…実は、あの後高熱を出してしまって…集中治療室にしばらく入っていたんです」
「えっ…」
の
だめと由衣子が驚きで言葉をつまらせる。
「そ、それで今は大丈夫なんデスか?」
「あ、は
い、昨日から普通の病室に戻って、今は元気にしています」
「ー良かった〜」
由衣子はほっと
胸をなで下ろした。
「ありがとう。由衣子ちゃん。そんなに響希のこと心配してくれて…」
「ー
いいえ」
「…響希も小学校に入るまでは、とても健康で病気一つしたことのない活発な子供だったんですよ。
ヴァイ
オリンを弾くのとサッカーをするのがとても大好きで…。
それが…ある日突然、足が痛いって言い出して。
急に背が
伸びたから、成長痛かなあって最初は軽く考えていたんです。
あんまりにも続くものだから、大きな病院で検査を受けることになりまし
た。
検査の結果、お医者様からは聞いたこともないような病名を通告されました」
「…」
「そ
れから、二回の大きな手術を受けました。
時々は外出許可も出ますが、ほとんどをこの病院で過ごしています」
「…
そうだったんデスか…全然わかりませんでした…響希くん、いつも元気が良くて…」
のだめも言うべき言葉が見つか
らないでいた。
「自宅は遠かったので、私は車で毎日1時間かけてこの病院まで通っていました。
そ
の当時は仕事もしていたので、仕事が終わってから病院に直行していました。
自宅に帰り着くのはいつも夜中で…主人も私も体力的にも精
神的にもかなりまいってました。
主人が音楽と家庭の狭間で苦しんでいるのはわかっていました。
ーだから、私から
離婚を切り出したのです」
「…」
「ーまだ法的には夫婦のままですが、今は私は病院の近くにアパートを借りてここ
に通っています。
仕事も辞めました。
以前より響希といられる時間が増えて、私は喜んでいます。
ー
ただ、響希は私達が別居をしたことにとてもショックを受けたらしく…どうも原因は自分のせい
ではないかと思っているみたいで…」
「…」
「一
時期、薬や食事を全く受け付けなくなってしまって、点滴だけという日々が続きました。
誰とも、話をしなくなってしまって…。
そ
んな時、院内学級で谷岡先生の音楽の授業が始まったのです。
ヴァイオリンが好きで、オーケストラの指揮者になることを夢見ていた響希
は、音楽が演奏出来る
ということにとても喜びました。
それからは、ちゃんと食事も取るようになり、先生の言うこ
とも聞くようになって…
ー時々は羽目をはずしますけど」
くすりと加奈子は笑った。
「千
秋さんやのだめさん、由衣子ちゃんと知り合ったことがとても嬉しいらしくて、毎日のように
あなた達の話をしているんですよ。
ー
本当に、ありがとうございます」
「いえ、そんな、お礼を言われるようなことは何もしてないデス」
の
だめは慌てて首を振る。
「なんだか、喧嘩ばっかりしてて…本当に申し訳ないデス」
加
奈子はくすくすと笑う。
「あの子、のだめさんにかまってもらうのがすごく嬉しいみたい。
昔
からそうなんですよ。
口が悪くて、好きな人間にはすぐにちょっかい出すというか…。
…父親のことも、すごく大好
きな筈なんですけど…」
そしてため息をついた。
「師
匠!」
病室のベッドで総譜に目を通していた千秋は、呼ばれて顔を上げた。
見るといつの間に
入って来たのか、響希がにこにこしながら傍らにいた。
「ーなんだ、響希。ずいぶん久しぶりだな」
「う
ん、ちょっと忙しくてさ。ーのだめと由衣子は?」
「…さあ…そういえばさっきからいないな。まあ、すぐに戻って来るだろう」
「帰っ
て来るまでしばらくここにいてもいいですか?」
「ー別にいいけど」
響希は、千秋の傍らの台
に置かれているヨーグルトドリンクに気がつく。
病院の昼食についていたものだ。
「師匠、そ
れ飲まないんですか?俺にください!」
「いいぞ、俺飲まないから」
わーいっと言いながらス
トローを差し込み嬉しそうにごくごくとジュースを飲む響希の顔は、
本当にあどけなく子供らしくて、こないだの出来事は嘘だったのでは
ないかと思った。
「…師匠。俺の父さんって、ヴァイオリン弾いてるんですよ、Mフィルで」
「…
知ってる。こないだ顔を見たから」
「ああ、そうか」
響希はジュースを飲む手もやめる。
「…
なんか…変な奴でしょ、あいつ」
「いや…別に」
「家で一緒にいる時から、いつも何考えてるんだろうって感じで遠
くを見ていて、ヴァイオリンを弾いてるか
楽譜とにらめっこしてるかのどっちかなんですよ。
お風呂に入ってても、
ご飯を食べていても、ずーっとぼーっとしたままで、音楽のことだけしかいつも頭にないみたいで。
用事があって話しかけても、うんうん
とは返事が返って来るんだけど本人はそのことを全然覚えていないんですよ。
こいつ、実は人間の姿をした宇宙人なんじゃないかなあと
ずっと思ってました」
「…」
「でも…たまに相手をしてくれる時は…すっごく優しくって…嬉しかったなあ。
ヴァ
イオリンを俺にきちんと教えてくれて、いろいろな有名な楽団のコンサートに連れて行ってくれました。
俺も、かまってもらえることが嬉
しくて、ただ誉められたくて一生懸命ヴァイオリンを練習したんです」
なんだか子供みたいですよねー、と響希は、
はははと笑う。
何言ってるんだよ、お前は子供じゃないか。
由衣子と同じ10歳の子供じゃないかーという突っ込み
が千秋には出来なかった。
「俺が病気になってから…なんだか両親の関係がぎくしゃくしだしたなあとは思ってまし
た。
二人とも俺にはずっと普通に接してるんだけどーそういうのってわかるじゃないですか。
ある時、母さんから離
婚しようと思ってると言われました。
ー俺は絶対嫌だ!反対だからねってすごく一人で頑張っていたんです。
ちょう
どそんな時、俺の具合が悪くなって、母さんが忙しい時に、父さんが付き添ってくれていたことがあったんです。
病院のベッドで夜中に苦
しくて何度も目を開けるじゃないですか。
すると暗闇の中でベッドの隣で付き添っていた父さんが『大丈夫か、響希、苦しくないか』って
必
ず起きて優しく声をかけて胸をさすってくれました。
ずうっと、ずうっと、休むことなく朝までー」
「…」
「…
俺、その時母さんの気持ちがちょっとだけわかったんです。
…なんとなく、なんだけど…。
うちの父さんは、そんな
タイプじゃないんですよ。
どっちかというと不器用で、一つのことしか出来なくって。
ーそれが、あんな風に俺のこ
となんかで一生懸命になってるのを見たら…この人、このまま
駄目になっちゃうんじゃないかって思った。
父さん
は、今までみたいに音楽が出来なくなっちゃうんじゃないかって…怖くなって」
「…でも、それは、家族としては当然じゃないのか?家族
なら協力して助け合うのは当たり前のことだろう」
「ーそうですね…そうかも…それはそうかもしれないけど…」
響
希は悲しそうに笑った。
まるで大人みたいに。
「ーでも、俺も母さんも、父さんの演奏がすご
く大好きなんですよ…」
千秋は目の前の少年を見つめた。
こんなに小さい体でどれほど自分の
病気のことを引け目に思い、両親のことを気遣って来たのだろうと思った。
響希はあの時、どのような気持ちで父親を拒絶したのだろう。
「師
匠、俺には夢があるんです!」
気持ちを切り替えるように、響希が明るく笑って言った。
「ー
夢?」
「そうです。ちゃんと健康になって大きくなったら、セバスチャーノ・ヴィエラやシュトレーゼマンのような
すっ
ごい指揮者になりたいんです。
世界中のいろいろな所を回って、それぞれの国のオーケストラと共演して…演奏するんだ」
「…
それは俺と一緒だな」
「ーでも、もし俺の病気が治らなかったら…一生病院で生活しないといけないとしたら…」
「…」
「病
院内で出来る、オーケストラを作ろうと思ってるんです。
今、谷岡先生が院内学級でしてくれてるみたいに、闘病生活をしている患者さん
で、やる気がある人達を
集めて、みんなで一緒に練習して患者さん達の前で演奏するんです。。
ーまあ、普通のオー
ケストラみたいに立派じゃないだろうし、でこぼこで穴だらけのオーケストラになるとは思うけど。
でも、音楽って心が安まるし、治療に
もすごくいいと思うんですよね。
ー師匠、どう思います?」
「…すごく…いいと思う」
「ひひ
ひ」
響希は照れたように笑った。
ーそして、ふと思いついたように言う。
「ー
そういえば、…師匠ってのだめのこと、どう思っているんですか?」
「えっ…」
今度は千秋が
言葉に詰まる番だった。
「どう…って言われても」
「ーあいつってしつこそうでしょう。ちゃ
んとはっきり嫌いなら嫌いって言っておかないと、いつまでも
師匠につきまといますよ」
「いや…別に、嫌いってい
う訳でも…。ただの後輩で、大事な音楽仲間だし…」
顔を赤くしてあーとかうーとかうなっている千秋を見て、響希
はおかしそうにくすくす笑った。
「ーなんか、師匠って俺の父さんに似てるみたい」
「へ?」
「狡
いっていうか。肝心な所ではっきりしないというか、逃げてるというか」
「…」
「あー、響希
くん、こんな所にいたーっ!!」
ガチャッとドアを開けていきなりのだめと由衣子が入って来た。
響
希の姿を見て、びっくりしたように言う。
「今、響希くんの病室に行ってたんですヨ」
「響希
くんがいない…って看護師さん達、大騒ぎしてたよ」
「いっけねー」
響希が頭に手をやる。
「こっ
そり抜け出して来たんだった。やべー。またさんざん絞られるなー」
「二人で一体何の話をしてたんデスか?」
「ん?
将来の夢の話」
「へえ、響希くんの夢って何ですカ?」
「もちろん、有名な指揮者になって世界中で演奏するこ
と!」
「ふおぉぉ!しゅてき!!かっこいいデス!」
「へへんっ」
ふ
んっと胸をはる響希に、のだめはぱちぱちと拍手を送る。
「そういえば、由衣子とのだめの夢って何だよ」
「え、
え…っと前は真兄ちゃまのお嫁さんになるのが夢だったけど…今は…その」
由衣子は顔を赤くして俯いた。
だ
んだん声が小さくなる。
「ーなんだかよくわかんねえな。はっきり言えよ」
「…内緒!」
「…」
千
秋が苦虫を噛みつぶしたような表情になる。
響希は、なんだよけちーっと口を尖らせていたが、のだめの方に向き直った。
「じゃ
あ、のだめは?」
「幼稚園の先生をしながら、千秋先輩のお嫁さんになることデス!」
「勝手に俺までお前の未来に
巻き込むんじゃねえっ!!」
千秋が厳しく突っ込みを入れる。
はぅ〜と目に見えて肩を落とし
しょぼんとするのだめ。
響希はうーんと腕を組んで考え込んでいたが、ポツリと呟いた。
「の
だめが…幼稚園の先生…って…似合わねえ…」
「あ、響希くんもそう思う?由衣子も」
静かに
頷く千秋。
「ムキャーっ!なんデスかみんなしていつもいつも!子供の夢はこわしちゃ駄目ってよく言うじゃないデ
スか!」
「お前、一体いくつだよ。もう子供じゃねえだろ」
「いいんデス!本人がなりたいって言ってるんだから
ほっといてくだサイ!」
のだめの機嫌が悪くなる。この話題はあまりのだめにとっておもしろいものではないらし
い。
「師匠のお嫁さんっていうのも、そもそも全然相手にしてもらってないじゃん」
「響希く
ん…そんな本当のこと言わなくたって…」
はははーっと笑う響希にフォローする由衣子(でもフォローになってな
い)。
「二人ともなめくじに塩…」
どんよりと重たい空気を背中に抱え
たままのだめが呟く。
「あ、そうか」
響希が思い出したかのように言
う。
「のだめは俺の嫁さんになればいいんだよ」
「……へ……?」
そ
こにいた響希以外の全員があっけにとられてぽかんと口を開ける。
「ー響希くん…いったい何の話をしているんデス
か?」
「え?プロポーズしてるだけだけど」
「ぼへっ!!」
のだめが奇
声を上げる。みるみるうちに耳の付け根まで赤くなる。
「ーな、な、なんの冗談ですか!」
「い
や、結構本気」
「由衣子ちゃんならともかく…年がかなり違うじゃないデスか…」
「お前、精神年齢低いから大丈
夫。下手したら俺の方がずっと上だ」
「むきゃ?」
なんだかさりげなく聞き捨てならないよう
なことを言われたような気がする。
「いやーだってさー。お前の話聞いてたら可哀想になっちゃって」
「へ?」
「幼
稚園の先生には絶対なれないだろ〜。
もしなれたとしても、園児や父兄にいじめられて1年で退職するのは目に見えてるしな〜。
そ
の頃には師匠は世界の舞台に出ているから、お前なんか全然追いつけないところに行ってるだろ?
きっと師匠は金髪でセクシーな彼女を向
こうで作ってるよ。
ーそしたら、仕事も恋も失って、お前ってすっげーみじめじゃん。
可哀想すぎるから、俺がも
らってやるよ」
「…のだめは、今プロポーズされてるんデスか?喧嘩売られてるんデスか?」
「さあね」
響
希がべーっと舌を出す。
「ムキャーっ!このくそガキ!!」
「うわっ病人に対してなんてこと
するんだ!!」
「うるさいデス!」
もみ合う二人を、止める気力もなくただ立ちつくしている
由衣子と千秋。
由衣子がぽつりと言う。
「…真兄ちゃま…。響希くんには音楽の勉強より、ま
ず女性の口説き方を教えてあげた方がいいんじゃない…」
「……」
そ
して、由衣子は横浜に帰り、千秋は退院した。
一週間後にある、響希達のミニコンサートには必ず来るという約束をして。
続
く。