一週間ぶりに、千秋が大学にやって来た。

オー ケストラの指揮をするために、練習室に入る。
千秋がいない間は、皆自主練習をしている筈だ。

「お 〜、千秋、復活したか」

目ざとく千秋を見つけた峰が、遠くから歩いてやって来る。

「大 丈夫だったか?いや、皆にお見舞いに行くなと言った手前、俺や真澄ちゃんが行くわけにもー」

バコンッ。
い きなり千秋に頭を小突かれる。

「何すんだよっっ!いきなり!!」
「…今日、大学に来たとき から、俺を見ている皆の同情と哀れみの視線は何だ…?」

ドスの聞いた声で耳元で囁かれ、峰は恐怖に体が震える。

「い や…きっと皆、千秋がいなくて寂しかったんだよ。ーおい、なんだよ、その手は。なんで首を絞めるんだよ〜!!」





病 院の院内学級によるミニコンサートの日が来た。

「先輩、用意は出来ましたカ?」
「真兄ちゃ ま、行きましょう!」

すっかり用意を調えたのだめが、これまた可愛らしくピンクの花模様のワンピースを着込んだ 由衣子とともに、
千秋の部屋に呼びに来た。
前日から由衣子は来て、のだめの部屋に泊まっている。(もちろん千秋 がのだめの部屋を徹底的に掃除した)

「ああ」

ネクタイを締めながら、 千秋は言う。

「ミニコンサートって言っても、あの音楽室に雛壇作って演奏するだけだろ」
「で も、響希くんの初舞台ですヨ」
「由衣子、花束用意しちゃった」

そう言って、由衣子は、ガー ベラやカーネーションなどのピンク系でまとめられた色鮮やかな花束を、
恥ずかしそうに千秋に見せる。
兄貴分の千 秋としてはなんとなく面白くない。

「じゃあ、行こうか。ーちょっと早いけどな」
「先輩」

の だめが珍しく真面目な顔で、千秋の目をじっと見る。

「のだめ…病院に行く前に、行きたいところがあるんデスけ ど…いいデスか?」





3人が 着いた先は、都内の公共施設。
どうやらここでMフィルが練習をしているとの情報を聞きつけたらしい。
ホールか ら、様々な楽器の音が流れてくる。

「お前…まさか、よけいなおせっかいをするつもりじゃないだろうな」
「そ の、よけいなおせっかいという奴デス」

のだめは何か言いかけた千秋を無視して、近くにいた男性に話しかけた。

「ヴァ イオリンの橘一樹さん、いらっしゃいマスか?」
「ええと、橘さん確か来てたと思うけど…あ、あそこにいますよ」

男 性が指さした方向を見ると、一樹がヴァイオリンを片手に練習をしているのが見えた。

「橘さん!お客さんです よ!」

男性が呼びかけると、一樹はこちらを向いた。
のだめ達の顔を見ると一瞬驚いたような 表情になり、それからぺこりと頭を下げた。





「いっ たい誰かと思いました」
「すいません、練習中にいきなり押しかけて…」

一樹をロビーに連れ 出したのだめは、申し訳なさそうに頭を下げる。

「いえ、別にいいですよ。ちょうど一息つきたかったところなの で」

優しそうな顔で一樹は微笑んだ。
きっと、元々優しい思いやりのある人間なのだろうとの だめは思った。

「ーそれより、今日はいったいどうしたんですか?皆さんおそろいで」
「今 日、…響希くんのいる院内学級の初めてのミニコンサートがあるのをご存知デスか?」
「ーはい。妻から聞いています」
「行 かないんデスか?」
「…僕は…行かない方がいいと思います。行っても…響希は喜ばないと思います」

一 樹は淡々と語る。

「…そんなことないデスよ…。響希くん…あんなこと言いながらも…本当は、お父さんに
一 番聞いて欲しいんだと思いマス」
「ー僕と妻が、離婚直前だということを、知ってますか?」

必 死に訴えかけるのだめから目を背けるようにして、一樹は言う。

「ハイ」
「妻からその話を切 り出したのだということも?」
「…ハイ」
「最初、妻から離婚を切り出された時にー何で?って思いました。
響 希が一番つらくて大変な時に、いったい何を言い出したんだろうって。
ーでも、それと同時に…どこかほっとしている自分がいることに気 がついたんです」
「…」
「ーこれで、楽になれるって…」

一樹はロビー のソファーに深く腰掛けると、表情を隠すように手で顔を覆った。

「…響希が痩せ衰えて、点滴を打ち続けている姿 や、鼻にチューブを通している姿が痛々しくてたまらなかった。
激しい痛みに転げ回って苦しんでいる姿に、親として何もしてやれない自 分が、情けなくてしょうがなかった。
仕事や看病で疲れ切っている筈なのに、響希や私にいつも笑顔で接している、妻を見るのが…嫌だっ た」
「…」
「私は、全てから逃げ出したかったんです」
「…」
「ー私 は、父親失格です…」

絞り出す様な一樹の声に、のだめは絶句して言葉を失った。
ロビーは他 に人影もなく、遠くから楽器を演奏する音だけが響いてくる。
ポツリと由衣子が呟いた。

「ー それでも…」

目にはいっぱい涙を溜めている。

「ーそれでも、貴方は響 希くんにとってはたった一人のお父さんです…。
どんな親でも、子供にとっては誰よりも…大切な存在なんです。
親 が…仲良くそろって自分を見守ってくれることが…子供にとっては一番幸せなことなのに…」

口元を手で覆う。
涙 が溢れる。

「…お願いです…。響希くんのところに行ってあげて…」

一 樹は顔を上げた。
そのままぼんやりとした顔で、泣いている由衣子を見つめる。
千秋はそんな由衣子の肩をそっと抱 きながら、一樹に話しかけた。

「ーあなた達が何を考えているのかなんて…俺は興味が無いし、どんな事情を抱えて いるのかだって、
知った事じゃない」

『あなた達』というのは一樹と誰のことを指しているの だろうか。
言葉を発した千秋にもわからなかった。

「…だけど…。…俺からも、お願いしま す」

そして頭を下げる。
のだめは目を見張った。
千秋が誰かに対して頭 を下げるのを初めて見た。





ミ ニコンサートが行われる、病院の音楽室は、見に来ている人々でごった返していた。
そんなに広くもない所に並べられた椅子に、子供達の 家族や入院患者達がひしめくようにして座っている。
のだめ達は、その中に加奈子の姿を探した。
ーが、いない。
響 希に付き添って舞台裏で待機しているのだろうかと思っていたら、同じ院内学級の父兄が話しかけてきた。

「のだめ さん、こんにちは!」
「あ、ももちゃんのお母さん!こんにちは。ーすいません、響希くんのお母さんどこにいるか知りませんか?」
「ー それがね」

彼女は顔を曇らせる。

「響希くん、今日のリハーサル中に高 熱を出してしまって…出られなくなってしまったの」
「えっ」
「今、処置室でお母さんが付き添っているわ」
「す みません…僕、ちょっと行ってきます」

一樹がのだめ達に頭を下げると、部屋を早足で出て行った。

「ー せっかく、お父さん来てくれたのに…」

由衣子が残念そうに言う。また泣き出しそうだ。

「… 仕方がない…、本番当日に体調を崩すこともある」
「…前の方に行ってとりあえず他の皆の演奏を聴きましょう」

の だめが言い、3人は壁際の端の方に移動する。
そこは見通しが悪いためか、他に誰も人はいなかったが、ステージがほんのすぐそこにあ る。

「ただいまより、ミニコンサートを始めます。場内が暗くなりますので、足下にご注意ください」

マ イクからアナウンスが流れ、室内が暗くなった。
ステージにライトが当たり、ぱっとそこだけ明るくなる。
演奏する 子供達が、親に付き添ってもらいながら楽器を持ち、それぞれの場所にスタンバイする。
そして全員が配置についた後。
ス テージの後ろから、車椅子を両親に押してもらいながら出てきたのは…。

「響希くん…」

の だめは驚いたように目を丸くした。

「今、処置室にいる筈じゃなかったんデスか?」

脇 を通り抜ける時に、のだめ達3人がいることに気がついた響希はにかっと振り向いて笑った。
そのままステージ中央に進む。
左 右から話しかけている両親に、2、3回何か受け答えをしていた。
多分、本当に大丈夫かどうか念を押されているのだろうと思った。
響 希の決意が固かったのか両親はため息をつき、のだめ達のちょうど真向かいであるステージの脇に移動する。

のだめ 達のいるところからは、響希の横顔がはっきりと見えた。
響希が真剣な眼差しで指揮棒を構える。
それからゆっくり と弧を描くように振り下ろされる。

ピアノ演奏者がゆっくりと鍵盤を叩き、それに促されるようにして弦楽が奏でら れる。
ーいい音だ。
と千秋は思った。
もちろん荒くて、稚拙でその辺の同じ年頃の少年少女 オーケストラには及ばないかもしれない。
でも、そこには音楽を心の底から楽しんでいる気持ちが溢れていた。
普 段、思うようにならない体と戦いながらも、練習を重ねてきた子供達が楽しそうに演奏する姿がそこにあった。
響希は流れるように指揮棒 を動かしている。
素朴で、純粋な演奏。
ー千秋はピアノやヴァイオリンを習いたての頃の気持ちを思い出していた。
こ の楽器はどんな風に自分に答えてくれるのだろう。
もっともっと練習したならば自分はどんな音を奏でられるのだろう。
わ くわくしたような高揚感。
ーそんな記憶を揺り動かしてくれるような演奏は、例えプロのオーケストラでも絶対に出来ないと思った。

「や あ、来てたんだね」

いつの間にか、谷岡が傍らに来ていて囁いた。

「ー 谷岡先生…こんな所にいていいんですか?」
「んー、響希くんが出られなければ、僕が振ろうと思っていたけどね。それか千秋くんもくる だろうから
振ってもらおうかな〜とは思ってたけど」

丸投げかよ…と千秋は思った。

「ー 本当は響希くんは本番には出られないだろうと、誰もが諦めていたんだ。
それが、お父さんの顔を見た瞬間から、どうしても本人が出るっ て聞かなくって…。
廊下には緊急用のベッドと点滴台を配備して、体調が急変したときのために看護師が待機してるんだよ」
「…」

の だめは向かい側に立っている一樹と加奈子の姿を見た。
二人は二言、三言話をしたかと思うと、お互いに顔を見合わせて笑っている。
由 衣子はそれを見て笑顔になった。

「ーいい演奏ですね」

と千秋が言っ た。
谷岡が笑顔で頷く。

「うん。ーやっぱり響希くんがいると他の子供達も活気づくよね 〜。ー野田くん」

急に谷岡がのだめを呼んだ。

「ハイ」
「ー 以前、どうして担当を替わったのかと僕に聞きに来たことがあったよね」
「…ハイ」
「もちろん、江藤くんたっての 希望というのもあったんだ。
ーでも、それ以外に以前から、君に対する僕自身の中の葛藤もあったのは確かだ」
「…」

谷 岡は、響希達の演奏を見つめながら淡々と語る。

「世の中には才能を発揮したくても、いろいろな事情から出来ない 子がたくさんいる。
その中で、才能を持ちそれを発揮出来る恵まれた環境にいながらも、発揮しようとしない生徒に対して
僕 はどう接するべきなのかとずっと考えていた。
ー僕は、やる気のない生徒にやる気を出させるほどやる気のある教師じゃないからね。
そ れで君を、君の才能を発揮させようとやる気に溢れている江藤くんに預けることにしたんだ」
「…」
「ーどう?江藤 くんとはうまくやってる?」
「…ハイ。今、もじゃもじゃ組曲の最後の一曲を二人で一緒に作っていマス」
「それは 良かった」

谷岡は笑顔になる。

「ーほら、フィニッシュだよ」

響 希の指先が、弧を描きながら、最後にくっと握りしめられる。
それと同時に鳴り響いていた楽器の音が止んだ。

演 奏は大成功のうちに集結を迎えた。
割れんばかりの拍手が聴いていた会場の全ての観客から送られ、演奏していた子供達は頭を下げた。
響 希は振り返り観客に一礼すると、のだめ達の方を見てにっと笑いVサインを送った。





続 く。