その日は、響希も疲れているし安静に しなければならないだろうからと、千秋がもっともな
意見を言ったので、その日は花束だけを託して帰ることにした。


次 の日。


「響希くん〜。こんにちは〜」
「あ、師匠!と由衣子と…ドブ ス!」

3人が病室に入ると、響希はベッドの上から満開の笑顔を見せた。
付き添っていた加奈 子が、ぺこりと頭を下げる。

「…いい加減、その呼び方やめてくださいヨ!」
「いいじゃん、 ブスはブスなんだし」

からからと威勢良く笑う。
思っていたよりずっと元気そうで、3人は ほっと胸を撫で下ろした。

「体調はいいのか?」
「あー大丈夫です。昨日ちょっとリハの時に 熱を出しちゃって大騒ぎだったけど、その後は
別に寝込むこともなくって、全然元気でしたよ!」

心 配そうに聞く千秋に元気よく答えた後、響希は3人に向かって頭を下げる。

「え〜昨日は、わざわざ聴きにに来て頂 いて、ありがとうございました!」
「いや…別に…」
「響希くん、すっごく格好良かったよ!」
「お う!当たり前だ!。由衣子、花束ありがとうな!」

響希の言葉に由衣子はそっと頬を染める。
昨 日、由衣子が持ってきた花は、花瓶に生けられてベッドの脇で綺麗に病室を彩っていた。
響希は加奈子の方を振り返って言った。

「母 さん…せっかく皆来てくれたし、ちょっと出てきてもいい?」
「ーでも…先生の許可も出てないし…」
「無理しない から。ちょっとだけ」

拝み込むように手を合わせる響希に、加奈子は笑った。

「ー しょうがないわね。絶対に無理しないでね」




「ふ おぉぉぉ〜。いい眺めですね」

4人は病院の屋上に来ていた。
街並みが一望できるその場所 は、響希のお気に入りの場所らしい。
日差しがさんさんと降り注いでいたが、春風が結構強く吹いていて少し肌寒い。

「響 希くん、寒くないデスか?」
「ん、平気。カーディガン着てるし。ーそれに少し外の空気吸いたかったんだ」

そ れから、しばらくためらった後、響希は口を開く。

「ーありがとう」
「へ?」
「父 さんから聞いた。ーなんだか皆にいろいろお世話になっちゃったみたいで」
「…」
「うちの父さんと母さん、離婚す るのやめるって」
「えっ…」




昨 日の夜、一樹は響希と加奈子に頭を下げていた。

「加奈子…今更こんなこと言えた義理じゃないけど…俺とやり直し てくれないか…?」

「…でも」

「ーもちろん、俺が弱虫で駄目な人間 だっていうのは…ずっと変わらないと思う。
だけど、…どんなに音楽に集中できるような環境にいたって…それを一番聴かせたい人間が
近 くにいてくれなければ…意味がないんだ…」

「…あなた…」

それから響 希の手をそっと握る。

「響希…ごめんな、情けない父親で」

「父さ ん…」

「ー今日の演奏、…すごく良かった」

「…」

「俺 は…お前の演奏を…いつも一番近くで聴いていたい…。
ーそして…いつか…俺はお前の指揮でヴァイオリンを弾きたいんだ…」

響 希はパジャマの袖で鼻をすすり、そして笑った。

「ーしょうがないな。そこまで言うんなら、将来の俺のオケのコン マスの地位は空けといてやるよ」





「… 良かったね。響希くん」

心から言葉をかける由衣子に、響希は照れたように笑う。

「ー まあな。結局、父さんって頼りないから俺がいてやんないと何にも出来ないんだよな〜。
ー全く、世話のやける二人だよ。うちの両親 は!ーそんなことより」

響希はくるっと千秋に向き直る。

「師匠!昨日 の俺の指揮、どうでしたか?」
「へ?」

いきなり話を振られて、千秋は焦る。

「ー ああ、良かったんじゃないか」
「え〜それだけですか!もっと師匠らしく。ビシッと、的確なアドバイスを!」
「… だから、師匠じゃねえって…。ーそうだな。2曲目の導入部分、テンポが遅すぎなかったか?」
「ああ…あれは、ゆっくりした雰囲気でや りたいなと思って」
「その気持ちは解るけど、あそこがゆっくり過ぎると全体的に緩慢な印象を与えるんだよ」
「ふ むふむ、なるほど」

千秋の言うことを一生懸命に聞いている響希を、のだめと由衣子がじと…っと見つめる。

「… なんだよ、二人とも」
「ー響希くんって」
「私達に対する態度と、真兄ちゃまに対する態度って明らかに違うよね」
「言 葉遣いとか全然違うし」
「ねー」

声を合わせてぶーぶーと文句を言う二人に、響希は呆れたよ うに言う。

「…普通、尊敬できる人にしか敬語は使わないだろ」
「ムキャー!!それは、のだ め達を尊敬してないってことデスか!」
「当たり前じゃん」

つんと横を向く響希。
の だめが何かを言おうとした瞬間に、由衣子が突然言う。

「ー私!響希くんに尊敬してもらえるように、頑張るか ら!」
「…あ?」
「ヴァイオリンも、もっともっと練習する。
ーそして、大きくなったらのだ めちゃんみたいに、綺麗で胸の大きい人になる!」
「ゆ、由衣子ちゃん…いったい、何を…?」

由 衣子の大胆な言葉にのだめと千秋は唖然とする。
それを無視して、由衣子は響希に向き直る。

「ー 私、やっぱり諦めないことにする!」
「…何を?」
「内緒」
「お前、そればっかりだな〜」

訳 がわからないといったような響希にいたずらっぽく笑うと、由衣子は千秋に呼びかけた。

「真兄ちゃま。皆の分、 ジュース買ってきましょうよ」
「…あ、ああ」

千秋はあっけにとられて頷くしかない。

「師 匠が行くことないですよ!このブスが買いに行けばいいんです。少しはダイエットにも
なるだろうし」
「ムキャ!な んですって?」
「いいから、いいから。のだめちゃんと響希くんはここで待ってて。ーね」

由 衣子は千秋の手を持ち、引きずるようにして屋上を後にした。






ー 屋上に二人きりで残される、のだめと響希。
急なことで、響希はなんだか落ち着かず、体をもぞもぞさせる。
そんな 響希の気持ちを知ってか知らずしてか、のだめは大きく伸びをする。
屋上の柵に近寄るともたれかかり、眼下の景色を見下ろした。

「う 〜ん、風が気持ちいいですネ、響希くん」
「…ああ」

春の日差しの中で、二人はしばしまどろ む。
どこか遠くで、小鳥がチュンチュンと鳴く声が聞こえてくる。
ーのどかだな、と響希は思う。
こ んな安らかな気持ちになったのはずいぶん久しぶりのことだ。

「ー昨日の響希くんの指揮を見ていて、のだめすごく 感動しましタ!。
迫力があって、それでいて繊細で…。
きっと、響希くんは将来世界的な指揮者になれますヨ」

の だめは笑う。

「ー先輩の次にデスけど」
「…なんだよ、それ」

響 希はなんだか面白くない。

「やっぱ、なるからには世界一だろ」
「ムキャ?でも響希くんは、 先輩の弟子でしょう」
「ーこういうことには、師匠も弟子もないの!実力の世界なんだから」
「ふーん、じゃあ、の だめが見ててあげますヨ。響希くんが先輩に追いつけるかどうか」
「それなら…ずっと俺の隣で見ててくれよ」

響 希の言葉にのだめが振り返る。

「…またプロポーズ、とか言ってからかうんデスか?ー可哀想だからとか言って」

そ の眉間にしわをを寄せた不審そうな表情に、思わず響希は吹き出す。

「まあ、それもない訳ではないけど」
「へ?」
「こ こからは、本気の話。ーちゃんと聞いて」

響希は表情を改める。

「ーの だめ、ピアニストになってよ」
「…え?」
「ピアニストになって」
「響希くん…」
「… いつか…俺のためにピアノを弾いて」

響希の真剣な眼差しに、のだめは思わず目を背ける。

「ー だって…のだめは…幼稚園の先生に…」
「お願い」
「ーそんなこと…言われても…」

そ の時、

「おーい、のだめちゃーん、響希くーん、ジュース買ってきたよーっ!」

振 り返ると千秋と由衣子が屋上に上って来たところだった。
千秋の手には、ペットボトルを入れたビニール袋がぶら下がっている。
由 衣子は何が楽しいのかにこにこと笑っている。
のだめは少し、ほっとしたように響希に言った。

「由 衣子ちゃん達、帰って来ましたネ。お茶にしましょう」

響希もそれ以上そのことについては深くは言わなかった。そ の代わり。

「…のだめ」
「ハイ」
「ーちょっと、耳を貸してくれる?」
「?」

ま るで内緒話をするかのように手招きをして小声で囁く響希に、のだめは思わず耳を近づけた。

ーすると。

チュッ と音をたてて響希がのだめの頬に口づけた。
ぽかんとして口を開ける千秋と由衣子。
頬を押さえて耳まで真っ赤に なったのだめに、響希はニヤッと笑う。

「ー油断大敵」

「…」

の だめはぷるぷると震える。

「ーこのっエロガキッ!!なんてことするんデスか!」
「わーっ! そんなことくらいで怒るなよ!ブス!!」
「ー何がそんなことくらいデスかーっ!」

車椅子で 逃げる響希と、走って追いかけるのだめ。
屋上をぐるぐると回って追いかけっこをしている二人を、千秋と由衣子は呆れたように見つめて いた。





ーそれから、一週間 後。

響希の容態が急変したと連絡があった。




続 く