谷岡からの連絡を受け、タクシーで直行したのだめと千秋は
急いで病室へ向かった。
集中治療室のドアを開けて愕然とする。
そこには人工呼吸器をつけられて青ざめた顔でベッ
ドに横たわっている響希の姿があった。
ベッドサイドに置かれているコンピューターのモニターからは、ピッピッと超音波の波が出てい
た。
うなだれたように座っている、一樹と加奈子。
壁に寄りかかるようにして立っていた谷岡が、入ってきた二人に
気がついた。
「…千秋くん…野田くん…」
「ー谷岡先生…響希の容態は…」
「ど
うも、良くないらしい…。もう、すでに意識はないんだ。今夜がヤマらしい…」
「ーそんな」
の
だめが口を押さえる。
その手が小刻みにぷるぷると震える。
「由衣子ちゃんは?」
「今、
タクシーでこちらに向かっています。もうしばらくしたら着くと思います」
そんなのだめと千秋に気がついて、加奈
子が疲れた顔を上げた。
「…のだめさん、千秋さん…」
「ー響希くんのお母さん…」
加
奈子は泣きはらしたその目でベッドにいる響希に話しかけた。
「…響希…のだめさん達、来てくれたわよ…」
「…」
「起
きて…挨拶しなさい…」
響希の体を加奈子が揺り動かす。
「ー加奈子」
「…
響希…お願いだから…目を開けてー目を開けてよ!」
加奈子は椅子に座ったまま、肩を震わせて泣き崩れた。
取
り乱した加奈子の肩を抱きかかえながら、一樹が千秋に憔悴しきった顔を向ける。
「…すみません…わざわざ来てい
ただいて…」
「いえ…」
傍らに立ってモニターを見つめていた医師が、一樹と加奈子に声をか
ける。
「ー残念ですが…もう…。延命装置をつけますか?」
うっと加奈
子が声にならない声を出す。
二人の目から涙があふれ出す。
「いえ…いいえ」
「響
希は…ここまで頑張って来ました…。…もう楽にしてあげてください…」
ーそれを聞いたのだめはきゅっと口を結
ぶ。
いきなりドアを開けて外へ走り出した。
「ー
おい!のだめ!」
千秋が後を追って走る。
全速力で病院の廊下を走るのだめにはなかなか追い
つけない。
のだめが行き着いた先はー病棟の端にある音楽室。
ガチャガチャとノブを回す。
運
良く鍵をかけ忘れたようで、簡単にドアは開いた。
「おい…のだめ…何をやっているんだ…」
千
秋が追いついたときには、電気も付けずに暗闇の中でのだめは中央のピアノの前に座り、鍵盤に向かっている所だった。
「ー
のだめ?」
バーン!
ドゴーン!
フォルテッシモで
始まるこの曲は…ラフマニノフピアノ協奏曲第2番だった。
タクシーで着いた由衣子は、竹彦
に付き添われながら病院に入る。
受付で響希の居場所を竹彦が確認している間に、由衣子はふとこの場所には似つかわしくない音が
聞
こえたような気がして、耳をすませた。
「…ピアノの音…」
音
楽室に流れるピアノの音。
ピアノを狂ったように弾き続けるのだめの異様な迫力に、千秋は声をかけれないでいた。
ま
るで何かに取り憑かれているようだ。
多彩な音がオーケストラのように室内に響き渡る。
し
かし、この音楽室は病棟でも端の方にあり、集中治療室からはかけ離れている。
しかも防音設備は完璧だ。
ー
届くわけがない…。
届くわけがないんだ。
千秋はそう思いながらも言葉に出すことは出来な
かった。
ふと加奈子が顔を上げた。
響
希の手が動いたような気がしたのだ。
ー幻覚ではない。
響希の手がゆっくりと持ち上がり、何かを探すように動いて
いる。
「ー響希!意識が戻ったの?」
その手を握りしめて叫ぶ加奈子。
し
かし、医師は驚いたようにベッドの上の響希を見つめる。
「ーいや、そんな筈は…」
「響希、
響希、お母さんよ!わかる?響希!」
何度も何度も呼びかける加奈子。
響希の手は、加奈子の
手を振り払い、弧を描くように不思議な動きをしている。
だが、意識が戻ったような気配はない。
「…
響希。ー何か、言いたいことがあるんじゃないの…?」
「違う…」
由衣子が呟いて、思わず病
室内の人間が全員注目した。
「…響希くんは何かが言いたいんじゃない…」
「えっ?」
谷
岡が聞き返す。
由衣子ははっきりと確信した口調で言った。
「ー指揮をしてるんだ…」
の
だめの演奏は続いていた。
ピアノの音が、歌い、叫び、うねり、…そして泣いていた。
千秋
は、こんな風に…誰かの為に一心不乱にピアノを弾き続けるのだめの姿を初めて見た。
ーそしてこのような状況にも
かかわらず、その曲が捧げられているだろう相手に
生まれて初めて…焼け付くような激しい嫉妬を覚えた。
胸
がギリギリと締め付けられるように痛い。
のだめの指は止まらない。
目
からは涙が溢れ、鍵盤に滴り落ちる。
濡れた鍵盤から時々滑って指が落ちるのも気にすることもなく、のだめはピアノを弾き続けた。
ー
そして、終局を迎える。
響
希の手が何かを掴むように、ぎゅっと握られた。
ーそしてそのままパタリと落ちた。
葬
儀の間、のだめは泣かなかった。
泣き崩れる由衣子の背中をしっかりと抱きかかえ、憔悴しきった一樹と加奈子にお
悔やみの言葉をいい、
最後の子供達のお別れの合唱では見事にピアノ伴奏をやり遂げた。
響希
を知っている全ての人間が葬儀に駆けつけてきた。
入院患者や院内学級の生徒で外出許可が下りたものとその父兄達、医師や看護師で仕事
が抜けられたもの、
なかには給食や掃除のパートのおばさんなんてのもいた。
響希が以前通っていた小学校からの先
生、同級生も数多く訪れていた。
全ての人間が、あの陽気で元気のいい少年との別れを惜しんで涙を流し泣いていた。
そ
のなかで、のだめは一粒たりとも涙をこぼすことはなかった。
きっと、冷たい人間か、あまり親しくなかった人間だと周囲に思われたに違
いない。
「響希くんが…天に昇っていきますネ…」
火葬場から天に向
かって真っ直ぐにたなびく煙を見ながら、のだめが言った。
「ーああ」
二
人はベンチに座ったまましばし煙の行き先をゆっくりと眺める。
「じゃ、いきましょうか」
の
だめは立ち上がるとパンパンとおしりを払った。
それから千秋がこれからどうするのか聞いてもいないのに、バス停までの道をすたすたと
先に歩き出す。
後に続く千秋。
二人の距離は3メートルくらいだろうか。
千秋は少し距離をお
いて歩いた。
「いい、お葬式でしたネ」
振り向きもせずに、のだめが言
う。
「参列者がいっぱい来ていて、きっと響希くんびっくりしてましたネ。
院内学級のお友達
も、先生も、看護師さんも、小学校のお友達まできていましたからネ。
ーおお〜なんでこんなにいっぱい来ているんだって感じで…少し照
れたかも。
…響希くんって照れ屋さんだから…」
ふふふと笑うのだめ。
後
ろ姿なので、その表情は見えない。
しかし、千秋にはのだめが笑っているようにどうしても思えなかった。
「あー
あの婦長さんもいらしてましたネ。眼鏡かけていていつもぎゃんぎゃん叱りとばしていた婦長さん。
棺にすがって号泣してましたもんネ」
声
が少しかすれる。
ー多分、誰もいない場所に行って、後でひっそりと一人きりで泣くのだろうと思った。
馬
鹿だなあと千秋は思う。
普段はあんなに必要以上にベタベタとひっついてくるじゃないか。
何
で、肝心な時に俺を頼らないんだよ。
泣きたいのなら、俺に縋り付いて、俺の胸で思う存分涙を流したらいいじゃないか。
そ
うしたら自分も抱きしめて慰めてあげることができるのに。
そして、こんなに近くにいるのに触れ合うことすら出来
ない自分達の心の距離を思った。
ー響希。
千秋は天を仰ぐ。
響
希。
お前は遠く離れたところから、こんな俺達のことを見て笑ってるんだろう?。
二
人ともしょうがないなあ、と苦笑する少年の顔が目に見えるようだ。
「先輩…」
急
にのだめが立ち止まる。
千秋もつられるようにして足を止める。
「…今、何ものだめに話しか
けないでくださいネ…」
振り向きもしないまま、絞り出すような声で言う。
「…
今、…何かを言われたら……きっと、のだめ泣いちゃうから…」
ぎりりと歯をくいしばる音が聞こえる。
涙
が溢れだしてしまいそうになるのを、歯をくいしばってこらえているのだろうと思った。
ー
本当に、今何か声をかけたら。
そうしたら。
なんだか本当にのだめが必
死でこらえているものが溢れだしてしまいそうで。
千
秋は声をかけずに、黙ってのだめの頭をよしよしと撫でた。
終
わり