88 の鍵盤の上を4つの手が舞う。

流れるような旋律。
移り変わるテンポ。

時 にゆるやかに心をなだめるように弾いたかと思うと、その次の瞬間には激しく訴えかけるように叩きつける。

ハンガ リー舞曲第5番 嬰へ短調。

ヨハネス・ブラームスがハンガリーのジプシー音楽に基づいて編曲した舞曲だ。

僕 は演奏をしながら右側に座って高音部を担当しているのだめの方をそっと見る。

曲に合わせて揺れる薄茶の髪。
長 い睫毛がうっとりするほど艶めかしくて。
どうやら思わず見とれてしまっていたらしい。

「……… カ。……リュカ」

名前を呼ばれてはっと我に返る。

「どうしたんデス か?リュカ!。手が止まってますヨ」

演奏を中断させられて不機嫌そうに眉間に皺を寄せるのだめ。
む すっとした顔もやっぱり可愛い。

「ごめん、ごめん。ちょっと考え事してて」


…… 君のことを。

ずっと考えていたんだ。


……なんて ね。


「ムッキャーッッ!!。連弾しようって言い出したのリュカですよ〜!!」
「本 当にごめん!……だからもう一回しよ?」

慌てて拝むように言うとのだめはぷっと吹き出した。

「し かたないですネ。今度はちゃんとしてくださいヨ〜!」
「うん!」






僕 はリュカ・ボドリー、13歳。
フランスのパリ・コンセルヴァトワールでピアノを勉強している。
12歳でこの学校 に入学したことで周りからは天才少年だとか言われてるけど……別にそんなことはないと思う。
僕はいたってごくごく普通の、その辺にい るような男の子だ。
ただ、すごくピアノを弾くのが好きなだけ。

先ほどの事を忘れたかのよう に隣で夢中になってピアノを弾いてるのはのだめ。
のだめ……の・だめ……あれ?本名なんだっけ?。
僕の同級生 だ。
同級生といってももちろん年上だけどね。
だけど東洋人である彼女は、すごく童顔で幼くてひょっとしたら僕と そんなに年が変わらないんじゃないかって思わせる。

かくいう僕の想い人だ。

今 日は授業が終わっていつものようにお茶をして。
それから僕の家に寄って二人で連弾をしようってことになったんだ。

の だめとの連弾はすごく楽しい。

一人では出せない音域も出せるし音量だって二倍だ。
こうやっ て肩を寄せ合って一つの鍵盤を共有していると……なんだか世界に二人きりしかいないような気分になってくる。
一緒に鍵盤を叩き、音を 合わせ、響きを奏でる。
二人だけのオーケストラだ。


なのに。

突 然思い出したかのようにのだめはくすっと笑う。

「こうやって連弾していると、千秋先輩と2台のピアノで連弾レッ スンした時のこと思い出しますネ〜」

むかっ。

またチアキだ。

「あ の時の曲はモーツアルトの『2台のピアノのためのソナタ』でしタ。先輩とのだめはそれはもう、息がぴったり合っていて……
 まさに恋 の序曲(プレリュード)だったんデスよ。ぎゃはあっ!」

鍵盤から手を離して身悶える彼女は、まさしく恋する女性 のそれであり……。

ますますもって僕はおもしろくない。

チアキ先輩と いうのは、のだめの恋人だ。

彼女と同じく日本人で、現在はルー・マルレ・オーケストラの常任指揮者をやってい る。
その若さで常任指揮者になるくらいだから……それなりに才能はあるのだろう。
のだめから写真(盗撮したらし い)を見せてもらったけど……顔もまあまあなのは認める……。

……すましている感じがちょっと(かなり)いけす かないけど……。


「そんなことどうでもいいからさ!。早く続きしようよ」
「…… リュカ。……なんで怒ってるんデスか?」
「別に!!。それよりも次は何の曲にする?」
「えー。まだするんデス か?のだめ疲れちゃいましタ」

そんなことを言いながらピアノの前で楽譜をめくっていると……。
扉 が開いて、ママが部屋に入ってきた。
顔が真っ青だ。

「リュカ……」
「ど うしたの?ママ」
「おじいちゃんが倒れて救急車で運ばれたらしいの……」
「ええっ!!」






お じいちゃんは心臓発作で倒れたものの(もともと心臓が弱いのだ)容態は幸いなことに命に別状がある訳ではなかった。
僕らはほっと胸を 撫で下ろす。
ただ大事をとって今日は入院した方がいいらしく、ママはそのままおじいちゃんにつきそうことになった。

「ど うしましょう……パパは出張で今日は帰って来ないし……」
「ママ。心配しなくても僕一人で大丈夫だよ。もう13歳だし」
「で も……」

それでも不安気な様子のママにのだめが話しかけた。

「あ のー」
「どうしたの?のだめちゃん」
「良かったらのだめが一晩泊まりましょうか」
「えっ!!」

僕 はびっくりして目を見開いた。

「そんな……でもご迷惑じゃ……」
「全然大丈夫デス!。のだ め、明日は授業休みなんですヨ。それにいつもリュカのお家にはお世話になってるし……」

ねっと言って僕の方を見 てにっこり笑った。
ーもちろん僕に異存がある訳がない!!。

「じゃあ……申し訳ないけ ど……のだめちゃん、お願いできるかしら?」






病 院から帰ってきたら家の中は急にがらんとしてるように思えた。
いつも家の中にいるママがいないっていうだけでこんなに違うものなのか な。

……今日はのだめと一晩二人きりなんだ……。

そりゃあもちろん嬉 しいけど……内心はすごくドキドキだ。
体中が不自然に強ばって緊張しているのがわかる。
そんな僕の気持ちもつゆ 知らずのだめは携帯でどこかに電話をかけていた。

「あれ〜。出ないですネ〜。まだ仕事中かな?」

僕 の視線に気づいたのか振り返るとにっこり笑う。

「先輩に今日はリュカのところに泊まるって連絡しようと思って さっきからかけてるんですけど、つながらないんですよネ。」
「……別にそんなの後だっていいじゃん。それより何か食べようよ」
「そ うですネ。なんだかお腹空きました!!」

のだめはママのエプロンを取ると手早く身につけた。

う わ……。

……エプロン姿もすごく可愛い……。

「今日はのだめが腕によ りをかけて夕食を作りますからネ!」
「えっ!。のだめが作ってくれるの?」
「ハイ。何かリクエストはありマス か?」

僕は腕を組んでしばらくの間う〜んと考え込んだ。
のだめが作ったものなら何でも食べ たいけど……。

「あ、せっかくだからテンプラっていう奴が食べたい!!。ほら、日本って言ったらスシとテンプ ラって言うでしょ!」
「天ぷらデスか?。オッケーですヨ。じゃあ、冷蔵庫にある物、勝手に使わせてもらいますネ〜」

そ う言うとのだめは鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開け、次々と材料を出していった。

「あ、チョコレートがありますネ 〜。それとオレンジ……」

ん?

チョコレート?

オ レンジ?

テンプラってデザートみたいな奴だったかな?。

ま、いっか。

「の だめが作ってる間、リュカは向こうの部屋でテレビ見たりゲームしたりしてていいですヨ〜」

少しでものだめと一緒 にいたかったけどあんまりうろうろしてても邪魔になるだろうから、そうさせてもらうことにした。







ガッ シャーン!!

ゴトッガタンッ!!

……さっきから異様に騒がしい音がし てるんだけど……。

の、のだめは何をやってるんだろうか……。
ちょっと見に行ってみよう か。
……いや、そうしたら信用してないみたいでのだめが気分を悪くするかもしれない……。
ああ、でも気になる。

ど うにも気になってドアの前を行ったり来たりしながらうろうろとしていると。

「あつっっっ!!」

の だめの叫び声がしたので僕は慌ててキッチンに飛び込んだ。

そこには。
料理に使ったらしい汚 れた食器があちこちに転がっていて。
床は粉だらけで白くなってる。
しかもいろいろな食材がいたるところに散ら ばっていて。
……それはもう無惨な光景だった。

ど……どうして、あの短時間でここまでキッ チンを散らかすことができるのだろう……。

呆然としていた僕の目に入ったのは、床に膝をついて指を押さえている のだめの姿だった。

「のだめっ!!どうしたの!?」
「あう〜。ちょっと、油に指を突っ込ん じゃって……」
「何やってるの!!」

僕はのだめの腕をひっつかむと水道の蛇口をひねって ジャーと勢いよく流れる水にのだめの長い指をひたした。

「指……っ!!。指を早く冷やさないと……」

…… のだめが……ピアノが弾けなくなっちゃう。

のだめが水で指を冷やしている間に、僕は冷凍庫から氷を出してビニー ル袋に入れた。

「ほら、今度はこっちで冷やして……」
「あ、ハイ」

僕 はのだめの手を今度は氷にあてがった。
のだめはおとなしく僕のされるがままになっている。
掴んだ手首はあまりに も細くて。
お互いの息がかかるくらい顔がすぐ近くにあった。

……時間が止まったような気が した。

「もう……大丈夫だと思いますヨ……リュカ」

のだめが呟くよう に言った。
僕は慌てて彼女の掴んでいた手首を離した。

「あ……で、でもちゃんと冷やしとか ないと、火傷は後からズキズキくるし……」
「ハイ。じゃあ、しばらくの間、こうしときマス。……でも、夕食の支度が」
「そ んなの僕がやるよ!。のだめはじっとしてて!!」

ハーイとのだめは子供のように素直に頷いた。






結 局あれから僕はキッチンを片づけて(これが結構大変だった)、パスタを作った。
テーブルに並べると、わあ……とのだめが目を輝かせて 嬉しそうな声を挙げる。
そしてにこにこと幸せそうな顔をしながら食べてくれた。

「美味し い!!。リュカは料理が上手ですネ〜」
「そ、そうかな?」

レトルトのソースを温めただけだ けど。

「先輩も料理がすっごーく上手なんですヨ」

むかっ。

「一 番最初に作ってくれたのは……大きなマカロニみたいなのにブロッコリーがたくさん入った……」
「ミレリーゲ・アラ・パンナ・コン・ イ・ブロッコリ?」
「ああ、それそれ!その呪文料理デス!それがすんごく美味しかったんですヨ〜」

うっ とりとした表情ののだめに僕は思わず言う。

「そ、そんなの僕にだって作れるよ!」
「えーっ! 本当デスか?」
「もちろんだよ!。今日は時間がなかったからできなかったけど……今度また、食べに来てよ!ご馳走するから」
「ム キャ!。じゃあ、また食べに来ますからネ。楽しみにしてマス」

にこおっと笑うのだめを前に僕はこっそり背中に冷 や汗をかいていた。
……ママに教えてもらわなくちゃ……。







「の だめ、シャワー空いたよ」

僕がタオルで髪を拭きながら出ると、テレビを見ていたのだめはソファーの上で振り返っ た。

「ママが着替えをどれでも使っていいって言ってたし、タオルはそこに置いてあるから」
「あ りがとうございマス。……でも、指が使えないと髪が洗いづらいですネ……。リュカ、一緒に入ってのだめの髪を洗ってくれまセンか?」
「え…… ええっっ!?」

ガタガタッ!!。

僕は思わず後ずさり背中をピタッと壁 にひっつける。

そ、そ、そ、そ、そんな、の、のだめと一緒に入るだなんて……。

口 をパクパクさせている僕を見てくすっと悪戯っぽく笑うとのだめは言った。

「もちろん冗談デスよ」

…… な、なんだ……冗談か……。
び、びっくりした。
心臓が止まるかと思った……。

の だめが部屋から消えてしまうと、今度は浴室の方が気になって僕はちらちらとそちらをうかがっていた。
テレビがついてるんだけど、その 内容はまったく頭に入ってこない。
今頃は服を脱いだかな……浴室に入ってシャワーに手をかけた頃だろうか。
その 姿を想像するだけで顔が熱くなってしまう。

も、もちろん、覗いたりなんかしない!。
そんな 卑怯なことする訳がない。

……だけど……なんかシャンプーが切れかけていたような気もするし……。
の だめが片手で不自由してたらいけないし……。

なんとなく理由をつけて浴室の前まで行ってみようか……と思った瞬 間。

ベートーベンの曲が鳴った。
のだめの携帯だ。
しばらくためらった が、それを手にとって画面を見てみる。

chiakiと表示されていた。

な んだか無性にむかついた。
せっかくののだめとの二人きりの夜を邪魔されたような気がして、気がつくとのだめの携帯をマナーモードにし ていた。

「どうしたんデスか?」

後ろから声がして、慌てて携帯を隠し た。
風呂上がりののだめがきょとんとしたような顔をして僕の方を不思議そうに眺めていた。

「い、 いや、別に」
「さっき、のだめの携帯が鳴りませんでしたか?」
「そ……そう?。気がつかなかったけど……」

ふー んとそのままのだめは気にする風もなく、そのままキッチンの方に向かっていったので僕は大きく息を吐いた。







「リュー カ」

ママのパジャマを着たのだめが、僕の部屋のドアからひょっこりと顔を覗かせた。
そろそ ろ寝ようかなと思ってた僕は目をぱちくりとさせる。

「どうしたの、のだめ」

マ マのベッドじゃ使いづらいのかな。

「せっかくだから、一緒に寝ましょう!」
「えっ!?」

驚 く僕のベッドの隣にのだめがするっと忍び込んでくる。

「いや、でも、このベッド狭いからっ!!」
「詰 めれば大丈夫デスよ。絵本でも読んであげましょうか?」
「僕、そんなに子供じゃないし!!」
「じゃあ、何かお話 しましょう。リュカが怖い夢を見ないように」

……のだめって……僕のこといくつだって思ってるのかなあ……。

布 団に潜ったまま大きな瞳で僕を見上げてくすくすと笑うのだめは可愛い猫みたいだ。
あ……このシャンプーの香り。
い つもママが使っている奴だ。
嗅ぎ慣れている筈なのに、のだめからふんわりと漂うその香りはまるで別物のようで。

な んだかすごくドキドキする。

のだめが知らない女の人に見える。

「のだ め……」
「ん……何ですか……?」

話をしようと言ったのはのだめの方なのに、ベッドに入っ た途端もう眠気が襲ってきたみたいだ。
もう目がとろんとしてきてる。

「僕のこと……好 き……?」
「もちろん好き……デス……よ」

のだめの瞼が閉じられる。
枕 に頭を押しつけてふふっと笑うとムニャムニャと呟いた。

「リュカ……だあい好き……デス……」

そ のままくうと寝息をたて始めた。
最後に浮かべた微笑みはそのままで……幸せそうな寝顔。

困っ た……。

どうしよう。

好きな女の子にこんなこと言われて何もしない男 なんていないと思う。

僕はごくりとつばを飲み込むとゆっくりとのだめに顔を近づけていった。

後 少し……後少しで唇が触れ合おうとしたその瞬間。

のだめがうーんと唸って身動きした。
その 唇から出た言葉は。

「……ちあき……せん……ぱい……のつぎに……」

幸 せそうにまたにっこり微笑むとのだめはまた夢の中へ戻っていった。
僕はしばらくの間動けなかった。

そ して倒れ込むようににベッドにごろっと横たわる。

なんだよ。

……結 局、チアキの次なのか。

どうしてだよ。

僕だってこんなにこんなにのだ めのことが好きなのに。

どうして彼女はチアキがいいんだろう。

どうし て。






ふ と気がつくと、のだめが握りしめていた携帯がチカチカと光っていた。
ああ、そういえばマナーモードにしてたんだっけ。

僕 はのだめを起こさないようにそっとのだめの指から携帯を外すとそのまま耳に当てた。

『おい、のだめ。どこにいる んだ?。部屋にもいないしさっきから全然電話が通じないし……』

男の声が聞こえた。
多分チ アキだ。
気がつくと僕は携帯に向かって話しかけていた。

「のだめは今日そっちに帰らない よ」
『え?』
「のだめは僕のベッドで隣に寝てる。これから一緒に朝まで過ごすんだ」
『ちょ…… ちょっと……お前誰?』
「悔しいだろ、ざまーみろ!。バーカバーカバーカ!!」

僕は携帯に 向かって思いっきり暴言を吐くとそのまま電源をオフにした。
チアキが訳がわからないといった表情で携帯を見つめて呆然としてる姿が目 に浮かぶようだ。
慌ててかけ直そうとしても電源を切ったからもうこの携帯にはかからない。
チアキがつながらない 電話に業を煮やしてありとあらゆるつてで一晩中のだめを探し続けるのかも知れないと思うと少し気がスッとした。
いずれターニャあたり くらいからここに電話があるのかもしれない。

まあ、でもそんなことは知った事じゃない。

い いじゃないか。

お前はいつもこの寝顔を独り占めしてるんだろ?

今日一 晩くらいは僕だけのものにしたっていいじゃない。

僕はのだめの隣に潜り込んだ。
静かに寝息 を立てながらぐっすりと眠り込んでいるのだめの顔を間近に見ながら目を瞑る。
このまま彼女の香りとぬくもりに包まれて朝を迎えたい。




今 夜はいい夢が見れそうだ。










終 わり。