RRRRR…
RRRR…
「…はい。もしもし…。」
「Ein
frohes Neues Jahr !あけま〜して、おめでとうござ〜いマス。将来ゆーぼーな若手ナンバーワン指揮者さ〜ん。」
「……
何の用事だよ。」
不機嫌なマエストロ 10-1
2011
年元旦。珍しく雲ひとつない快晴の朝。
俺の年明けは、ハイテンションな迷惑な電話から始った。
「う
〜ん、気持ちが洗われるような清々しい朝ですね〜。新年の始まりにふさわしいデース。」
「…。」
「どうしたんで
すか?チアキ。そんな不景気そうな顔してますと、今年もツキを逃しますよ〜。」
「…誰の所為だと思ってんだよ…。」
ま
だ昇ったばかりの朝日がやけに黄色く感じる…。
当たり前だ。寝たのは空が白みかけてからなんだから。
「い
や〜ん、しんちゃん不景気だなんて…。」
「すまいる、すまいるぅ。」
きゃ〜と女性の黄色い声が一気に上がった。
「こ
んなに美しい女性に囲まれながら新しい年を迎えられるなんて、幸せ以外のナニモノでもないデショ?この幸せを恵まれない弟子に分けてあげようと言う親心
を、何でわからないのですかね。」
その老紳士はそう言って笑った。
クソジジイが…。
俺
がジルベスターコンサート明けだって、わかって言ってんだろ。
寝不足と疲労で頭がガンガン
する中、シュトレーゼマンに呼び出されて、仕事開けのホステス集団との初詣に借り出された。アルコールの残り香と、香水の匂いが混じって、余計に頭をクラ
クラさせている。
着物姿が多く見られる初詣の参拝客の中では、この集団ははっきり言って異様だ。
「そ
う言えば、しんちゃんテレビに出てたんでしょう。」
「えー、見てない〜。」
「当たり前でしょう。私達は仕事して
いたんだから。」
両腕には化粧の濃い、若いホステス達が腕にぶら下がっていた。
「僕は見ま
したよ。『ジュピター』は良かったですね。特に4楽章。いい音鳴らしてましたよ。」
「ジュピター?平原綾香?」
「違
うわよ〜、しんちゃんならクラッシクよね。ホルスト…イだっけ?」
両隣で大声を出され頭がクラクラする…。
「ふ
ふっ、違いますよ。」
「モーツァルトですよね。モーツァルト最後の交響曲…。」
落ち着いた柔らかい声が後ろから
聞こえた。
「さすが、志保子ママですね。ちゃんとチェックしてある。」
シュトレーゼマンの
腕にそっと手を添えて、着物姿の上品そうな女性が微笑みながら寄り添っていた。
俺ははーっとため息を吐いた。
「どー
せ、ちゃんと見てないで遊んでいたんだろうが…。」
俺がそう小さく呟くと、隣の髪の長い女が高い声を出した。
「えー、
ミルヒーはカウントダウン、いなかったわよね〜。」
「そうそう、閉店直前に来たんじゃなかったけ?」
俺がシュト
レーゼマンの方を振り返るとニッコリと笑われた。
早い時間に関わらず、目的の神社は参拝客
で混みあっていた。
最初は明治神宮だの、川崎大師だの言ってたんだよな…。そんな殺人的に混み合うところなんて
行けるものか。
順番を並んで賽銭箱まで辿り着くと、いつの間にかジジイと俺が二人だけで並ぶ形になっていた。
「何
を祈るんですか?」
「ふふ、内緒です。チアキこそ、何を願うんですか?」
願
い…か。
俺は恵まれすぎているくらい、恵まれているしな…。
結局、あ
の日から一度も、のだめとは連絡を取り合っていなかった。
あの日の翌
々日、宅急便で俺の貸していた資料が届けられた。そこには手紙も同封されていて、
---巻き込んでしまってスミマセンでした。
そ
う書かれていた。
それはどう云う意味なのか考える余裕がなくなるくらい、俺は年末のコンサート準備の大詰めを迎
えていた。
---あの記事に関しては…俺自身は何も影響はなかった。
オ
ケのメンバーが、そんなゴシップ記事を口にするのは恥だと思いそうなインテリ集団だった所為か、
それとも、音楽家にとっては色恋沙汰
などは日常的な範疇なのか…。
内心はどうであれ、直接好奇の目で見られたり、話題にされたりはしなかった。
し
かも、年の暮れに発売されたとある雑誌では、これからの活躍が期待される人物とやらに載っていたらしいし…。
あ
いつは、どうなんだろうか…。
…もし、本
当のことが書かれていたら、ああ、これは本当のことだなあって思いマス。
……もし、事実と違うことが書かれていたら、ああ、こ
れは違うことだなあって思いマス…
本当のこと…、あの男はのだめを心から愛しているとい
う事。
そして、その思いをまっすぐにのだめに伝えたという事。
そし
て、俺はそれを目の前で見ていたという事。
……俺は、自分の好きな女が目の前で求愛されているのを、
…
ただ見ているしかできない、
…そんな男だという事。
そ
れだけだ。
俺が手を合わせ
て祈る事は、
…あいつがどうか幸せでありますように…
それしかなかった。
も
う充分に苦しんだのだから、これ以上苦しまなくていいはずだ。
そして…
隣に誰が居ようと、
居まいと、
とにかく幸せであって欲しい。
キレイ事抜きで、そう思
う…。
「ミルヒーおみくじ引きましょうよ。」
「し
んちゃんも…。」
俺は腕をつかまれて、ずるずると下に引き摺られていった。
太
陽が高く昇る頃、みんなで甘酒を飲み、やっと解散となった。
あの女性達だって、夜通しで働いていたわけだから疲
れているんだろうに…。
女性達を見送った後、やれやれとため息を吐いた。
彼女達の姿が小さ
くなるまで、シュトレーゼマンは手を振っていた。
手を振り終えると、俺の方を振り向いた。
「さて、千秋。もう一
件付き合ってくださいよ。」
「はあ?」
俺は口をぽかんと開けた。
「これからがメインイベン
トなんです。」
「何言ってんですか…。」
これ以上何をしろって言うんだよ。
寝不足と疲労で
いい加減、身体に力が入らなくなっているのに…。
シュ
トレーゼマンは近くに止まっていたタクシーを呼び止め、乗り込んだ。
「それにしても…いつまで日本に居るつもり
ですか?いくら第一線を降りたとは言え、遊んで暮らしている訳にはいかないんでしょう?」
怒涛のエリーゼの姿が頭を過ぎった。
「そ
れはそうです。そんな事していたらエリーゼに殺されます。」
シュトレーゼマンはふっと笑った。
「今からがこそ、
最大の仕事です。」
「仕事?」
俺は顔をじっと見た。
ジジイは意味ありげに微笑んでいた。
「い
いですか、一番上質な服を選んでください。華美ではなく、シンプルでありながらも上質なシャツに靴…。」
シュトレーゼマンは、俺の家
に乗り込んできてそんな事を指示してきた。
「上質…。」
「そうです。それを身に付けたら出かけましょう。あ、帰
りは私と同じホテルの部屋を用意しておきましたから…。もちろんシングルですけど…。」
「…。」
「さて、向いま
すか。」
「なら、車出しますよ。」
俺はキーを取り出した。
するとヤツは指を立てて横に振っ
た。
「ノーン。それではアルコールが飲めません。ハイヤーを手配してください。」
「は…?」
そ
の後、我侭なじいさんは手配したハイヤーに乗って、自分のホテルに戻り、身支度を整えた。
するとやけに大きな荷物を持ちだしてきた。
「な
んですか?その荷物は。」
「生活必需品です。」
「今は…必要ないじゃないですか・・・。」
「で
も、いつ何時に必要になるのかわからないデショ。」
どう考えても、泊まってくる気が見え見えだろうが…。
俺
にそれを持たせて、本人は悠々とエレベーターに向っていった。
はあ…再びため息が出た。
ハ
イヤーの中、いい加減目的を聞かせろと俺はジジイに詰め寄った。
「日本の有力者の新年会で
す。有名人やら経済人やらの資本家の集まりですよ。」
シュトレーゼマンはそう言った。
「何しに、そんな所に行く
んですか?」
「スポンサーをみつけるんですよ。音楽家はこのような機会を大切にしなければ、活動なんて出来ないんですよ。」
「そ
れはそうですけど…。」
「今年は日本で大きな音楽祭を開きたいんです。その賛同者を集める事が、今回の来日の大きな目的なんです。」
「音
楽祭…。」
「そうです。最近、日本も面白くなりましたからね…。」
そう言って、その巨匠は窓の外を眺めた。
「千
秋だって、損はないでショ。ここで顔を広めておくんですよ。」
外を見たまま、そう言葉を投げかけられた。
表
参道の賑やかな通りを抜けると、閑静な住宅地に入る。
その中の古い格式のある一軒の洋館が目的の会場であった。
門
を入ると、手入れが行き届いた庭園が広がり、正装した大勢の人が飲み物を片手ににこやかに会話をしていた。
家に入るとすぐに受付が設
けられていた。横にはクロークまでも備わっていた。
黒いタキシードを着た係の人間は、俺の横の存在に気がついて駆け寄り、大荷物を預
かってくれた。
「ほほう。部屋まで使えるんですか。」
真鍮の鍵を手に持ちながら、世界的な巨匠は感心していた。
俺
はそいつに鍵を手渡されて部屋に向かい、荷物を置いた。後から先ほど預けていた大荷物もすぐに届けられた。
部屋
はダブルベッドの置いてある、ホテルのような造りだった。
奥にはバスルームもあり、ここで泊まる事もできそうだ。
俺
は部屋に鍵を掛けると受付に向かい鍵を預けた。
そして、パーティー会場へと向った。
家の中心は3階まで吹き抜け
ている広く開放的なスペースになっていた。
そこは立食形式のパーティー会場のようになっていた。
和洋中、様々な
料理が立ち並び、中には職人が目の前で調理しているスペースもあった。
「どうぞ…。」
黒いスーツを着たボーイが
俺の目の前に飲み物の置いたトレーを差し出した。
「ありがとう。」
俺は赤ワインの入ったグラスを受け取った。
聞
きなれた笑い声が聞こえて、そっちを振り返った。
ジジイはワインを片手に、すっかり若い女性と会話を楽しんでいた。
お
い、営業はどうした…。
ぐるっと辺りを見渡すと、見慣れた顔が沢山あった。
元首相、有名政
治家、グループ企業のトップ、大御所タレント…。
すっげー…。
「あ、
千秋。」
俺に気がついたシュトレーゼマンは向うから手招きをしてきた。
俺は早足でそっちに向った。
「あ
あ、新東響の…。」
ジジイの前の初老の紳士が、俺の顔を見ながらそう言った。
「はい。千秋真一です。」
俺
は頭を下げた。
「そうでしたね。彼はマエストロの唯一の弟子でしたよね。」
そう穏やかに言って、その男はシュト
レーゼマンを見て微笑んだ
「初めまして。東横音協の横田です。」
東横…日本最大の音楽会社の…会長。
横
田さんは俺に向って右手を差し出した。
「は、初めまして。」
「よろしく。」
俺も手を差し出
し握手を交わした。
「嬉しいね。若手ナンバーワンの君に会うことができるなんて。」
「光栄です。」
日
本の音楽の発展に深く貢献してきた巨大な組織のトップは、普通の面持ちで、気取りがなく、実に謙虚な人だった。
「あ、
横田さん。あけましておめでとうございます。」
絶え間なくこの人の周りには人が集まってくる。
「おめでとうござ
います。今年もよろしくお願いしますね。」
横田氏はにこやかに皆に挨拶をしていた。
「それにしても、昨年も大い
に飛躍をした年でしたね。」
はははと低い笑い声がこの輪に広がった。
「そう、ピアノデュオ
の…ゼフィールは大当たりでしたよね。」
ある男の言葉に俺は顔を上げた。
「あれも、横田さんの企画でしたよ
ね?」
「そうでした。横田さんの一押しで実現したって噂ですよ。」
シュトレーゼマンは俺の方をチラッと見た。
「非
常に面白いと思ったんですよね。想像以上の成果でして…私自身もここまでとは想定外でした。」
横田氏は誇らしげに語った。
「そ
う言えば…最後の最後まで話題が尽きませんでしたよね。」
「ああ、あれですよね…。」
俺の前の男たちが含み笑い
をしながら、そんな話をし始めた。
「日本人では、できませんよね。」
「いくら時代が変わったと言ってもね…。」
「…。」
俺
は思わず下を向いた。
…NODAME Je l'aime…
「面
白い男でした。若いのに自信に満ち溢れていて、スマートで紳士的でありながらも、内側は大きな野望を抱えていて…実に骨っぽい青年でしたよ。本国でも話題
に昇っているらしいしですよ。」
横田氏の話に、皆、ほ〜うと感嘆の声をあげながら耳を傾けていた。
「で、あの後
はどうなったんですか?」
一人の男が興味本位で聞いてきた。
…Veuillez
m'epouser
「さあ…本人同士の話なので、私は何も…。」
横田さん穏やかに微笑み、
かわした。
「そういえば、あの日本人の女の子はどうするんですかね。やっぱり、彼を追ってフランスですかね。」
「な
んともロマンティックな夢物語にでてきそうな話ですよね。」
「さながら白馬に乗った王子様ってところですかね…。」
俺
は冷静を装いつつもかなり動揺していた。
もう、割り切ったつもりでいたのに…まだ傷は生々しいままだ…。
俯いた
まま、顔を上げられなかった。
自信に満ち溢れた…あの姿…。
俺の瞼の
裏にはスポットライトに照らされた、あの男の後ろ姿がしっかりと焼き付いていた。
…
そう言えば、ここでも、あの話題は出てこないのか…。
知らないのか、避けているのか…
…まあ、ここで見かける顔
の人物たちは、あの手の話題の恰好のターゲットばかりだからな、
その話はタブーなのかもしれない…。
「そ
れはどうでしょうね…。こちらとの契約は昨年いっぱいでしたから、それ以降の事はわかりません。でも聞くところによると、彼女自身も仕事のオファーが殺到
しているらしいみたいですよ。国内外問わずに。」
横田氏は穏やかそう応えた。
「ほほう、そうですか・・・。確か
に日本人の女性ピアニストにしては、かなり情熱的で力強いピアノを弾きますからねえ…。興味惹かれますね。」
「男性にも負けてないで
すからね。あの迫力は。オーケストラとの共演も、是非聴いてみたいものですなあ…。」
その言葉に胸の鼓動が激しくなった。
「そ
れは私も聴いてみたいものですね。」
横田氏はそう言って微笑んだ。
「そ
う、ゼフィールの二人もこのパーティーに誘ったんですよ。」
「へえ。」
「そうですか。」
皆
が反応した。
「ええ。野田さんとは先ほど会ったのですけどね…。」
…
のだめが……いる?
ガチャン。
「…あ、失礼。」
俺はワインを落としそ
うになった。
シュトレーゼマンは何か言いたそうな視線で俺を見ていた。
「では、横田会長。また後ほど…。」
ト
ンと肩を叩かれて、ハッと我に返り、シュトレーゼマンと目が合った。
「ええ、マエストロ。お話できて光栄でした。」
二
人は握手を交わしてその場を去った。
「のだめちゃんは、どこにいるんですかね?」
耳
元でそう言われた。
「…。」
俺は呼吸を整えた。
…今更会って…どうすんだよ。
そ
れに、どんな顔して会えばいいんだよ…。
「ああ、千秋。僕お寿司食べ
たくなっちゃいました。取って来てください。」
「は?」
「大トロと平目、お願いします。」
そ
う言って、こいつは前を指差した。
俺は職人が直接握っている寿司コーナーで、列に並んでいた。
「あ、
すみません。大トロ終わっちゃたんですよね。」
短髪の職人は済まなそうにそう言った。
「そうですよね。じゃあい
いです、普通のトロで。」
ジジイがさっきいた場所に戻ると、背中の大きく開けたドレスを着た夫人と仲良さそうに
話していた。
「マエストロ。ご希望のものを持って来ました。」
「おおう、ありがとう…。」
俺
の渡した皿をじっと見つめた。そしてキリっと俺を睨んだ。
「チアキ…。これは大トロじゃありません。」
「そうで
すか?」
「僕は大トロが食べたいって言ったんですよ。」
「じゃあ、自分で取って来て下さい。」
そ
のいい年をした老人は、あからさまにむすっとした顔をした。
「まったく…。弟子失格です。破門です。」
「そうで
すか…。」
それは好都合だ。こっちも散々振り回されているんだから…。
俺はもう何もかもどうでも良くなってきて
いた。
「じゃあ、いいです。自分で取ってきます。」
「そうして下さい。」
シュトレーゼマン
はプリプリ怒りながら、俺の横を通り過ぎていった。
…ったく、大人気ない…。
俺は今日、何
度目かのため息を吐いた。
疲れがどっと出てきて身体がだるい。
売り込みはいいから、早く解
放してもらいたいものだ…。
「のだめちゃー
ん。」
すぐ後ろから、間抜けな声が聞こえた。
俺はすぐさま振り返った。
黒
いシンプルなドレスを身に纏った、栗毛色の後ろ姿が目に入った。
「…。」
頭がさーっと真っ
白になり、呆然と立ち竦んだ。
その後ろ姿はスローモーションを見ているかの如く、ゆっくりとこちら向って振り向いた。
「あっ…。」
目
が合った…。
のだめは一瞬固まったようにこっちを見ていたが、すぐに頭をぴょこんと下げた。
俺も軽く頷いた。
「そ
れにしても、のだめちゃん。今日のドレスもよく似合っていますよ。」
「あ、ありがとうございます。コンサートの成功を記念してって、
社長からのプレゼントなんです。」
「こんなに大人っぽい服も着こなせるようになったんですね〜。」
「え、そうで
すか?」
シュトレーゼマンは終始笑みを絶やさなかった。
「そう言えば、あなたのパートナーは今日は来てないんで
すか?」
「えと…あ、リュカですか?今日は遅れて来るって言ってました。レコーディングの打ち合わせとかで…。」
「ほ
ほう。お忙しいんですね。」
「…。」
二人の会話を俺はただ聞いているだけだった。
何が起
こっているのか…まるで遠い世界の出来事のように感じてしまう…。
あの時に感じた、客席と舞台の距離のよう
に・・・。
「先輩も招待されていたんですか?」
のだめはいつもの通りの調子で、俺に話しか
けてきた。
一瞬ドキッとしたのだが、すぐに気を取り直して答えた。
「…招待って言うより、強引に連れて来られ
た…。」
俺がこう言うと、隣の老人は横目で俺を見た。
「そう言えば、先輩、オーチャードホールのジルベスターコ
ンサートに出演されていたんですよね。のだめテレビで見ましたよ。」
「えっ。」
「素敵でした。」
「あ
りがとう…。」
あまりにも普通の会話なので、逆に困惑してしまっていた。
会
いたかった……話をしたかった…。そう、本当はこれを望んでいたはずなのに…。
なさけねーな、言葉が出てこない…。
「の
だめちゃん。もっとお話したいのですが、僕はあちらの方々とお話があります。また時間があったらお話しましょう。」
不意にシュトレー
ゼマンはそう言って、のだめの肩に手を置いてビズをした。
「あ、はい。では、後ほど。」
のだめは笑顔でそう応え
た。
「じゃあね、チアキ。」
意味ありげに微笑んで、その男は去って行った。
「…。」
…
ジジイ…。
シュトレーゼマンの見えすいた思惑に、大きな戸惑いを感じてしまった。
「あ
の…。」
そんな俺に、のだめの方から声をかけてきた。
「…ん?」
俺はのだめの方を見た。
の
だめは俺の顔を、真っ直ぐと見上げていた。
そして、少し俯いた。
「…どでしたか?…ラストコンサート。」
少
し遠慮がちにそう尋ねてきた。
スポットライトに浮かぶ、晴れ姿。
圧倒
されるピアノの音。
飛び交う歓声、拍手の波…。
絡み合う二つの音。
舞
台の上で完成された愛の形の音…。
…あの音が再び蘇る…。
「…
うん。良かったよ。本当に。」
「ほんとですか。」
のだめの表情は光が射したように一気に明るくなった。
「あ
あ。ここまでのピアノデュオは聴いた事は無かった…。」
これは本当の話だ。
そ
う。一つの芸術として見れば、文句なしに最高の出来栄えだった。
ひとりのピアニストとして見れば、本当に素晴らしい演奏だった。
「先
輩にそう言ってもらえる事は、のだめにとって最高に幸せな事なんです。」
俺を見つめる大きな澄んだ瞳は、少し潤んでいた。
…
お前は今でも、俺の言葉を待っているのか…?。
「そだ。のだめ来月ソ
ロコンサートやるんですよ。」
「そうなの?」
「はい。秋くらいにお話があって、少しずつ準備してきたんです。」
「そ
う…。」
何でだろう。
嬉しそうに報告するこいつの顔を見ていると、つい俺たちは、昔のまま
じゃないのかと錯覚をしてしまう。
一緒にいることが当たり前だったあの頃の…
そのままじゃ
ないかと…。
「銀座のジュエリーショップが共催でバレンタイン企画のイベントを行うんです。そのトリを飾る事が
できまして…。」
「へえ、すごいじゃん。」
「はい。夢のようです。」
のだめは頬を赤らめな
がらニッコリと笑った。
さっきまで話題の真ん中にいた人間のくせに、妙に初々しい。
…やっぱり、ここは変わって
いないんだな。
「…聴いてみたいな。」
「え?」
「お前のコンサー
ト。」
「ホントですか?」
のだめは一瞬花が咲くように笑った。
でも、すぐにそれは消えた。
「…
あ、でも…。」
顕著に戸惑うこいつ。
「いいだろ。コンサートに行くくらい。普通にチケットを買って行くから…。
いつなの?」
「え?」
ただこいつのピアノを聴きに行くだけだ。
誰も文句を言えまい。
そ
う、俺はこいつのピアノの…
…こいつのピアノのファンの一人であるんだ…。
…それだけだ。
「そ
んな、買わなくていいですよ。ぷ、プレゼントしますよ。」
のだめは頬を赤らめて、手のひらをこっちに向けて横に振った。
そ
して、照れながらも嬉しそうな顔をした。
「嬉しいです。そう言ってもらえて。のだめだって先輩には聴いてもらいたいと思ってましたか
ら…。」
嬉しいか…。俺が演奏を聴きに行くと言えば喜んでくれて、良かったよ、と言えば幸せだと思う。
…
俺もこいつに俺の演奏を聴いてもらえれば嬉しいと思うし、良かったと言われれば、幸せだと思う。
そう、俺たちに
は音楽の絆がちゃんと存在するんだ。
この絆は誰にも邪魔される事はない。
そ
んなささやかな事実が、今の俺には大きな喜びであった。
「むん。で
は、頑張らないといけませんね。これが本当に日本で最後の…。」
のだめはそこまで言って、口を閉じた。
俺ははっ
として、のだめを見つめた。
最後?
「あ、えと…。」
目
を逸らしながら、言葉を探す…。
「最後って…。」
「えと…。」
「日本
を…出るのか?」
「え…。」
のだめは目を大きく見開いた。
「…どこに…行くの?」
動
揺を抑えつけながら、言葉を出した。
「あの…。」
「お前…。」
どこ
に?
…あいつと一緒に…?
の
だめは俺から視線を外し、キョロキョロと泳がせていた。
「あっ。」
不意にこいつは大きな声
を出した。
「…何?」
のだめは俺の後ろを見ていた。
「…お肉…。」
「は?
肉?」
意外な言葉に俺の思考は固まってしまった。
「そうです。宮崎牛、また再開しまし
た。」
「は?」
俺が振り返ると、向こうの方で鉄板の上で肉が焼かれているのが目に入った。
「の
だめ、取って来ます。」
「え…。」
「だって、美味しかったんですよ。柔らかくて、蕩けるようで…。九州にいたっ
て滅多に食べられないんですよ。東国原知事も大プッシュしてる宮崎牛ですし!!」
目の色が違う。本気で言ってんだ…。
「先
輩も食べます?」
「いや、俺は…。」
「じゃあ、のだめ行ってきます。早く行かないと無くなっちゃうんですよ。
さっきは一切れしか食べられませんでしたから。」
のだめはむんっと鼻息を荒くして、握り拳を作った。
すでに鉄板
の前には人が集まっていた。
こいつの今日の衣装は…何処から見ても高級なブランドのものだ。
細
い肩紐のシンプルなドレス。上品に露出された白い肩や胸元、身体のラインに軽くフィットして、膝下までの丈。そして、細長い高いヒールの靴…。
い
つもは無造作に跳ねさせている髪も今日はタイトに整えられていて、化粧もきちんと施されている。
薄いピンク色の唇は深紅のルージュが
引かれていて、実年齢よりも落ち着いて見える。
そんな女が肉を目指してまっしぐら…。
「お
い。」
「はい?」
「俺が行く。」
「え?」
「お前は待ってろ。」
しょ
うがねーなー。
「いいんですか?」
「…ああ。」
「じゃあ、わさび醤油と岩塩、ゆず胡椒を
持ってきてください。」
「は?」
「さっきはガーリックソースしか食べてないんですよ。」
「…。」
し
かし、そこはすでに熾烈な争いとなっていた。
真っ直ぐ行けば長蛇の列。
これじゃあ勝算はないな…。
俺
がため息をついていると
「先輩、こっち…。」
のだめが後ろから囁いた。
「…
なんでこんなところ。」
「だって、ここから行けばすぐ目の前なんですから。」
「…お前、さっきもここを通ったの
か?」
「はい。もちろんです。」
「…。」
前を見れば人の足が見える。俺たちはじゅうたんの
床を這って、テーブルクロスの中を通っていた。
お前、その服…いくらすると思ってんだ?
「む
きゃ。もうここも並んでます。」
「諦めろ。」
「えー、せめてゆず胡椒…。」
必死に訴えるよ
うな目で俺を見上げた。
「……。」
「お願いします先輩。」
「…。」
「む
ひゃ〜ありがとうございます。」
「…ったく…。散々な思いだったぞ。」
「でも、三皿も。すごいですね先輩。」
「こ
んな事で誉められたくない。」
のだめはお構い無しで、俺の手から一皿を取った。
「ゆずこしょう〜。」
そ
して大きな口を開けた。
「おいひ〜です。」
「…。」
相変わらずだな…
この顔。
本当に幸せそうな顔をして食べる。
どんな格好していても、この笑顔は変わらない。
ふっ…
俺は思わず顔が緩んだ。
・・・好きだったんだよな。この顔。
この顔が見たくて、いろいろと
あれやこれやと作ってやったりして…。
…これが本当に日本で最後の…。
…。
「先
輩も食べませんか?」
「いや、俺はいい…。」
「何でですか?」
のだめは不思議そうに俺の顔
を覗き込んで言った。
「疲れすぎて…食欲無い。」
「…あ、そうですよね。昨日は夜中まで振ってましたから…。」
の
だめは最後の一皿、わさび醤油の皿を持った。
「では、のだめが食べちゃいますね。」
「どうぞ。」
箸
で摘んで、口を大きく開けて…。
「すげーな。大物政治家が何人も居るぞ。」
「あ
れって女優の…。」
明らかに空気の違う二人の男が目に入った。
あれって…。
--
---すみません。野田恵さんとの関係について、ちょっとお聞きしたいのですが…
「あっ。」
の
だめの皿が俺の服にぶつかった。
「うわっ。」
「すみません。」
見事に醤油の茶色が白いシャ
ツに広がった。
「あ、あ。」
のだめは席に皿を置き、近くにあった台拭きでその汚れを拭いた。
「おい、あの料理うまそうだぞ。」
「ほんとだ…。」
だんだん声が近づいてくる。
「先
輩、こっち…。」
のだめは俺の手首を掴んだ。
「え、おいっ…。」
続
く(written by 茶々)