不 機嫌なマエストロ 10-2




とんとんとん…。

「な かなか、落ちませんね。」
「いいって、気にしなくて…。」
声が反響する。
「でも…。」

あ の二人。たぶん、例のゴシップ記事を書いていた連中だ。ここ最近よく見かけていた。
のだめももちろん、気がついたに違いない。
俺 たちは、あいつらの目を盗んで会場を抜け出して、鍵の掛かっていない客間の一室に二人で忍び込んだ。

そこには荷 物がなかったので、誰も使っていないようだ。
部屋の真ん中のバスルームへと入り込み、
そこでのだめが一生懸命、 シミを落とそうとしていた。

「いいってば。」
「良くないですよ。これって高いのですよ ね。」
「え…?なんで?」
「だって、肌触りがちがいますもの。それにこのシャツは、のだめは触らせてもらえませ んでしたから…。」
「は?」
「感触でわかるんです。」
「…。」

な んだかな…。

でも、これが本来のこいつなんだ…。
…変わってないのか…。

… それが無性に嬉しかった…。

上からこいつを見下ろすと、丁度剥き出しになった白い肩が見える。
首 筋から肩に掛けてのライン。鎖骨までのライン。

きれいなんだよな…。

で も…あの頃より若干細くなっているような気がする。
お前、ちゃんと食べてるのか?



「あ あ、落ちません。付いたばかりなんですけどね。」
「…いいよ。シャツくらい。」
「でも…。」
の だめは眉間に皺を寄せた。

その時であった

ガチャン
ド アが開く音…。



「トイレー。」
ガヤガヤ…。
「お い、田中〜、そっちは違うぞー。」
「ういーっす。おじゃましましたー。」

バタン。



…。
「は あ、びっくりしました。」
「…って言うか、なんでここ…。」
俺たちはバスタブの中に身を屈めていた。
「隠 れたんですよ。」
のだめは俺の顔を見て、真顔で言った。
「なんで?」
「だって、まずいです よ。こんな所を見られたら。」
「…。」
こいつはさっきからずっと回りを気にしている。

「… 別に気にする必要ないだろう。何もしてないんだし…。」
「そんな事ないですよ。さっきだって記者さんが紛れ込んでいましたし…。どこ で誰が見ているかわかりませんですから。」
やっぱり、気がついていたのか。
「今回のパーティーはマスコミは出入 り禁止のはずなんですけどね…。どうしているんでしょう?」
「そんなの…あんなんだったら、どこからだって入り込めるだろう…。」
俺 は広いバスタブの中で、座り込んで足を伸ばした。
「…なんで、こそこそしないといけないんだよ。」
「なんでっ て…。」
「別に悪い事はしていないだろ。」
そうだ、ただ会って会話して…それだけの事だ。

「そ んな事言ったって…先輩はオケを引っ張っていく責任ある立場なんですから、余計な波風は立てるべきではないんですよ。」
こいつは真面 目な顔で、そう言った。
「波風って…そんな事お前が気にする事じゃないだろう。それにきちんと仕事をして結果を出せば、誰も何も言わ ない。」
「そですけど…でも…。」
「勝手に言わせておけばいい。」
俺は無性に腹が立ってき た。
「言いたい奴に勝手に言わせておけばいいんだよ。」
吐き捨てるように言った。

「… そんな…。」
「何?」
のだめは俯いた。
「…先輩は、何も知らないから…そんな事言えるんで すよ…。」
「…え…?」
「…どんな思いをするのか…知らないから…。」
そう言って、身体を 小さく丸めた。
「…のだめ?」
「…。」
膝に置いたこいつの手はギュッと握りしめられて、小 刻みに震え出した。
「お前…もしかして…。」
「…。」

「…辛いん…だ よな。やっぱり…。」
「え?」
のだめはパッと顔を上げた。
「ずっと…一人で…苦しんで…… ずっと…。」
俺の顔を見て、のだめは驚いていた。
「あ、いえ、えっと…。」

日 本に来てからずっと、
人の好奇の目に晒されて、言いたい事言われていて…。
こいつは無邪気にただピアノを弾くの が好きで、人の前で演奏をするのが好きで、
ただそれだけなのに、周りが勝手に騒いで…。

そ れだけじゃない。オーストリアにいた時だって、濡れ衣を着せられて、後ろ指さされて…。


こ いつは俺の前では平気だって言っていたけど、そんな事はないんだ。
実はずっと、ずっと苦しんでいて、

今 でも苦しんでいて…。

「だから…日本を出るのか?」
「え?…あ、いえ…その…。」
の だめの目が泳ぎ始めた。
「…もう、帰ってこない…つもり…?」
俺は真っ直ぐこいつの目を見た。
こ いつは大きく目を開き、そのまま視線を返した。
「帰ってくる気はないんじゃ…。」
「いえ、そんな事は…。」
の だめは目を逸らした。



もう、会えなくなる?
い や、音楽を続けている以上、いつか再び会う機会は巡ってくるだろうけど…
また、離れなければならない?



身 体中の血流が激しくなり、カーッと熱を持った。

いいのか?
それで?
お 互いの音楽さえ聞こえていれば、
それだけで…
こうやって見つめあったり、会話したり、そんな事ができなくても、

い いのか?それで?

音楽の絆というものさえあれば、それだけで…
俺は満足なのか?

「先 輩?」

こいつの肌の感触や、体温や、匂いや、心臓の鼓動や、呼吸や、
そんなものを自分の肌 の感覚で感じる事ができなくても…

…いいのか?それで?俺は…

「せ…。」

嫌 だ。

そんなのは嫌だ。
…そんな事、俺は耐えられない。


俺 はこいつの身体を力を込めて抱き締めた。




この身 体を、声を、このぬくもりを、また再び感じられなくなるなんて、
-----俺は絶対に嫌だ。


あ の離れていた2年間…苦しくて仕方がなかった。
どんなに耳を澄ませても、あのピアノの音は聞こえてこなくて、
ど んなに話しかけたって、この声は聞こえてこなくて、
どんなに手を伸ばしても、この身体には辿り着かなくて、


色 鮮やかな景色を見ても、何か1色抜けているようで、
素晴らしい音楽を聴いていても、何か1音抜けているようで、
何 を見ても、何を聴いても、どこか何かが欠乏していて…。

心も身体も、この失ったものをずっと探し続けて、求め続 けていた。




「せ…んぱ…い?」
俺 の耳元でこいつの声が聞こえた。
少し腕を緩めて、顔と顔を合わせた。
こいつは俺の顔を真っすぐに見て、何か言お うと口を開いた。
その瞬間、俺は強引にその唇に口付けた。

自分を塞き止めていたものがバラ バラと崩れ落ち、一気にうねりとなって身体中を流れ出した。

緩んだ口元の中に自分の舌を押し込んで、抱きしめた 腕に力を込めて…
絶対に離すものかと力を込めた。

もう、自分を抑える事ができない…。


の だめは身体を固く強張らせた。こいつの手は俺の胸元でギュッと握り締められ、小さく震えていた。


奪 えるものなら全て奪ってしまいたい。身体も心も。
全て俺のものにできるのなら、力尽くでもそうしてしまいたい。
… そうだ、俺はずっとそう思っていた。心の奥底で、ずっと。

何度も諦めようとした。
自分が悪 いんだから。自分の所為なんだからと、自分に言い聞かせてきた。
こいつをどんなに苦しめたのか、悲しい思いをさせたのか、わかってい る癖に…。

誰にも渡せるものか。
どこにも行かせてなるものか。
…そん な身勝手な醜い思いが、今や自分の心を完全に支配している。




長 いキスの後、やっと唇を解放させると、のだめは大きく息を吐いた。
でも、腕は外せなかった。
瞳だけ動かして目と 目が合うと、すぐに再び唇を塞いだ。
そしてそのまま、こいつの背中をバスタブの底に身体を押し付けた。

両 腕でこいつの身体を固定して、手首を手で掴んだ。
そして唇を口元からそのまま首筋へと移していった。
のだめ固 まったまま、ぎゅっと目を閉じていた。

滑らかな白い肌が続く首筋、そしてくっきりと浮かび上がる鎖骨。
骨 ばったそこを唇で辿っていく。

…なにやってんだよ。俺は。
心の中で叫んだ。


何 で俺はいつもこいつを傷つける事しかできないんだよ。
泣かせて、怖がらせて、挙句の果てには力尽く…。

最 低だ…。

それでも、止まらない。
手首を握り締めていた手はウエストラインを辿っていた。
細 くくびれたそれはすっかりと成熟した大人のものだ。

…でも、頼りないくらいに細い…。

こ の身体で、あんな過酷な時を過ごしてきたのか?
いや、その日々によって、削ぎ落とされ続けてきたのか?

… そんなこいつに俺は何がしたいんだ?



さっきから闇の奥の方から、どす 黒いものが溢れ出しているのを腹の辺りで感じていた。
ドクドクと、次から次へ溢れ出てくる。

野 蛮な欲望と、切望と、独占欲……そして、激しい嫉妬。



そうだよ。俺は 今でもあの時の音が身体中に鳴り響いて、収まらないんだよ。

絡み合う音、指先、視線、そして身体…。
舞 台で見せたこいつの妖艶なる姿、官能的な表情。
それが、俺じゃない男によって見せつけられたと言う屈辱…。

愛 する女と絡み合っているのは俺じゃなく、自信に満ち溢れていて眩いばかりに輝いている、あの男。


今 まで、ずっと見守ってきたという自信。
何もかも理解しているという自信。
そして、様々な悪評や下劣な噂話を木っ 端みじんに砕くような、完全なるものを作り上げる自信…。

それまで、俺は自分こそがこいつのベストパートナーだ と、心のどこかで思い続けていた。
こいつを引き上げられるのは最後は俺なんだと…思い込んでいた。
自分の存在は いつまでも、こいつにとって大きいものだと、特別なものだという自惚れがあった。

あの時までは…。

で も…

湧き上がる歓声、見つめあう二人。
完成された二人の演奏。
今まで 見たこともないくらい輝きに満ちたこいつの笑顔が、全てを物語っていた。


あの時感じたの は、自分の存在が危うくなるくらいの、大きな敗北感だった…。






ひ とりのピアニストとしては最高の演奏だった----

---でも、そのピアニストは俺の最愛の女性だった。

そ の場にいたのは音楽を追求する一人の音楽家ではなく、単なる一人の男でしかなかった。



何 が、期待のできる若手の指揮者だよ。
何がこれからの日本のオーケストラの未来を創り上げていく希望の星だよ。

笑っ ちまう。
本人はある時間から動けなくなっている癖に、周りの評価だけが勝手に盛り上がっていく。

結 局は、嫉妬に狂って自分を見失っているどうしようもない男なんだよ。
愛する女を傷つける事しかできない最低な人間なんだよ。





耳 元は脈を打つ音が大きく聞こえる。
俺は力尽くでこいつを組み敷いて、何もかも奪ってしまおうとしている。
こいつ の身体を彷徨う俺の掌は、柔らかな布地を捲り上げて腿の外側を上へと辿っていた。
唇は鎖骨の下の露出されたデコルテの柔らかな部分を 押さえつける。

こんな事はなにも意味を成さないとわかっている癖に…。

いっ その事、突き飛ばされて、殴られて、泣かれて、俺の事なんて嫌いだって叫ばれればいいんだ。
もう二度と会いたくないって言われてし まったら、楽になれそうな気がする。




どうせもう 会えないのなら、
誰かのものになってしまうのなら…

こいつの思い出の中で、色褪せて薄れゆ く存在になるくらいなら、
------- 嫌われて、憎まれてでも、心の中に深く自分を刻み込みたい-------

心 の中の自らの叫び声にハッとした。そして、そのまま動けなくなった。

情けなさ過ぎる。最愛の女に最低な事しか出 来ない俺。
救いようがない…。

…それでもこいつに救いを求めている…。



の だめ、愛している…

…だから……俺を心の底から憎んでくれ…。




目 頭が熱を持ってきたその時、首の後ろに暖かく柔らかな感触を感じた。

……え?

俺 は我に返ってこいつを見た。茶色い瞳は俺の目をじっと見つめていた。
のだめは仰向けになったまま、手を伸ばし俺の首の後ろに手を回し ていた。

「…のだめ?」

のだめは優しくにっこり微笑むと俺の首に回し た手に力を込めて、首を少し上げて、
キスをしてきた。それも深くゆっくりと…。
絡みつく舌先が熱く感じる。

俺 はこいつの首を手で支え、ゆっくりと下に降ろした。


唇を離して顔を見ると、こいつの瞳は涙 が零れ落ちそうなくらいゆらゆらと潤んでいた。
そして、頬を少し赤らめながらも、俺の目をじっと見つめていた。

そ して、この時、こいつの気持ちが俺の中に流れてきた…ような気がした。

こいつの手が俺の肩に優しく掛かり、その まま腕を辿っていった。
手が触れるとお互い指を絡め合って、ギュッと握ぎりしめた。
そして、見詰め合うと、こい つは嬉しそうに微笑み、涙をほろりと零した。
胸の辺りが痛いくらいに熱い…。

今、俺の目の 前にいるのは、愛に身を焦がし、情愛の中で死んでいったイゾルデではなく、
真っ直ぐに俺に気持ちをぶつけて来た、あの頃と変わらな い、俺の知っているのだめである。

やっと、やっと、会えた…。

「ごめ ん…。本当に…。」
俺は今度は優しく、想いを込めて抱きしめた。のだめは俺の背中に手を回し、力を込めた。
そし て、震えながら俺の肩に顔を埋めて、泣いていた。

ごめん。本当に…ここまで来なければ、わからなかった。
こ こまで来なければ、向き合う事ができなかった。
お前と、自分自身と、
本当に失わなければ、分らなかった。
こ いつだけは失ってはいけないんだという事を…。


頬に流れたこいつの涙を唇で掬い取って、目 元にそっと口づけた。
大きな濡れた瞳は俺を捉え、そしてゆっくり目を閉じた。

   
俺 は慈しむように、愛しい女(ひと)の唇に、優しく口づけた。
その時、背中に回ったこいつの指先に力が入るのを感じた。







・・・・・・・・・・・


夕 暮れ時。東の空には一番星が輝き始めていた。



「リュカ・ボドリー様。 ようこそお越しくださいました。」
「お招きいただき、ありがとうございます。」


「お 着替え等ありましたら。こちらの部屋を使ってください。」
「merci beaucoup(どうもありがとうございます)」
「階 段昇って一番手前の部屋になります。」


「ねえ、あの子…。」
「まあ、 この前の。」
「実際に見ると、すっごく大人っぽいわね。」
「あれがあったからじゃない?日本に来たばかりのころ はもうちょっと子供っぽかったわよね…。」
「恋は人を成長させるのね〜。」

ご婦人達ののヒ ソヒソ声が会場に広がっていった。今や彼は女性たちの注目を一心に浴びる存在となっていた。
少し戸惑いながらも、リュカは真っ直ぐ と、与えられた自分の部屋へと歩いて行った。


薄暗い階段を昇っていく。踊り場の大きなガラ ス窓の外には銀色の細長い三日月が浮かんでいた。
昇ってすぐの手前の部屋…。
「あ、ここか…。」
預 かった年季の入った鍵を差し込む。
「あれ?」
目的の部屋のドアは開いていた。

カ チャ。

どこからか光が漏れている…。
奥の方のドアの下側の隙間から、光が漏れていた。

「バ スルーム?」


誰かいるのかな?
そっと様子を伺いながら、リュカは静か に光の方へ向って行った。




ガチャ。





・・・・・・・・





時 間を失ったようにお互い見つめあい、感じあう、狭い空間。
何度も何度も口づけて、腕を変えて抱きしめあった。

今 までの空白の時間を取り戻すかの如く、お互いの存在を確かめ合う。
密閉された室内に響く吐息と水音。次第に熱を帯びてくる。


二 つの思いが一つになる…それは全身が震えるくらいの恍惚感(エクスタシー)を感じる。

一つになれば何も恐れるも のはない。たとえ、次の瞬間死が訪れたとしても、至福の時を感じるんだろう。
あの死をもって成し遂げたトリスタンとイゾルデのよう に…この歓びは何物にも代えがたい。
肉体をもつ限り離れなければならない運命ならば、この肉体を手放してもいいと思うのは当然なのか もしれない。


青い血管が見えるくらいの白く透明な首の付け根にキスをすると、声が漏れた。

…… でも、さすがに、こんな所では…。
理性が吹っ飛んで頭がくらくらしている中でも、どこかに冷静な自分が残っていた。
こ んな狭い、しかも余所の家のバスタブの中で、全てを成し遂げるのは、大いに抵抗を感じる所である。

でも、こいつ の視線はそれでもいいと投げかけてくる。
心も身体も一つになってしまいたい…。それは同じだ。
指と指をからめ 合って、互いに力を入れて握りしめる。
触れ合っているところから、溶けて混じり合っていくようだった。

熱 い視線をからめ合って、ふたたび唇を重ね合わせた、


その時であった。



ガ チャ…。
入口の戸が開く音が耳に入った。


「!!!」



「(ぎゃ ぼ)!」
「(こ、こらっ…)。」
大声を出しそうになったのだめの口に手をあてた。



ガ タン。


……え?

驚きのあまりに跳ね上がったのだ めの足が、真鍮のシャワーコックに当ったのであった。

シャーーーー。

頭 上からは温かい水が否応なしに降ってきた…。







「あ れ?トイレねーよー。」
「おい、田中〜、そっちはクローゼットだろう。」
バタン、ドタ、ドタン。
「う 〜まちげーちゃったぜ。」
「こっちだよ、トイレは。しっかりしろよな〜。」
「う〜気持ちわる…。」
「こ こで吐くなよ…。もう少しだから勘弁してくれ。お、ここだよな。バスルーム。」

ガッチャ…



・・・・・


光 の漏れるバスルームの扉を、リュカは開けた。



「…なんだ…電気がつ けっぱなしなだけなんだ。」
パチン。スイッチを切った。

「さて、のだめはどうしてるんだろ う?」

首もとのタイを鏡で確認して、髪を整え、リュカは部屋を出て行った。






宴 もたけなわの会場。所々で大きな笑い声が聞こえる。外は日が暮れてしまったが、ここは室内灯が煌々と灯されていた。


「あ、 リュカ。やっと出てこれましたか。」
「Monsieur  Yokota 遅くなり申し訳ありませんでした。」
二 人は握手を交わした。
「メグミ・ノダ。見かけませんでしたか?」
「さあ、私も最初に会ったきりでしてね…。」
「そ うですか…。」
リュカは会場を見渡した。


その時、一人のボーイがリュ カに近づいてきた。
「Excusez-moi…」



・・・・・・・・・・




「う わわわー。」
叫び声が響き渡る、とあるバスルーム。
「ど、どうしたんですか?」
酔っぱらい の若者は一気に目を覚ました。

…無理もない、扉を開けてすぐ目の前に、びしょ濡れの女が立っていたのだから。

「ス ミマセン。ちょっと気分が悪くて休んでいたら、誤ってシャワーを出してしまったもので…。」
「大丈夫ですか?タ、タオル…。」
そ の後ろの男はあたふたしながら、部屋の中を探しに行った。
「それが、どこにも見当たらなくて…。お手数掛けますが、フロントの方に聞 いてみてくれますか?」
「は、はい。そうですね。おい田中いくぞ。」
「ああ、はい。すぐに持ってきますね。」
気 のいい若者二人はすぐに部屋を飛び出していった。
その後ろ姿を見ながら、のだめはため息をついた。


「先 輩、いまのうちですよ。」
後ろを振り返りそう言った。




・・・・




「の だめ?」
リュカはやっと探し人を見つけた。

「どうしたの?こんな所で…。」
フ ロントの隣の小さな控室に、その人はいた。
頭から大きなバスタオルをかぶり、ドレスはびしょびしょに濡れていた。
「す みません…。酔っ払っちゃたら、間違ってシャワー出しちゃいました…。」
そう言って、身体を小さく丸めた。
リュ カはくすっと笑った。
「だいぶ疲れてるんでしょ。もういいんじゃない?帰っても。」
「え、でも、まだ会長さんと はちゃんと話していないですし…。」
「いいよ、僕がちゃんとフォローしておくから。大丈夫。」
そう言って、リュ カはのだめの頭をタオル越しに撫でた。
「…すみません。」
のだめは頭を下げた。
「じゃあ、 おやすみ。僕、会場に戻るね。人待たせてるから…。」
そう言って、額に軽くキスをして、にこっと笑って部屋を出た。

の だめはリュカの後ろ姿をじっと見つめていた。

「…ちゃんと、お話しないと…いけませんよね。」

リュ カにも…。
先輩にも…。



・・・・・



ガ チャ…。


真っ暗な部屋。手探りでスイッチを探し、室内灯を点けた。

… 着替え持ってきてよかった…。
シュトレーゼマンとの外出では、ある意味必需品でもある。
自分の鞄の中から服を取 り出した。

そして、濡れてしまった服を脱いだ。


   


……… 「さあ、先輩。今のうちですよ。」
      
「え?」
       
バスタブから身を起こした俺に、のだめは駆け寄ってきた。
頭はびっしょり濡れていて、ぽたぽた水滴が 落ちている。
俺も服がぐっしょり濡れていた。
「早く、ここを出ないと、あの人たち帰ってきちゃいますから…。」
そ う言って、俺の腕を引っ張った。

「お前は、どうするんだ?」
「のだめはあの人たちを待って います。頼んだのはのだめですから…。」
「でも…。」
      
引っ張り上げる手に力が 入った。
      
      
「先輩。のだめ、先輩の音楽大好きなんです。」
「え?」
「の だめは先輩の音楽に、何度も何度も助けられてきました。」
「…。」
「だから、ずっと鳴らし続けてください。」
「…。」
「先 輩が音を鳴らしていく限り、のだめは音楽を諦めませんから。どんな事があったとしても…。」
「…のだめ…。」
「だ から、オーケストラ、日本でも絶対に成功させてください。」
真っすぐに俺の目を見て、笑顔でこいつはそう言った。俺はじっとこいつの 顔を見つめた。

「さあ、先輩。ここを出てください。」
そう言って、俺の背中を押した。
「そ れに、先輩には守るべき人がいるんですから…。」
俺はびっくりしてこいつの顔を見た。
「さあ、早く。」
そ う言って、俺の身体を外に追いやった………。





は あ。
俺はため息を吐く。
今日は何度目だか…。

まだ残っている。あいつ の感触。
忘れやしなかった。そして、ずっと求め続けていた。
この感触を…。



何 言ってんだよ。
俺だってお前の音楽で何度も救われてきたんだから…。

やっぱり、あいつと俺 の間には音楽しかないのか?


…いや、
そうじゃなくて…

… 俺たちには音楽がある。


そう、音楽があるんだ…。



「チ アキ、どこ行ってたんですか?」
「ひいい。」
後ろから不意に声をかけられて、飛び上るほど驚いた。
「な、 なんですか?もういいのですか?」
「ええ。さすがに朝早かったから疲れました。」
「そりゃそうだろ…。」
「そ れに禁煙してしまうと、たばこの煙が眼障りでね…。ちょっとゆっくりしたいので、場所変えましょう。」
「…へ?」


そ の後、俺たちはシュトレーゼマンの滞在しているホテルに戻り、建物内のバーに入った。
静かなジャズピアノが流れる小さな店。照明が落 してあって、手元にはキャンドルの揺れる炎が置いてあった。
「で、成果はどうだったんですか?」
「もちろん。 バッチシです。私が一声かければこんなものですよ…。」
ほほほっと得意気に話した。

「そう そう、のだめちゃん…。」
「は?」
急に名前が出て、俺はドキッとした。
「彼女、NYの音楽 会社から強いお誘いが来ているみたいですよ。向こうのスタッフが、わざわざこっちまで来て、何度も口説かれているみたいですよ。」
「ニュー ヨーク…。」
「彼女にとって日本は、窮屈な場所なんでしょうね…。」
「…。」
「アメリカみ たいに、スキャンダルも肥やしになるような、ダイナミックなエネルギーが溢れる舞台が、あの子には合ってるのかもしれません。」
そう 言って、シュトレーゼマンはグラスの中の透明の液体に口を付けた。
「小さな所に留まる子じゃないでしょ。あのリュカという青年はどこ まで覚悟しているのかわかりませんが、いつも傍に置いておけるような生易しい存在ではないんですよ。」
「覚悟…。」
「彼 女を愛するという事は、そう言う事なのです。」
そう言って、俺に向かってふっと笑った。

俺 はそっと目を瞑った。
大空を羽ばたかせて、見守って、時にはそれを見送ってあげなければならない。
無邪気に笑う あいつのあの笑顔には広い大空が必要だから…。





夜 中、俺は自分の部屋に戻った。

どさっ。ベッドの上に倒れこんだ。
身体は疲労困憊でだるいの だが、頭が妙に冴えてしまっていた。

気持はもう定まった。たとえこの先何が起ころうと、もう動かない。誰が何と 言おうとも…。
そう思うと、少し楽になった。



で も…俺は何をすればいいんだ?

今の俺ができる事は…。

身体をうつ伏せ にしてベッドにつっぷした。

…先輩の音楽に何度も救われました…

が ばっ。勢いよく起き上った。
そして、デスクに向かい、フロアライトを灯した。
引き出しを上から順に開けて、中を 探っていった。

そして、一番下の引き出しを開けた。
あった…。

茶 色い袋を取り出し、中の物を確認した。
そして、そのままリビングに向かった。




真 冬の乾いた冷たい空気が漂う、まだ夜が明けない部屋。辺りは息を潜めているようにしんと静まり返っている。
俺はピアノの前に座った。
蓋 を開けると、コトンと鳴った。
それから、封筒の中から楽譜の束を取り出し、目の前に置いた。

        
    「この曲は・・・のだめがチアキを想って作った曲なんだよ!」
       
     「思い出が詰まった曲だって、いつものだめは言ってた。練習の合い間に、よく・・・弾いてた」


思 い出が詰まった曲…か。
師匠によって多少は手を加えられているとはいえ、物語(ストーリー)性があるところは、あいつらしいよな…。

目 を瞑って深呼吸をして、鍵盤に指を置いた。


 〜〜〜そのものがたりは、最初は軽やかに始 まった…。

多様な音が集まり、賑やかで、楽しげで…そう、これは、初めてあいつに会った頃の話だ…。

  『ちあきせんぱーい。』

突飛な行動と言動と、人の迷惑顧みずな態度で、俺の前に突然現れて、引っ掻き回されてい たあの頃。
なんて迷惑な奴に取り憑かれたって、初めは思っていたんだけど…
この出会いによって、俺の人生は大き く開かれた。

…今、思えば、初めて出会ったあの時から、俺はあいつの存在から目が離せなくなっていたんだよ な…。



そして、物語はゆったりとロマンティックに流れていく…

不 器用ながらも恋人という存在になって、お互いをもっと深く探っていくようになる。
それは決して、楽しいことばかりではなく、時には寂 しかったり傷つけ合ったりしてきた。
それでも、想いはどんどん深くなり、その存在が掛け替えのないものへとなっていった…。

優 雅で甘美な響きが続いていく…


しかし…次第に暗雲が立ち込め、重なり合った二つのものが、 突如引き裂かれる。

暗く重たく孤独の旋律。
大切なものを失った、苦しみと、哀しみ…大きな 喪失感。
そこで知るのがお互いの存在の大きさ。

『なんでその手を放したのだろう。』と深く 後悔する日々。
光の届かない深い闇の中に墜ちていく…。


ポーン…。


…… そこに一筋の光が差し込む。
ゆっくりと夜が明けるように、闇が明けていく。

目に映るのは、 楽しかった日々の思い出。
それは切なく、でも美しく、愛しく目の前を彩っていく。
そう、この思い出さえあれば、 生きていける。胸を張って生きていられる。

優しく、甘い、回顧録ととなって、その物語は閉じられていく…。


最 後の一音を引き終わり、余韻がまだ響く空気の中で、俺は立ち上がった。

そう、俺たちには音楽があるんだ。


ま だ空気が静寂に包まれている中、俺は眠気も疲れも忘れたかのように、もくもくとやるべき事に取り掛かった。





続 く。(written by 茶々)