不
機嫌なマエストロ 10-3
2011年 1月14日---
パシャ、パシャ。
「で
は、こちらを向いてもう一枚、お願いします。」
パシャ、パシャ。
「は
い、OKです。ありがとうございました。」
「お忙しい中、お時間とら
せてしまって、申し訳ありませんでした。」
「あ、いいえ。こちらこそ、こんな所まで来ていただいて、ありがとうございます。」
「い
いえ。本日は本当にお話ができて嬉しかったです。ありがとうございました。」
「あ、こちらこそ、楽しかったです。」
「応
援しています。コンサート頑張ってくださいね。」
「あ、ありがとうございます。」
その若い
雑誌記者の女の子と握手を交わし、彼女はのだめに向かって頭を何度も下げて、去って行った。
ふ
う…。
ちょっと緊張しますね。ひとりで取材に応じるのは…。
のだめは大きく深呼吸をして、
前に置いてあるコーヒーカップを両手で抱えた。
昼下がりの平日のカフェは人が疎らで、ゆったりと時間が流れている。
「あ、
あの…。」
ふと気がつくと、若い学生風の女の子が二人、横に立っていた。
「野田恵さんですよね。」
一
人の子が小さな声で訊ねてきた。
「あ、はい、そうです。」
そう答えると、その子たちは互い
に向かい合って嬉しそうに笑った。
「あ、あの、私たち桃が丘音大の1年生なんです。」
「あ、そうなんですか。」
「は
い。二人ともピアノ専攻です。」
ちょっと緊張しながらそう話してきた。
「そうなんですか。」
の
だめの後輩なんですね。
「はい。あの、よろしかったらサイン…してもらえますか。」
そう言って、小さな手帳を抱
え、頭を下げた。
「あ、いいですよ。はい。」
のだめがそう答えると、きゃ〜と小さな悲鳴が聞こえた。
「zephyr
のクリスマスコンサートも行きました。」
「そうなんですか?」
「はい。感動しました。」
二
人は目をキラキラさせながらそう言った。
「ありがとう…ございます。」
心がきゅんとしますね。
「ピ
アノでもあんなに素晴らしい舞台が作れるんですね。」
「もっと、ピアノ上手くなりたいと思ったんです。」
次々と
出てくる賛辞の言葉に、少し照れてしまいます。
「がんばってくださいね。」
「「はい」」
二
人は笑顔でそう答えた。
「入学式のピアノも素敵でした。」
あ、そうでした。去年の春でした
ね。あれは…。
「江藤先生も時々、野田先輩の時代の話をお話しになるんですよ。」
「そうなんですか?」
「は
い。野田先輩や、千秋先輩や…。」
千秋先輩…
「あ、あの新聞記事のような話じゃないんです
よ。」
少し焦た様子で言葉を加えた。
「とにかく個性的な生徒が多かった年で、飽きなかったって言ってました。」
「…
そですか。」
「は、はい。音大ではお二人の事の話は結構、伝説というか…。」
「え?」
ど、
どういう事なんですか!?
「あ、変な話じゃなくて…お二人とも才能ある人達で、お互いを刺激し合える存在だと
か…。」
「そ、そうなんですか?」
「はい。素敵だな〜って、みんな憧れているんです。」
「そ、
そですか…ありがとうございます。」
のだめは照れながら頭を下げた。
…そうでした。大学で
先輩に出会って、峰君に出会って、真澄ちゃんや、いろいろな人に出会って…。
それからですよね。全てが始まったのは…。
ほ
んのりと温かい気持ちになりました…。
「楽しかったですね。学校は…。」
本当に楽しかっ
た。
「今度のコンサートも絶対に行きます。」
「これからもがんばって
くださいね。」
二人の純粋な思いがとっても嬉しいです。
「はい。お二人もお勉強がんばって
くださいね。…って、落第した私が言う事じゃないのですが…。」
「そんな事ないですよ。」
人気の少ない午後のカ
フェに、女の子の笑い声が響いた。
二人は最後までこちらに深く頭を下げて、お店を出て行った。
ふ
う…。
人によって、のだめを見る目って違うんですね…。
ラストコンサート、そして次の日の
新聞の後、なぜかのだめに対して好意的な言葉が多く寄せられるようになった。
がんばってください。
と
か、
憧れます。
とか…。
不思議ですね…。
向
うの方から背の高い男性が入ってきた。
「あっ。」
その男はのだめの方に気がつくと、やあと
手をあげて、席に向かった。
「佐久間さん。」
「どうだった?取材。」
「あ、
はい。おもしろかったです。」
のだめがそう言うと、佐久間はほっとしたような表情を見せた。
「よかった。いや〜
気になっていたんだよね。」
そう言いながら、のだめの向かいの席に座った。
佐久間との付き
合いはzephyrの取材がきっかけで始まった。
「いい人でしたよ。後輩さん。」
「そう、
良かった。どうしても彼女が野田さんと話をしてみたいって、頼みこまれてね…。単独取材はあまり受けないって聞いていたから、申し訳ないって思ってい
て…。」
「あ、嫌なわけじゃないんですよ。ただ、言葉で真実を伝えるのは難しいなって思うんです。だから、自信がないだけなんで
す。」
そうのだめが言うと、佐久間は少し眉を顰めて笑った。
「…いろいろあったからね…。」
そ
う言って、ウエイトレスが持ってきたお冷を一口飲んだ。
「のだめ一人だけならいいんですよ。でも、他の人まで誤解されちゃうような事
はちょっと…。」
のだめはそう言って、苦々しい笑顔を見せた。
「実家
には帰れたの?」
「あ、はい。5日ほど行ってきました。」
「そう、良かったね。忙しいって聞いていたから…。」
「は
い、こっちに戻ってからは毎日、来月のコンサートの準備です。」
「規模が大きくなったんだってね。問い合わせが殺到したって聞いた
よ。」
「そうなんです。最初は企画のフィナーレを華やかに飾る事が目的だったんです。関係者に前売り券と、当日券のみ発行の予定でし
たし…。でもラストコンサートの後、前売り券の希望の電話やメールがたくさん届いたみたいで…会場も変わったんです。」
「うん、聞い
た、聞いた。銀座オリエンタルホールでしょう。一流だよね。」
「はい、素敵な所でした。…それと、曲目も増やしたんですよ。」
そ
う言って、のだめは佐久間の前に一枚の紙を差し出した。
「大変でしょう。短い期間で曲を増やすなんて…。」
そう
言いながら、佐久間は紙に目を通した。
「そうでもないです。曲の選択はのだめにほとんど任されていたので、レパートリーの中から持ち
出したのが殆どですし…。」
そう言って、のだめは冷めてしまったコーヒーを飲みほした。
「ふーん、面白い選択だ
ね。一応、バレンタイン企画なんでしょう?」
「あ、はい。でも、世の中にはいろいろな恋愛の形があると思うので…。」
な
るほどね…と頷きながら佐久間は紙をじっと見ていた。
「あ、クララ…。『3つのロマンス』
も取り入れたんだ。」
「あ、はい。」
のだめは少し頬を赤らめて、笑った。
「あの新聞報道が
あった後、佐久間さんが『二つの大きな才能に愛されたクララ・シューマンみたいだね。』って言っていたのを聞いて、思いついたんですよ。」
は
はは、と佐久間も笑った。
「ああ、あれね…。ちょっとあの記事に腹が立ったんだよね。君と千秋君の事はなんとなく知っていたから。」
「そ
うなんですか?」
のだめは目を丸くした。
「うん。千秋くんのパリでのデビューコンサートの時、楽屋にいたよ
ね。」
「あ、はい。」
「その時によって面持ちが違うから、最初はわからなかったんだけど…。千秋君は自分の事を
あまり語らない人だから、何も教えてくれないんだけど、でも、とっても大切な人なんだなって事は伝わってきて…。」
「…。」
「彼
は大切な人ほど、他に語りたがらないんだろうね。」
「…そうなんですか?」
「最近、オーストリアでの君の話を聞
かれたりして…そこで、やっと一致したんだよね。ああ、あの時の子か、って。」
「そうだったんですか…。」
「お
互い大切に思い遣っている関係なのに、無責任な報道に邪魔されるのは僕は嫌だなって思ってね。R☆Sの峰くんからも、どうにかしてくれよって詰め寄られた
んだけど…。」
そう言って、佐久間は苦笑いをした。
「峰くんですか…。」
のだめは驚いた顔
をした。
「僕にはどうする事も出来ないんだよね…。申し訳ないけど。」
そう言って佐久間は自分の頭を摩った。
「ク
ララとブラームスの関係だって、不倫関係だとか、ローベルト・シューマンはその所為で命を縮めたとか、そんな事を言う人もいたりしたけど、僕はこの3人の
関係はそんなものじゃないと思っているんだよね。」
そう言って佐久間は少し上を見上げた。
「お互いを思い遣り、
尊敬し、献身的に支え合ってお互いの音楽を高めていく、そんな特別な関係なんだよな〜。」
「高め合う、ですか…。」
の
だめは呟いた。
「あ、でも、年明けてから、女性誌の取材がくるようになったんですよ。」
の
だめは不思議そうに言った。
「そうみたいだね。今日、取材した後輩も、今までクラッシックもオペラも興味なくて、ドラマ好きな普通の
子だったんだけど、取材の関係で偶然観たzephyrのコンサートですっかり目覚めてしまったらしくてね…。」
「そうなんですか。」
「音
楽の力は凄いからね。本物がそこにある。」
そう力説する佐久間にのだめは驚きつつも、笑顔を浮かべた。
「わかっ
てくれる人がいると言うだけで、のだめは満足です。」
「うん。わかってるよ。あのコンサートにいた人達は、みんな…。」
の
だめは目を瞑って、あの時の歓声を思い出した。
そして、大きく深呼吸をした。
「…
あの、のだ…私、この前の話、お受けしようと思いまして…。」
佐久間は驚いた顔をして、それから大きな笑みを浮かべた。
「本
当に?いいの?」
「は、はい。佐久間さんなら信頼できますから…。」
そうのだめは笑顔で言った。
「も、
もちろん。全力で取りかからせてもらうよ。」
「で、そこで、千秋先輩の事も、リュカの事も、ちゃんとお話しようと思いまして…。」
の
だめは小さくそう言った。
「…いいの?」
佐久間は息を飲み、慎重に尋ねた。
「…はい。」
の
だめはコクンと頷いた。
「あ、もちろん、事前に野田さんにもチェックしてもらうから。」
するとのだめはにっこり
と笑った。
「佐久間さんの事は、信頼してますから。」
佐久間は少し照れたように頬を赤らめた。
「怖
かったんです。のだめの口から先輩の事やリュカの事を話す事が…。その事によって、思わぬ事態を招くんじゃないかって思っていて…。」
「う
ん…。」
「千秋先輩は本当にずっと努力をして、ここまで辿り着くことができたんです。一つ一つ積み重ねてきたものが、つまらない憶測
や、誤解で、ふいになってしまう事が怖いんです。」
…命を削って音を紡ぎだして、時には圧倒されるくらいで…。
そ
れにかける意気込みは、決して生半可なものじゃなくって…。
のだめはそれをずっとすぐ傍で見てきたんです。ずっと…。
「そ
うだね。」
佐久間は頷いた。
「リュカだって、そうなんです。天才少年と言われ続けてきたけど、人一倍、努力をし
てきたんです。zephyrだって、自分の仕事も抱えながらも、妥協をしないで全力で取り組んでくれましたし…。。」
佐
久間はそんなのだめを見ながら、ふっと微笑んだ。
「その二人だって、野田さんの事をそう思っていると思うよ。」
「え?」
「君
の才能を、つまらない噂話や、憶測で汚れさせたくないって…。」
のだめはきょとんとした顔をした。
「…のだめは
大丈夫です。」
「…。」
「のだめは、いつでも立ち上がって、最初から始められます。」
そう
言い切ると、佐久間は笑った。
「強いんだね。」
「はい。ちゃんと見てくれる人がいるとわかっているだけで、強く
なれます。」
「そう。」
「それにのだめは、いつでも不思議と味方になってくれる人が現れるんですよ。恵まれてい
るんです。」
そう言って、のだめは笑った。
「そうだ、NYの…取り寄
せてみたんだ。」
そう言って、佐久間は鞄の中を探り、黄色い包みを取り出した。
「ありがとうございます。」
の
だめは頭を下げて、それを受け取った。
「おいしそうに食べてくれる人には、御馳走したくなるものなんだよ。」
「へ?」
「後
輩がここのチーズケーキが美味しいって言ってたんだ?食べてみない?」
「あ、はい頂きます。」
「そうと決まった
ら…、すみません。」
佐久間は店員に向かって声を出した。
今
日はいろいろとありましたね…。
のだめは自分の部屋の鍵を開錠して扉を開けた。
ぱらり…
一
枚の紙が落ちてきた。
「不在届ですか…。」
宅急便?宛名は…。
「千秋先輩?」
さっ
そく再配達の電話をかけ、荷物を届けてもらった。
厚みのあるA3サイズの茶色い厚紙の封筒は重たかった。
鋏で封
のしてある上の方を切って、中を確認した。
「楽譜…ですか…。」
手紙
が同封してあった。
『 野田恵様
…
思う事あって、事後報告になりますが、以前、取り寄せた、あの曲に手を加えさせていただきました。。
知り合いの伝でクリストファー・
バートン氏と直接連絡を取る事ができ、身上を明かした上で事情を話し、許可をもらっています。
氏の方の体調はだいぶ回復しており、穏
やかな日々を暮らしているという事です。そして、彼のご厚意によって、あなたのオリジナルの楽譜を送っていただきました。
勝手な話
で申し訳ないのですが、ご検討いただけたら幸いです。
そして、もし気に入っていただけたら、この曲に名前をつけ
て頂き、あなたに献上したいと思っています… 』
そして、一番下には
『p.s
彩子との関係は秋にお互い納得の上、解消しました。もし、気にしているようであればと思い、一応、お伝えしておきます。』
「…え?」
の
だめは目を丸くした。
『それと、2月にR☆Sで公演を行います。コンサート前の忙しい時期
だと思いますが、都合をつけてもらえると嬉しいです。知っている顔が多く出るので、楽しめると思いますよ。是非、ご検討ください。』
再
び封筒の中を探ると、小さな白い封筒が出てきた。
中を探ると、3つに折り畳んだパンフレットとチケットが出てきた。
--
--R☆Sオーケストラコンサート 伝説の舞台が、今蘇る…。R☆S創設メンバーがここに集結!!
指揮・千秋真一(新東京交響楽団 常任指揮者)
2011年2月5日
ミューザ川崎シンフォニーホール 18:00開演
「せんぱ
い…。」
のだめはチケットをギュッと握りしめた。
それから、鞄から手帳を取り出し、2月5日の欄に赤いボールペ
ンで大きく丸をつけた。
再び、のだめは楽譜の束を眺めた。
「あ…。」
特
徴のある懐かしい筆跡に顔が綻んだ。
一枚、そして一枚と目を通す。
「細かい所は…先輩らし
いですね。」
ちょっと尖った、この字は先輩の字。
隅々まで指示が書かれていて、まるで声が聞こえてくるようで
す。
そのまま、のだめは床に座り込み、長い時間楽譜を読んでいた。
懐
かしい自分の曲、それに包み込むような優しい音が加わっている…。
…そうでした。のだめの思い出には、いつもこ
の人がいるんです。
ずっと、一緒にいたんでした…。
バー
カ。
おせーよ。
こら、はなせ…
ぷぷ…そんな言葉
ばかり思い浮かぶんですけど…。
でも…。
いつも一人で目の前をスタス
タと歩いていちゃうんだけど、
見失う寸前の場所でこっちを振り返って待っていてくれる…。
そして、遅いと怒りな
がらも、手を差し出してくれて、、
辛くてその場にしゃがみ込んだら、抱き上げてくれて、
疲れてへたれ込んだら、
抱きしめてくれて…
そうでした。いつものだめを見ていてくれたんでしたね…。
甘
い愛の言葉や優しい言葉なんて、滅多に言ってくれなかったんですけど、
先輩は音楽の上では饒舌なんです。
た
くさん、たくさん、のだめに語ってくれる。
ラフマニノフの連弾でも、失意の底で聞こえたラヴェルでも、心を抱き
しめて、引き上げてくれた…。
のだめはたくさん、たくさん、愛されていたんですよね…。
楽
譜が読めてよかった。音楽が奏でられてよかった。音楽やっていて良かった。
言葉で気持ちが
言えないのなら、音に変えて届ければいい。
音楽は心の奥まで届けてくれるから…。
楽譜の上
ではいくらでも愛を語れるんだから…。
…あ、そ
うだ…。
のだめは鞄から楽
譜を取り出し、ピアノチェアに腰かけた。
「この曲もそうなんですよね…。」
〜〜〜〜〜3
つのロマンス 作品11 (Trois romances op.11) クララ・シューマン
ローベルト・
シューマンの妻であり自身も19世紀最高の女性ピアニスト、クララ・シューマンの19歳の時の作品。
実の父親にローベルト・シューマ
ンとの結婚を猛反対されたクララは父と闘い、ローベルトとの未来を決意した時にこの曲は生み出された。
ロー
ベルト・シューマンは法学の道を捨て、20歳の時、高名なピアノ講師、クララの父、フリードリッヒ・ヴィークに師事する。クララ10歳の時であった。
や
がて、二人は結婚を誓い合う関係になる事を知った、フリードリッヒは二人を会う事はおろか、手紙のやり取りさえも禁じるようになる。その中を友人の手を借
りて、手紙のやり取りを続ける二人。
そして、相次ぐ父親の非情な妨害に立ち向かうべく、裁判を起こす決意をする…。
作
品に漂う憂いと陰りのメロディー。
父との確執の日々と、愛する人と会えない寂しさが映し出される…。
ク
ララはこの曲をローベルト・シューマンに送る時、こんな手紙を書き添えていた。
『これは小さな憂愁をたたえたロ
マンスです。それを作曲している間、わたしはずっとあなたのことを考えていました
』『あなたはそれをとても自由に、時に情熱的に、そ
して再び悲しげに、弾かなくてはいけません。わたしはその曲が大変気に入っています。それをすぐに送り返して下さい。その欠点を捜すのに臆病になることは
ありません。わたしのためになることですから。』
それを受け取ったローベルトはその曲に満足し、なにも手を
加えずに、こんな手紙を書き添えて送り返した。
『君の楽想一つ一つは、このぼくの心から発している。実際のとこ
ろ、ぼくが自分の音楽すべてに関して感謝しなくてはならない相手は君だ。ロマンスで変更すべきところは何もない。この曲は、このままの形でなくてはならな
い。』〜〜〜〜
「君の楽想ひとつひとつは…。」
鍵盤の上の指先が止
まった。
「このぼくのこころから…。」
・・・・
「で
は、ここにサインか印鑑を…。」
「あ、はい。」
「ありがとうございました。」
の
だめから返事が届いたのは楽譜を送ってから5日後の夜だった。
中から出てきたのは、俺が送った楽譜と手紙だった。
『千
秋先輩。
ピアノ曲ありがとうございました。もう、他の人の目には触れられないものだと思っていただけに、涙が出
るくらい 嬉しかったです。先輩にアレンジしていただいた曲は大変気に入りました。ありがたく頂戴します(コピーしました)。
そし
て、題名を付けさせていただきました。たくさん悩みましたよ。2日は掛かりましたから…。 』
見
返すと、最初のページの上に『Musique sans le nom』と書かれていた。
「名前のない音
楽…。」
『…「名もなき曲」という感じはどうでしょうか?この曲はのだめの手から旅立っ
て、いろいろな人の手によって、いろいろな色に彩られて再び戻ってきました。たくさんの意味を込めて、この名を付けさせていただきます。』
『R☆S
オケのコンサートのお誘いありがとうございます。是非、都合をつけて観に行きたいと思います。楽しみにしています。
それから、2月
12日のコンサートのチケットも同封させていただきました。急にいろいろな事が変更になり、毎日バタバタと準備に追われております。たぶん、これからは会
場と家との往復の日々だと思います。もし、お時間の都合がつきましたら、ぜひ聴きに来てください…』
楽譜の下を
探ってみると、小さな封筒が出てきた。
中にはチケットが一枚…。
「名
もなき曲か…。」
俺はその文字をじっと見ていた。
・・・・
バ
チッ。
強い白いスポットが舞台を照らした。
バチッ。
次は青。
バチッ。
バ
チッ。
「どうですか?鍵盤が見難かったりしませんか?」
「あ、はい。大丈夫です。」
1
月下旬-----
来月の本番に向けてコンサート会場の準備が急ピッチで進められている。
今
日は照明のチェック。
たくさんのスタッフが出たり入ったりして、入念にチェックしていた。
「す
みませんね。もうすぐで終わりますので。」
頭にタオルを巻いた若い男の人が、のだめに向かって上から声をかけてきた。
「あ、
はい。」
のだめは上に向かって応えた。
何人かのスタッフが舞台の真中で丸くなって打ち合
わせをしていた。
「あ、ピアノ弾いていてもいいですか?」
のだめが声をかけると、いいですよと返ってきたので、
舞台の斜め後ろに置いてあるピアノに向かった。
チェアに腰掛け、蓋を開けた。
手
入れの行き届いた高価なピアノ。このホールでの響きも好きだ。
「そだ…。」
目を瞑って、深呼吸をして、鍵盤に指
を置いた。
指先が奏でる音は…
…Musique sans le nom
た
くさんの想いが詰まった、宝物の曲。あれから、毎夜この曲を弾いていた。
キラキラと音の粒が舞い上がって、どんどん彩りを豊かにして
いく…。
しばらく、ピアノを弾いていると、スタッフの人たちがのだめの方を振り返った。
そ
して、作業の手を暫し休めて、のだめの曲に聴き入っていた。
誰もが持っている色褪せない思い出。その優しく温か
な記憶を鮮やかに蘇らせていた。
その一体の空気が、和やかで穏やかに変ったように感じた。
そして、皆、柔らかい
笑みを湛えていた。
やっぱり音楽は人の心を動かすんですね…。
のだめは思いを込めて全力で
弾いていた。
「あれ?」
「何だよ。今いいところなのに…。」
「いや、今、照明どこをいじってるの?」
「中央でしょ。」
「や、あれ…。揺れているんだけど。」
キキッ…キキッ…。
「どこ?」
「あの…ピアノ
の上…。」
その瞬間----
&
nbsp;ガザっ。
「危ない!!」
大きな叫び声がホールに響いた。
「え?」
見
上げたら、上から黒い物体が落ちてきて…
--
-ガチャン
「あ、すみませんでした。」
「大丈夫?」
「手、
気をつけてよ。」
事務の女性が頭をペコペコさせて、割れたグラスの破片を拾っていた。
「あ、
千秋さん。今日は早いんですね。」
「おはようございます。ええ、出かけ先から来たので、ちょっと早く着いたんです。」
こ
こは新東響の事務所。今日は春の公演の打ち合わせが、夕方から行われる。
国賓を迎え入れるという事もあって、早い段階から話し合いが
行われていた。
ミーティングまで時間があるので、一服しようと喫煙室に向かった。
「お
はよう。」
「おはようございます。」
次々にスタッフが集まってくる。
「お
はよう」
「あ、おはようございます…。」
「ん、どうした?」
「いや〜事故あったみたいなん
ですよ。」
「事故?どこで。」
「はい、オリエンタルホールで…。」
スタッフの話が耳に入っ
てきた。
オリエンタルホール?
のだめの…今度のコンサート会場だ…。
「…
で、関係者に話を聞いたら、ライトが落ちたらしいんですよ。」
「ライトが?危ねーな。」
「それが…どうやらリハ
中のピアニストの上に落ちたらしいんですよね…。」
血の気がひいた。
指先が震えている。
「ど
ういうこと?」
俺は真っすぐにその声の主の方へ向っていた。
「え、あ、おはようございます。」
若
い技術スタッフの青年は俺の表情に驚いていた。
「さっきの話。」
「え?」
「オリエンタル
ホールで…。」
「え、あ、さっき通りかかったら、救急車が何台も止まっていて、騒然としていたんですよ。友達がそこの舞台制作してい
るもので…。気になったから、側にいた人に話を聞いてみて…。」
「…で、ピアニストの上に落ちたって…。」
声が
震えている。
「あ、僕、よくわからないんですけど…そう言う噂で…。」
「で、容態は?どこに運ばれた?」
つ
い責めるような口調で彼を追い詰めていた。
「…いや、そこまでは…。」
彼はすっかり怯えて委縮していた。
「真
上からじゃな…。」
「やばいんじゃん。」
そんな無責任な声が後ろから聞こえてきた。
「あ、
千秋さん?打ち合わせは?」
俺はその場から駆け出していた。
午
後の総合病院の受付は予約患者で少し混み合っていた。
あの後、俺はオリエンタルホールに問い合わせて、搬送され
た病院を聞きだした。
ホールの関係者内も混乱を来していて、はっきりとした状況までは教えてもらえなかった。
受
付を見つけると俺はそこに駆け寄った。
「こんにちは。お見舞いの方ですか?」
若い事務の女
性がにこやかに対応してきた。
「あ、あの。ここに運ばれてきた、野田…。」
「…チアキ?」
不
意に声をかけられ、その方を向いた。
ブロンドの髪に蒼い瞳。小奇麗に整えられた服装…。
「リュカ…。」
俺
は呟いた。
俺はリュカに呼
ばれて、ロビーの人目の付きにくい場所に連れてこられた。
「まったく、信じられないよ。」
リュ
カは声を尖らせて、呆れるように言った。
「で、のだめはどこなんだよ。」
俺は話も聞かず
に、そう詰め寄った。
「今、のだめに会うの?事故の騒ぎでマスコミがうじゃうじゃいるんだよ。」
「関係ない。」
リュ
カはむっとした。
「関係なくないだろう。自分の立場を考えろよ。」
「別に、関係ないだろ。この事とは…。」
俺
はそう吐き捨てるように言った。
「そんな事ないだろ。のだめの気持ちはどうするんだよ。」
リュ
カは俺に詰め寄り、俺の目の前で大声を出した。
「もし、君がまたマスコミに騒がれて、オケでの立場が危うくなったりもしたら、のだめ
は悲しむ…。」
「…今はそんな話じゃない。」
俺も声を上げた。
「とにかく、あいつに会いた
い。知ってんだろ、教えろよ。」
俺はリュカに迫った。
「…言わないよ。」
「言
えよ。」
俺はリュカの腕を掴んだ。
「言ってくれよ。頼む。」
リュカは
俺の顔をじっと見た。
「…これ以上、のだめを苦しませるなよ…。」
リュカは絞るような声でそう言った。
「ど
ういう事だ…?」
「いつも、苦しませてばかりだろうよ。」
「…。」
リュカの声がロビーに響
いた。
「のだめはいつでもチアキの事を考えているんだよ。今回だってあんな報道までされちゃって…。結局、苦し
むのはいつものだめなんだよ。」
「あれは、勝手に向こうが書いているだけで…。」
リュカは俺の手を弾いた。
「期
待の新星なんだろう。日本のオーケストラの将来を任されている立場なんだろう。だったら、自分の仕事してろよ!こっちは構うな!」
リュ
カは俺を睨んで、はっきりとそう言った。
「そんなの、どうでもいい…。」
唸るように俺は
言った。
「は?」
「期待だろうが、責任だろうが…。」
「…チアキ?」
俺
の中で何かが切れた。
そして、リュカの胸蔵を掴んで壁に背中を押しつけた。
「い
いか、よく聞け。俺は…俺はな、一人の女の為に、地位だろうと名誉だろうと捨ててしまえる、ちっぽけな男なんだよ。その程度の男なんだ。」
リュ
カは目を大きく開け、俺の目をじっと見ていた。
「だから…教えろよ。俺に。のだめはどこだ。」
俺もリュカの瞳を
まっすぐに見ていた。
しばらくしてから、俺は手を放した。
リュカは壁から一歩前に出て、
シャツを整えた。
「…7階。7階の脳外科病棟。名前を言えば部屋番号教えてもらえるはず…。」
リュカは目を逸ら
せたまま、そう言った。
「…ありがとう。」
一言、言って、俺はその場を走り去った。
……
「allo リュカ・ボドリーです。ご無沙汰してます。
ええ、こっちでの仕事のメドがつきましたので、そちらに来週戻りま
す。
…はい。もちろん、一人で…」
ピッ。リュカは携帯電
話を切った。
そして、メールを呼び出す。
----リュカ、今夜はゆっくりと
お話したいと思っています。仕事が終わり次第連絡ください。nodame
ふっ。ここに辿り着くまでこん
なに掛るのか…。
「まったく回りくどいヤツだよな。」
リュカはそう呟い
て、笑った。
「703号室
です。」
「ありがとうございます。」
7階のナースステーションで部屋番号を聞き出して、俺はそこへ向った。
タッ
タッタッ。
気持ちが焦る…。
ガ
ラガラ…。
ドアを開けた。
「のだめ!!」
そ
の瞬間、目の前に飛び込んできたのは……
…大口を開けているのだめだった。
「は?」
「ほ
へ、ちあきせんぱい?」
のだめは俺の顔を見ると、目を見開いて驚いていた。
寝巻に着替えて
ベッドに入っているものの、上半身を起して座っており、外見はまったく普通の、のだめがそこにいた。
「まあ、千
秋くん。」
「え?」
横を見るとのだめ母、ヨーコ。
そして、のだめの手にはくし型に切られた
リンゴ。
「え?」
俺は頭の中が混乱していた。
「どういう事なんだ
よ。」
俺はつい怒り声になってしまった。
「え?どういう事ですか?」
のだめはきょとんと俺
の顔を見ていた。
「はい、どうぞ。」
のだめ母
(ヨーコ)が俺の横にお茶を置いてくれた。
「あ、ありがとうございます。」
俺は頭を下げた。
「す
みません。」
のだめは恐縮して身体を縮こまらせた。
「いや…別に悪くないけど…。」
俺は目
を逸らした。
よく考えてみれば、死にそうな患者が一般病棟にいるわけはないんだよな。
俺も
かなり動揺していたんだ。
「ライトは落ちたんですよ。ほんとに。でも、のだめのすぐ横でした。その破片で額にか
すり傷を負いましたが、大したことなかったんです。でも、除けた衝撃でちょっと頭打ったので、念のため精密検査を受けるから今日は入院するんです…。」
の
だめはもぞもぞと、そう言った。
「いや〜がばいびっくりしたとよ!。ちょうど埼玉の親戚の
家さ遊び行ってて、帰りに恵の顔、見て帰ろう思ったとこば、入院の電話ばもらって……。ちょうど、良かったけんどね」
ヨーコはあっか
らかんとそう言った。
「まあ…無事でよかった…。」
俺はそう言って俯いた。
「良かったら
ゆっくりししんさい!。うちはお花でも買ってくるけん」
そう言って、ヨーコは笑顔で病室を出て行った。
しー
んと静まりかえった病室。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
「あのお仕事は…。」
「さっ
き、電話を入れた。今日は…仕方ない…。」
「すみませんでした。」
のだめは頭を下げた。
…
これ以上、のだめを苦しませるなよ…
リュカの声が蘇った。
「いや、いい。無事で良かっ
た。」
俺が優しくそう言うと、のだめはちょっと驚いた顔をした。
「ありがとうございます。」
の
だめは頭を下げた。
でも…本当に無事でよかった…
そう思うと急に力が
抜けた。
「あ、あの、先輩。」
「何?」
のだめは
覗き込むようにこっちを見ていた。
「あの時、ライトが落ちてきた時、自分でも危ないって思ったんですよね。赤い
ガラスの破片がパーって広がった時は自分に当ったんだと思って、パニック起こしてしまいまして……。もうだめだ。死んじゃうんだって思った時に、真っ先に
思い浮かべたのは先輩の顔だったんですよ。」
のだめは少し照れくさそうにそう言った。
「死ぬ前に会いたかったな
〜って、何でいっぱい会っておかなかったんだろうって、もっといっぱい会っておけばよかったって、その一瞬に思ったんですよ。」
俺は
のだめの顔を見た。のだめはエヘッと笑った。
「だから、嬉しかったです。駆け付けてくれて。」
のだめはそう言っ
て、満面の笑みを俺に向けた。
俺は居た堪れない気持ちになった。
本当にこいつは…。
そ
して、力いっぱい抱きしめた。
「バカ。俺は生きた心地しなかったぞ。お前の顔を見るまでは。」
「先
輩…。」
「良かった…本当に。」
ギュッと力を入れて抱きしめると、急にのだめは震えだした。
「…
ほんとは…怖かったんです。とっても…。」
「のだめ?」
「本当に…死んじゃったらどうしようって。いやだな〜っ
て…。」
怯える声。
「怖かった…。」
俺は抱きしめる腕に力を込めた。
「大
丈夫だから。」
「…先輩?」
「大丈夫…。」
力強くそう言うと、俺の腕をつかむのだめの手に
力が入った。
「俺がお前を守るから…。」
俺は耳元ではっきりとそう言った。
のだめは身体を
俺から離して、俺の方を見た。
「先輩?」
「守るよ。お前を傷つけるもの全てのものから。」
茶
色い瞳は俺を捉える。俺はしっかりとこいつの目を見た。
「マスコミとか噂話とか、人の目はもう気にするな。」
「…
せん…。」
のだめの瞳は潤んでいた。
「だから…。」
「一
緒にいよう。」
--7階脳外科病棟。夕食の準備
が整いました…
外から館内放送の音が聞こえてきた。
カ
ラカラカラ…。
「あれ、千秋君は?」
「朝早いっつうから、帰った…。」
「…
どしたと?」
「恵……千秋先輩からプロポーズされたばい」
「プロポーズ!!。そがん良かったばい!!」
「……」
「…嬉しゅうなかと?」
「嬉しいとよ……嬉しか……でも……」
「…」
「恵…。」
「なん?」
「自分の気持ちに…正直でいんしゃい。」
「……」
空
には欠けた月が浮かんでいた。
冬の夜空は寒そうですね…。
パチッ。
ベッ
ドサイドの灯りを点けた。
白い封筒のエアメール。何度も読み返すので、さすがに皺になって
います。
----Dear Ms.Noda
…先日のお話はいかがだったでしょうか?他にご希望がありましたら遠慮なく申し出てください。当社としては、できる限りそちらのご
要望にあった条件を提供したいと思っております…
ガサッ。
…再会でき
る時を、今から心待ちにしております…
……
自分の気持ち…ですか…。
---「一緒にいよう」---
………。
…
ふう…。
今日はもう遅いですから、寝ましょうね…。
パチッ。
大
きく深呼吸をすると、乾いた冬の空気が胸に染みて、チクッと痛みを感じます。
続
く。(written by 茶々)