「おーい、みんな!俺様何様千秋様、鬼指揮者様のご到着だぜ!」
「・・・やめろよ、それ・・・」

俺は峰の言葉に軽く溜息を吐くが、峰はそんな事はお構いなしだ。
相変わらずというか、何というか。

そんな峰の呼びかけに、舞台の上のメンバー達が一斉に俺に注目した。

「千秋様〜!」
「「千秋様!」」」
「千秋くん!」
「千秋さん!」

それぞれがそれぞれの呼び方で俺を呼ぶ。

オケのメンバーは、見知った顔もいれば、見知らぬ顔もいた。
今では峰を中心として活動しているこのR☆Sオーケストラ。
正直、どこまでやれるのか、いつまで続くのか、このオケを離れる際、あまり期待はしていなかったかもしれない。


―――永遠に続くオーケストラ―――


だけど、峰のあの言葉に嘘はなかったんだと、ここに戻ってきて実感する。
自分の原点に帰ってきたんだと、とても懐かしく思う。

このオケがここまで続いてきたのも、そして大きくなったのも、すべて峰の尽力によるものなんだろう。
いつもは馬鹿みたいな奴だけど・・・その「馬鹿」な素直さがきっと皆を惹きつけている。

面と向かってはなかなか言えないが、心の中でくらいなら素直に感謝してもいいか、と峰の後姿を見て思った。

今、目の前に集まる若々しい才能。
俺が今まで振ってきたオケのような、伝統も格式も何も持っていない、ただただ若い力に溢れるオケ。
自分だってまだまだ青二才だけれど、この若さにしか表現できないものだってきっとあるだろう。

ワクワクする。
一体どんな音を鳴らしてくれるのか。

「千秋です。初めましての人も、そうでない人も、本番まで短い時間しかないけどよろしく。じゃ、時間がもったいないので早速リハを始めようか」

峰が小さく「げ」と呟くのが聞こえたけれど無視だ。
追い越して、俺はさっさと舞台へ上がった。

みんなが楽器を手に足を踏み鳴らして歓迎の意を表してくれる。

「まずは・・・」

峰も慌てて自席に着く。
それを見届けて、俺はオケに指示を出した。





『不機嫌なマエストロ 第11話−1』





開演前のロビーは賑やかだ。
欧米と違ってここ日本はドレスコードがそれほど厳しくはないが、それでもクラシックの公演で今夜は週末とあって、華やかなセミフォーマルに身を包んだ女性があちらこちらで談笑している。
だた今夜のオケは人気のある若いオケだけあって、客層は幅広い。
学生のような若い者もいれば、年配の夫婦なども見かける。

R☆Sオケは、みんなに愛されてるんですね。

自分の事のように、何だか嬉しい。

パンフレットと時計を交互に眺めた。
まだ時間があることを確かめる。

何か飲もうかな・・・。

そう思ってドリンクスタンドへ行こうとして、不意に声をかけられた。

「のだめちゃん!」

振り返ったそこには、記憶にある姿よりも幾らか大人びた姿の美少女。

「由衣子ちゃん!」
「きゃー、久しぶり〜!」

二人して手を取り合って再会を喜んでいると、もう一人別の声がした。

「私もいるわよ?」
「むきゃ!征子さん!」
「こんばんは。久しぶりね、のだめちゃん」
「お久しぶりデス」

先輩との事があって・・・この人とは随分とご無沙汰していた。

「のだめちゃん、去年の『zephyr』のラスト・コンサート、由衣子も征子ママも聴きに行ったんだよ。凄く素敵だった!」
「ええ、とっても素敵だったわ」
「本当デスカ?ありがとうございマス」
「CDも買ったんだよ。あのね、俊兄もね、こっそり買って聴いてるみたいなの」
「ほわ〜、俊彦くんも・・・。何だか照れマスね」

ふふっと笑う由衣子ちゃんは、大人っぽくなっていても、いつか三善の家で見た由衣子ちゃんと変わらない。

「今度家で、生で聴かせて欲しいな。ねね、遊びに来て?ね?」
「でも・・・」
「いつでもいらっしゃいな。のだめちゃんは、私達の友人ですものね」
「そうだよー」

由衣子ちゃんと征子さんが、私の事を「友人」だと言ってくれた。

二人はあの舞台で最後に何があったのか、知らないはずないのに。
それに先輩との事だって・・・。

「・・・ハイ」

だけどそんな事は関係ないように変わらずに接してくれて。
そんな二人の優しさが嬉しかった。

「ねえねえ、のだめちゃん」

由衣子ちゃんが声をちょっとだけ潜めた。

「何デスか?」
「のだめちゃん、周りから凄く注目されてるね」
「え?ああ・・・」

盗作騒ぎがあって、でもそれはとりあえず落ち着いて。
その後ラスト・コンサートがあって・・・。

周りの目は随分と好意的になった気がするけど、それでも好奇の目で見られる事は間々ある事で。
特に今夜のようなコンサートや音楽関係の場所では、私を知っている人も当然多い。
慣れてしまった訳ではないけれど、ある程度は仕方が無い事だと思うし、音楽活動を続けていくからには避けては通れない事だ。
プロとなった以上、結局は人気商売なのだから。

「『zephyr』の野田恵、と言えば有名人ですものね。それに今夜はとっても綺麗だし」
「うん、由衣子もそう思う!」
「・・・は?」

二人の言いたい事は、私が考えていた事とはちょっと違っていたようだ。

「綺麗・・・?」
「そうだよ。のだめちゃん、今夜はおめかしだね」

今夜はヨーコの新作ワンピースを着てきた。
カシュクール風の胸元から裾にかけて、たっぷりとドレープが入れてある。
ハイウェストの切り替えにバラのコサージュ。
スカートは左右が中央より長くなっていて、重ねたシフォン生地が歩く度にふわふわと揺れる。
ちょっと胸元が開きすぎな気もしないではないけど、落ち着いたダークワインレッドで、一目で気に入ったものだ。

だけど。

「おかしくないデスか?あの・・・浮いてません?」

メンバーが若いオケだけあって、カジュアルな服装の若い男女が目立つのだ。
さっきから自分が浮いている気がして落ち着かなかった。

「あら、そんな事ないわよ」
「そうだよ」

二人がそう言う。
征子さんも由衣子ちゃんも、どちらかと言えばセミフォーマルな服装だから、二人から見ればそうなのかもしれない。
ちょっとほっとした。

「ねえ、まだ時間もあるし、一緒に何か飲みましょう?」
「そうしようよ、のだめちゃん」
「ハイ、のだめも何か飲もうと思ってたんデス」

由衣子ちゃんと手を繋いでドリンクスタンドへ向かった。

座席は離れていたからホールでは入り口で別れたけど、そのまま二人とは開演時間ギリギリまで一緒にいた。

おしゃべりしている間、由衣子ちゃんの言うとおり、チラチラとこちらを窺っている人達もいて。
その間に声をかけてくれた人から、「ファンです」とか「応援してます」とか言ってもらった。

分かって欲しい人に分かってもらえているのなら、それでいい。
ピアノを通して分かってくれる人がいるのなら、なお嬉しい。

私は、それでいい。

音楽って、本当に凄い。
言葉に出来ない事も、伝わって、そして返ってきて。

それを教えてくれたのは、先輩なんですよね・・・。

舞台は楽器を手にしたメンバーが席に着きだした。
チューニングのために、オーボエのAの音が響く。

黒木くんだ。

年末に帰国して、しばらく日本で演奏活動してから、またパリに帰るって言っていた。
先に帰ったターニャは、きっと寂しがっているんだろうな。

真澄ちゃんは・・・相変わらず、フリフリだ。

変わらぬヘアスタイルは、オケの最後列にいても目立つ。

清良さんは、今夜のコンミス。
格好良くて、女の私から見ても素敵。

隣は確か、高橋さん?
何となく不機嫌そうに、高橋さんは清良さんを見ている。
そう言えば、高橋さんは真澄ちゃんが要注意人物って言っていた。

萌ちゃんに薫ちゃんもいる。
かなりセクシーなドレス姿だ。

ふとある事を思い出した。

いた、木村さん。
萌ちゃんと付き合っているって、この前峰くんに教えてもらった。

その峰くんも、第1ヴァイオリンの末席にちゃんといる。

それから・・・あの人は確か、菊池さん。
和製ヨーヨー・マって噂の人。

懐かしい顔ぶれ。
まだ桃ヶ丘にいた頃の思い出が甦る。

あの頃の自分は、まだまだ幼かった。
ただ、大好きな先輩の傍にいたかった。
そして楽しくピアノを弾いていれば、それだけでよかった。

だけど先輩のオケを聴いて、このままじゃ一緒にいられないって、ミルヒーの言葉どおり思って。
そして・・・パリまで留学した。

その後、オーストリアへ行って・・・。

今は?
私は、あの頃の私より成長した?

思い出を辿りながら、今までを振り返る。
懐かしさと一緒に、嬉しかった事や辛かった事が甦る。
どれ一つとして失いたくない、今の私を形作る、かけがえのないものばかりだ。


そしてそこには、いつも、先輩がいた。


舞台のざわめきが、ゆっくりと引いていく。
チューニングが終わって、準備が整ったようだ。

客席の視線が、舞台袖に集まる。
やがて舞台袖から拍手とともに現れたのは・・・誰よりも・・・大好きな人。

傍にいても、いなくても・・・それは今でも、変わっていない。

あ・・・。

今、一瞬だけ、目が合った・・・?

分かるか分からないくらい、ほんの少しだけ先輩の口角が上がった気がした。
だけどすぐこちらには背を向けたので、見間違いかもしれない。

そっと首元に手を当てた。

静寂に包まれる空間。

そして私は、先輩の腕が上がる瞬間をじっと待った。










ラヴェル ラ・ヴァルス―管弦楽のための舞踏詩―

モーリス・ラヴェル(1875−1937)
1875年、スペイン国境近くのシブールで生まれ、生後3ヵ月でパリに移住、以後パリに住んだフランスの作曲家。
6歳の頃よりピアノを習い始め、14歳でパリ音楽院(コンセルヴァトワール)入学、ガブリエル・フォーレらに師事。
「管弦楽の魔術師」「オーケストレーションの天才」ストラヴィンスキーには「スイスの時計職人」などと評された。
ドビュッシーと共に印象派の作曲家に分類されることが多いが、ラヴェルの音楽はドビュッシーと比較すると、古典派的な構成で、より明確な響きになっている。
代表曲は『ボレロ』『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『展覧会の絵』のオーケストレーションなど。


「ラ・ヴァルス」英語では「ザ・ワルツ」。
この曲は、ヨハン・シュトラウス2世のウィンナ・ワルツへの一種の礼賛として着想され、1914年頃には『ウィーン』という題名の交響詩が出来上がるはずだった。
それが出来上がらなかったのは、第一次世界大戦の影響だろうと推測される。
その後1917年、ロシア・バレエ団の団長セルゲイ・ディアギレフより新しいバレエ曲の作曲を依頼され、この曲は1919年から1920年にかけて書き上げられた。
しかしディアキレフはバレエに不向きと受け取らなかった。
初演は1920年で、バレエとしての初演は1929年。
ピアノ独奏用、2台ピアノ用の編曲も書かれている。

ラ ヴェルは初版でこの曲について「渦巻く雲が、切れ目を通して、円舞曲を踊る何組かをかいま見させる。雲は次第に晴れてゆき、旋回する大勢の人でいっぱい な、大広間が見えてくる。舞台は次第に明るくなる。シャンデリアの光は、フォルティッシモで輝きわたる。1855年頃の皇帝の宮廷」と語っている。
この文章が示すとおり、この曲は出だしから暗い情感が沈んで渦巻いている。
次第にワルツとしてのリズムを現すが、やがてリズムは崩れ、熱狂的に盛り上がって突然終結する。
そこには、第一次世界大戦の混乱や友人の死、1917年の母の死への悲しみや喪失感などが純化されているもかもしれない。





しなやかに先輩の腕が持ち上がる。

冒頭、そっと静かに、だけど低弦の重々しい響きはどこか不気味で、どこか厭世的な雰囲気を醸し出している。
それが次第に晴れて、楽しげにくるくると踊る人々が現れるかのように、優美なワルツが流れ出す。





序奏

コントラバスのトリル、拍動するかのようなピッツィカート、ファゴットの不気味な旋律。
低弦や木管の低音部はラヴェルの言う「渦巻く雲」を表しているのかのよう。
ここで断片的な主題が示され、これはa、bの2系列に大別できる。
徐々にワルツの旋律が萌芽する。


第1エピソード

やがて雲が切れて、大広間に現れるワルツを踊る人々のように旋回する低音に導かれて主題aが現れ、そして主題bも弦楽器に現れる。
ともに序奏のa、bに繋がる主題である。
優雅なワルツ、シャンデリアの光が輝き渡るようなフォルティッシモにまでクレッシェンドして終わる。


第2エピソード

主題は主としてa系から派生している。
際立つオーボエ、フルート、そしてヴァイオリンによる煌びやかなワルツの旋律が美しい。


第3エピソード

突然のティンパニと金管の合奏で始まる律動的な挿入楽節。
曲趣が一変する。


第4エピソード

ヴァイオリンなどの前半の主題は新しい旋律だが、第1エピソードの主題bからそう遠くかけ離れたものでもない。
オーボエからの後半は第5エピソードへの移行部分とも聴こえる。


第5エピソード

全合奏のフォルティッシモでリズムを断ち切るアクセントが印象的。
後半、木管の経過句に半音階的な曲線が弧を描く。





目の覚めるようなティンパニ。
リズミカルなメロディ。

けれどまるで再び暗雲立ち込めるように、ワルツのリズムが次第に崩れていく。





第6エピソード

この箇所の主題は、第4エピソードの前半の主題のいわば逆行形・縮小形である。
途中クレッシェンドしてトゥッティ(全合奏)のフォルティッシモまで昂まるが、以後は静まる。


第7エピソード

開始は第6エピソードへの応答といった感。
また次第にクレッシェンドして全合奏のフォルティッシモまで登りつめる。
そして弦のトリルに重なる軽やかな木管とハープのグリッサンドをホルンのトリルがおびやかす、不思議な移行部。
これもクレッシェンドしていって、トゥッティのフォルティッシモを鳴らす。
と、急に潮が引いたように静まって、この後長大な再現部に入る。


再現部

先の様々な主題をかわるがわる回想するという意味で「再現」であるが、回想の呈示は順を追う訳ではなく、また展開を思わせる進展もある。
全曲の中で占める持続と動勢の比率・比重の大きさは各エピソードよりもずっと大きい。
序奏、エピソード第1、第2の主題、第4後半の旋律を交替させ、第5の動機も交えた上で、展開風で進み、やがて小太鼓とシンバルが、低音域で下行を繰り返す半音階的な固執音型の上に響き始める。
そしてチェロとバス・クラリネット、続いてヴィオラとクラリネット、それから第2ヴァイオリン・・・という順序で第6エピソードの主題が、だんだん音域を高めながら、ストレット(曲の終わり近くなどで、緊迫感を出すために速度を増すこと)に入っていく。
息の長いクレッシェンドがフォルティッシモに達した後も強奏を保ち、第2エピソードの回想がまねく中断の瞬間も、その後の一層の昂まりをもたらす。
そしてもう一度フォルテ・フォルティッシモにまで登りつめると、緊迫の度を加えて、突然の終止になだれ込む。





曲はどんどん激しさを増していく。
先輩の指揮も、曲と一体化し、激しく強くなっていく。

ラヴェルの計算され尽くした、精緻な書法。
洗練された上品さ、オーケストレーションの巧みさ。
だけどこの曲に流れる、華麗な雰囲気の中にある、どこか狂気じみた熱気。

混沌と熱狂の渦の中、「幻想的で破滅的な旋回」へと劇的に盛り上がっていく。
そして異常とも言える緊張状態と高揚の中、何の前触れも予告も無く、突然この曲は終結した。










一瞬の間を置いて、ホールが割れるような拍手が沸き起こる。
その拍手にはっと我に返って、遅れをとる形で、心からの拍手を舞台へと送った。

この曲はあちこちでテンポが変化するのに、最後までオケが機敏に、ぴたっとタイミングよく反応していた。
ピアノの独奏だって、ラヴェルは難しい。
それを、先輩はオケを見事に導いて、私達の目の前で素晴らしい音楽を聴かせてくれた。

何て人なんだろう・・・。

まだ1曲目だというのに、ホールは興奮に包まれている。
それほど、このラヴェルは素晴らしかったということだ。

じゃあ、次は?
次の曲は、どんなに素晴らしい?

客席全体が期待に胸を膨らませているのが、空気で分かる。
だって自分もそうだから。

さあ、次は?

再び指揮者が現れるのを、客席全てが固唾を飲んで見守った。










ジャック・イベール フルート協奏曲

ジャック・フランソワ・アントワーヌ・イベール(1890−1962)
1890年パリに生まれ、パリで没したフランスの作曲家。
スペインの作曲家でありイベールの従兄弟にあたるマニュエル・デ・ファリャの薦めで、パリ音楽院へ20歳で入学、エミール・ペッサールやアンドレ・ジェダルジュらに師事。
同窓に「フランス6人組」がいる。
1917年、第一次世界大戦後最初のローマ賞をカンタータ『詩人と妖精』で受賞し注目を浴びる。
1937年から58年にかけて、ローマのフランス・アカデミーの館長を務めた。
イベールはあらゆる創作領域、特に演劇や映画において多くの曲を残している。
代表曲は『寄港地』わが国に贈られた『祝典序曲』など。


イベールは『フルート協奏曲』以前に『チェロと木管楽器のための協奏曲』という小規模な協奏曲を書いているが、実質的に最初の協奏曲と言えるのはこの『フルート協奏曲』である。
この曲は1932年から1933年にかけて作曲され、当時のフランス第一のフルート奏者、マルセル・モイーズに捧げられた。
初演は1934年パリで、独奏はモイーズ、フィリップ・ゴーベールの指揮とパリ音楽院管弦楽団によっておこなわれた。
イベールの協奏的作品の特徴である、独奏と管弦楽の協奏曲ではなく、独奏を含めた管弦楽の協奏曲という作法を方向づけているといえる曲。
急−緩−急の3楽章からなる。
20世紀に生まれたフルート協奏曲の傑作と言われている。





先輩が再び舞台に登場した。

それに続いて、今夜のソリストが拍手で迎えられる。
プログラムにあった名前は「相沢舞子」。
この人もR☆Sの創設メンバーの一人だ。

何だかとっても可愛らしい人。
萌ちゃんじゃないのはちょっぴり残念な気もするけど、この人はどんな演奏をするんだろう。

先輩とアイコンタクトをとると、演奏が始まった。





第1楽章 Allegro(アレグロ)ヘ長調 四分の二拍子

ソナタ形式。
管弦楽の導入の後、独奏フルートが速く細かいフレーズの第1主題を示す。
イベールらしい、色彩感のある音色の主題である。
これが管弦楽のトゥッティで長三度上、イ短調に確保される。
推移部は独奏フルートを主としていて、それまでの四分の二拍子のリズムの中に急に割り込んだ八分の三拍子は極めて印象的。
牧歌風な第2主題を独奏フルートが歌い、それにヴィオラとチェロがつつましく伴奏する。
長い小結尾には、幾つかの新主題が現れ、交互に発展する。
展開部はティンパニのフォルティッシモを合図に、弦楽器による第1主題の荒々しいフガートで始まる。
その後、第2主題がクラリネット、第一ヴァイオリンで奏される上に、独奏フルートが第1主題の無窮動風な動きで飾り、これが高潮しきったところで再現部に入る。
ここはフォルテ・フォルティッシモのトゥッティで、第1主題と第2主題が同時に対位法的に重なって再現する。
それまで各所にちりばめられていたシンコペーションの動機が伴奏に使われる。
続いて独奏フルートが第1主題を完全五度下に確保し、下属音的音感が強くなり、終止が近付く。
最後は第3主題群がちらちらと顔を見せ、軽快に終わる。





ソリストが奏でるフルートの性急な音符の動きが軽快で、一音一音が美しく連なる。
イベールらしい、洒脱で軽妙なリズム感。

多彩な音色と確かな技巧で、ソリストは客席を魅了する。

そして独奏と管弦楽のアンサンブルが絶妙。
フルートだけでなく管弦楽の各楽器が細部まで活かされている。

それを余すところなく、先輩が指揮していく。





第2楽章 Andante(アンダンテ)変ニ長調 四分の三拍子

この楽章は、ラヴェルの影響が強く、高雅なサラバンド(スペイン由来の、三拍子の荘重な舞曲)または遅めのメヌエットの感じ。
弱音器付きの弦楽器の上に独奏フルートが歌う、この部分の弦楽器の音形は、偶然かもしれないが第1楽章の第2主題と関連があるように思われる。
木管楽器、ティンパニ、コントラバスのピッツィカートなどによる、ややリズミックな推移部を経て中間部分に入る。
ヴァイオリンのピアニッシモの和声の中を、独奏フルートがエスプレッシーヴォ(表情豊かに)で奏し、それにファゴットとヴィオラが活気を添える。
この部分の後半に現れる新しい主題は、少しワーグナーの『トリスタンとイゾルテ』の「愛の動機」を思わせる。
この新しい主題で高潮した後、次第に弱くなり、第一部分が再現する。
ここでは独奏ヴァイオリンが主題を奏し、独奏フルートが16分音符で流暢に飾り、ヴァイオリンとフルートの複協奏曲の感じである。
やがて旋律は独奏フルートに回され、少し高潮して、中間部後半の新しい主題を、今度は最初の弦楽器の陰の旋律に重ねてピアノ・ピアニッシモで終わる。





第1楽章とは打って変わって、ゆったりとした、情感たっぷりな低音が響く。
典雅な響き、流麗な旋律に、思わず溜息が出そうなほど。

あ・・・これは・・・。

『トリスタンとイゾルテ』の「愛の動機」に何だか似てますね・・・。

思い出すのは去年のラスト・コンサート。

あの時の私は、「イゾルテ」だった。

トリスタンを愛し、そして愛されたイゾルテ。
二人の「完全な愛」は、死をもって成就した。

あの時、私の中には「トリスタン」がいた・・・。

思いがけず現れた、耳に馴染んだ動機に似たこの主題に、何か見えない力が働いているような、そんな不思議な感覚がした。





第3楽章 Allegro scherzando(アレグロ・スケルツァンド) ヘ長調 四分の四拍子

序奏付きの極めて伝統的なロンド形式で、ABACABAの形式。
律動的な要素によるやや長い序奏の後、ロンドの主題が呈示される。
次にエピソードの主題が出る。
この後主題が再現して、序奏の要素を使った小結尾の後、曲想が一変し、モデラート・アッサイの中間部へ入る。
まず独奏フルートの即興的な導入があってから、この部分の主題を独奏フルートが、主として弦楽器の伴奏で歌う。
この辺りは、イベール本人による『寄港地』の第2曲「チュニス−ネフタ」を思わせるようなエキゾチックな雰囲気が醸されている。
この部分はそれ自体で三部形式をとっている。
再びアレグロ・スケルツァンドで、主題、エピソード、主題と進み、フルートの演奏技巧を駆使したカデンツァを経て、序奏の律動的な要素を使って、華やかに明るく終結する。





リズミカルな序奏、快活で華やかなフルート。
畳み掛けるような勢いで登りつめていく。

そして曲想が変わって、中間部は異国情緒的な旋律。

それからソリストの見せ場のカデンツァ。

あの小柄な体でよく・・・と思わせる、力強くも豊かな音色。
高い技術、それに裏打ちされた多彩な表現力。
曲も終盤だというのに、スタミナも集中力も途切れる様子はない。
最後の最後まで素晴らしい演奏で、客席を惹きつける。

そして再び序奏のリズムで華々しく盛り上がって曲を締めくくった。










凄い・・・。

舞台の上でソリストと握手を交わす先輩を見つめる。

ソリストを、そしてオケを称える鳴り止まない拍手が、背後から舞台に向かって波のように押し寄せている。

先輩。
先輩は、やっぱり凄いです。

イベールは言った。
「作曲とは、1%の霊感と、99%の発汗からなる」と。
エジソンを真似てか、彼のユーモアを窺わせる。

誰よりも才能があって、だけどそれに甘んじることなく、自分に出来る事、成すべき事をして、最高の音楽を作る。
まるでそんな先輩の事を言っているようだ。

惜しみない拍手を浴びる舞台の上の先輩は、口元を少しだけ緩めて、客席に向かってお辞儀をする。

やっぱり、オーケストラっていいな・・・。

いくらピアノがオーケストラの持つ音域のほぼ全てを内包しているからと言っても。
クラシック音楽のほとんどをピアノ曲に編曲して演奏することが出来ると言っても。

オーケストラと共に舞台で作り上げる音楽には、やっぱり、どうしても、叶わないんじゃないかと思う。

先輩と一緒に、舞台の光の中にいる人達が羨ましいと思った。

そして拍手をしながらぼんやりと舞台を見ているうちに、ソリストも指揮者もオケのメンバーも、舞台から一旦下がっていく。



公演はそこで、15分間の休憩に入った。





続く(written by びわ)