短 い休憩の後、再び舞台にオケのメンバーが姿を現し始めた。
休憩の間ざわめいていた客席も、次第に静かになっていく。

前 半のプログラムは短めながらも、R☆Sらしい若さ溢れる、だけどそれだけじゃなくて、優れた演奏技術も伴った素晴らしいものだったと思う。
ア マ・オケだからと思って聴きにきた聴衆は、もしかしたら度肝を抜かれたかもしれない。

創設時よりも随分とメン バーが増えたようだ。
きっと運営や何やかやは大変だろうけど、その代わり演奏の幅も広がって質も上がったんじゃないだろうか。

峰 くんは、今じゃこのオケの「顔」的存在らしい。
でもそれは、R☆Sの代表の一人としてではなく、他の人より目立つ容姿によるものだけ でもない。
先輩や清良さんや、他のメンバーがいなくなった後も、峰くんがこのオケを守ってきたからだ。

こ のオケに自分は関わっていないけれど、それがとても嬉しい。
きっと先輩も、そう思っているはず。





『不 機嫌なマエストロ 第11話−2』





オ ケの準備が整うと、また静寂が訪れた。
客席が今か今かと先輩の登場を待つ。

前半が始まる時 よりも、客席の高揚感が違うように思う。
それだけ前半が素晴らしく、だからみんながこれから始まる演奏に更に期待しているのだ。

満 を持して先輩が現れると、それだけで大きな拍手が起こる。
そして颯爽と、自信に満ちた足取りで先輩が指揮台に上がると、ぴたりと鳴り 止む拍手。

しんと静まり返ったここは、外からは切り離された、まるで別世界だ。

オ ケも客席も息を潜める。

再び、先輩が紡ぎだす楽しい音楽の時間が始まる。










シュー ベルト 交響曲第8番 ハ長調 D944 「ザ・グレート」

フランツ・ペーター・シューベルト(1797− 1828)
1797年ウィーン近郊リヒテンタールで生まれたオーストリアの作曲家。
『美しき水車小屋の娘』『冬 の旅』『白鳥の歌』といった“3大歌曲集”をはじめとして、実に600曲以上もの歌曲を作曲し、「歌曲王」として音楽史上にその名を刻んでいる。

シュー ベルトは晩年、大きな作品を書くことに意欲を持ち、友人に「歌はもうやめた。オペラと交響曲だけにする」と言ったと伝えられている。
そ して1825年から1826年にかけて、この交響曲第8番が書かれた。
4楽章からなる雄大な交響曲である。
その 形式は手がたい古典的な連鎖形式を用いているが、内容的には大変ロマンチックである。

この曲はウィーン楽友協会 に献呈されたが、あまりに長大だという理由で公の場での公表には至らず、没後、シューマンによって再発見され、1839年にメンデルスゾーン指揮によって 初演された。
しかしその後もなかなか全曲通しての演奏は拒否されることが多く、シューマンはそれに対して「この曲を知らない人はまだ 本当にシューベルトを知らない」「神々しいまでの天上的な長さ」などと言って、この曲に心からの賛辞を贈った。

ち なみにこの交響曲の「ザ・グレート」という呼び名は、シューベルトの交響曲にハ長調の作品が第6番と第8番の2曲あり、第6番の方が小規模であるため「小 ハ長調」、それに対して第8番が「大ハ長調」と呼ばれるためで、「偉大な」という意味はない。





何 となく、だけど。
この選曲には峰くんが関わっているような気がする。
「俺たちにぴったりの曲だぜ!」とか何と か。

それを呆れたように、だけどどこかで許している先輩も何故か想像出来てしまった。





第 1楽章 Andante(アンダンテ)ハ長調 二分の二拍子 − Allegro ma non troppo(アレグロ・マ・ノン・トロッポ) ハ長調 二分の二拍子

序奏付きソナタ形式。
冒 頭、序奏部で二本のホルンが牧歌的で美しい主題を単独で奏する。当時としては珍しく、シューマンの交響曲第1番「春」やメンデルスゾーンの交響曲第2番 「賛歌」に受け継がれている。
その主題を木管が反復し、チェロが引き継いでロマンティックな雰囲気が続き、そして躍動するような主部 に入る。
付点リズムによる見事な音価変換で第1主題が導かれ、木管の3連音符を伴いながら発展し、すぐに転調してどこか物悲しい第2 主題に移行する。
続いて第3主題として序奏部の主題の終わりの部分をトロンボーンが奏し、だんだんと勢いを増していく。
展 開部は第1主題と第2主題をもとに発展していき、晴れ晴れとした流れを作り出している。
そして弦楽器の3連音符にのせて再現部に入 り、徐々に速度を増して、序奏部の主題を大きく回帰させる壮大なコーダで閉じられる。





二 本のホルンのゆったりとしたメロディーが響く。
低弦のピッツィカートも合わさって、ロマンティックに曲が始まった。

そ して躍動感のある音形へ。

印象的なトロンボーン。
重なり合う第1主題と第2主題。

最 後はテンポを上げながら、コーダで序奏のメロディが再現される。





第 2楽章 Andante con moto(アンダンテ・コン・モート)イ短調 二分の四拍子

展開部を欠くソナ タ形式で、ABABAの形式。
印象的な低弦の旋律に続いて、オーボエが鄙びた旋律を奏する。これがAの主題である。
旋 律は、短調と長調とを頻繁に交代しながら、微妙なニュアンスを彩って進んでいく。
Bの主題は、第二ヴァイオリン、コントラバスのだん だん下りてくる音型で美しく始まる。
特筆すべきは主題の終わりの部分で、弦楽器がピアニッシモから、さらに、ディミニュエンド、ディ ミニュエンドと小さく、小さくなっていき、そっと和音をならす。
そしてシューマンが「全楽器が息をのんで沈黙している間を、ホルンが 天の使いのようにおりてくる」と絶賛した、ホルンが静かに3度下行するブリッジが響く。
この後、第1主題に戻り、第1主題の終わりに は、息をのむゲネラルパウゼ(全楽器の休止)があり、ためいきのようなチェロの旋律をはさみ、イ長調の第2主題につながる。
最後に第 1主題がコーダのように提示され、静かに閉じる。





冒 頭のオーボエ、そしてクラリネットの魅力的なソロ。
シューベルトらしい、メロディの微妙な色合いの変化。
弦楽器 と管楽器が豊かに響き合う。

そしてシューマンが絶賛した、ホルンの天使の音色。
まるでホー ルを包み込むように響き渡る。

全体にゆったりとした美しい楽章は、静かに結ばれる。





第 3楽章 Scherzo Allegro vivace(スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ)ハ長調 四分の三拍子

複 合三部形式。
弦のユニゾンが比較的低い音だけで主題の前半を、オーボエが高い音で後半を奏する。
これにト長調と ハ長調の流麗な旋律を対照させ、ときに組み合わせて長大なスケルツォの主部を終える。
3度転調の手法がみられる中間トリオはイ長調 で、その旋律は美しく、フランス民謡「マールボーロ公」を想起させる。





弦 楽器の低音とそれを受ける木管楽器の高音のメロディが、歯切れの良いテンポでどことなくユーモラス。

対照的なメ ロディが滑らかに続いて、美しく流麗なトリオへ。

再び冒頭の弦楽器と木管楽器の掛け合いに戻る。





第 4楽章 Allegro vivace(アレグロ・ヴィヴァーチェ)ハ長調 四分の二拍子

ソナタ形式。
第 1楽章の5割かたも長い、長大なフィナーレ。
ものものしい総奏のユニゾンで第1主題の出現を準備する動機が示され、第1主題はイ短調 とハ長調を行き来する。
第1楽章同様、付点リズムと3連音符に特徴があるが、もっと急速で息を付かせない。
そこ にさらにト長調の音型的な第2主題が重ねられ、展開部、再現部と徹底して繰り返される。
展開部では第2主題と関連した新しい旋律が重 ねられる。
再現部は第1主題の再現とともに始まり、ハ短調と変ホ長調を行き来し、第2主題はハ長調で再現され、最後は第1主題が立ち 上がり、単純ではあるが壮大なコーダで盛り上がり、この長大な交響曲は終わる。




ファ ンファーレのように力強いオケの総奏で始まる。
第1楽章より躍動感に溢れ、グイグイと快活に曲が進んでいく。

ベー トーヴェンの第9の『歓喜の歌』にも似た雰囲気が現れるのは、シューベルトが同時代を生きたベートーヴェンに憧れを抱いていたからか。

そ してこの長大な交響曲は、壮麗に、堂々とコーダで盛り上げられ。



つい に、フィナーレを迎えた。










正 面には眩しい舞台。
自分は、薄暗い客席にただ一人、ぽつんと座っている。

そんな錯覚を覚え るほど、演奏が終了しても、余韻が消え去っても、ホールは水を打ったように静まり返ったままだった。

指揮者が ゆっくりと腕を下ろす。
そしてゆっくりと振り返る。
それから客席にいる全てと目を合わせるように視線を巡らせる と、深く一礼した。

その様子をじっと見ていただけだった客席は、次の瞬間、総立ちの勢いで拍手喝采を送った。
オー ケストラよりも大音量の拍手が沸き起こる。

指揮者である先輩も、オケのメンバーを称えるように拍手を送り。
そ してオケのメンバーも、先輩を、そして仲間を称えるように足を踏み鳴らしている。

R☆Sオケは、シューベルトの このあまりに雄大な曲を、繰り返しを省く事無く、楽譜どおり全て演奏しきった。
指揮者とオケ、その集中力の凄まじさに感服する。

あ あ。
終わってしまった。
この素晴らしく楽しい、音楽の時間が。

感動し た。
涙もちょっぴり出た。

だけど感動よりも何よりも、もっと、もっとと求める自分がいる。


音 楽を。
私にもっと音楽を!


この気持ちを何て言ったらいいんだろう?

涙 で霞む視界の向こうで、先輩やオケのメンバーが袖に消えていく。

今夜はもう、これで終わりなんだ。
終 わっちゃうんだ・・・。

定期公演だし、最後は演奏時間も長かったし、アンコールもないだろう。

物 足りないような気持ちを持て余しながら、そう思って、大人しく客電が点くのを待った。
けれど一向に明るくなる様子はない。

不 思議に思った客席がざわめき始める。

すると、舞台に動きがあった。
慌しく椅子を動かし始 め、袖から・・・グランドピアノが運び込まれる。

「まさか、アンコールとか?」
「ええ!? まさか・・・でも・・・」

あれだけ長い交響曲が終わったばかりなのだ。
みんな半信半疑だ が、しかし舞台の用意は着々と進められている。

「やっぱり、アンコール?」
「だよねぇ?」
「で もさ、あのピアノ、誰が弾くの?」
「さあ・・・?」

口々にみんなが囁き出す。

舞 台の上で、圧倒的な存在感を放つピアノ。
けれど演奏者がいない。
誰もがそう思って、疑問を口にする。

そ んな客席のざわめきを耳に入れながら、私は舞台のピアノから目が離せなかった。

指揮台が退かされ、演奏者が客席 に背中を向ける形で中央に置かれたピアノ。
ピアノは屋根が外されている。

ピアニストは誰 か?

そんな事・・・この状況なら、分かりきった事だ。

「もしかした ら」

熱心なR☆Sのファンだと思われる客が呟いた。

「千秋様とか?」

そ こからざわめきが一層大きくなる。

「え?指揮者なのに?」
「だって音大ではピアノ科だっ たってプロフィールにあったもん」

期待に満ちた視線が、舞台に注がれる。
その舞台の用意は 整ったようだった。

そしてすぐに袖から演奏者達が出てきた。

真澄ちゃ んだけ後方のティンパニへ。
それから後は、ピアノを囲むように、菊池さん、黒木くん、萌ちゃん、薫ちゃん、峰くん、清良さん。

そ して最後に、先輩。

客席から拍手と歓声が上がる。
特に若い女性客からは悲鳴にも似た黄色い 歓声が上がった。

一礼した先輩はピアノチェアに座ると、清良さんから順に視線を合わせていく。

先 輩の弾き振りを初めて見たのは、先輩がパリのアパルトマンを引っ越す前だった。
あのショックというか、衝撃は忘れられない。

あ れから何年経ったんだろう。
先輩のピアノを聴く事自体が、もう久々だ。

心臓の音が、やけに 耳元で煩い。
喉がからからに渇いてしまったように、息をするのが苦しい。

じっと見つめる先 の先輩は、やがて静かに右手を上げると、曲の開始を合図した。










「あ・・・」

始 まった曲は、よく知った曲だった。

それは私の・・・私と先輩の・・・ピアノソナタ。

人 前で弾く事も、聴かせる事もない曲だった。
その曲に、先輩が光を当ててくれた。


『Musique sans le nom』


―――名もなき曲―――


そ れが、この曲の名前。





楽し げに飛び跳ねる音達。
嬉しくて、はしゃぎまわる様な、軽やかな旋律。

まるで追いかけっこの ようなリズムで、先輩が弾くピアノの後を、黒木くんのオーボエや薫ちゃんのクラリネットが、清良さんと峰くんのヴァイオリンを伴奏にして追いかける。

第 1楽章、これは私と先輩の「出会い」だ。


『ちあきせんぱーい』


そ う呼べば、迷惑そうに、仕方なさそうに、でもちゃんと振り返ってくれた。
口ではキツイ事を言われたし、何度も叩かれたり投げ飛ばされ たりもした。

でも、本当は照れ屋で、優しくて。
意外と世話好きで、料理上手で。

そ して何よりも、音楽が好きで。

知れば知るほど、好きになって。
追いかけて、追いかけて。

壁 に挑んで、敗れて。
でも立ち上がって。

その思いは、海も飛び越えた。





第 2楽章は、ゆったりと、ロマンティック。

囁く様な、萌ちゃんのフルート。
それに答える、菊 池さんの優しいチェロ。

甘くて、とろける様な優しい旋律が、静かに流れていく。

私 と先輩の「新しい関係」が始まった。

長く一緒にいたためか、初めの頃は、戸惑いながら。
そ れでも、嬉しい時間、楽しい時間、悲しい時間、寂しい時間、時には喧嘩もしたりして、たくさんの昼と夜を越えて。

そ していつか、二人の距離が、ゼロになった。

やがて訪れる岐路。

真澄 ちゃんのティンパニが、重く鳴り響き始める。
突如それは雷のように大きくなり、甘美だった旋律は、物悲しい旋律へと変わっていく。





第 3楽章は、悲しみに満ちて。

壊れてしまった関係。
もう二度と、取り戻せない。

私 と先輩の「別れ」。

悲しみ、絶望、喪失、後悔・・・。
黒い感情が渦を巻いて、奈落の底へと 誘う。

堕ちていく・・・このまま、どこまでも・・・。

追い詰めるかの ように、低音の旋律がテンポを上げる。

けれど。


ポーーー ン・・・

ポロロロン・・・


そこに、ピアノの澄ん だ音色が降り注ぐ。

まるで、暗闇に一筋の光明が差し込むように。
夜明けを迎える空の、朝日 のように。

忘れないで。
歓びを。

忘れないで。
音 楽を。

どんな暗闇に堕ちても。
想い出は、色褪せない、闇には染まらない。

最 後に残ったのは、愛しくて、愛しくて、愛しくて。
ただただ愛しい、美しい想い出。

大丈夫。
忘 れない。

大丈夫。
歩いていける。

そっと優しい旋 律が流れる。
全てを包み込むように。

やがて先輩のピアノだけが、その旋律を奏で始めた。

小 さく縮こまってしまった私に、手を差し伸べるように。
大丈夫だと、囁きかけるように。

優し い優しいピアノの旋律が、私を包む・・・。

ゆっくりとピアノの独奏が終わると、曲調は明るくなってくる。

深 い悲しみから抜け出して、未来へと続く道が生まれる。

そしてそのまま、曲は静かに閉じられていく。






最 後の一音を、先輩が丁寧に響かせた。
たっぷりとした余韻が、ホールを支配する。

やがてそれ も静かに消えていった・・・。





も う、何も言葉なんて出てこない。

溢れる涙を、抑えることは出来なかった。

立 ち上がって客席に一礼する先輩と清良さんたちに、たくさんの拍手が送られている。
その拍手の音も、遠くでしているようだ。

気 が付けば、先輩の視線が私を捉えていた。
額に浮き上がる汗もそのままに、熱い眼差しが、私を射る。


身 動き、出来ない。


想いが、流れ込んでくる。
曲に込められた、先輩の想 いが。
楽譜だけでは伝えきれない、生きた想いが。

言葉は少ない人だけど。
音 楽では多くを伝える人だから・・・。

絡まった視線は、だけど先輩が袖に消えることで解けた。
一 気に体から力が抜けた。

脱力したまま椅子に深く沈みこみ、周りの客がホールを出て行く波に取り残される。

「ア ンコール、素敵だったね」
「千秋様、かっこいい!」
「あの曲、何て曲だったのかな?」
「聴 いた事ないねー」

ざわざわと人の波が動いていく。

みんなは、あの曲を 知らない。

騒ぎになったわりに、一部関係者のみにしか発表されなかった曲だから、曲自体ほとんど知られていない のも無理もない。

まさかこんな形で、先輩が・・・。

編曲してもらっ て、それに名前を付けさせてもらって。
それだけで、十分幸せだと思った。

まさか・・・。

涙 はもう引いた。
その代わりに、心臓が尋常ではない速さで鼓動を刻んでいる。

先輩。
こ れは・・・ある意味リュカより情熱的ですよ・・・。

他の客よりかなり遅れて、一人頬を必要以上に紅潮させながら ホールから出れば、ロビーの一角に人だかりが出来ていた。
後ろから覗き込むと、ホワイトボードに


本 日のアンコール曲
『Musique sans le nom』


とだ け、あった。

「えー、これ何語?読めない」
「誰の曲なんだろうね?」

ホ ワイトボードを見ては、みんながそんな事を言いながら外へ出て行く。

私の大切な曲。
同時 に、大好きな人が私に贈ってくれた、特別な曲。

「でも素敵な曲だったね」

そ んな言葉も聞こえる。
何だかくすぐったい。

この曲は凄く大切な曲で、だけど少し悲しみも連 れてくる曲だった。
でも今は、こんなにも愛しさで溢れる曲に生まれ変わった。

先輩、先 輩・・・。

私・・・。

無意識に首元に手がいった。
指 先に感じる小さなものは、いつか先輩から貰ったルビーのネックレス。

別れた後も、手放す事が出来なかったもの。

確 かめるようにそれに触れて、私はロビーを後にした。





**********





タ イを緩めて、ミネラルウォーターを一気に呷った。
冷えたそれが喉を潤していく。

そしてジャ ケットを脱ぎ捨てると、椅子にどかりと座った。

終わった。
今夜の出来は上々だ。
体 は疲れているけれど、充足感で満たされている。

その上、客席にはアイツが・・・のだめがいた。
俺 が送ったチケットの席に、ちゃんと。

それを認めて、思わず口元が綻びかけた。
のだめが聴い ているというだけで、力が湧き上がるようだった。

机の上の指揮棒のケースには、やっぱり今もいる、カズオの指人 形。

おい、俺は上手くやれたか?

視線だけそちらに投げかける。

ア ンコールが終わった後。
俺にはもう、のだめしか見えていなくて。
のだめも、俺を見ていて。

涙 を流すアイツを、飛んでいって抱き締めたいと思った。
交差した視線が、想いを繋いでくれたかのように思えた。

の だめ。

俺の想いは、お前まで届いたか?

アイツみたいに、口ではなかな か言えないけれど。
こんな形でしか、伝えられないけれど。

もし、ここにお前が来てくれた ら・・・。

タオルで汗を拭いながら、そんな事を考えていたらドアがノックされた。

「・・・ どうぞ」

幾分緊張してそうドアの向こうに声をかけると、ドアが勢いよく開かれた。

「千 秋〜〜〜!!!」

涙と汗でぐちゃぐちゃな峰が飛び込んできた。
今にも抱き着く勢いで控え室 に入ってきた峰を軽くいなすと、その後ろには清良がいた。

「千秋くん、お疲れ様」
「そっち も」
「のだめちゃん、来てたわね」
「ああ」
「よかったわね」
「無理 言って悪かった。でも、ありがとう」
「いいのよ、別に。とってもいい曲だったしね」
「俺は感動したぞ!千秋 〜!」
「はいはい、もうそれは分かったから」

峰は清良に首根っこを掴まれている。
こ いつら、春には結婚するって聞いたけど・・・峰の奴、もう尻に敷かれてるのか。

ふと頭を過ぎった「結婚」という 言葉。

のだめから・・・あの時の返事は、まだ、ない。

リュカからのプ ロポーズ。
NYからの誘いとやら。

そして・・・俺。

の だめが何を選ぶのか、それはアイツの自由だ。
俺は、のだめの出した答えを、受け止めるだけ。

そ れがどんなものであろうと、俺の想いが変わることはないから。

今回の公演で、峰達には無理を言った。
俺 のわがままで、アンコールにのだめの曲を一緒にやってもらった。





「で、 千秋の頼みって、一体何だ?」

R☆Sのリハ初日を終えて、場所は裏軒。
顔を突き合わせてい るのは、峰と清良、それから真澄に黒木くん、菊池くんに鈴木姉妹。
峰に一言声をかけておいてもらって、わざわざ集まってもらった。

「実 は公演の最後に、アンコールでやりたい曲があるんだ」
「アンコールか!せっかく創設メンバーが集まる公演だしな!でもなぁ、急に言わ れても、みんなあんまり練習時間ないんだよなー」

オケのメンバー全員が学生でいるはずもなく、今では社会人とし て働いている者も当然いる。
それに加えて公演までの日程もそんなに余裕は無い。
峰の言う事はもっともだった。

「そ れは分かってる。でもアンコールでやりたい曲は、ここにいるメンバーだけで十分演奏出来るんだ。だから・・・無理を承知で頼む」

俺 は必死の思いで頭を下げた。

「どうしたんだよ、千秋。らしくねえな」
「頼む」

そ れだけしか言えない俺に、黒木くんが助け舟を出してくれた。

「千秋くんがそれだけ必死になる理由があるって事だ よね?僕でよければ力になるけど。でもその前に、理由とそのやりたい曲っていうのを教えてくれないかな?」
「そうだね、僕も聞きた い」

菊池くんが黒木くんの意見に賛同すると、他のみんなも頷いた。

俺 は鞄から楽譜を取り出した。

「やりたいのは、この曲なんだ。この、のだめの作った曲」
「こ れって、例の盗作騒ぎの・・・?」
「ああ。俺が編曲した」
「これを、アンコールで?」
「ア イツは普通にしているけど、騒ぎの間は相当辛かっただろうから・・・。だから、封印していたこの曲を聴かせてやりたいんだ、舞台で」

悲 しい思い出のままの曲で、終わらせたくなかった。

「俺個人のわがままを言って悪いんだけど・・・」

も しかしたら、のだめは日本を出るかもしれないから。
こんな機会は、もう二度とないかもしれないから。

「恵 ちゃんのため、なんだね。分かった。僕でよければ、是非一緒にやらせてよ」
「面白そうだね。僕もいいよ」
「あの ひょっとこ娘も色々大変でしたものね・・・。いいですわ、私も」
「私もいいわよ」
「「私達も」」
「ソ ウルメイトのためだしな!」





そ してオケのリハと合わせて、各自が練習してくれて。
きちんと合わせられたのは、実は今日の本番前に一回だけ、だったんだけど。

み んなには本当に感謝している。

「千秋、この後は打ち上げやるからな。後でロビーに集合だ!」

清 良に引きずられるように外に出されながら、峰がそう叫んで二人は出て行った。

その後は、真澄や、黒木くんと菊池 くん、鈴木姉妹、他にもオケのメンバーや関係者が控え室に来てくれた。
それぞれが、プログラム上の曲目以上に、アンコール曲の良さを 語っていく。

のだめの曲が認められるのが、自分の事のように嬉しい。
アイツにも、教えてや りたい。

だけどそののだめは、ここに姿を現さない。

帰ってしまったん だろうか?

少しでいいから、顔が見たい、と思う。
今、のだめの顔が。

今 夜の公演の感想を聞いてみたい。
そしてアンコールはどう思ったか、聞いてみたい。

ここに来 てくれたら・・・。

もう誰もノックする事もないだろう静かなドアを眺めながら、そう思った。





続 く(written by びわ)