カー テンの隙間から、日の光が差し込む。 
まだ完全に覚醒していない意識の中で揺られながら、俺は確かにそこにあったはずの温もりに手を 伸ばした。
だが、それはすでに存在しなかった。

今、何時だろうか。
ひ んやりと冷たい空気に満ちた部屋の中で、俺は一人考えをめぐらせる。
無理矢理に上体を起こし、少し酒の残った頭をなんとか整理する。

R☆S の打ち上げの後、あいつ…のだめが俺のマンションに来て…。
あんなにも渇望した存在を、ようやくこの腕の中に抱きしめることができ た。
夢じゃない。
愛おしくてやまないあいつの、温度が、香りが、感触が、鮮やかに蘇る。


で も、あいつは。
泣いていた。


  ――のだめは欲張りで、わがままデ ス。
 
  ――・・・のだめで、いいんデスか・・・?




寝 室を出てリビングに入ると、テーブルの上にメモが一枚載っていた。







     不機嫌なマエストロ 12話







「今 日は、先に出かけてしまってすみませんでした。」
 
「いや、だって午後からリハだったんだろ。…悪かったな、俺 のほうこそ。」

「いえ、いいんデス。」



今 朝俺が起きたときには、すでにのだめは出かけた後だった。
あいつを抱いた感覚が俺の腕の中にまざまざと思い出されるのにも関わらず、 ベッドの中にいるのが自分だけだと認識した瞬間、昨夜の出来事は本当に幻だったんじゃないかと不安になった。
あいつはまた、俺の手の 中からすり抜けて見知らぬ場所へ行ってしまったんじゃないかと。



テー ブルに残されていたメモには、

 『昨日は無理にお家に上がりこんですみませんでした。
   のだめは早めに仕事に向かいます。それから、もし今日の夜
  空いていましたら、一緒にゴハンでもどうですか?
   また連絡します。 LOVE☆のだめ』

それを見つけたとき、正直なところ、俺は心底ほっとした。







「ふ おぉぉ〜!このソース、すっごく美味しいデス!何が入っているんですかね?なんだか、懐かしい味がするようなしないような…。」

「… どっちだ。」


俺とのだめは、近所に最近できたばかりのフレンチレストランで遅めのディナー をとっていた。
一応フレンチだが、和食の素材や技法を上手く取り入れた創作料理も豊富で、全体的に重くなく上品な仕上がりだ。のだめ も、「むっきゃー」だの「むーん」だの奇声を発しながら、次々に運ばれてくる料理を美味そうに平らげているくらいだから、随分気に入ったらしい。
こ ういうのも悪くないな。今度、作ってやろう。


「…で、どう? リサイタルの仕上がりのほう は。」

「はい。上々デスよ。バレンタイン企画ですからね〜。曲も甘めに、糖度2割増って感じで…」

「は?」

「先 輩も聴きに来てくれるんデスから!のだめ、頑張りマス!」


のだめはそう言って、口いっぱい に食事をほお張りながら、ニコニコと屈託無く笑って見せている。
まるで、何事も無かったかのように。

   ――これが本当に日本で最後の…。
  ――彼女、NYの音楽会社から強いお誘いが来ているみたいですよ。

   ――…一緒にいよう。

のだめからは、何も言ってこない。
ただ、気持ちに正直なまま、本能 のまま、心の求めるままに俺たちは昨晩同じ時を過ごしただけ。
このピンクのワインも甘くて美味しいです…などと無邪気に目を輝かせる のだめを見ていると、何だかどうでもよくなってくる。
ああ、くそっ。
俺は自分のグラスを一気に呷ると、余計な考 えを頭から追い出した。









「ほ わぁ〜。寒いですね…。何だか、雪が降ってきそうデス。」

「ああ、冷えるな。平気?」


2 月にもなると、空からも地面からも冷やされた外気は肌を刺すように冷たい。
それでも、冷気に洗われてこの上なく澄んだ空気は星々の光 を鮮やかに煌かせる。


「ハイ。大丈夫ですよ。あ、先輩この一本のマフラーを二人で巻きま しょう!」

「いや、いいから!…ぶら下がるな!あぶねーだろ!」


俺 にまとわりつくようにのだめがじゃれてくる。
ゲラゲラ笑いながら、ふらふらと歩いて楽しそうに白い息を弾ませている。
こ いつ、大して飲んでいないのに。
俺には必要以上にはしゃいでいるように見えた。

…何だか不 自然で、居心地が悪い。
まるで、空気が重苦しくなるのを意識して避けているような…。




「む きゃ!」

「おい!…大丈夫か!?」

「痛いデス〜…。」

だ から言ったのに。
はぁ、と軽いため息とともに、思わず笑ってしまう。
俺は尻もちをついたのだめの前に屈んでそい つの手を取り、立たせてやった。

女にしては指が長く、大きい手。
俺の愛する音を生み出す、 愛しい手。
こんなに冷えて、冷たくなって。
曲がりなりにもプロのピアニストだろ?
つないだ ままののだめの手を、自分の指で慈しむように優しく撫でる。

「せ…せんぱい?どしたんデスか?」

俺 は黙ってのだめの手を握り締めたまま、反対の手でコートのポケットを探り、四角いケースを取り出した。
ケースの中には、一粒ダイヤの エンゲージ。
あまり華美ではなくて、細身でシンプルだけど上品で…なんて、俺がのだめのことを考えながら作らせたことを思い出すだけ で、正直恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
それでも俺なりに精一杯選んだ、のだめのための…。

俺 はケースからリングを取り出して、のだめの薬指にそっと嵌めてやった。



「… せんぱい…。これ…。」

「…お前に。」



の だめは、何も言わない。
ただ静かにうつむいて、自分の薬指に光るそれをじっと見つめたまま動かなかった。
俺も、 何も言わずにのだめの返事をじっと待った。





冷 たい風が、俺とのだめの周りを吹き抜けていく。

のだめの瞳から、一粒だけ涙が落ちていった。
そ れからまっすぐに俺の目を見た。


「のだめは…。」

「… うん。」



「のだめは…。」

「…… うん。」



「のだめは…っ!」


堰 を切ったように、そいつの目から次々と涙があふれる。
懸命に目を見開いて、俺をしっかりと見つめたまま。
嗚咽を 漏らすまいと、ぐっと歯を食いしばって。

俺はのだめの腕を強くつかんで引き寄せると、力いっぱい抱きしめた。


「な あ、のだめ。」

「……。」

「無理、しなくていいから。」

「……。」

「NY、 行くんだろ?」


抱きしめたそいつの体は、小さく震えている。
頬に触れ る柔らかな髪。
このまま力を込めたら、壊れてしまうんじゃないかとさえ思える華奢な身体。
でもその内面に宿る、 どこまでも雄大で自由な、力強い精神とその音楽。
それらすべてが、のだめを形作っているのだから。


「… やめよう。」

「……。」


抱く腕に、一層の力が込 もる。
のだめは懸命に声を殺しながらも、流れる涙で俺のコートを濡らしていく。


「… 泣くなって。…笑ってろよ。」

「…ごめんなさい。…せんぱい…本当に…ごめんなさい…。」


搾 り出すようにして、のだめがようやく言葉を発する。
まだ、顔は俺の胸に埋めたままだった。
俺はのだめの頭を優し く撫でると、栗色の髪にそっとキスをした。






***************







腕 時計に目を落として時間を確認すると、開演までまだ少し時間があった。
ここオリエンタルホールは、会場自体はあまり広くない。だがリ サイタルや室内楽にはこれくらいの舞台のほうがかえって良かったりもする。特にのだめにもらったこのS席に掛けてステージを眺めると、演者と客席がとても 近く感じられる。
俺は手にしたパンフレットに目をやり、本日の演目を眺めた。

・グリーグ <抒情小曲集>より
  第3集「愛の歌」OP.43-5
  第7集「感 謝」OP.62-2
  第9集「あなたのそばに」OP.68-3

・リスト <3つの演奏会用練習曲>
  「悲しみ」
  「かろやか」
   「ため息」


それから、クララ・シューマンに……。

今 回のリサイタルはバレンタイン企画の一環だと言っていたから、恋愛をテーマにして曲やタイトルからイメージを膨らませやすいようなプログラムが組まれてい るのかもしれない。恋愛というものの様々な形、その過程に去来する色々な想い。そんなところだろうか。

…なんと も、複雑だな。

俺って、またあいつに振られたってことだもんな…。
思わず自嘲の笑みが浮か んだ。
のだめがどんな決断を下そうとも、その答えを受け入れる用意は出来ていたはずだった。
お互い納得して、選 んだ道のはずだった。
それでもまだ、もやもやと心のうちにわだかまる想いが拭い切れない。
俺、カッコわりーな。



R☆S の、あの夜。
確かにこの腕の中に抱きしめたはずのあいつは、確かにこの手の中に取り戻したと思ったぬくもりは、再びするりと俺の腕か ら抜け出していった。

あの日。
パリで。

哀しみを いっぱいに湛えた瞳で俺を見つめながら、あいつが部屋を出て行った時と同じように。





開 演間近を知らせるブザーが鳴り響く。
少し静まり返る客席は期待に満ち、ざわざわとしながらも今日の主役の登場を今か今かと待ちわびて いる。

ややあって、上品なサーモンピンクのドレスに身を包んだのだめが拍手とともに迎え入れられた。









エ ドヴァルド・グリーグ <抒情小曲集>(Lyric Pieces)

1867年、 印象的な冒頭部を持つ《ピアノ協奏曲イ短調 作品16》で一躍有名になったグリーグは、この年から1901年にかけてこの作品集を書き上げた。生涯にわ たって作曲されているため、グリーグの作風、ピアニズム、その変遷すべてがその中にあらわれており、グリーグの作品の中でも中心的な存在にある。
い ずれも1分〜6分程度のかるめの小品であり、ステージ用というよりは、主にサロンや家庭で広く親しまれていた。いずれの曲も、標題がつけられており、それ ぞれの曲に対して、一つの感情、気分、情景が表現されている。






第 3集「愛の歌」"Erotik"op.43-5

緩やかに始まる音楽。
のだめの指先か ら、愛情と幸福感に満ちた音が零れ落ちる。
優しく愛撫するような滑らかなレガート。
包み込むようなあたたかい和 音。
そして、音に運ばせた愛が聴く者の心に染みていくように、そっと音が空(くう)に溶けていった。




第 7集「感謝」"Tak"op.62-2

暖かく素朴でありながら、洗練された美しさを併せ持つ旋律が奏でられる。
そ れは、素直な感情の吐露。
打鍵後に響く音が印象的に積み重なっていく。
中間部からコーダにかけて、軽く目を伏せ てピアノに向かうのだめは一音一音に深く集中している。
それはまるで、全身でこう語っているように見えた。

 ―― ありがとう。





第9集「あな たのそばに」"For dine fodder"op.68-3

ロマンティックで甘美なメロディが、柔らか く紡ぎだされていく。
これは、グリーグが愛妻ニーナへの想いを綴った曲でもある。
特徴的なハーモニーを奏でなが ら、内面からじわじわと、でもはっきりと滲み出てくるような強い想い。
でも決して前面には押し出されてこない、胸の中に秘められた感 情。

 ――私の、心は。
   いつでも、あなたのそばに。

 ―― 私の、身体も…。
   ずっとずっと、あなたのそばにいられたら…。
 

ど こまでのだめがこのプログラムの選曲に関わっているかはわからない。
スポンサーが元々組んだものを弾いているだけなのかもしれない。

で も。
何故か、胸が痛む。
あいつの気持ちが、俺の心に鋭く刺さってくるような気がした。


曲 が終わり、のだめは演奏の手を止めると、そっと目を開いた。
ほう、という感嘆の混じる観客の暖かな拍手に包まれるあいつは、客席に向 かってニコッと微笑むと、軽く会釈をした。











フ ランツ・リスト <3つの演奏会用練習曲>(Trois etudes de concert、S144/R5)

1848 年頃に作曲されたピアノ曲集。
練習曲とは思えないほど甘美な詩情にあふれた曲集であり、演奏会等でも好んで演奏される。
超 絶技巧練習曲やパガニーニによる大練習曲のようなヴィルトゥオーゾのための練習曲とは一味違った、サロン的な趣を持つ練習曲になっている。






第 1番 変イ長調「悲しみ」 / "Il lamento"

華やかな序奏に続いて、憂鬱な面持ちを有するアレグ ロ・カンタービレの主題が登場する。

今、あいつが俺の目の前で奏でているのは、リストの描いていた「悲しみ」な のだろうか。
それとも、あいつ自身の思い描く「悲しみ」なだろうか。
のだめは軽く眉間にしわを寄せるように目を 閉じ、栗色の髪をゆらりと揺らしている。

指先から奏でられる抒情的な旋律も、変化する伴奏を伴いながら時に不安 げに、悲しげに揺れ動いていく。
物悲しくも美しいアルペジオが、そっと曲に幕を引いた。





第 2番 ヘ短調「かろやか」 / "La leggerezza"

この曲も、不安な心情を現すような揺れ動く序奏 で始まる。3連符の不安定な旋律は続いて半音階のスケールとなり、畳み掛けるようなフレーズに没頭していくのだめの指は軽やかに、縦横無尽に鍵盤を駆けめ ぐる。





第3番 変ニ長調 「ため息」 / "Un sospiro"

広範囲にわたるアルペジオの伴奏上を、感傷的で甘く、美しい旋律が 歌っていく。
この部分の旋律は右手と左手を交差して弾くように書かれている。
のだめの指は、まるで。
あ いつ自身のように飛んで、跳ねて。
それでいて、凛とした芯の通ったような音色。
中間部に差し掛かると、ぐっと響 きに厚みと強さが増す。
ところどころに憂いをたたえた様な哀しい調べは、右手、左手それぞれが分散和音を奏でながら、交互に内声に現 れる旋律の音を拾って響かせていく。

そっと、優しく息を吐ききるように、ゆっくりとのだめの指は演奏を終えた。







大 きな拍手が会場を包み込む。
のだめは立ち上がってぐるりと会場を見渡すとにっこり笑い、深々と頭を下げて観客に応えた。














ク ララ・シューマン <ピアノのための3つのロマンス OP.11>

ロベルト・シューマンの妻であり自身も19世 紀最高の女性ピアニスト、クララ・シューマンの19歳の時の作品。実の父親にロベルト・シューマンとの結婚を猛反対されたクララは父と闘い、ローベルトと の未来を決意した頃に作曲されている。クララとロベルトの結婚にまつわる苦難話は音楽史の中に燦然と輝くロマンスとして語り継がれている。






第 1曲 変ホ長調

わずか49小節と3曲中最も短く、前奏曲的な役割を果たしている第1曲。
音 の綾織がロベルト・シューマンの作風と似通っていることがよくわかる。
 
まるで、遠い所にいるロベルトへの、ク ララが逢えないことの寂しさを訴える静かな叫びのようだ。
声にならない叫びは短いモチーフとなって、和声の中から繰り返し響いてく る。
流れるような憂愁に満ちた伴奏に乗せて。
心のうちに秘めた伝えられない想いを鍵盤にぶつけるように。

    ――逢いたい。

痛みを胸に抱えたまま、静かに曲は終わっていく。







第 2曲 ト短調

チェロが歌うような深く哀しいメロディが主導する。
音を紡ぐのだめの表情は、 一層険しさを増している。
印象的な旋律が耳に、心に、重く響いてくる。

 ――これから私た ち、どうなるの?
 
やがて徐々に明るい曲調が加わり、入り混じる希望と不安が交錯する。
そ れでも、快活に前を向こうとする健気な想い。
そして再び、冒頭の哀しげな主題に引き戻されて不安に満たされる心情。
ピ アニッシモの和音とともに回想されるコーダで、あたかも無限に続くかのように次第に消えていく。


ク ララはこのロマンスを「小さな、憂愁をたたえたロマンス」と表現した。
またそれに付け加えて「それを作曲している間、私はずっとあな たのことを考えていました」と書き記し、ロベルトに贈ったのだ。

ああ、そうだ。
まるで、 「名も無き曲」の楽譜をアレンジして、あいつに贈った俺みたいだ。
ふっ、と笑みがこぼれた。


   『あなたはそれをとても自由に―時に情熱的に、そして再び悲しげに―弾かなくてはいけません。
   私はその曲が大変気に入ってい ます。それをすぐに送り返してください。
   その欠点を探すのに臆病になることはありません。私のためになることですから。』(ク ララ)


  『君の楽想一つ一つは、このぼくの心から発している。
    実際のところ、ぼくが自分の音楽すべてに関して感謝しなくてはならない相手は君だ。
   ロマンスで変更すべきところは何もない。 この曲は、このままの形でなくてはならない。』(ロベルト)



 ……ぼ くが自分の音楽すべてに関して…。
 ……感謝しなくてはならない相手は君だ…。









第 3曲 変イ長調

変イ短調のモデラートは、クララとロベルトの再開、そしてふたりの語らい。
甘 く静かな、再会を喜ぶような…緩やかで明るいセンチメンタルな旋律。
鍵盤上で指を滑らせるのだめの表情は心なしか優しく緩んでいるよ うだ。

 ――愛しい、あなた。

時折のぞく、これまでの苦しみを象徴す るかのような短調。
それも、愛する彼との語らいが希望に支えられたものであることを確信するようにすぐに喜びの旋律に取って変わる。

大 恋愛の末結ばれたロベルトとの生活でも、彼の作曲中は邪魔になるからと彼女は十分なピアノの練習が出来なかったという。
それでも8人 もの子供を産み育てながら、繊細なロベルトを支え続けたクララ・シューマン。
不幸なことに、クララ36歳の時にはロベルトがこの世を 去ってしまう。
女性が一作曲家として名声を得るには時代にも恵まれていなかっただろう。
それでも精力的に演奏活 動をこなしてロベルトの業績を世に広め、作曲を続け、後進の指導にあたったクララ・シューマン。

強い、女性だ。



再 会を喜ぶ恋人同士の語らいは穏やかな希望に満ち、明るい和音で曲は幕を閉じる。

のだめはゆっくりと、鍵盤からす うっと指を離して、目を開けた。









割 れんばかりの拍手に包まれながら、立ち上がったのだめは真ん丸く目を見開いて、ほうっと息をつく。
やがて満足そうな微笑を浮かべる と、ニコッと笑って観客に2度3度と深くお辞儀をする。




一 瞬、俺と視線が合ったような気がした。








************************








ロ ベルト・シューマン<ピアノソナタ第3番op.14 嬰へ短調>

1835年に作られ、シューマンのピアノソナタ の中では最も大きな規模をもっている。
作曲当初は2つのスケルツォ楽章をもつ5つの楽章によって構成されていたが、1836年9月の 初版では『管弦楽のない協奏曲』(Concert sans orchestre)と命名され、2つのスケルツォ楽章を割愛した3楽章で構成されていた。
第 2版では、初版で割愛したスケルツォのうち1つを復活させ、「第3番グランド・ソナタ」と銘打って出版された。これが、今日演奏されているものである。こ のような経緯から、ピアノソナタ第2番作品22より作品番号が若い。

特に重点がおかれている第3楽章、そして全 体を通して関連付けられている重要な動機。

…「クララ・ヴィーグの主題」だ。






期 待感で溢れるホールに鳴り響く大きな拍手。
その拍手に迎え入れられるように、のだめが再びステージへと登場した。
観 客に向かって軽く頭を下げて微笑むと、ゆっくりとチェアへ座った。

のだめは目線をぐっと宙に向け、それから瞳を 閉じる。



ゆっくりと目を開く。
そして、まるでピ アノを愛おしむように優しく鍵盤に指をのせた。









第 1楽章  Allegro brillante

7小節の激しい序奏が、力強く聴くものの耳を捉える。
管 弦楽を思わせる、音階の下降音型と付点リズムのモティーフ。
分散和音の伴奏による華やかなパッセージ。
『管弦楽 のない協奏曲』という副題が示す通り、多様な色彩感を持った作品だ。
華やかで、技巧的で、いろいろな輝きを見せる曲。
分 散和音の伴奏を持つ下降音型の第1主題、分散和音を基にした展開から和声的な付点リズムの第2主題の鮮やかな対比。


あ いつのシューマンを最初に聴いたのは、あの時。
マラドーナ・ピアノコンクールの本選。

 ― 渾身のシューマン。
 ―執拗なまでのシンコペーション。
 ―そのリズムの持つ切迫感に取り憑かれていくように…

あ の頃ののだめと、今、この瞬間に目の前の舞台でピアノに没頭しているのだめ。
俺たちは、いつもそうやって。
お互 いが、お互いの背中を押し合いながらここまで来たのだろう。


長大なコーダを圧倒的な集中力 で弾ききると、のだめは聴く者の心をぐっと掴んだまま、重く和音を響かせ指を止めた。






第 2楽章 Scherzo, Molto commodo

第2版で初めて加えられたスケルツォ部。
主 題の前半は下降音型、後半は上昇音型からなり、中間部は分散和音を加えた3つの要素が融合して山型の線を描く。

深 遠な響きは残したまま、あいつの指が楽しげに鍵盤上で跳ねる。
粒の立った音の輝きが、まるで目に見えるようだ。







第 3楽章 Quasi Variazoni, Andantino de Clara Wieck

「クララ・ ヴィークのアンダンティーノ」と、その四つの変奏曲。
後に妻となるクララ・ヴィークの主題による変奏曲。

「ク ララの主題」…第1楽章、第3楽章冒頭に登場する下降音型を中心として作品全体に関連付けられている重要な動機。
これこそが、このピ アノソナタ第3番の基本モティーフだ。。
この主題の起源とされているのは、クララ・ヴィーグ(のちのクララ・シューマン)作曲による 『ワルツ形式によるカプリス集』op.2の第7曲。
クララがこの『ワルツ形式によるカプリス集』を作曲したのはわずか12歳頃。
そ れだけに、そこには彼女の若き日の溌剌とした雰囲気が色濃く表現されているように思える。
それは、全9曲すべてが長調からなる楽しげ な音楽。


明るく、元気で、純粋で、幸福感に満ち溢れて。

怖 いものを知らない、…若さ。






シュー マンはこの第3楽章で、愛するクララのテーマを付点リズムや和声的要素、上昇音型へなどと様々に変化させることで変奏曲風に仕上げている。「クララの主 題」は、この作品全体にちりばめられた、シューマンのクララに対する愛の言葉。このピアノソナタ全体から、シューマンのクララへの深い愛情が、オーケスト ラ的な響きで迫ってくる。

クララのテーマは憂いを湛え、時に切なく、時に甘く。
様々な変化 を遂げてのだめの指から解き放たれる。

旋律は雄弁に歌いながら、俺の心に深く染み込んでくる。

こ んなにも痛いほどに染み込んでくるのは、音楽だけだろうか。
それとも、音に託された、あいつの気持ちなのだろうか。



な あ、のだめ。
お前は、何を想っている?
何を想って、このシューマンを弾いている?








シュー マンとクララの愛の真実が如何なるものであったのかは当人たちにしかわからない。
ただ確実に言えることは、

ク ララがいなければ、シューマンの音楽は無かった。
シューマンがいなければ、クララの音楽も無かった。

愛 し合う二人がどのような選択をしようとも、それがその二人の愛の形だ。
俺はシューマンではないし、のだめはクララじゃない。

俺 と、のだめと。
二人が選んだ道こそ、それがその二人の愛の形。

ただひとつ変わらないのは、
俺 の人生にのだめという存在がなかったならば、きっと今の俺に音楽は無いということ。
お互いを高めあうことか出来る、大切な存在である ということ。

 ―― …一緒にいよう。

今はまだ、その時ではないとい うことなのかもしれない。
こうして同じ世界で二人歩んでいるうちは、並んで歩いていたはずの姿が見えなくなることも、つないでいたは ずの手が離れてしまうこともある。

でも。
いつか、必ず。

俺 たちの互いの糸が、再び交わる時がくるに違いない。

その時も、俺は変わらず音楽を奏でているのだろう。
も ちろんのだめも、変わらず音楽を奏でているのだろう。

それがいったいいつなのか?
もちろ ん、それは誰にもわからない。
でも…今度こそ。

…その時こそ、それが「運命」って奴なのか もしれない。










第 4楽章 Prestissimo possibile

これまでの重厚な構成から一転、“出来るだけ早く”分散和 音が鍵盤上を駆け回る。
気分はめまぐるしく変化し、右手左手が激しく躍動する。
その中から浮かび上がる、美しい 旋律。

怒涛のフィナーレ。
あいつは少し俯き気味に、のめり込むようにしながら細かい音色を 丹念に紡ぎだす。

表情は、見えない。
それでも、のだめは全身でこう叫んでいるに違いない。


   ――もっと、もっと。

  ――ピアノが、弾きたいです。



   ――先輩と、同じ場所に。…立ちたいんです!








想 いを、爆発させるように。
自身の中にわだかまっている音楽をすべてぶつけるかのように。

圧 倒的な迫力で、のだめは最後にふさわしいきらびやかな音色を響かせ、弾ききった。











「ヴ ラーヴァー!」

押し寄せる拍手の洪水と、歓声。

のだめは椅子に座った まま、放心している。
観客の喝采に後押しされるようにしてゆっくり立ち上がると、上気させた顔をようやくほころばせた。
客 席に向き直り笑顔を見せると、のだめは少し乱れた髪を跳ねさせながら深く頭を下げた。

一層拍手と歓声が大きく上 がった。









俺 はしばらく席を立ち上がれなかった。
でも、この上ない幸福感に包まれていた。


心 の中で持て余していたはずの割り切れない想いは、いつの間にか消えていた。









… 続く…(written by レベッカ)