「……
だからさあ、何を、母ちゃん、作っとるとばい?」
不機嫌なマエス
トロ 最終話 2
佳孝は呆れたように自分の母親を見つめていた。
彼
の母…洋子は、ふんふんと鼻歌を歌いながら、白いサテンの布地をはさみで切り裂いている。
洋子は掃除・洗濯・料理は苦手な駄目主婦だ
が、洋裁の腕だけは確かだった。
ピアニストとして活躍している姉の恵の、普段着のワンピースからステージ衣装までいつも作っていた。
だけれども、今日の作っているのはいつもと少し違うようだ。
ス
テージ衣装でもない。
真っ白で美しい生地……まるで……まるで……。
「恵
のウェディングドレスを作っとるんよ」
佳孝の考えを見通したかのように、母、洋子はにっこりと笑った。
「え……?」
佳
孝は驚いたように目を見開く。
「じゃけんど……ねーちゃんは……ねーちゃんは……に、」
義
兄さん(勝手に佳孝が呼んでいる)……千秋真一さんとは結婚せんのやろう……。
そう口に出かかった佳孝だ
が、ポンと後ろから肩を叩かれて言葉を止められた。
振り向くと、父である辰男が優しく微笑んで頷いている。
佳
孝は口をつぐんだ。
そんな2人を愛おしく見つめながら、洋子は言う。
「こ
のウェディングドレスはね……」
目を瞑り、遠くに旅立つ娘に思いを馳せる。
「す
ぐに、必要になる日が来るとよ……」
「………」
「だから……」
「………」
「だ
から、急がんといけんとよ……」
そう言って笑うと、また布地に集中する洋子。
そんな母
の姿は……どことなく神聖なように見えて……佳孝は、それ以上声をかけれなかった。
ふと窓の外を見ると、青
い空が広がっていた。
*
* *
「俊
兄!。新宿まで乗せていってくれない?それから、帰りも遅くなるから迎えお願いね」
由衣子がちょっと普段よ
り大人っぽい服装でコートをまといながら言った。
ほんの少し化粧もしているようだ。
「え
〜、なんでだよ」
「だって、真兄ちゃま、今日はのだめちゃんのお見送りでしょう。……頼めなくって……」
寂
しそうに言う由衣子に俊彦は、ふうっと溜息をついて読んでいた雑誌を閉じた。
「……いつもは、真兄が由衣子
専属のドライバーだったもんな……」
「だから、俊兄、お・ね・が・い♪」
「ハハハ、いいじゃないか。俊
彦。連れていってあげなさい」
そう笑って言うのは由衣子の父親の三善竹彦。
「だ
けど、由衣子。いったいどこへ行くんだ?そんなにお洒落して」
「うん、デート」
「デッッ!!」
竹
彦はさっと顔色を変え、飲んでいたコーヒーのカップをガシャンとテーブルに叩きつけるようにして立ち上がった。
「デ、
デ、デ、デ、デートだとおおおっっっ!!そんなの許さんっ!!」
「大丈夫よ。お父さん。デートって言ってもただの友達だし」
由
衣子は天使のような微笑を浮かべた。
「由衣子の理想は高すぎてなかなか本気の恋ができないんだ〜。あ〜あ、
真兄ちゃまみたいな素敵な人、どっかにいないかなあ……」
「あ、そ」
俊彦は最近
ちゃっかりしてきた妹を見て肩をすくめた。
あの新東響の常任指揮者を務める従兄弟のような完璧な男性は、そんじょそこらにいる訳
がない。
娘煩悩の父親も、しばらくは由衣子のボーイフレンドのことで頭を抱えることはないだろう。
「……
わかった……車取ってくるから……」
その頃、三善邸の別部屋では、千秋真一の母、征子が誰かと電話で話をし
ていた。
『……何か用か?』
「あら、用がなかったら電話しちゃいけないの?」
い
たずらっぽく笑う征子。
電話の向こうの相手は押し黙ったままだ。
「こないだの……
R☆Sの定期公演、来てたでしょう」
『……なんのことだ』
征子はくすりと笑う。
「目立たないように変装していたつもりかもしれないけど、私にはすぐにわかったわよ」
『………
ちょっと日本公演に来てたから……ただのついでだよ』
「まあ……そんなこと、どうでもいいけど……。
コンサートの感想くらい聞きたいと思って……。
どうだった?あの子の公演」
『……あんなアマオケのあんな
学芸会みたいな公演で満足しているようじゃ、あいつもまだまだだな。
三流紙ばっかりで騒がれてるみたいだしな。
……
世界のレベルにはほど遠いよ』
「……相変わらず真一に対しては厳しいのね」
征子
は、ふうっと溜息をついた。
『他に用がないんだったら切るぞ』
「もう……」
つ
れない態度の相手に文句を言おうとしたその時。
電話の向こうで、ポツリと呟く声がした。
『あ
の子……』
「え?」
征子は一瞬、彼が何を言ったのかがわからなかった。
『……
あの子とは……どうなんだ』
あの子というのが誰を指すのか。
それ
がわかった瞬間、征子の顔にふわっと笑みが広がる。
「……のだめちゃんとのことなら、大丈夫よ」
征
子はゆっくりと電話の向こうにむかってこう言った。
その顔は確信に満ちたものがあった。
「の
だめちゃんは真一の天使なんですもの。
……そのことを一番、よく知っているのは真一よ……。
だか
ら……絶対に……大丈夫」
征子は優しい笑顔のまま、外を見上げた。
空には飛行機雲が
走っていた。
*
* *
RRRR…
「はい、佐久間です。あ、おはようございます。ええ、今書き上げたところです。彼女からの
許可ももらって…。今からそちらに送ります。すみませんね、締め切り延ばしていただいてしまって…。…ええ、もちろん。出来は素晴らしいはずですよ。…は
は、疲れた声ですか?締め切りが続いていてね…ええ、お陰さまで、仕事続きで休み無しです。…はい、R☆Sのもこれから取り掛かります。…ははは。そうで
すね。ええ、じゃあ、よろしくお願いします。また…。」
ピッ。
ふ
う…。
佐久間学は一息ついて、デスクの上のコーヒーを啜った。
モニターの画面には
先ほど書き上げた記事。
カチッ、カチッ。
「これで、送
信…。」
一つの大仕事を終え、満足そうな表情を浮かべた。
ふ
と手元の原稿の束の最初の一枚に目をやる。
『佐久間さん。これでOKです。ありがとうございました。のだ
め』
独特の手書きの文字のメッセージ。
佐久間はふっと笑った。
「野
田恵 単独インタビュー。
---昨年12月にピアノデュオ「zephyr」の最終公演を大盛況で幕を下ろした野田恵さん(29)
が語るいままでと、これから。初の単独ロングインタビュー。 」
「…とっても個性的で、面白い子だったな…。」
1ページ目の大きなのだめの写真を見て、呟いた。
---挫折から始った海外生活
「挫
折?」
「そうなんです。フランス留学でもそうでしたし、オーストリアで修行時代もそうだったですし…。」
「へ
え…。」
「のだめはどこかで自分を過大評価していたんだと思います。でも、特別な才能のある人なんて、世の中にはたくさんいるん
です。」
「…。」
「出足が遅かったから尚更…。コンセルヴァトワールでは最年長で
したし、オーストリアでも…のだめよりずっと若くて才能ある人なんて、そこら中にいました。」
だから自分自
身をアピールしなければ埋もれてしまう。そこにいる人達は単なる仲間ではなくて、手ごわいライバルなんです。
特異性を見せなけれ
ば、前に出るチャンスなんて掴めない…。
「厳しいよね。」
「はい…。だから、あの
時は疲れていたんだと思います…。」
「あの時…。」
のだめが弾いた曲が騒ぎにな
り、周りの兄弟子達からもいろいろ言われて…。
「本当はあの曲の所為にして、逃げようとしていたのかもしれ
ません。」
「…そうなんだ…。」
音楽なんか捨ててしまって、田舎に戻って…
の
だめの能力なんて、所詮そんなものなんですから…。
「…でも、できなかったんです。」
帰
れなかった。音楽がそこにある限り、帰ることなんて出来なかった。
「なるほどね…。」
「千
秋くんの事はどこまで聞いていいの?」
「え?」
「…。」
「あ、いいですよ。ど
こまででも…。」
「そう言われても…。」
「先輩は昔も今も尊敬できる人なんです。それはずっと変わりな
いです。」
音楽を追求していく背中を無我夢中で追いかけていた。
自分にも他人にも厳し
くて、妥協は許さず、命を削ってまでも自分の音楽を追い求めていく…。
パチッ。
テー
プレコーダーのスイッチを切った。
「二人の出会いって…なんだったんだろう?」
「出
会いですか?」
満月の夜。マンションの廊下…。
「極身近な存
在だったんです。でも、全然気がつかなくて…。」
それが特別な存在になったのは、あのモーツァルト連弾--
-
先輩がのだめの音を受け留めてくれて、そしてリードしてくれて…。
楽しくて、嬉
しくて、気持ち良くて…。
「初めてでした。こんなの…。」
そ
して、自分の中の何かが動き始めた…この時に。
「ドキドキして…。その時は恋に落ちただけだと、思ったんで
すけどね…。」
それだけじゃなかった。
自分の中の眠っていた音楽に対しての気持ち
も、動き出していた。
「最初はとにかく先輩と、先輩の音楽を追いかけていくだけで満足
だったんです。」
でも、欲求は深まるばかりで…。
もっと知り
たい。もっと深く知りたい。
欲しい。音楽が欲しい。
---自分の音楽を
「先
輩に対しても、ただ尊敬できる人から、追いつきたい、追い越したいが出てきちゃって…。」
同じ高さで音楽を
知りたい。同じ高さで音楽を見たい。
のだめより何歩も前を歩く彼の姿に、嫉妬する事もあった。
「同
業者同士のカップルのジレンマだね。」
「そなんですかね?」
「…
リュカに対しても、やっぱりそんな気持ちがあるんですよね。」
「へえ。」
暗い闇の
中から引っ張り出してくれた人---。その時はただ一つの望みだった。
でも、真剣に音楽に向き合う姿を傍で見ていると、
の
だめも…。
「『zephyr』の時はリュカの理想に辿り付くのに必死でした。音楽の上では妥協なかったか
ら…。」
出来ないと悔しくて、ピアノに噛り付いていた。
何度も何度もお互い話し
合って、高いものを追い求めていた、あっという間の半年間---
「大変だったけど、とっても充実していて、
楽しかったです。」
完成させたものに対して、観衆からは惜しみない拍手と歓声が注がれた。
最
後の舞台では、完全燃焼した達成感に包まれていた。
「あの時の最後の言葉は、ビックリしま
したけど…。」
そう言って、のだめは恥ずかしそうに微笑んだ。
「千
秋先輩に対しても、リュカに対しても、やはり同じ目線で音楽を見られるような自分でありたいんです。だから、その為にも私自身もっと高い所に行きたいんで
す。」
今の自分がやるべき事は、もっと上を目指す事…。
そ
の目には迷いが見られず、強い意志と大きな情熱を感じられた。
彼女は2月にニューヨー
クの音楽事務所との契約が正式に決まっている。新しい土地でどのような音楽を生み出して私達に届けてくれるのか、今から大きな楽しみである----
カ
チッ。
画面の中の記事が閉じられる。
2/17…彼女が旅立つ
日だ。佐久間は時計を眺めた。
「もう、空の上か…。」
「さあ、こうしている暇はな
かったんだ。次、やらないと…。」
鞄の中から手帳を取り出した。
手書きの書き殴っ
た文字
2/5 R☆S
ミューザ 18:00
パ
ラ、パラ
アンコール「Musique sans le nom」
「名
前のない音楽…か。」
佐久間は笑った。
横の窓から、昼の眩しい光が差し込んでき
た。
「今日もいい天気…だな…。」
佐
久間は目を細めてそう言って、大きく伸びをした。
ガラス越しには澄んだ青い空が見えた。
*
* *
「どうしよう?迷っちゃう〜」
編
集デスクの前で、二つのチケットを手に悩む河野けえ子。
それを同僚が呆れ顔で見ていた。
「い
い加減、決めてくださいよ」
「分かってるわよ〜」
手にしているのは、航空券。
ひ
とつは上海行き。
もうひとつはニューヨーク行き。
じゃんけんで先に選んでいい権利
を勝ち取ったけえ子だったが、どちらにするか決めかねていた。
上海行きは、Ruiとリュカの新しいデュオの
取材のため。
ニューヨーク行きは、野田恵の新天地でのスタートを追いかける取材のため。
ど
ちらも記者として興味ある対象であり、どちらも捨て難い。
「ああ〜、迷うわ〜」
「早
く決めてくれないと、こっちだって出発のための用意があるんですよ!」
イライラとした声の同僚に、肩を竦め
る。
「だったら、あなたどっちがいいの?」
「え?ええと、それは・・・」
同
僚も結局は決めかねているのだ。
けえ子は意を決した。
「こう
なったら、右か左で決めましょ。こうやって後ろで・・・」
チケットを後ろ手に持っていって、何度か入れ替え
る。
「はい、どっちにする?」
「私から?」
「そう」
「そ
れじゃあ・・・右で」
そして出した右手には、ニューヨーク行きのチケット。
「じゃ
あ、私は上海ね」
ということは、Ruiとリュカ、ね。
青い瞳の貴公子と再会っての
も、悪くないか。
ちょっとだけ、個人的には彼女と千秋くんの行く末が気になると言えば気になるけれど。
そ
れはクラシックライフとは関係ない話だ。
「あーあ、私にもいい人現れないかしら・・・」
「ど
うしたんです?急に」
「んー?何となく、ね」
時計を見ればそろそろ日付が変わろう
としていたが、フライト時間を考えれば彼女はまだ機内だろうか。
「ニューヨークの取材、よろしくね」
「は
い」
窓の外はまだライトアップされていて、その向こうで、小さな航空灯の赤い点滅が見えた。
*
* *
ガサッ
包
みを開いて箱からひとつ取り出すと、一口頬張った。
「うーん、やっぱりおいしいネ」
先
日空輸便で届いた、博多名物「通りもん」。
日本に帰国していた教え子のメグミから送られてきたもの。
―――
日本に帰る時があれば、送ってヨ。
いつだかそう言っていたのを、どうやらあの子は覚えていたらしい。
変
なところで律儀な性格をしている、とオクレールは一人くすりと笑った。
これが届く前に、ニューヨーク行きの
事はメグミから聞いていた。
自分の手元から巣立って、その後困難に直面していた事は聞きかじっていた。
し
かし彼女自身が何とかするしかない問題だったので、ただ見守る事しか出来なかった。
それが、今はそれを乗り越えて、さらに飛躍し
ていこうとしている。
何とも頼もしい限りだ。
「あんな子は、
今まで見たことありませんでしたよ・・・」
窓の外は鈍色の空。
彼女の向かう先の空
は、きっと澄み渡っている事だろう。
―――何処に行っても、私の可愛い教え子である事には変わりありません
からね。
そう言った時の電話越しの彼女の奇声を、オクレールは懐かしく思い出していた。
*
* *
「あら、ピアノ…。今日のあの人は
調子がいいみたい…。」
コンコン。
「…いいよ。」
「入
るわね。」
ガチャ
「お茶を持ってきたわ。クリス。」
「あ
りがとう、メアリー。」
カチャ、カチャ…。
「今日はかなり長
い時間弾いているけれども、身体の方は大丈夫なの?」
暖められたティーカップに、湯気の上がった紅茶が注がれた。
「あ
あ、今日は調子がいいみたいだ。」
痩せ型の紳士は柔らかく微笑み、差し出されたカップに口を付けた。
大
きな窓ガラスからは弱々しい光しか入ってこなかった。
この時期のイギリスは天候が不順な日が続く。
「そ
れにしても、さっきまで弾いていた曲は……もしかして……例の……。」
クリスと呼ばれた紳士は妻に微笑ん
だ。
そして立ち上がり、ピアノに向かい、乗せられていた楽譜を手に取った。
「そう
だよ。これは僕の愛弟子と、その…。」
「…その?」
紳士は宙を向いて優しく微笑んだ。
「そ
の特別な人によって作られた曲だよ。」
「……とても優しいような、懐かしいような気持ちにさせる曲ね。」
「ああ。そうだな。」
「何という名前の曲なの?」
妻は優しい瞳で訊いてきた。
紳
士は楽譜に目を落とし、そしてこう言った。
「Musique sans le nom…。」
「ミュ
ジッ…?」
「ああ…。」
-----「…ですから、主人は電話
に出られるような状態では…。ええ、ご用件は承りますが…。」
「メアリー、どうしたんだ?」
「あ、
クリス。実は貴方にお願い事があると電話があって…。」
「誰から?」
「それが…日本人で、本国のオーケ
ストラの指揮者だと名乗っているのよ。」
「日本人?」
「そう……。あと、メグミ・ノダの友人だと…。」
「メグミ…。」
「お断りしておきますね。」
「いえ、ちょっと待って……僕に繋いで
くれないか。」
「え?でも…。」
「いいから。」
「お待た
せしました。クリストファー・バートンです。先ほどは家の者が失礼をして申し訳ありませんでした。」
「いいえ、こちらこそ突然で
申し訳ありません。私、日本の新東京交響楽団の常任指揮者である千秋真一と申します。」
「そうですか。で、私に用件とは…。」
「実は…。」
そのシンイチ・チアキと名乗る者は、非常に丁寧に私に対して説明をしてく
れた。
自分はメグミ・ノダの大学時代からの友人である事。
あの曲の事件を知ってい
る事。
彼女は私を今でも信頼してくれている事。
そして、あの曲を自分に貸して欲し
いという事。
「…なるほど。そういう事ですか。」
「不躾なお
願いで申し訳ありません。」
「いいえ、そんな事ありませんよ。大変素晴らしい事ではありませんか。私も嬉しく思いますよ。」
「あ
りがとうございます。」
「この曲はもともとメグミのものなのです。なので、私がとやかく言う権限はありません。本当は私が責めら
れるべき
ものなんですよ。」
「そんな事はありません。彼女は貴方に評価されて大変喜んでおりました。」
「そんな…。でも、貴方にこの曲を託す事ができるのは大変幸福な事です。私も救われる思いです。」
「ありが
とうございます。」
「そうだ、私は彼女のオリジナルの楽譜を預かったままなのです。それをお渡しします。」
「え…、
いいのですか?」
「ずっと返さないと、と思っていたんですよ。ですが、なかなか機会がなかったもので…。私もこれで肩の荷が下り
ます。」
「分かりました。では、預からせていただきます。」
「よろしくお願いします。」-----
あ
の曲が彼の手に渡ったことは大変幸福であった。メグミにとっても、もちろん私にとっても。
しかし、私は完全
に彼に譲渡したつもりでいたのだが、律儀な事に演奏する前に彼の編曲した曲が私の元に届き、私の許可を求めてきた。
私は恐縮しつ
つも、彼の手がけた曲を目にして、この幸運を大変喜んだ。
その曲には題名がつけられ、しかもその題名はメグ
ミが付けたとの事だ。
「メグミにとって彼という存在は、きっと特別なものだったんだろ
う…。」
彼は自分はメグミの古くからの友人としか名乗らなかったのだが、彼のメグミに対する思いは大きく深
いものである。それはあの電話のやりとりでも分かった事だし、この曲を見ても分かる。
そして、彼とメグミの関係も曲を通して見え
てくるような気がする。
彼女は次はNYで活動をすると聞いている。
彼は日本のオケ
の常任。
「どうかこの二人に幸福を。」
いつまでも、このよう
な素晴らしい曲を奏でられるようにと、祈らずにはいられなかった…。
コ
ンコン。
「はい。」
「バートン先生。郵便物をお持ちしました。」
「ど
うぞ。」
ガチャ。
背の低い男が封筒の束を抱え入ってきた。
「机
の上においておきますね。」
「ありがとうスティーブ。」
「今日もピアノを弾かれていたんですか。」
「え
え、朝から弾いておりました。」
「先生、この分なら、復帰の時が近いですね。」
ス
ティーブは頬を赤く染めて嬉しそうに言った。
「まあ、そんなに慌てないで…。」
バー
トン氏は中庭が見える窓の方に歩いていった。
「季節が変わるごとに庭の景色が変わる様子を、もう少し見てい
たいのです。ほんの小さな変化でも、心の底から湧き上がる喜びをやっと感じられるようになったのですから。」
窓の外を眺めながら
穏やかな口調で諭した。
「ほら、スノードロップの花が昨日よりも多く咲いていますよ。」
そ
の瞬間、灰色の雲の隙間から一筋の明るい日差しが差し込んだ。
「久しぶりに晴れますかね。」
少し目を細
めながら、何かに思いを馳せるように空を仰いで穏やかに囁いた。
*
* *
「頼むからもう、勘弁してくれ
よ……Rui……」
リュカは抱えていた大量の荷物を床に下ろした。
そのどれもが、
有名ブランド店のロゴが入った紙袋だ。
「駄目ヨ!!。まだ、次のステージの靴も決めてないし!!」
「……
靴なんて、この間のコンサートと一緒でいいじゃないか……」
「そんな訳にはいかないヨ。ステージ毎に全身のコーディネートを変え
るのが私のポリシーなんだから!!」
「ポリシーって……」
リュカはがくっと首をう
なだれた。
もう、2時間もここ、中国の上海でRuiの買い物につき合わされているのだ。
そんなリュカを
見ながら、Ruiはふふっと笑う。
「リュカ。……私に借りがあるんでショ?」
「………」
リュカは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
あ
れは、のだめがステージのライトが落ちるという事故で、少し頭を打って入院した次の日のことだった。
リュカはのだめの病室の前に
立ち、すうっと息を吸い込んだ。
そうして自分の気持ちを落ち着かせる。
それから思い
切ったようにドアを開け、いつものように何気ない口調で声をかける。
「の・だ・め♪」
「リュ
カ!!」
ベッドに座っていたのだめが振り返った。
窓から差し込む光を受けたその笑
顔は、とても眩しくて。
そうだ。
のだめは、いつもいつも僕に
こんな真っ直ぐな笑顔を向けていてくれてたんだ。
そのことをリュカは今更ながらに感じていた。
「昨
日も来てくれたのに……。今日は退院する日なんですヨ。わざわざ来てくれなくても……」
「うん、だけど……のだめと話がしたくっ
て」
リュカがそう言うとのだめの顔がキュッと引き締まった。
今までの笑顔がどこか
へ消えていってしまったようだ。
「昨日……僕と話がしたいって、メールくれたでしょう。」
途
端にのだめの顔が苦渋に満ちた表情になる。
……こんな顔はさせたくない、とリュカはそう思った。
だ
けど。
だけど、ここを通り抜けないと自分達は先へは進めないのだ。
「あ
れ……なんだったの?」
リュカはゆっくりと慎重に声をかける。
「あ
れは……」
のだめは、唇を震わせた。
リュカはただ黙って、のだめが言葉を発するの
を待っていた。
「リュカ……」
のだめはきっと顔をあげるとこ
う言った。
「のだめはリュカとは結婚できまセン」
「………」
「の
だめは……のだめは、ただ、リュカを利用してただけなんデス」
「………」
「リュカがのだめに好意を持っ
ていることを知っていて……それでデュオの話を受けました。
それが、のだめが音楽界に復帰できる最後のチャンスだと思ったか
ら……。
……リュカのことは最初からなんとも思っていませんでした。
ただ……のだめが気があるそぶ
りをしていれば……リュカはのだめを表舞台に引っ張り上げてくれる……そう思ってたんデス」
のだめの瞳に涙
が溜まっている。
だけれども、それを必死で堪えているのがリュカにはわかる。
彼女
は、自分自身を罰しているのだ。
けっして泣き落としなんかで済まそうとは思っていない。
よ
くある女のように泣いて男に許しを求めようなどとは決してしない。
自分をとことん追いつめて……悪者にし
て……そうして軽蔑され、嫌われようと思っているのだ。
だから絶対に涙は見せない。
泣
くことで許されようとは思ってはいない。
そのことがリュカにはよくわかっていた。
「の
だめはリュカを利用しましタ……」
「………」
「のだめは、リュカのことは好きでもなんでもないデス。だ
から、結婚は出来まセン……」
のだめが涙が零れる直前のような顔でリュカをしっかりと見据えた。
リュ
カはしっかりとその視線を受け止める。
そして、ふうっと溜息をつき、少し笑った。
「……
なら、同じだね」
「……え?」
「実は……僕ものだめに話があったんだ」
そ
う言うとリュカはドアの方を振り返った。
「入って」
ギイとド
アが開いて、入ってきた人物にのだめは目を見開いた。
「Ruiさん……」
「ハ〜
イ、のだめサン、お久しぶり!!」
にこにこと笑いながら入ってきたRuiは、その手に花束を抱えていた。
「これ御見舞い」
「あ……どうも……」
戸
惑いながら花束を受け取るも、のだめは今の状況が把握できていないようだった。
どうして?。
何
故、多忙な筈のRuiがここに?
リュカはふっと微笑むと言った。
「実
は……僕は今、Ruiとつき合っているんだ」
「え……」
目を見開いたまま、驚きの
表情を隠せないのだめ。
「zephyrのラストコンサートで、のだめにプロポーズしただろう。
……
だけど、のだめからはまるで返事が返ってこなくてもう諦めてたんだ……。
そんな時、Ruiが相談に乗ってくれて……」
「ご
めんなサイ……のだめサン。
私、ずっと前から……コンセルヴァトワールの時からリュカのことが好きだと思ってたの……。
だから、落ち込んでいるリュカを見てつい……」
そうしてRuiはリュカの腕に手を絡ませて意味深にのだめを
見つめる。
「……こうなっちゃったの。わかってくれる?のだめサン」
の
だめはポカンと口を開けたまま、固まっている。
「のだめさんには、ちゃんとはっきりして欲しいって私がリュ
カに言ったの。ねえ、リュカ」
「う、うん」
「今度、2月に入ったら2人で上海でコンサートもやるの
ヨ……今度こそ、公私に渡るペアが誕生だヨ!!」
「そ、そうなんだ」
甘えるような
仕草のRuiにリュカはぎこちない笑みを浮かべる。
Ruiがこそっとリュカを突いた。
『何、
やってんのヨ!!この下手くそ』
『うるさい……これでもいっぱいいっぱいなんだよっ!!』
小
声で囁き小突きあう2人。
それを見たのだめは、急にぐっと胸にこみ上げてくるものがあった。
リュ
カは……リュカとRuiは……のだめだけを悪者にしないようにわざと演技してくれているのだ……。
の
だめが自分だけを責めないように。
のだめが自分だけを傷つけないように。
そのこと
がのだめにはすぐにわかった。
けっして上手い演技とはいえない、ぎこちない態度でRuiとじゃれ合うリュカ
に、のだめは思わず涙が零れそうになった。
だけど、ぐっと堪える。
ここで泣いちゃ
駄目だ。
リュカとRuiの気持ちを無駄にすることになる。
「そ
れは……それは、良かったデス……」
のだめは泣き笑いの表情になった。
そ
の笑顔を見て、リュカも優しく微笑んで言う。
「だから……僕のことは気にしないで……のだめは、……のだめ
は自分の思うままに生きて……」
「………」
「君が幸せになってくれることが、僕の望みなんだから……」
のだめは唇を噛みしめた。
ずっ
と。
ずっと、この人はのだめを包んでくれた。
の
だめのことを見守ってくれていた。
……だから……今こそ、本当にお互いがお互いから解
放される時……。
のだめは涙を堪えて笑って言った。
「ハ
イ……わかりました」
「何、
ぼーっと突っ立ってるのヨ」
Ruiから小突かれてリュカはわれに帰った。
対アジア
宣伝は、のだめとのパートナーから、Ruiとのパートナーへと切り変わった。
Ruiの世界的評価を考えれば、これは大いなる一歩
と言える。
ここ上海を起点にして、世界中を2人でツアーして回る予定だ。
そしてリュカ自身のピアニスト
としても、これからは大いに注目されるだろう。
「これで……いいんだよ、な」
「ん?ど
うしたの?」
Ruiがリュカの顔を覗き込む。
「のだめが笑っ
てくれてたら……いつものように幸せそうな顔して……ずっと笑ってくれてたら、僕はそれでいいんだ……」
「………」
「……
それでいいんだ」
そう言ってすっきりとした表情で笑うリュカ。
Ruiはそんなリュ
カの笑顔を見て、急に真面目な顔になる。
……そして口を開く。
「……どうせだった
ら……」
ためらいがちに言葉を発した。
「どうせだったら……私達……
本当に公私に渡るペアになってみない……?」
ガーーーーー。
大
型のトラックが2人の前の道路を横切った。
その排気音で、さきほどのRuiの声はリュカには聞こえなかった。
「……?……
Rui、今……何か言った?聞こえなかったよ」
Ruiはふっと微笑んで、歌うように言った。
「な
〜んでも、な〜いヨ〜」
「?」
「さ、早く靴屋さんに行こう!!。わざわざ日本にまで行って、あんな茶番
劇につき合わされたんだもの。十分に借りは返してもらわなきゃ!!」
「ちょ、ちょっと、待てったら……」
手
を強く引っ張って、まだまだ買い物をする気満々なRuiに、リュカは苦笑いを浮かべる。
……と。
「あ……
そうだった」
リュカは、思い出したかのように携帯をポケットから取りだした。
そし
て手早く文章を打ち込んで送信する。
「……どうしたの?」
「ん?ただ、友達にメー
ルを、ね」
リュカはニヤッと笑って言った。
そして空を見上げる。
上
海の空は、雲一つ無い真っ青な空だった。