ゴーーーー。
機
内の照明は落とされて、多くの人が眠りに付いていた。
ニューヨークとの時差は12時間。
出
発した当日の朝に到着する。
「寝ないとマズイですよね。」
リクライニングを倒し、
支給された毛布を被る。
…でも、寝付けない。
「興奮してるん
ですかね?」
横の小窓のブラインドを下ろした。
雲海の上に広がる星空が見えた。
幻想的な世界。
この雲の下には海があり、陸地があり、そして人が住んでいる…。
し
ばらくボーっと外を眺めていた。
そだ…
手元
に当たる小さな明かりを灯す。
のだめは足元に置いたバッグを膝の上に置いた。。
中
から傷だらけのポータブルCDプレーヤーと、真新しいCDのケースを取り出した。
「zephyrラストコン
サートライヴ」
最終コンサートの録音CDのテスト版を頂いたんでした…。
音を立て
ないようにそっとセットして、イヤフォンを耳に当てた。
カチッ。
…
ザワザワ…ノイズがあの時の空気を思い出させる…。
「もう、懐かしく感じます…。」
いろいろありましたよね…。
のだめは背もたれに寄りかかり、目を閉じた。
不
機嫌なマエストロ 最終話 3
私は3年前の、パ
リでの別れを思い出していた。
「……ああ。
お前は動物園の
サルだ」
……酔っぱらった先輩にそう言われた時のこと。
頭が真っ白になった。
次
の瞬間、私は思わず先輩を投げ飛ばしていた。
……あの時も涙をこらえるのに必死だった。
「………
のだめ」
「先輩……これはチャンスなんデスよ。……のだめが先輩のいる所まで追いつけるかどうかの……」
「………」
「だから……のだめ、行きマス。……もう、決めました」
「………」
背
中から先輩の声が聞こえる。
「………のだめ」
「………」
「……
行ったら……別れるぞ……」
絶対に振り向くまいと、私は歯をくいしばっていた。
「………
のだめ」
「………」
「………行くな!!」
今、先輩がどん
な表情をしているのかがわかった。
その顔を見たら、自分の決心は揺らいでしまうだろう。
だ
から私はけっして振り返らない。
「のだめ………行くなっ!!」
あ
の時の先輩の振り絞るような叫び声を、ドアのバタンという音が遮った…
〜〜〜
…
日本に帰国して、久しぶりの大学で、ピアノを弾いて---
「谷岡センセ。どでしたか?のだめの演奏。」
「…
うん。良かったよ。凄いね。さすがプロになるだけのものがあるね。」
「ぎゃは。ありがとうございます。でも、さっきから後ろばか
り見て、どしたんですか?」
「ん、いや〜、千秋君も後ろで聴いていたんだけどね…。」
千
秋先輩…
「ぎゃぼっ。千秋先輩…来ていたんですか?」
千秋先
輩が来ていた…
千秋先輩、いたんですか…
その人の面影も感じられ
ない後ろの扉をただじっと見つめていた…。
〜〜〜
音
大の入学式で、ミニ・リサイタルをやった時。
演奏が終わっても、先輩は誰もいなくなった講堂に最後まで残っていてくれて。
「先
輩・・・。どうデシタ?」
そう聞けば。
「良かった」
と、
返ってきた。
その言葉がどれだけ嬉しかったか。
そして。
「俺
さ、お前のピアノ、今でも好きだよ。だから、また、ピアノ聴かせてくれ」
そうも言ってくれた先輩に、だけど
私は少しだけ素直になれなくて。
「・・・どこで?もう、ここでピアノ弾けまセンよ?」
だっ
て、その時の先輩には彩子さんが・・・。
だけど先輩は、何故かそこで諦めなくて。
最
後は私の家まで、ピアノを聴きにきてもらうことになったっけ・・・。
先輩、忙しいのに、来る度に掃除や料理
をしてくれて。
あの時、ほんのちょっとだけ、私は昔に戻れたような気分を味わっていた。
〜〜〜
「ノ
ダメ!」
「ぎゃぼー!!リュカ!来てたんですか!」
「ノダメ!会いたかったよ!」
「…仕事?」
「はい。あ、あれ?先輩に言いませんでした?のだめ、日本でリュカとデュ
オのコンサートをするんです。」
「そうか。…オーストリアにいた頃もリュカと一緒に仕事したりしてたのか?」
「え
と…一緒に仕事っていうのは無かったですけど…。」
「…先輩には、関係ないことデスか
ら。」
〜〜〜
「そ
んなことを言うなら、オリジナルの曲でもやればいいじゃないか。お前……」
と先輩に言われたのはいつだった
のか……。
あれはzephyrの初コンサート後の、控え室のこと。
オ
リジナル。
盗作。
オリジナル。
盗
作。
師匠の曲を盗作してオリジナルの曲として発表した弟子……。
あ
の時の新聞記事が頭の中をよぎった。
知られたくない。
知
られたくない。
この人にだけは……。
……
駄目だ……涙が溢れる……。
その瞬間、私の顔を先輩から覆い隠すかのように、リュカは私を強く抱きしめてく
れた。
リュカの胸で堰を切ったかのように溢れ出す涙。
「のだめ……大丈夫だよ……
僕がここにいるから……ちゃんと……そばにいるから……。」
リュカが先輩に厳しく言葉を投げつけるのが聞こ
えた。
「……行けよ」
「………のだめはいったい……」
「……
行けったら!!……お前に用はない!!」
そしてあの時のリュカの真剣な眼差し。
「……
ずっと好きだったんだ……コンセルヴァトワールで会った時から、今までずっと……」
あ
の時のリュカの唇を、私はただ呆然と受け止めていた。
リュカの肩越しから見えるドアの隙間から、先輩の姿が見え……やがて消え
た。
〜〜〜
雨
の日---
先輩の車の中で…
「せん…。」
力
強く抱き締められた。
「ごめん…少しの間だけ…。」
先輩の手は少し震えていて、心
臓の鼓動は早かった。
その温もりは温かくて、
そして切なくて…
「も
う……会わない方が、いいのかもしれませんね…。」
水溜りに落ちる水滴が、まるでのだめの涙のようでし
た…。
〜〜〜
8
月、新東京交響楽団の定期演奏会。
先輩が常任指揮者として就任してから最初の舞台。
先輩のことだから、
相変わらずのカズオっぷりで、きっとオケとリハを繰り返していたんだろう。
プログラムはどの曲も素晴らし
かったけれど、とりわけベートーヴェンには心打たれた。
ベートーヴェンが「運命はこのように扉を叩くのだ」
と語った、『運命の動機』。
曲中、何度も何度も繰り返される。
「運命」
私
と先輩の間に「運命」があるのだとしたら。
一体それは、私達をどこへ導いていくのだろう?
し
つこいくらいの音の中で、私は先輩の背中だけを見つめていた。
今は苦しいけれど、きっと、いつか。
そ
れも懐かしい思い出になって、音楽が私達を結び付ける、そんな日がくるのかもしれない。
先輩の背中を見つめ
ていたら、何故か不思議とそう思った。
〜〜〜
「…
この間、ミルヒーに会いました。」
「……。」
「それで…千秋先輩に、お礼を言っておくように…って…。
今回の騒動で、千秋先輩がのだめのことをとても心配してくれていて…いろいろ、助けてくれたんだって…ミルヒーが、そう言ってました。」
「別
に、俺は何もしてないから…。」
「この手紙、俺なんかに見せてよかったの?」
「い
いんです。…先輩には…本当のことを知っていてほしいんです。」
先輩はそうやって、い
つもいつものだめを支えてくれていたんですよね。
のだめは、幸せものです。
のだめ
は…あの事件はとても辛かったですけど…。
先輩にだけは、真実を知ってもらえて…良かった。
「の
だめの中では、今も、これからも、…ずっとずっと大切な曲ですから。」
〜〜〜
「……
ちゃんと見るよ」
「え……?」
あれはzephyrのラストコンサート直前でのこと
だった。
本番前に楽屋まで来てくれた先輩はこう言った。
「どんな演出だろうと……
きちんと最後まで見届ける……。けっして目をそらさない……」
「………」
「……お前の舞台だから……」
「先輩……」
「さあ、行こう。第2部の始まりだ。僕たちの……『zephyr』の、最
後の舞台だ」
リュカが私の肩を抱き、舞台へと誘う。
……zephyrとしての最後
の舞台。
トリスタン!。
イゾルデ!。
そう夢中でお互いに呼び合った、あの時の音楽。
禁断の愛に苦し
み、そして死を選び愛を昇天させるトリスタンとイゾルデ。
私はまるでイゾルデが乗り移ったかのようなあの感
覚を覚えていた。
そして演奏終了後、凄まじいほどの歓声と拍手が大音響で耳に洪水のように押し寄せて来たあ
の瞬間。
静まりかえった場内で響く、リュカの声。
「NODAME
Je l'aime(のだめ、愛している)」
「Veuillez
m'epouser(僕と結婚してください)」
どうしてあんなことを言ったのかと、楽
屋裏で問いつめた時のリュカの優しい笑顔。
「決めてたんだ」
「……
リュカ?」
「ラストコンサートが終わったら、のだめにプロポーズしようって……そう、決めてたんだ」
そ
の後、私はターニャにすがって泣いた。
「のだめは……のだめは……嘘つきデス」
「………」
「最低の女デス」
「………」
「皆が言うように、ただ、リュカを利用しただけなんデ
ス……」
「……のだめ……」
涙が止まらなかった。
「ー
リュカ……ごめんなさい……!!」
〜〜〜
「先
輩、こっち…。」
「…お前、さっきもここを通ったのか?」
「はい。もちろんで
す。」
格式あるパーティーで二人でテーブルクロスの中を四つん這いになって…
「まったくお前は…。」
呆れながらも付き合ってくれて…。
狭い密室のバスタブの中…
固い
底を背中で感じる。
「せんぱい?」
先輩の気持ちが、身体を通して痛いくらい伝わってき
た。
「ごめん…本当に…。」
そして、のだめの中からも想いが溢れ出して、止まらな
かった。
私達は抱き合った。求め合った。 狭いバスタブの中で…。
『野
田恵様
…あの曲に手を加えさせていただきました…
…もし気に入っていただけたら、
この曲に名前をつけて頂き、あなたに献上したいと思っています…』
「せんぱい…。」
悲
しい記憶の中にあるあの曲が、この人の手によって引き上げられた。
先輩の音楽がのだめを包み込む。
冷えた身
体がそこから温まっていくのを感じた。
「バカ。
俺は生きた心地しなかったぞ。お前の顔を見るまでは。」
「先輩…。」
「良かった…本当に。」
「俺
がお前を守るから…。」
「守るよ。お前を傷つけるもの全てのものから。」
「一
緒にいよう。」
---最愛の人からの2度目のプロポース。
嬉
しくて、
でも、悲しくて……。
〜〜〜
R☆S
の公演。
全てが終わったと思った時、それは始まった。
『Musique
sans le nom』
―――名もなき曲―――
私の大切
な、大切な曲。
先輩が私に贈ってくれた、特別な曲。
出会って、惹かれあって、そし
て別れて・・・。
楽しいことばかりじゃなかったけど、幸せだった日々。
先輩の、言
葉は足りないけれど、それでも精一杯の愛で、私は確かに包まれていた。
ずっと、もう戻れないと思っていた。
でもそれは、先輩も同じだったんだって・・・分かってしまった。
舞
台と客席で交差した視線。
それが全て。
だから私は、再びその
胸に飛び込んだ。
そして受け止めてもらえた。
だけど、私は狡い。
先
輩も、音楽も、両方手に入れたいと、心の底から思って。
先輩との間にある「音楽」を盾に、また、先輩の傍か
ら去ることに決めたんだ・・・。
〜〜〜
「…
せんぱい…。これ…。」
「…お前に。」
自分の薬指に光る一粒のダイヤモンド。
何
と言えばいいのか、分からなかった。
言葉が、出てこなかった。
先輩はただ、力強く抱きしめてくれた。
「無理、しなくていいから。」
「……。」
「NY、行くんだ
ろ?」
泣きたくなんか無かった。
でも、どうしても涙が止まらなかった。
「…
泣くなって。…笑ってろよ。」
「…ごめんなさい。…せんぱい…本当に…ごめんなさい…。」
た
くさんの思い出が溢れ出てくる…。
そして、その思い出の向こうには、いつも愛しいあの男(ひと)がいた。
大好きだった。本当に。
本当に心の底からあの人を愛していた。
本
当に…。
ポタン、ポタン。
涙が1つ、2つ、頬を伝わり、落ち
ていく…。
そして、堰を切ったように溢れ出した。
優
しかった。本当に優しい人だった。
いつでものだめの事を、優しく抱き締めるように包み込んでくれた。
そ
の腕の中は暖かくて、大好きな場所だった。
うっ、うっ…。
こ
れは自分で決めた道。
あの人はのだめに何度も手を差し伸べてくれた。
でも、その手
を振り払ったのは、のだめだ。
それはわかっている。
…でも、
涙は止まらない。
後悔の涙?
…ううん、そうじゃない。
先
輩がのだめにたくさん与えてくれたもの、
音楽や優しさ、温もり、
一緒にいた時間や、た
くさんの思い出、
それは今でも、ここに残っている。
ちゃんとここに残っているんだ。
それが嬉しい---
寂しさは…やっぱりあるけれど、
&
nbsp;それと同じくらいに、喜びもある。
「のだめ。」
「ほら。」
--
-ありがとう、先輩。
ありがとうございます。
のだめはこれさえあれば、真っ直ぐに前を見て、生きていけます。
大好きです先輩。
今でも、
これからも、
ずっと、
ずっと…----
「うっ、ひっく、うっ、うっ…。」
「どう
しましたか?」
気がつくと起き上がっていて、前のめりに蹲り、嗚咽を漏らして泣いていた。
客
室乗務員の方が、心配して様子を見に来てくれました…。
「…あ、大丈夫です。すみません。」
涙
でくしゃくしゃな顔を手で拭って、少しだけ顔を上げて微笑んだ。
隣に誰もいなくて良かったです…。
プ
レーヤーの電源を切って、イヤフォンを外した。
そしてリクライニングをあげて、背もたれに体重をかけた。
ブ
ラインドの掛かっていない小窓を覗き込んだ。
あっ…
雲と空の境目
に細い光の筋が走っている。
夜が明けるんですね。
ど
んな暗い闇があったとしても、生きている限り必ず夜明けはやってくるんですね。
のだめは熱
を持った腫れぼったい目で、その光景をじっと見ていた。