ブルル…ブルル… ブルル…

「…がとうございました…」「…らしゃい…」
…?!
ガバッ。
カッ シャーン。
…あっ…
「お、やっと起きたぜ。」
……峰。


  不機嫌なマエストロ  第2話


 2010年 東京

「随 分グッスリと眠っていたよな。」
次第に戻ってくる意識…。前を見ると、カウンターの席に腰掛けている峰の姿。
「しょ うがないですよね。今、忙しい時ですから。」
その手前には厨房から顔を出し、カウンターを拭く親父さんの姿。
自 分の目の前には、コーヒーカップが皿の上から落ちかけていた。
「まあな。夏には『新東響』に就任だもんな。すげーよなその年で…。」
峰 はカウンターに肘を付き頬杖をついて言った。松田さんにその話をすると不機嫌になるんだけどな〜、とも言いながら…。

  ここは裏軒。俺は今までテーブルの席で居眠りをしていたらしい。

「日本に帰ってきてからひと月くらいしか経って いないんですし、落ち着きませんね。」
親父さんは俺の席まで来て、カップの中に新しいコーヒーを入れてくれた。
「ま あ…。」
俺は軽く頭を下げ、それに口付けた。
「『新東響』始まる前にR☆Sできないかな〜。みんな、千秋とやり たいみたいだし…。真澄ちゃんや高橋くんがうるさくてさ〜。」
「…まあ、時間があれば…。」
俺は胸ポケットから 携帯電話を取り出した。2件の着信メール。
「これから、クラッシックライフの取材なんだろ。時間大丈夫なのかよ。」
「ん、 今その連絡が入った。30分後に音大だって。」
「大学で取材なんですか?」
「ええ、お互い時間がなくて…。」
俺 は携帯電話をパタンと閉めた。
「慌しいよな。来月から春期講座の講師も引き受けて。」
峰は宙を仰ぎながら呟い た。
「これで、本当に『先生』ですよね。」
親父さんがそう言って、俺の前に何かを置いた。
「… これは…。」
「そうです。今日は2月17日ですから。」
小さなカップケーキが生クリームでデコレーションされて いて、その上の楕円のホワイトチョコレートの台の上には『祝☆誕生日』と茶色い文字が書かれていた。
…そうか、今日は2月17日。

あ れから2年が経ったんだ…。


「千秋君、悪いね。こんな所まで呼び出しちゃって。」
佐 久間は大きな身体を小さく丸めて、頭を下げた。
「いいですよ。今日は空いてましたから…。大学に取材なんですか?」
「う ん。江藤さんの生徒が秋のコンクールで優勝したから、その取材で…。今年は逸材揃いなんだよ、桃が丘は。ピアノ以外でもいい成績を残す生徒が沢山いて ね…。」
 久しぶりの大学は、相変わらずの風景だった。時折聴こえてくる稚拙な音楽も、今では懐かしく感じる。
「千 秋君も、春にここで講座を開くんだって?」
「ええ、まあ。なので、時々こっちにも寄るんですが…。」
「そうか。 若き天才指揮者を生み出した場所だもんな。後輩達の励みになるよね。」
「どうですかね。」
はははとお互い笑っ た。
「夏からは新東京交響楽団の常任指揮者に就任。歴史ある日本のオーケストラに新風を巻き起こしそうだね。団員も若手を多く採用し ているし、新生『新東響』の誕生!
 
 … 蒼き大海原のはるか 歓喜と希望を載せた舟を操り
   この黄金の島へと舞い戻った若き珠玉の勇よ!
  かつてタミュリスを罰した9人のムーサイたちの御許へ いざ行かん!
   ああ! その煌然たる音楽と真摯な魂は この世の万物を陶酔せしめ
  かの女神たちの許しさえも その手中に収めることができ るだろう
 
(注:今こそ、日本のオーケストラに革命が始まろうとしている!)…。」


  ピピピピ…佐久間の携帯が鳴った。

「あ、失礼。もしもし…、あ、え、鈴木さんの取材が取れそうなの?あ、うん、 わかった…。」
佐久間は携帯電話を一旦、口元から外した。
「ごめん、千秋君。ちょっと…。」
「あ、 いいですよ。僕、外でタバコ吸ってきますから…。」
そう言って、俺は中庭に向かって歩いていった。

  ここも相変わらず…。ベンチなどは所々ペンキが剥げていて、時間が経った事を感じられるのだが、この雰囲気はあの時のままだ。
夕暮れ のキャンパス。俺が学生の頃、ここは牢獄みたいな所で、絶望して卑屈になってイライラしながらこの景色を眺めていた。俺は少し微笑んで、ベンチに腰掛けタ バコに火をつけた。

どれもこれも今では懐かしい思い出…。

 …せん ぱーい。一緒に帰りましょう…
 
どれもこれも全て過去の話…。

 

  携帯電話を取り出し、着信メールを呼び出す。
『誕生日おめでとう。ご馳走を用意して待っています。帰る前に連絡してね。』

 … 今日は、先輩の誕生日ですよネ…
 …お祝いしましょう、盛大に♪…

どれもこれも過去の話 だ。時間はもう先へと進んでいる。


 

 夕日が描 く長い校舎の影。風に乗って流れてくるピアノの音色。
ベートーベン ピアノソナタ 32番。随分、高度な事やっているんだな…。

…… すごく、上手い…。

ここ何年かで大学のレベルが上がったのか?

……い や…この音…は…。

次第に高まる鼓動。足が自然とその音へ向かっていく。

… どこだ?どこから聴こえるんだ?

気がつけば校舎の中を走っていた。階段を駆け上がり、練習室の並びを走り回り、

… この音は、こんな音を出せるのは

息を切らせて、足が絡みそうになりながらも、

… ひとりしかいない

それでも止まる事はできない。

…ひとりしかいないは ずだ

そして…その場所に辿り着いた。

 夕日が差し込む練習室。窓から 覗き込むと、見覚えのある後姿。
栗毛色の無造作に跳ねた髪の毛。猫背気味の姿勢で身体を大きく揺らしながら、ピアノに向かうその姿は まさに…。

…夢?俺は夢を見ているのか?いや、この音は…本物のはず

吸 い込まれるように俺の手は、ノブに伸びていた。

…あいつがここに…


ノ ブに手をかけたその瞬間、

「千秋くん。こんなところにいたの?」
「えっ?」
横 を見たら、佐久間が立っていた。
「中庭にいなくて、探しちゃったよ。」
佐久間は手を頭の後ろに持って行きなが ら、はははと笑っていた。
「…すみません。仕事ですよね…。」


 

 

  佐久間とのインタビューは1時間ほどで終わった。その後は帰ろうと思えば帰れたはずなのだが、帰る気にはなれなかった。

… あの後姿、あのピアノは間違いなく…でも、だから、どうしようって訳じゃないけど…

俺は意味もなくブラブラと構 内を歩いていた。
「千秋君。」
突然呼び止められて振り返ると、谷岡先生がいた。
「あ…。」
「久 しぶり。春期講座の打ち合わせ?」
相変わらず、何かを含んだ穏やかな口調。
「ご無沙汰してます。いえ、さっきこ こで雑誌のインタビューをやっていたので、それで。」
ちょっと恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「そうなん だ。夏に大きなの控えているからね。僕も楽しみだよ。でも、今日は懐かしい面々と会うな〜。」
「え?」
谷岡は嬉 しそうな顔をして、こちらを見た。
「野田君が遊びに来てるんだ。会った?」
俺は早まる気持ちを抑えて、平静を装 う。
「…そ、そうなんですか?いえ、まだ…。」
そっけなく言葉を話しながらも、鼓動が速まるのを感じていた。
「な んだ、まだなんだ。つい先日、日本に戻ってきたみたいで、挨拶に寄ってくれたんだよ。」

  やっぱり、あれはあ いつ…。

「そうだ、野田君これから小ホールで弾いてくれるんだ。江藤君やうちの生徒も、野田君の演奏を聴きたい みたいで、即席リサイタルみたいなものなんだけど、千秋君もよかったら、どう?」
「え、いや、僕は…。」
「忙し いの?」
「や、そういう訳じゃなくて…。」
頭の中では断る理由を探しながら、でも心は違う方に向かっていて…。
結 局、俺は谷岡の後について歩いていた。

…今更、会ってどうするんだよ。




  ホールに着くと、今、正に弾き始めようとしていた所だった。
一番手前には江藤をはじめ教師が何名か座っていて、その後ろには生徒が目 を輝かせながら座っていた。俺は扉の横に立ち、背中を壁に付けて寄りかかった。
 遠目から見るあいつは、若干、痩せているように見え るが、あの頃のあいつと変わりはない。のだめは息を大きく吸い込み、鍵盤の上に指を置いた。指先から流れる調べは…

  ベートーベンピアノソナタ第8番ハ短調作品13『悲愴』

 …おばあちゃんの嘆きの訴えなんデスよ…

  何度注意しても、いつまでもデタラメしか弾かなくて…。でも、不思議と心を鷲掴みにするような音を鳴らす。俺はこの音に一瞬で心捉えられ、囚われた。
  今はもちろん、デタラメではないけれど、あいつにしか鳴らせない、人の心を揺さぶるような独特の音楽はここにも健在だ。聴衆の心は一気にに引き込まれ、そ の音楽の世界へと入り込んでいく…。

 かつての恩師であった、谷岡は目を閉じて聴き入っていて、江藤は目を潤ま せながら大きく成長した教え子を眩しそうに眺めている。後輩に当たる学生達は目の前の名ピアニストの演奏に圧倒され、固まったように見入っていて…ここに いる誰もがあいつのピアノに魅了されている。

…俺だって、この音に心奪われて、そしてそれを奏でる指先と、それ を奏でるピアニストを、心の底から…

……いや、それは過去の話だ。全て終わってしまった話なんだ…

 

 ・・・・

「谷 岡センセ。どでしたか?のだめの演奏。」
「…うん。良かったよ。凄いね。さすがプロになるだけのものがあるね。」
「ぎゃ は。ありがとうございます。でも、さっきから後ろばかり見て、どしたんですか?」
「ん、いや〜、千秋君も後ろで聴いていたんだけど ね…。」

千秋先輩…

「ぎゃぼっ。千秋先輩…来ていたんですか?」
「そ うなんだけどね…。でも、彼、忙しそうだからね、帰っちゃったみたい。」
「…そですか…。」

千 秋先輩が来ていた…

「野田君?」
「…あ、あ、はい?」
「さっきの話。 考えておいてくれる?急で申し訳ないんだけど…。」
「は、はい。さっきの話ですね…。」
「うん。よろしく頼む よ。」

千秋先輩、いたんですか…

 ・・・・

  すっかり夜になってしまった。
まだ耳に残っている…あいつの音。鼓動がさっきから跳ね上がって、収まらない。

  俺はまだ慣れない自分のマンションの鍵を解除して、ドアを開けた。暗い部屋に灯りを順番に点けていき、リビングに向かった。
「あっ。」
  4人がけのダイニングの上には、豪華に飾りつけられていた二人分の食事と、二つの空のワイングラス。その真ん中には生クリームが上品に飾り付けられたシン プルなケーキ。
そして、赤いリボンがかけられた小さな箱…。

 慌てて携帯を取り出して、着 信履歴を見る。何件もの同じ相手からの不在着信。背筋に電流が走る。
着信していた未読のメールを呼び出した。

「遅 くなりそう?明日早いので、帰ります。END」

 誕生日、人を待ち続ける一人の部屋の冷たさ…その冷たさを、俺 は誰よりも知っているはずなのに…

俺は椅子に座り込み、頭を抱えてうずくまった。

  何やってんだよ…俺。

 そのまま時間だけが過ぎていって、気がつくと日付が変わろうとしていた…。


続 く。(written by 茶々)