真夏の向日葵のよう
な笑顔がとても似合う女性。
でもその日の彼女は、ぐっと押し殺した悲しみと戦っていた。
「そ
れ、何の曲?」
「…のだめのパリでの思い出が詰まった曲です。」
「ふうん。…いい
曲だね。ノダメが作ったの?」
彼女は手を止め、ピアノの椅子に座ったままくるりと振り返ると、僕に向かっていつ
ものようにニッコリと笑ってくれた。
なんだか、それがずいぶんと痛々しくて胸が痛んだ。
いつもの屈託のない笑顔
と違っていることは嫌でも分かったけれど、何も言えなかった。
それでもそっと彼女の顔を見つめると、大きな真ん丸の瞳は濡れてきらり
と光っていた。
もし今、彼女の張り詰めた心の糸がわずかでも緩んだら。
…その薄茶色の瞳か
ら大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちるんじゃないかと思った。
彼女はそれきり何も言わなかったけれど、僕には分か
る。
何があなたをそこまで苦しめ、悲しませているのか。
僕は、この女(ひと)の悲しみを感じながらも何もできな
い無力の存在だった。
僕はこの年上の女性の涙を一生忘れはしないだろう。
僕はあいつを…許
さない。
不機嫌なマエストロ 第4話
新
緑に洗われた5月の風が心地よい季節になった。
道端の木々も青々として、早くも初夏の様相を呈している。
ま
さか日本に来てこんな日々が始まろうとは…夢にも思わなかった。
軽い気持ちで引き受けた特別講師を機にのだめと再会し、またあいつの
ピアノを聴くことになるなんて。
そして新入生歓迎のミニ・コンサート…。
かつて、俺を惹きつけて止まなかったの
だめのピアノが、お互いを隔てた2年という月日を経て未だ俺の心を捉えて離さない。
いや…捉えて離さないのは、のだめの「ピアノ」だ
けでは…。
そして今も、こうしてのだめのレッスンに付き合ってやる日々が続いていた。
…俺
は、こんなことをしていていいのだろうか。
軽く頭を振り、何度もよぎる疑問を断ち切ると、
少し歩を早めてのだめの家へと急ぐ。
今日は一日オフだった。予定もなかったので、部屋でのだめのピアノをみてやる約束をしていたの
だ。
昼飯くらい俺が作ってやるか。まあ、とりあえずは着いたらまず掃除だろうな…。
そんなことを考えながら、何
故か足取りが軽くなっている自分に気がつき、我ながら呆れてしまう。
一
台のタクシーがゆっくりと俺の脇をすり抜けていく。
何気なく行方を見ていると、そのタクシーはのだめのマンションの手前で止まった。
少
しして、後部座席から一人の青年が降りてくる。
その青年はぐるりと辺りを見回すと、何かを探しているように見えた。
そ
ちら側へ特に視線を向けることもなく、俺は足早にタクシーと青年を追い越すと、のだめの部屋へと向けて歩を進める。
「Est-ce
que vous êtes chiaki? (君、
チアキだろ?)」
久々に聞いたフランス語でいきなり声を掛けられ、思わず振り返る。
見る
と、先ほどタクシーから降りた青年が立っていた。
俺と変わらない位の背丈。
年は…まだ若そ
うだ。とはいえ、決して幼いわけではない。
淡いブルーの、上品なピンストライプ柄シャツに、コットンのパンツ。
ブ
ロンドの髪がサラサラと風にそよいでいる。
意思の強そうな鋭いブルーの瞳が、まっすぐに俺の目を見据える。
どこ
かで会ったことがあるような気がするが、思い出せない。
青年を降ろしたタクシーが音を立てて走り去っていく。
「よ
く知ってるよ。有名人だもんね。」
「あの…。どこかでお会いしまし…」
「ノダメの家はど
こ?」
のだめだって?
あいつのオーストリア時代の知り合いだろうか。
畳
み掛けるようなトゲのある物言いが幾分気にかかり、思わず問いただす。
「…彼女にどんなご用件です?」
「君
には関係ないだろ。ノダメは僕の正式なパートナーなんだから。」
「…え?」
正
式な、…パートナー?
ぎゅうと心臓が締め付けられるような気持ちがした。
呆然と青年の顔を見ていると、碧眼の彼
は強い口調でこう言った。
「そういうチアキこそ、のだめの何なの?」
俺
がのだめの「何」か、だって?
大学時代の先輩。音楽を志す同志。…昔の恋人。では、今は…?
…
何も言い返せない。
俺は、のだめの「何」なのだろう。
言葉を探して黙り込む俺をチラと一瞥すると、彼は呆れたよ
うにこう続けた。
「あのさ。ノダメの部屋はどこって聞いてるんだけど?」
「あ、ああ。ここ
のマンションの…」
「せんぱーーい!ようこそデース!!」
そ
の時、栗色の髪を揺らしながらのだめが全力で階段を駆け降りてきた。
まるで小学生みたいだ、といつも思う。
「の
だめ、ちょっと休憩しようと思って窓の外を見たら、ちょうど先輩が歩いてくるところが見えたんデス!
…なので、お迎えにあがりマシ
タ♪」
のだめの無邪気な笑顔に思わず頬が緩んだが、俺はあわてて表情を引き締めた。
「ノ
ダメ!」
のだめは弾かれたように立ち止まると、真ん丸の目を見開き、金髪の青年を見つめる。
「ぎゃ
ぼー!!リュカ!来てたんですか!」
「ノダメ!会いたかったよ!」
リュ
カ…?
リュカだって…?
碧眼の青年は俺の前を横切りのだめの元へ駆け寄ると、力いっぱい
のだめをハグする。
そのままチュッとビズをすると、優しくのだめの手をとり、硬く握り締めながら言った。
「元
気だった?ノダメと会えなくて、本当に寂しかったよ。」
「本当ですか?のだめも寂しかったデスよ。来るなら来るって連絡してくれれば
よかったのに。」
「うん、でも一刻も早くノダメに会いたくて…。連絡することすら忘れてたよ。」
「またまたリュ
カってば、お上手なんですから〜。」
同じ世界にいる以上、噂くらいは聞いていた。
国際コン
クールで大きなタイトルを獲得して、期待の新進ピアニストとして活動を始めたという。
だが、そもそも個人的に面識は無いし、あの時…
2年前…のだめと疎遠になってからは、もちろん一切の関わりはなかった。
本人の最近の近影なども見たことが無かった。
ま
さか…この青年が…あのガキ?
「ねえノダメ。早速だけど、僕の事務所
が用意した練習用スタジオを一緒に見に行ってみない?
ノダメも早く練習用のピアノ弾いてみたいでしょ?」
「あー…。
それはそうなんですが、今日はのだめ先約があって…。」
「先約?」
「そうなんデス。今日は千秋先輩にピアノを見
てもらう予定で…。」
のだめはくるりと振り向くと、リュカに向かって、こちら千秋先輩です、知ってますよね、と
言いながら俺を指差した。
リュカの青い視線がゆっくりと俺に向けられ、その含みを持った強い瞳が俺を捉える。
へ
え、そうなんだ、と軽く返事をするとリュカはのだめの肩をゆっくりと抱き寄せ、優しく撫でる。
「でもノダメ。こ
れは大切な“仕事”なんだよ。」
「あ、大丈夫ですよ。ちゃんと分かってマス。頑張りましょうね、リュカ。」
の
だめはニッコリと笑って答えた。
「…仕事?」
思わず、疑問が口をつい
て出てしまった。
再びリュカの鋭い視線が俺に浴びせられるのが分かった。
「はい。あ、あ
れ?先輩に言いませんでした?のだめ、日本でリュカとデュオのコンサートをするんです。」
「デュオ…。聞いてないけど。」
つ
い責めるような口調になってしまい焦ったが、のだめはそんなこと気にも留めないような様子で続ける。
「あれ…。
言ってませんでしたか。リュカは売れっ子で忙しいですから、スケジュールの都合がつかなくて。
なので、のだめだけ先に来日したんデ
スよ。」
ピアノデュオ…。そうか、それで「正式なパートナー」か?
いや…でも公私ともに、
ということだって…。
――誤解されて困るような人はいマセンし。
確
かにあいつはこの間そう言っていた。
のだめも彩子のことは知っているし、今さら俺に隠す必要もないだろう。
とい
うことは、やっぱり恋人ではないのだろうか。
「そうか。…オーストリアにいた頃もリュカと一緒に仕事したりして
たのか?」
「えと…一緒に仕事っていうのは無かったですけど…。」
のだめは一瞬言いよどん
で、ちらりとリュカを見上げた。
それに応じるように、リュカはゆっくりとのだめを見下ろし、優しい眼差しを注いでいる。
続
いて発せられたのだめの強烈な一言が、俺の胸に突き刺さる。
「…先輩には、関係ないことデスから。」
俺
は、それ以上何も聞けなかった。
のだめの最後の言葉が、それ以上の質問を完全に拒絶していた。
先ほどのリュカの
言葉が俺の頭の中で鳴り響く。
――チアキこそ、のだめの何なの?
何
故かホッとしたような表情に戻ったのだめはリュカに向き直ると、明るい声でリュカ、ツアーはどうでしたか?と聞いている。
「う
ん、なかなか上手くいったよ。やっぱりノダメにも聴いて欲しかったな。」
「そうですね、次はきっと聴きに行きますね。あ、それと明日
なら予定が空いてますから…」
「の
だめ。俺とのレッスンはいいから。」
「…え?」
のだめが俺を振り返る。
「お
前は仕事があるんだろ。行けよ。」
「あ、でも…。」
「いいから!」
思
いがけず、強い口調で怒鳴ってしまった。
のだめの表情が固まるのが分かる。
言いかけた言葉の続きが、のだめの口
から出てくることはなかった。
…違う。
こんな言い方をするつもりはなかった。
「…
ノダメ?」
「あ…リュカ、じゃあ、行きましょう…。のだめはちょっと部屋に戻って…出かける準備をしてきますね…。」
そ
のまま俺の目を一度も見ることなく、のだめはパタパタと階段を上って部屋へと戻っていく。
のだめがいなくなると、再び俺とリュカの間
に張り詰めた空気が漂った。
「じゃ、俺はこれ
で。」
これ以上ここにいる意味はない。
俺はその場を立ち去ろうと、来た道を引き返す。
「チ
アキ!」
リュカは俺を呼び止めると、俺の背中に向けて言葉を投げつける。
「チ
アキさ。何か…勘違いしてない?
そもそもノダメが日本に来たのは僕との仕事のためだ。チアキには関係ない。」
振
り返って見ると、今度は明らかに敵意を含んだ視線が俺を刺している。
「…
これだけは言っておくよ。…チアキは、『部外者』なんだ。」
じゃあねと言い放つと、リュカはさっと背を向け、肩
の上まで上げた手を俺にひらひらとふりながら、
先ほど部屋に戻っていったのだめの後を追って階段を昇っていった。
――
チアキは、『部外者』なんだ。
誰かに言われなくたって分かっている。
俺
が何をしようと、のだめが何をしようと、それぞれの勝手だ。
恋人かどうかは知らないが、のだめにはリュカって奴がいるようだし、俺に
だって、彩子がいる。
俺は関係ない。
のだめと俺は、もはや何でもないのだから。
…
それでも、俺の知らない2年という空白の月日が、とても大きな壁になって立ちはだかるのを感じた。
* * * * * *
あの日リュカが来日し
てからというもの、俺とのだめは一度も会うことはなかった。
あいつにはピアノデュオという仕事もあるのだし、ちゃんとした練習場所も
ある。
ピアノを見てくれる立派なパートナーだって、いるのだから。
そう。
俺
がやってやれることなど、何一つない。
そういう俺自身も、新東響での常任デビューが近づくにつれて徐々に忙しさが増してきている。
人
の心配をしている場合ではないことは承知しているつもりだ。
今日も、新東響の事務所で今シーズンの方針などについての打ち合わせを終
えたところだった。
これからはもう、のだめと会うことすら無くなるのかもしれない。
あいつ
にはあいつの仕事があり、生活がある。
俺には俺の仕事があり、生活があるのだから。
思いがけず2年ぶりに再会し
たことで、懐かしさにかまけてズルズルと会っていただけだ。
これで…いいんだ。
…いいんだ
よな。
腕時計を見ると、ちょうど昼時だった。今
日は部屋でチェックしておきたいスコアもある。
外で昼食を済ませて早めに帰ろう。夜は、久々に彩子と外でディナーもいいな。
そ
んなことを考えながら何気なく視線を前方に向けると、
驚いたことに見覚えのある栗色の跳ねた髪とワンピースのシルエットが立ってい
た。
「先輩…。」
「…のだめ?」
もう会うことも
ない。
そう思っていたはずだった。
なのにこいつの顔を見たとたん、先ほどまでの後ろ向きな思考と、今、心の奥底
からジワリと染み出てくるような嬉しさがない交ぜになって、うまく消化できずに感情を持て余している自分に気づく。
まさか…こんなと
ころで会うなんて。
「あの…。こないだはスミマセンでした。先に先輩とレッスンの約束をしていたのに…。」
の
だめは、スミマセンともう一度言い深々と頭を下げる。
少しして顔を上げたのだめは、黙って俺の目をまっすぐに見つめている。
俺
はただ、ぼんやりとのだめの丸い瞳を眺めていた。
そういえばこいつの眼、こんな風に真ん丸で茶色くて…よく潤んでたな…。
「あ
の…センパイ?」
のだめの声で慌てて我に返る。
「いや、別に…仕事
だったんだろ。」
「でも…なんだか先輩、怒ってたみたいデスし…。のだめ、先輩にだけはどうしても謝っておきたくて…。」
伏
目がちにそう言うと、続く言葉を口にするのをのをためらうようにのだめは少し黙りこんだ。
俺が何も言わないままでいると、やがてゆっ
くりと話し出す。
「のだめ…先輩にだけは…嫌われたくないです。」
小
さな声でそう呟くと、それきりのだめは俯いた。
自分の胸の音が、一段
高くなるのが分かる。
俺が、のだめを嫌うなんて…。そんなことあるわけない。
先日の自分の不用意な発言が、のだ
めにこんな思いをさせていたとは。
本当に悪いことをした、と思った。
「怒ってないから。俺
も、酷い言い方して悪かったな。」
本当に、大人気ない対応だったと自分でも思う。
それでも
のだめは、俯いたままだ。
「…おまえ、それだけ言うためにわざわざここに?」
「あ、偶然で
す!たまたま先輩の新しい仕事場である新東響の事務所の近くを通っていただけで!」
のだめはバッと勢いよく顔を
上げると、ブンブンと首を振り力いっぱい否定する。
「いつも俺がここに来るとは限らないだろ。」
「で、
ですよね!?…あ、じゃあ今日、たまたま千秋先輩を見つけたんデス!…偶然デス!」
続けてそう言うのだめの目線
は、俺から完全に逸れている。
嘘、か。コイツ、変わってないな…。
そう思うと何故か、急に可笑しさがこみ上げて
きた。
「ぷっ…。」
「な!なんで笑うんデスか先輩!」
「なぁ、
のだめ。」
「はい。」
「お前、…何度かここで俺を探してた?」
「いいえ!……いえ、あ、あ
の。ハイ…。何度か…。」
きょろきょろと目を泳がせながら、のだめは自分の手をもじもじと動かす。
そ
の滑らかな白い頬は、心なしか赤みを増しているように見える。
俺に会おうとしてくれていたのか。
連絡すればいい
ことなのに。
…バカな奴。
不意に、のだめが愛おしくてたまらなくなっ
た。
そうだ。
俺も、俺だって。
ずっとのだめに会いたかった。
の
だめのピアノが聴きたかった。
それなのに、いろいろと言い訳をつけて気持ちを押し殺し、無理やり自分に言い聞かせていた。
も
う会うこともない。
これでいいんだ、と。
でも、こうしてのだめに会って、再びその顔を見て
しまった。
今だって、手を伸ばせばすぐに抱きしめられる距離にいる。
のだめを離したくない、ピアノを聴きたいと
いう欲求が、自分でも驚くほど制御できなくなっていた。
また一段、胸の音が高くなる。
「…
昼メシまだだろ?」
「はい?」
「作ってやってもいいけど。」
「え、え
と…どこで…ですか?」
「お前の部屋。」
「……」
「俺
が作ってる間…ピアノ弾けよ。」
あ
の日、リュカが来日して、のだめと仲睦まじく話す様子を眺めていた自分を思い出す。
何故あの時、俺はのだめにあんな言い方しかできな
かったのだろう。
―リュカとデュオを組むと聞かされたから?
違う。誰
かと組んで仕事をすることくらい、よくあることだ。
その経験がのだめのキャリアとなって、あいつの成長に繋がるのであれば俺は心から
応援するだろう。
そうだ。
あの時俺はきっと、あのリュカに…のだめを取られたような気がしたのだ。
今
も俺の中では、のだめは特別な存在であることに変わりがない。
もはや俺たちの間に関係はないが、それでも、一番のだめのことを分かっ
ているのは自分だと自惚れていた。
でも…俺の知らない、のだめの2年間。
―俺は、のだめの
ことを何も知らないのだ。
「…
先輩?どしたんですか?」
「いや、なんでもない。」
「千秋先輩の呪文料理、久しぶりデス
♪」
「そんな大したモノ作らねーよ。その前に、ちゃんと料理のできるキッチンになってるんだろうな?」
「う
ぎっ…。」
「あ、ピアノは何が聴きたいデスか?リクエストあります?」
「そ
うだな、じゃあ…。」
それ
からというもの、俺はこうして再びのだめの部屋へピアノを聴きに行くようになった。
もちろん、彩子に対して後ろめたい気持ちがなかっ
たとは言えない。
こんなことをいつまでも続けているわけにはいかない…そうは思いながらも、俺はのだめの部屋に通うことを止められず
にいた。
お互い仕事を抱えていることもあり、会える日も時間も以前に比べればずっと少ない。
そ
れでも前と同じように、俺がたまに食事を作ってやり、のだめはいかにも美味そうにそれを食べる。
ピアノも弾いてもらったし、それぞれ
の仕事の話や音楽の話もよくした。
…ただひとつの事柄を除いて。
俺とのだめを隔てた2年と
いう年月。
その時期にリュカと再会し、しかもオーストリアでRuiとも会ったのだという。
でも、話してくれるの
はいつもそこまでだった。
それ以上に話が及びそうになると、のだめはパタリと口を閉ざした。
俺
も、それ以上無理に聞くことはなかった。
*
* * * * *
「チアキ!ここ、ここ。この
お店ヨ。あれカワイイ!」
「おい、まだ買うのか?」
表参道の並木も青
々として、キラキラと降り注ぐ木漏れ日がまぶしい。
空気は爽やかで、一年のうちでも過ごしやすい気候なのだろう。
と
はいえ、両手いっぱいに荷物をかかえたまま、こうも歩き通しだとさすがに暑い。
俺は、日本でのRuiの買い物三昧につき合わされてい
た。
久しぶりに会ったRuiは、ずいぶんと大きく見えた。
最後に会ったのは、いつだっただ
ろう。
もともと大人びた空気をまとっていたが、しばらく見ない間に、またずっと落ち着いたように見える。
「えー、
あと靴ももう少し見たいんだけど。」
「勘弁してくれ…。」
「あ、あそこに素敵なカフェがあるヨ。じゃあ、ちょっ
とお茶ネ。」
俺たちは、一緒に手近なカフェに入った。
モダンな内装と、それにあわせたシン
プルなグリーンがところどころに飾られた、なかなか洒落た店だ。
Ruiは今、ちょうどアジアツアーの最中なのだという。
ちょ
うど日本での公演を一通り終えたところで、次の公演は上海だそうだが、それまで少しオフが取れるため日本にしばらく滞在するそうだ。
中
国公演が始まっちゃうと、またしばらく忙しいから…と、今のうちにつかの間のオフをめいっぱい楽しんでおきたいのだという。
買い物に
つき合わされるのは勘弁して欲しいが、正直なところ、少し確かめておきたいこともあった。
Ruiが日本にいるという情報を入手した俺
は、自分からRuiに再会を持ちかけたのだった。
「忙しいのに、来てもらってゴメンナサイ
ね。」
「そっちこそせっかくの休みなのに、悪いな。」
「いいのいいの。チアキがいくらでも買い物に付き合ってく
れるからネ。」
「えっ…!?」
Ruiは、あはは、と笑いながら続ける。
「冗
談、冗談。チアキも何か買えばいいのに。…ふふ、『首輪』とか?」
「…いや、俺はいい。」
「ふーん。彼女、いる
んだ。」
俺は否定しなかった。
実際、俺には彩子という恋人がいる。
ど
うやらRuiは、俺とのだめが別れたことを知っているようだった。
のだめはオーストリアでRuiと再会したと言っていたから、きっと
その時にでも聞いたのだろう。
「逃げない恋人には必要ないのかしらね…?それとも…。」
「は?」
Rui
はそれ以上何も言わなかった。
店の中は程よく空
調が効いていて、暑さとともに疲れも緩和させてくれるような心持がした。
ちょうど、注文したアイスコーヒーが二つ運ばれてきたところ
だった。
「そうそう。チアキ、新東響の常任になったんでしょ?」
「ああ。この夏からだけ
ど。」
「すごいネ、おめでとう!ね、今度ぜひ共演してヨ。」
「もちろん。こちらこそ、ぜひ
ともお願いしたいくらいだ。」
「…で?」
Rui
はカラカラとグラスの中のストローを回すと、いたずらっぽく笑いながら俺の目を覗き込む。
「チアキの方から私に
会いたいって言ってくるなんて、おかしいと思った。用件は一体なにかしらネ。」
思惑を見透かされていたことを少
し恥ずかしくも思ったが、その通りなのだから仕方が無い。
俺は聞きたかったことを素直に切りだした。
「Rui、
リュカって知ってるか?」
「…リュカ、ねぇ。」
Ruiは、ガラス越しに屋外を見やる。
つられて俺もちらりと窓の外を見る。
少し逡巡した素振りを見せたが、やがて彼女はゆっくりと話し出した。
「…
そっか。やっぱり彼のことね。そろそろ来るんじゃないかなぁーとは思ってたけどネ。」
「え?」
「ううん、なんで
もない。コンヴァトで一緒だったしね、知ってる。…それに、私一度共演してるヨ。」
「そうなのか?」
正
直、驚いた。
世界的に名を知られた天才ピアニスト孫Ruiと、おそらく駆け出しのプロであろうリュカが共演していたとは。
「う
ん。ええと…一年半前くらいかな。リュカとデュオを組んでね。」
「デュオだって?」
デュ
オ…。
つい、のだめのことを思い出す。
ここのところ、ずっと引っかかっていたデュオという言葉に思いがけないと
ころで遭遇し、少し動揺した。
「うん。まだ私、デュオって経験なかったし。面白そうだなぁって思って。」
「お
前のママは?…何かしら言っただろう?」
「うーん…デュオ自体はいいけど、そんな無名の新人となんて…って言ってね。最初はあまりい
い顔しなかったけど。
でも、彼のピアノは確かヨ。実際、コンサートもCDもすごく評判良かったんだから。」
国
際コンクールを制するくらいだし、Ruiと共演して評価されているということは、あのリュカという青年はそれなりの実力の持ち主なのだろう。
「…
そうか。どんな演奏するんだ、リュカって。」
「それは指揮者自慢の耳で聴いた方が早いデショ?ホテルの部屋にCDあったと思うから、
あとでチアキにあげるネ。」
Ruiはアイスコーヒーを飲みながら、ふふっと笑った。
俺に
とってもありがたいRuiの申し出だった。
リュカの演奏。実際、興味があった。俺は素直に好意に甘えることにした。
「あ
あ、サンキュ。じゃあ、音楽はいいとして…リュカって奴…どういう人物なんだ?」
「そうね、若くて才能あって、真面目で…。」
Ruiはそこまで言うと、少し迷ったような、言いよどむ様な表情を見せた。
「…
どうした?」
「ねえ、チアキ。…リュカのこと、聞いてどうするつもり?」
「どうするって…どうもしないけど。」
沈
黙が流れる。
Ruiはしばらくの間、考え込むようにして遠くを眺めていた。
少しして、Ruiはまっすぐに俺の顔
を見ると、意を決したようにこう言った。
「チアキ、彼は危険かもしれない。…深入りしない方がいいと思う。」
「…危険?…なにが?」
それ以上の俺の質問を遮るように、Ruiは勢いよく席を立つが早い
か、
「さてと!十分休みも取ったことだし、ショッピングの続き!」
と
言いながら、ハイこれ、と俺に伝票を握らせてさっさと店の外へと出て行った。
結
局俺がRuiから解放されたのは、日も落ちてずいぶん暗くなってからだった。
帰りにRuiを宿泊しているホテルまで送ると、Ruiは
ロビーでちょっと待ってて、と言って約束どおり部屋からリュカとのデュオCDを持ってくると俺に手渡してくれた。私のサインつきだからプレミア物よ、と言
いながら、Ruiはまたいたずらっぽく笑っていた。
俺は自分の部屋に帰りつくと、手早く軽い夕食と風呂を済ませ
た。
何故か、一刻も早くもらったCDを聴いてみたい気分だった。
CDをセットすると、ソファにゆっくりと身を沈
めて煙草に火をつける。
ジャケットを眺めると、ピアノの前で鮮やかなブルーのドレスを着たRuiと、ノータイスーツ姿のリュカが写っ
ている。
どうやら、演奏中の画を使ったデザインになっているらしい。
写真の中のリュカはまだ多少幼さが残っては
いるものの、確かに俺があの日見たリュカという青年と同じ人物だった。
オーディオから流れ出す音色に耳を傾け
る。
Ruiが認めて共演を決めたくらいなのだから、リュカのピアノは相当なものなのだろう。
プリモ(第1ピア
ノ)を任されれば、深い理解力と表現力を元にしっかりと主張しながら、色彩豊かな音色を響かせる。
セコンド(第2ピアノ)を務める時
は、高い技術と堅実な演奏に裏打ちされた安定感を見せ、まさに「誠実」な演奏だ。
確かに、若くて才能あって、真面目で…。
…
危険?…なにが?
Ruiに会って話を聞いたことで、ますます分からないことが増えたように感じた。
余
計な考えを追い払って曲に集中しようと努めるが、なかなか思うようにいかない。
ずっとわだかまっている色々な言葉が、次から次へと頭
の中を占めて消えない。
―チアキこそ、のだめの何なの?
―
先輩には、関係ないことデスから。
―深入りしない方がいいと思う。
そ
うか。
やっぱり俺は…『部外者』なのか。
あ
んなに聴いてみたいと思ったはずのCDが、急に疎ましく思えてきた。
テーブルに視線を走らせると、ジャケット写真の中でピアノを弾く
リュカが目に入る。
リモコンを手に取り、曲の途中でブツッとオーディオの電源を切る。
吸い
かけの煙草を乱暴に灰皿に押し付けてソファから立ち上がると、俺は寝室へと移動した。
続
く。(written by レベッカ)