その日は朝から重く暗い灰色の雲が立ちこめていた。
何日も降り続く雨はしとしとと音をたて、うんざりするような梅雨の天気そのもので。
そんな中、大勢の人が色とりどりな傘をさしながら行き交う、とあるビル街に。

バーンッ!!

何の前触れもなくこんな場所ではあり得ない大音量のピアノの和音が響き渡る。

歩いていた通行人達は何事かと思い、その音が聞こえてくるビルの壁一面を使った巨大スクリーンを振り返った。
映し出されていたのは……今までに見たこともない映像で。

真っ白な部屋。

中央にピアノがあり、他には何も置いていない。

そのピアノの前に座って演奏している2人の男女。

一人は、はっと人の目を惹きつけるようなプラチナ・ブロンドの髪の美青年。
西洋人ならではの彫りの深さにもかかわらず気品が溢れた貴公子のような顔立ち、深いブルーの瞳とそれを覆う睫毛の長さ。
その端麗な美貌にその場にいた女性の目が釘付けになった。

そしてもう一人の東洋人の女性。

……東洋人だろうか。
とてもそうとは思えないくらいの薄い栗色の髪と透きとおるように美しい白い肌。
大きな瞳はまるで吸い込まれてしまいそうなくらい、深く澄んでいた。
そのふわっとした可愛らしさとそれに相反するような妖艶さを含む容姿はまるで魔性の者のように見る者を惹きつけて離さない。
……それでいて、不用意に触れてしまえば壊れてしまいそうにその姿ははかなげで……。
彼女は胸元と背中が大きく開いた露出度の高いセクシーな黒いドレスを着ていた。

2人は同じ椅子に並んで座ったままピアノを弾いていた。
その曲は誰でも一度は耳にしたことのある有名な曲であるにもかかわらず、全く違う旋律を奏でる。
カメラはいろんなアングルで彼らを捕らえていた。
上面から……側面から……足下から……顔をクローズアップしたりしながら、2人の官能的な演奏が生々しく映し出される。

4本の美しい手が鍵盤の上を舞う。

めまぐるしく動くその指の動きはまさに超絶技巧。

その腕が激しく交差する度に2人の距離が接近する。

青年の肘は彼女の豊満な胸にわざと触れるかのように意味ありげに動く。。
2人が旋律に合わせて首を振ったり体を大きく揺らす度に、さわさわと触れて交じり合うブロンドと栗色の髪。

ひどく衝撃的で官能的な音楽が人々の足を止める。

青年は、白いカッターシャツのボタンを半分くらい開けていてそこから時折見える胸が、一見華奢に見える若者の逞しい肉体を惜しげもなく披露して。

そして、演奏の途中で青年はすっと立ち上がると……そのまま後ろからすっぽりと彼女を包み込んだ。
その間にも指はけっして鍵盤から離れることはなく。
青年は覆い被さるように彼女の白く陶器のようになめらかな背中にキスをすると、そのまま唇が首の線をなぞるようにゆっくりと上に移動する。

キャーッと見ていた通行人から黄色い歓声があがる。

青年の唇は耳たぶの辺りまでたどり着くとチュッと優しいキスを落として、そこから名残惜しげに離れた。
彼女はくすぐったそうに笑い、彼を優しく見上げる。
彼も彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
お互いの唇と唇が今にも触れあいそうな距離。



そしていきなり真っ暗になる画面。

白い文字のテロップが流れる。


「彼らが」

「音楽の」

「歴史を変える」



「奇跡のデュオ『zephyr ゼフィール(そよ風)』ついに始動」

「7月13日 初コンサート決定」

そこに示されているスポンサーは有名な欧米の音楽会社の名前で。


……それから後は何事もなかったかのように普通の化粧品のコマーシャルに切り替わる。

足を止めてそれを見ていた通行人はしばらく動けなかった。
横断歩道の途中で立ち止まっていた通行人は、信号が変わったのにも気づかずにブーっと言う車のクラクションではっとして急いで横断歩道を渡りきる始末。

「ねえ……ねえ、ねえ、何?さっきの……」
「ええー、わかんないけど……何かCDのコマーシャルぽかったよ!!」
「いや〜ん、もう、すっごくドキドキした〜!!」
「なんかさあ……西洋人の男と東洋人の女のカップルって……超エロい……」
「あのピアノの音もさっきから耳でリフレインしてて離れないよ〜」
「ここで待ってたら、もう一度やらないかな……あのコマーシャル……」

そして通行人達は立ち止まったまま、スクリーンを見つめ続けた。



それが全ての始まりだった。






不機嫌なマエストロ 5話






千秋は先ほどから自分に届いた一通の封書をただじっと眺めていた。
差出人はのだめ。
中身はわかっている。
そして諦めたようにため息をつくと、思い切ってその封書を開封した。
中には1枚の手紙と……そして、コンサートチケット。

zephyr 初コンサート caloroso(カロローソ)〜熱き夜の調べ〜 
2010年7月13日(土)18:00開演
ヴェルトラウム・ホール SS席 

同封されていた手紙に目を落とした。

「先輩!リュカとのデュオで初コンサートをします!!。ぜひ見に来て下さいね〜!!。のだめより」

千秋はその見慣れた文字を目に焼き付けるようにずっと見つめて、そしてソファーに深く腰を下ろした。
そして傍らに無造作に置かれていた雑誌「クラシック・ライフ」を手に取る。
河野けえこは、フランスから日本に移り住んだ今でも、この雑誌を毎月かかさずに千秋に送り続けてくるのだ。
表紙の「夢色☆クラシック 話題のデュオ『zephyr』に直撃インタビュー!?」との大きな見出しが目に眩しい。
千秋はページをめくる。

そこには、リュカとのだめがピアノの前で並んで立っている写真が大きく掲載されていた。
慣れているのかリュカの顔は平然として自信に満ちあふれ、その鋭い眼孔はまるで千秋を挑発するかのように見える。
それとは違いのだめは、緊張のせいか笑顔が少し硬かった。
並んで見ると、この2人はとてもお似合いで、釣り合いの取れた恋人同士のように見える。
隣のページには、いつもの佐久間のポエムとインタビュー記事が載っていた。




美と愛の女神アプロディーテに愛された美少年 アドニス。
アプロディーテが嫉妬しエロスに愛された最も美しい絶世の美女 プシュケ
伝説の神々が神話の世界から大きな純白の翼をはためかせ地上の人間を歓喜の世界に誘うべく降り立った。
その清らかで神々しい光溢れる彼らの容姿は一瞬のうちに僕の心を奪った。
しかし、一見清純でこの世の欲望とは無縁と思われるこの彼らが一度ピアノに向かうと蒼白い情欲の炎が燃え盛る。
ピアノはもはや神の調べを歌うただの道具に過ぎず、寄せては返す無限とも思える官能のうねりの波が聴くもの全てを虜にする。
真夏の降りつもる神秘的な雪のように。
真冬の世界を照らす灼熱の太陽のように
極めて信じられない陶酔的な旋律が人々を興奮の渦に引きずり込み、やがて忘我の境地にいたらしめる。
ああ!。これこそを神の音楽と呼ばずして何と呼ぼうか。


あまりにも衝撃的なコマーシャルで人気沸騰中のデュオ「zephyr」が忙しい中、取材に快く応じてくれた。

ーはじめまして。クラシックライフの佐久間学といいます。

(通訳を介して)
リュカ「リュカ・ボドリーです」
ノダメ「ノダメです」

ーリュカ・ボドリーさんと言えば、今、世界で最も注目されている期待の新鋭ピアニストですね。
出身はフランスでわずか12歳にしてコンセルヴァトワール入学、ピエール・ラフォレ氏に師事し2008年首席で卒業。
いくつもの国際コンクールを見事に制して同年リサイタルCDデビュー。
あの人気ピアニスト孫Ruiともデュオを組んで出したCDも欧米諸国では高い評価を受けています。
そんな貴方が今回どうしてもパートナーにと熱望したのがこのノダメさんであると聞いていますが。

リュカ「そうですね。今回の対アジア宣伝という話が出て来た時に是非にパートナーにノダメを…と推薦したのは僕です。
    彼女は一般的には全く無名のピアニストですから、事務所はもちろん反対をしました。
    しかし僕の強い希望に事務所側も『じゃあその子を一度連れてきて曲を聴かせてみて』と考慮する姿勢をみせてくれました。
    結果ですか?。それは、彼女が今ここで僕の隣に立っているのが全ての答えになるでしょう」

ノダメさんに対しては、年齢、国籍、経歴、全てが不詳となっていますがこれは?。

リュカ「例えば孫Ruiくらいの有名なピアニストなら宣伝効果があるでしょう。
    けれども彼女は全くの無名。経歴を並べ立てたところで大して意味があるとは思えません。
    それならばいっそ全てをシークレットにした方が話題性も出るとの事務所側の判断です」

そんなリスクを抱えながら何故そこまでしてノダメさんをパートナーにと熱望されたのですか?。

リュカ「彼女の奏でる音楽を、僕自身が高く評価し強く惹かれ恋い焦がれ続けているからです。
    彼女は表舞台に出るべきピアニストであってその才能はいずれ世界に出て行くと僕は信じています。
    そして僕の音楽との相性も抜群で、共に演奏をする度に音が溶け合って交じり合い高まって行くようなエクスタシーを常に感じています。
    それについては、是非コンサートを聴きにきて、実際にその耳で確かめていただきたい…としか今は申し上げられません」

ノダメさんにとってはリュカさんの演奏はどうですか?

ノダメ「……リュカはとても誠実で安定感のある演奏をする人デス。
    彼と演奏をする度に、いつも私は心を癒され、全てを許されて優しく温かく包まれるような気分になるんデス。
    リュカは私を光の差す方へ導いてくれた恩人でもありマス」    
    
そんな熱い思いをお互いに感じているお2人ですが、実際のご関係は?

ノダメ「とても大切な友人デス」
リュカ「僕にとってはノダメは誰よりも一番愛している女性です」

……ほう、それは聞き捨てなりませんね。

ノダメ「……冗談デスよ。リュカは本当に上手で……」
リュカ「本当のことですよ。いつも仕事でのパートナー以上の関係になりたいと思ってアプローチし続けているんですが、なかなか振り向いてくれなくて…(笑)」
ノダメ「………」
(顔を真っ赤にするノダメさん)

その話もじっくりとうかがわせていただきたいところですが、残念ながら時間もないので本題に入ります。
zephyrの初コンサートチケットは、発売当日に1時間で完売されたそうです。
口コミで広がったとはいえ、今だ無名のデュオに関してこれは異例のことだといえます。
さて、気になるコンサートで演奏する曲目についてですが……。




その後もインタビューは続いていたが、千秋はそれを読まずにソファーに寝転がった。
そして雑誌を広げて顔の上に乗せ、表情を隠す。

ずっとずっと……長い間、千秋はそのまま動かなかった。






7月13日当日。

この日は新東京交響楽団でのリハーサル日だった。

いつもなら朝からみっちりと練習、昼に僅かな休憩をはさんでまた夜までまた練習と、ピンと糸が張りつめたような気の抜けない緊張の時間が続く。
今度の新しい常任指揮者である千秋真一はけして妥協を許さない男だった。
納得がいくまでそのパートを繰り返す。
その日のうちに1曲が終わらないこともしばしばだった。
その新しい指揮者についての団員達の評判はあまりよくない。
古くからいる団員からは

「若いくせに生意気だ」
「うちにはうち独自の長い歴史で培われたしきたりがある。それを無視して…若造が」

と言われ、若い団員からは

「粘着質で厳しすぎる」
「ねちねちと細かすぎてなかなか次に進めない」
「前の指揮者の方が良かった」

などといった不満や苦情も出てきている。
……そして千秋もそれをわかっている。
長い歴史のあるオーケストラ新東響が、例え欧州で名を上げていたとしてもこんなに若い指揮者をそう簡単には受け入れられないだろうということを。
だけどそれもいつものことだと思っていた。
Sオケの時も…R☆Sオケの時も…そしてマルレオケの時もそうだった。
8月に行われる新東響の初舞台を成功させるのが、なによりも自分のやり方を内外に納得させるただ一つの方法であることを千秋は知っている。
そのために必死になっている。
なんとしても成功させなければいけない。


だが、この日の千秋はどこか違った。


先ほどまで問題なく滑らかに演奏されていた音楽が、わずかに狂いが生じた。
最初はほんのかすかなミスだった。
だがその狂いは修正されることもなくやがて全体に広がる。
団員達の間に困惑したような表情が浮かんだ。

千秋ははっと気づいたように指揮する手を止める。

「………」

団員達は何も言わないが、無言の非難の視線が千秋に集中するのを感じる。
千秋は唇をぐっと噛みしめて頭を下げた。

「すみません。僕が振り間違えました……」

今日で何度目だろうか。
いつもならオケ全体を見渡せる筈の目がふと気がつくとどこか遠くを彷徨っている。
いつもなら各個人のささいな息つかいまでも聞き取れるほどの耳がそれを捕らえようとしない。
各パートが楽器を構えて指示を待っているのに、彼らをまとめ上げる筈の指揮者が今日に限って心ここにあらずなのだ。

しっかりしろ!。

自分で自分を心の中で叱咤するも、昨日まで掴んでいた筈の音楽が手のひらからこぼれ落ちていくのを感じる。

そんな千秋の状態は団員の間にも伝わらない筈もなかった。
練習終了後に楽器を片づけて帰り支度を始める団員達の声が聞こえる。

「なんだ、あいつ。この間まであんなに偉そうだったのに……」
「今日なんかまるで上の空じゃないか」
「あーあ、これで8月の公演、どうにかなるのかね?」

冷たい視線を背中に浴びながら、千秋は無言でドアを開けた。




千秋は控え室に入るとダンッとロッカーに拳を叩きつけた。


俺は……何をやっているんだ……。

何のためにここにいる。

何のためにこんなところまで来たんだ。


頭をくしゃくしゃにかき回したまま目を閉じる。
今までの疲れが一気に押し寄せて肩にずっしりと重くのしかかった。
悔しさと情けなさで思わずこの場で泣き出しそうになるのをぐっとこらえる。
そして…ロッカーを開けると、そこに大事に置かれていた一枚のチケットに目をやった。

のだめのコンサートチケット。

18:00開演だったが、今はもう19:00過ぎだ。
だけどヴェルトラウム・ホールはここから近い。

行きたい。
だけど行きたくない。

2人の演奏を聴きたい。
だけどやっぱり聴きたくない。

2つの相反する気持ちが千秋の心を激しくかき乱していた。







会場についた時はもう、時間はかなり過ぎていた。
演奏の最後の方に駆け込むようにやってきた千秋を受付の女性は不審そうに見上げた。
そんな視線も気にすることもなく、千秋は息が切れて乱れた呼吸を整えて……ホールのドアをゆっくりと開けた。


流れる旋律が怒濤のごとく千秋の耳に飛び込んできた。


そこは別世界だった。


観客達は途中で入ってきた千秋のことなどまるで気がついていないようだった。
彼らは皆、前しか見ていなかった。
舞台の中央に置かれた一台のピアノ、そしてそれを弾いている2人の人物しか目に入らなかった。
そして観客の全員が彼らの奏でるピアノの音を一音でも聞き逃さないように集中しきってている。
その目はどれも至上の喜びで溢れている。

千秋は舞台に目を向けた。

のだめはコマーシャルで見たのとは違い、淡いピンクのドレスをきている。
それでもむき出しの白い肩と背中が目に眩しい。

コマーシャルでののだめとリュカの演奏は何度も見た。
2人のあまりの生々しさにコマーシャルが流れるたびについ目を背けずにはいられなかった。
しかし今は違う。

……全く別のデュオのようだった。

コマーシャルで見たようなうねるような官能や妖艶さがそこにはなかった。
あるのは春の温かな日だまりのように柔らかく聴き手を包み込んでくれる音。
湧き出る清らかな透きとおった泉が染み渡っていくような旋律。

まるで初めて恋を知った2人がお互いに少しずつ愛を確かめ合って行くような初々しさ。

千秋はピアノを弾いているのだめを見た。

のだめは本当に楽しそうに、色彩溢れる音を紡ぎ出している。
その表情は生き生きと輝いていて、舞台で音楽が演奏できるという無上の喜びに溢れていた。
鍵盤の上を走るのだめの指。
自由闊達に、元気にはしゃぐように、小細工なんて全く感じられない、……でも、それが耳に心地よく響いて。
心の底から演奏を楽しんでいるのがわかる。

それに覆いかぶさるような堅実で安定した旋律はリュカの音。
のだめの音をつぶすことなく、強制することもなく、自由に走らせている。
いや、あえてのだめの音を強調するがごとく、彼の音は誠実で……優しくのだめを導いている。
空気に溶け込み、交じり合う2人の音。
彼らの音楽は完全にこのホールを支配していた。



千秋はぎゅうっと胸を締め付けられる間隔に襲われ、胸に手をあてた。
心臓がバクバクするほど激しく動悸して、呼吸が苦しい。



胸が……痛い。



のだめが笑みを浮かべながらリュカを見上げる。
リュカはとても愛おしい目つきでのだめを見返した。

その視線は恋人同士そのもので。



千秋はいつのまにか頬を伝う温かい液体に驚いて、目に手をやった。



泣いて……いるのか。

俺は。



どうしてあそこにいるのが俺ではないのだろう。

何がいけなかったのだろう。




『いつか先輩とゴールデンペアになるんデス!!』


のだめの声が蘇る。



そうだ。その夢を2人で追いかけていた時期もあった。
いつか実現できると信じていた。


……だけれども、それを断ち切ったのは……俺の方……。



もう、取り戻せない。

何もかも。



全ては俺自身のせい……。




千秋は舞台に目をやった。

自分を敢えて傷つけるがごとく、罰するかのように、ただ、視線を前だけに向け続けていた。





凄まじいほどの拍手の波が起こった。
拍手の波は洪水のようにいつまでも絶えることがなくホール内に鳴り響く。
アンコールにも答えたというのに、観客はまだ、もっともっと2人の音楽をと要求している。

それでも時間だ。

夢の時間はもう終わった。

舞台の2人は深々と観客にむかってお辞儀をした。
そして顔をあげる。

……その瞬間、千秋はのだめと視線があったような気がした。
のだめの笑顔がぱっと輝いた。


……まさか。

こんな会場の端っこにいて……俺のことがわかる筈……もないよな……。


そう思いながらも千秋はのだめから視線が離せなかった。

やがて2人は退場して、ホールが明るくなり、演奏の終了を告げるアナウンスが流れる。
観客達は名残惜しそうに、まだ何かを期待しながらも次々と席を立ち出口へ向かっていった。

千秋は動く人の波を見ながらもまだ曲の余韻にひたったまま動けないでいた。
すると突然、トンっと肩を叩かれた。
驚いて振り向くと一人の男性が立っていた。

「千秋真一様でいらっしゃいますか?」
「……そうですが……何か?」
「ノダメさんが、ぜひ控え室まで来てほしいそうです。良かったらご一緒に……」




「ムッキャーーーーーッッ!!先輩、来てくれたんですネ!!」

控え室のドアを開けると同時にのだめが飛びついてきた。
演奏終了後で興奮しているのだろうか。
千秋の首にかじりつく。……昔のように。

「のだめ。失礼だよ」

固い無機質な声が響く。
リュカが憮然とした表情のままそんな2人を見つめていた。

「あ……そうデスね。……つい、興奮しちゃって。……はしたないデスね。すみません」

のだめがへへっと笑いながら千秋から離れる。
……そう、あっさりと。
千秋は自分の首に絡みついたのだめの腕の暖かさが急に離れていくのを感じた。

「チケット送ったのに、席に千秋先輩いないから来ないのかなあ〜って思ってたんデスけど、最後にお辞儀する時、先輩の姿が見えて、のだめ凄く嬉しくって……」
「いや……俺も仕事だったから……遅くなって……」
「あ、そうですよネ。先輩も新東響の常任指揮者ですから、忙しいの当たり前ですよネ……」

のだめは一瞬、シュンとなったかのように見えたが、次の瞬間、にこおっと笑った。

「でも、それでも、先輩が聴きに来てくれてのだめ嬉しいデス!!」
「……ああ」

にこにこと千秋を見上げるのだめに千秋は思わず笑みがこぼれた。
だが、そんな2人をリュカは冷たい目つきで見つめたままだった。

「……別にどうだっていいけど……のだめ、なんだって千秋をここに呼んだの?」
「えっと、それは……3人で打ち上げをするためデス!!(どーん!!)」

はあ?……と呆然とする2人を尻目に、のだめはいそいそと備え付けられたコーヒーポットに手を伸ばした。

「zephyr初コンサートが無事に終わったお祝いデス!!3人で仲良くお茶でも飲みましょう!!」




千秋とリュカの目の前にほかほかと湯気の立つコーヒーを置きながらのだめは一人ニコニコしていた。
……だが、嬉しそうなのはのだめだけで、千秋とリュカはお互いにそっぽを向いたまま、視線を合わせようともしない。

「あ、そうだ!。差し入れに○○のチーズケーキいただいたんですヨ!!。これも皆で食べましょうネ!!」

そういってチーズケーキを切り分けそれぞれに配る。
のだめは自分の皿に乗せられたチーズケーキを、口にするとムキャ!と幸せそうに体を震わせた。

「……すっごくおいしいデス!!。
 2人とも早く食べてみてください!!。
  まったりして口の中でとろけて……昔、先輩が作ってくれたチーズケーキを思い出しますネ。
 のだめ、この2年間ずっとずうっとあのチーズケーキが食べたくて、こないだ我慢できなくて自分で作ってみたんデスよ。
 だけどなんか失敗しちゃって、でろーんとチーズが糸を引くんデスよ」
「チーズケーキのチーズが糸を引く……ってお前、材料にどんなチーズを使ったんだ?」
「へ?雪○プロセスチーズですが……」
「……ばっか!!チーズケーキにプロセスチーズを使う奴がいるかっっ!!。クリームチーズを使うんだよっ!!」
「クリームチーズって、あの青カビが生えた奴ですか?それならのだめの家の冷蔵庫にたくさんありマスが……」
「ブルーチーズじゃねえっ……っていうか、それは単にお前が腐らせただけじゃねえかっっ!!」

はあ、はあ、息を切らす千秋。
そして。

「だったら今度、俺が作り方を教えてやる!」
「だったら今度、先輩が作ってくだサイ!」

お互いに同時に口を開き発言がハモってしまったのだめと千秋。
それから、……同時にしまった……という顔をして口を閉じた。
そんな2人をリュカはずっと面白くない顔で見つめている。

そしてまた沈黙の時間が訪れた。

のだめはこっそり2人の様子をうかがった。
2人ともむすっとしたままコーヒーにもケーキにも手を出さない。
なんともいえない微妙な空気が部屋の中を包み込む。
のだめは戸惑うように目を彷徨わせた。

「あの……えっと……あ、そうだ!先輩!!今日の演奏どうでしたか?のだめ、自分ではよく出来たと思うんですが……」

急に話をふられた千秋は言葉を探す。

……自分の抱えている思いが何にせよ、評価は評価だ。

それだけは客観的に伝えなければならない。

「……すごく……良かった」
「ムッキャーッッ!!本当ですか?。のだめ、頑張った甲斐がありました!!。良かったですネ、リュカ」

そう言ってリュカに話を振る。

「……まあね。でも、僕達のデュオが成功したのは、千秋とは何の関係もないからね。わかってる?のだめ」
「そ、それはわかってマスよ。リュカ。もちろんリュカのおかげデス♪」
「あの……衣装は……」

千秋はたまらなくなって声を出す。

「……ちょっと露出度高すぎじゃないのか?。…もう少し抑えた方が……」

リュカは千秋を挑戦的に睨み付ける。

「それも事務所側の意向なんだよ、千秋。……今回のデュオは官能的な路線を打ち出していく方針なんだ」
「……最後の曲の、第3楽章の出だしはもっとゆっくりめで情感をたっぷりに出した方が良かったとも思えるが……」
「僕はそうは思わない。あそこはストレートに入って一気に攻めていく方がいいと思う。……これはのだめと僕が出した結論なんだけどね」

そう言うとリュカはふんっと口の端をあげて笑った。

「どの道、千秋に意見は聞いてないよ?。僕たちのデュオのことなんだから」
「………」

千秋は押し黙った。

リュカの言うとおりだ。
自分に口出しをする権利はない。

のだめはそんなリュカと千秋の押し問答を見ながらあうう、あううと険悪な空気に戸惑っていた。

「あ、あ、あのですね。今度、のだめソロコンサートの話も来ているんですよ、先輩」
「ソロコンサート?」

物憂げに呟く千秋にのだめはにっこり頷いた。

「ハリセン先生からのたっての希望なんデスけどネ……。今度、親子向けのソロコンサートをすることになったんです。
 それで、どんな曲を弾いたらいいかどうか、研究中なんデスが……先輩、何かいい曲を思いつきまセンか?」

そうか……これだけ話題になればソロとしての話も舞い込むだろうな。

「のだめ的には、キラキラ星なんてどうかなあって思ってるんデスけど。あと『めだかの学校』や『おしりかじり虫』超絶技巧バージョンとか」

……なんだ?それは……。

あいかわらずのだめの突飛な思考にはついていけないが、昔、のだめが幼稚園の先生が夢だったことを思い出す。
そういえば『おなら体操』とか変な曲ばっかり作ってたな……。
……何もかもが、懐かしく感じられる。

「そんなことを言うなら、オリジナルの曲でもやればいいじゃないか。お前……」

そういうの得意だろ?と言いかけたその言葉は最後まで発せられなかった。

目の前ののだめの顔色がその瞬間さっと青ざめたからだ。

パシャン。

のだめはうろたえたように後ろに身を引いて、その際に当たった手がテーブルの上のコーヒーのカップを倒した。
茶色の液体がテーブルの上にどんどん広がっていく。

「あ……あ……ご、ごめんなさい。のだめ……相変わらずドジですネ……」

そう言うと目の前にあったおしぼりでテーブルを拭こうとする。
その手は小刻みに震えていた。

「……のだめ?」

不審気に顔を覗き込もうとする千秋に向かってのだめは、心配ないですというように笑った。
だがその笑顔はどこか不自然でとても痛々しく……無理をしているのが明らかで。。

「あ……そう、オリジナル……いいですネ……」

自分では普通にふるまっているつもりなのだろうが、明らかにのだめの声は震えているのがわかる。
その目にはじわっと涙が滲み……どんどん溜まっていき、何度も瞬きを繰り返す。
それでものだめは懸命に普通に話を続けようと努める。

「のだめは……」

そこで声がつまる。
透明な涙が今にも溢れ出すかと思われた……その瞬間。

ふわっとリュカがのだめを胸に抱き込んだ。

「……リュカ?」

リュカはのだめの顔を千秋から覆い隠すかのように、強く抱きしめると優しく声をかけた。

「のだめ……もういい。……もう我慢しなくていいから……」
「………」

その瞬間、のだめはしゃくり上げた。

今までこらえていたものが堰を切ったように溢れ出す。
のだめはリュカの胸にしがみついて、嗚咽を部屋の中に響かせていた。

その姿を千秋ただ呆然と見ていた。
リュカは腕の中で泣き続けるのだめを落ち着かせるように、ゆっくりと優しく背中を撫でる。

「のだめ……大丈夫だよ……僕がここにいるから……ちゃんと……そばにいるから……。」

そしてリュカはのだめを抱きしめながら、千秋を鋭い眼光で睨み付ける

「……行けよ」
「………のだめはいったい……」

千秋はうろたえたまま言葉を無くす。

「……行けったら!!……お前に用はない!!」

目の前で何が起こっているのかも理解ができないまま、千秋は部屋を退出することを余儀なくされた。






「………う……う……」

リュカは腕の中で泣き続けるのだめをただきつく抱きしめていた。


いったい、いつまで彼女は苦しまなければならないのだろう。

どうしたら彼女を救ってあげることができるのだろう。


リュカは自分の無力さが情けなかった。
愛しい女性がすぐ目の前にいて……苦しみ続けているのに、それを取り除いてあげることができない……。

この腕は彼女をすっぽりと包み込めるくらい大きくなったというのに。
ピアノの技巧は世界のクラシックファンを唸らせるほどに成長したというのに。

こんな時、リュカはのだめと出会ったあの頃の……何もできない少年のままで自分の時間が止まっているように思えるのだ。


どのくらいそうしていただろう。


のだめのしゃくり声がだんだん小さくなって……そしてゆっくりと落ち着いた息づかいに戻っていった。

「リュカ……」

のだめが顔をあげる。
その目は泣きじゃくりすぎたせいで真っ赤に腫れていた。

「ありがとうございました……おかげで落ち着きました……」

そう言って弱々しく笑う。
心配をかけまいとするその健気な姿がまたいっそうリュカの心を打つ。

「はうう……また、のだめ泣いちゃいましたネ。ずっとリュカにはみっともないところばかり見せてごめんなサイ」

そうしてのだめはぺこりと頭を下げた。

「……別に……そんなこと……」
「あっ!!」

のだめは急に思いついたように声を上げる。

「そういえば、千秋先輩が行ってしまいましたネ!!。きっとのだめが急に泣き出したからびっくりしてる筈デス。連れ戻さなきゃ……」

そう言ってドアを開けかけたのだめの手をリュカが掴んで引き止める。
そのまま凄い力で自分の方へ引き寄せ、もう一度彼女を強く抱きしめた。

「……リュカ?」

リュカはのだめを自分の胸に押しつけたまま離さない。

「千秋のことなんて……どうだっていいだろう……。今、のだめの前にいるのは僕だ」
「リュカ……」

そう言うとリュカは腕の力をゆるめ、のだめの顔を正面から見つめた。

「のだめ……僕を見てよ。
 千秋じゃなくて、僕を見てよ……。
 千秋は駄目だよ……わかってるんだろ?。
 あいつは君を傷つける……君が今までどんなに苦しい思いをしたか……どんなにつらい気持ちを抱えているのか……奴は何も知らない。
 もちろん知らせるつもりもない……」
「………」
「のだめ」

リュカは真っ直ぐにのだめを見据えた。

「……僕ならずっとそばにいてあげられる……のだめのためならどんなことでも受け入れる覚悟はある……」
「リュカ……」
「……ずっと好きだったんだ……コンセルヴァトワールで会った時から、今までずっと……」

のだめはただ呆然としたままリュカの真剣な目に捕らわれていた。

「だから、僕を見て。……ちゃんと僕だけを見て」
「………」
「僕はここにいるんだよ……君のすぐ前に!!」

のだめの頭は真っ白になって何も考えられなくなっていた。
あの幼く可愛らしかった少年が、成長して自分よりずっと背も高く肩幅も広いたくましい若者になっているのを……今初めて気づかされたような気がした。
のだめはリュカの深い蒼い瞳に自分の姿が映っているのをただずっとずっと見ているだけだった。
リュカが動いた。
ゆっくりと顔を近づけてくるのがわかる。
だけれどものだめは体が動けなかった。
蒼い瞳が彼女を縛り付けているかのように捕らえて離さない。

そして……その蒼い瞳がどんどん……どんどん……近づいて来て……。

唇に柔らかいものが優しく触れた。
その温かさをのだめは呆然と感じているだけだった。

ーと。

リュカの肩越しに、さきほどのだめが開けかけたドアの隙間に人が立っているのを見えた。
千秋だった。
のだめの目が驚きで大きく見開いた。
千秋はやはりのだめが気になって戻ってきたのだった。
リュカとのだめがキスをしている姿を、千秋はしばらくの間、ただずっと見ていた。
その表情は無機質で、何の感情も見受けられなかった。
……そして、ゆっくりとその姿を消した。







千秋はのろのろとした動作でポケットから自宅の鍵を取り出し、穴に差し込む。
その途端、鍵が開いていることに気づいた。
現在、この部屋の合い鍵を持っている人間はただ一人しかいない。

千秋はドアを開けた。

その音で彩子が気づいたように玄関に出迎えた。
上品で彩子らしいベージュのエプロンをしている。

「お帰りなさい……あ……」

異変に気づき言葉を詰まらせる彩子。

「……どうかしたのか?」
「ううん……ただ、真一の顔色がすごく悪いから……」
「……ちょっと疲れただけだ……今日はリハーサルだったから……」

そういうと千秋は靴を脱いで部屋へ入りソファーに深く腰掛けて目を閉じた。
彩子はそんな千秋を気遣うようにそっと声をかけた。

「……御飯は?ビーフシチューがあるけど」
「あ……いや……食べてないけど……今はちょっと……何も食べたくない……」
「そう……」

彩子は、そんな千秋の憔悴しきった顔を見つめた。

そして。

ゆっくりと手を伸ばし、立ったまま千秋の頭をふわっと胸に抱き込んだ。
そして、いい子、いい子とするように優しくそっと頭を撫でる。
千秋は彩子の突然の行為を不思議に思った。

「……なんだ?」
「傷ついた子供を慰めるのは……こうやって抱きしめて頭を撫でるのが一番なんだって……いつか本で読んだことがあるわ」

トクン……トクン……。
彩子の柔らかい胸から聞こえてくる心臓の鼓動はとても優しく千秋の心に直接響いてきた。
まるで生まれる前、母親の胎内に戻ったときのようなそんな気持ちになる。
暖かくて安らかで……とても懐かしい。
思わず涙がこぼれそうになるのを堪えながら、千秋は平然とした声を保とうとする。

「……俺は、子供じゃないぞ……」

彩子はふふっと笑った。

「……真一は子供よ。
 いつだって寂しがりやで、常に誰かにそばにいてほしくって
 ……いつまでも手にはいらない物ばかり求め続けていて……」
「………」

千秋はふとテーブルの上を見た。
その上に置かれている雑誌「クラシック・ライフ」はzephyrの特集ページが開かれていた。

彩子は……。

彩子はどうして俺がこんなに落ち込んでいるのか、その理由を知っているのだろうと思った。

トクン……トクン……。
彩子の胸の鼓動が、傷ついた千秋の心を少しずつ癒していく……。

「そうだな……」

千秋は言った。

「俺は……いつまでたっても子供のままなのかもしれないな……」

……父親に捨てられたあの時のままなのかもしれないと千秋は思った。

傷ついて、部屋の隅で膝を抱えて泣きじゃくっている子供。
誰かを失うのが怖くて。
誰かに捨てられるのが怖くて。

「そうよ……」

彩子の声が優しく千秋の耳に響く。
そして彩子はゆっくりと腰を屈めると、千秋の目を真っ直ぐに見た。
その柔らかい瞳はただ千秋一人だけに向けられている。

「……そして、私は真一のお母さん役なの」

そう言うと彩子は悲しそうに笑った。







「リュカ!!こっち、こっちヨ〜」

Ruiは薄暗いバーのカウンター席に座ったまま、入り口から入ってきた青年を呼んだ。
ゆっくりと近づいてくるリュカの姿が明確になるにつれて……Ruiは目をぱちくりとさせた。

「どうしたの?その顔」

リュカの顔には殴られた跡があり、青くあざになっていた。

「………」

Ruiはくすりと可笑しそうに笑う。

「まあ、なんとなく想像はつくけどネ」
「……想像がつくなら何も言わないでよ……」
「そっか〜」

Ruiはうんうんと頷く。

「なるほど……リュカはのだめサンに手を出して、ぶん殴られた訳だ」
「言わないでって言っただろっっ!!」

ムキになって怒るリュカにRuiはお腹を押さえて笑い出した。

「ゴメン、ゴメン〜。面白かったからつい」
「……ったく……」

リュカはむすっとしたままRuiの隣の椅子に腰を下ろした。
Ruiはメニューをリュカに差し出す。

「何か飲む?」
「……ウォッカをロックで」
「あのね〜ここは日本なのヨ。日本では20歳未満の未成年は飲酒禁止って知ってるでショ」
「関係ないよ。フランスでは17歳未満だ」

はいはいと諦めたようにバーテンダーを呼んで注文するRui。
やがて運ばれてきたグラスと、先ほどまで自分で飲んでいたマルガリータのグラスをチンと合わせる。

「とりあえず、デュオ初コンサート成功、おめでとう!」
「……来てくれてたの?」
「もちろんヨ。元パートナーとしては気になって当然でショ」
「楽屋に顔出してくれればよかったのに」
「うーん、そうしようと思ったけど、千秋が案内されて控え室に入っていくのが見えたから」
「………」
「なんだか面倒なことになりそうだって思って、ネ」

そうだったんでしょう…と言わんばかりに全てをわかっているような顔でRuiは微笑む。
リュカはむすっとしたまま注がれたウォッカを一気に飲み干した。

「ちょっと、あんまり調子にのらないでよネ。一応あなたは世界的に有名なリュカ・ボドリーなんだから。こんなところでスキャンダルになったりしたら困るでショ?」
「………」
「本来ならリュカの所属している大手の音楽事務所で、あなたみたいな新人に決定権なんてないはずなのヨ。
 それなのに、どうしてもガンとして『日本でのデュオはのだめとなきゃ駄目だ!!』なんて言い張ったんだって?。
 事務所としても期待の新鋭である貴方にはかなり考慮したものと聞いているヨ」
「………」
「だけど……今回のコンサートの成功で十分にあなた達は成果を見せつけたヨ。
 きっとzephyrの名前は世間に知れ渡る。
 ……それなのに、どうしてそんな浮かない顔をしているのかな?」

リュカは遠くを見つめながらポツリと呟いた。

「……のだめは千秋をまだ愛している」

リュカはグラスを揺らした。中に残っている氷がカラカラと音をたてる。

「千秋も、もちろんのだめをまだ愛している……それは僕にもわかってる」
「………」
「だけど、のだめは千秋に近づけない。
 一定の距離以上は近づこうとしない。
 ……『あの』事件のせいで、のだめは千秋に迷惑がかかるんじゃないかと恐れているんだ……」
「………」
「……もちろん、千秋とのだめは相思相愛なのかもしれない。
 だけど、千秋がのだめを一番に幸せにできるとは限らない。
     のだめが千秋を一番に幸せにできるともまた限らない」
「………」
「……そうだろう?」
「つまり」

Ruiはそんなリュカを見てため息をつくと言った。

「……自分なら、のだめサンを幸せにできる自信があるっていいたい訳ネ」
「………」

リュカはそれについては何も答えなかった。
その代わりこう問いかけた。

「Ruiはどっちの味方なの?千秋?それとも僕……?」
「……別にどちらでもないヨ」

Ruiはふっと微笑んだ。

「……敢えていえば、のだめサンの味方かな?」
「………」
「彼女には本当に幸せになってもらいたいもの……」
「………」

黙り込むリュカ。
そして、Ruiは立ち上がってバックを肩にかけた。

「じゃあ、ワタシ行くネ」
「……もう行くの?」
「中国公演のために明日はもう日本を発たなきゃ……準備もいろいろあるしネ」

それに相変わらずママがうるさいのヨ……とRuiは顔をしかめてみせた。
リュカはぷっと吹き出す。
Ruiに見せたその笑顔は一瞬だけ昔のように無邪気な少年のものに戻ったようだった。

「うん、わかった。今日は聴きにきてくれてありがとう。……久し振りに会えて嬉しかった」
「じゃあ、デュオ活動しっかりやるのヨ。応援してるからネ!!」

Ruiは出口の方へ歩いて行き出すと、急に立ち止まって振り向いた。

「……それから」

真剣な顔でリュカを見る。
リュカも黙ったままRuiを見返した。

「言っとくけど……人は誰かに幸せにしてもらうものなんかじゃないと思うヨ」
「………」
「……幸せっていうのは……自分自身で……自分の力で掴み取るものだヨ」
「………」
「……な〜んて、クサイ台詞かな?……じゃあネ!!」

そう言うとRuiは手を軽く上げると、カツカツとヒールの音を響かせながら店を出て行った。
……あとには唇を噛みしめ神妙な面持ちのリュカだけが残された。







トゥルルルルル……

電話が鳴った。
荷物を鞄に詰め込んでいた途中だったRuiは、慌てて電話に出ようとして……画面に出たその発信者に少し驚く。

「千秋?」

千秋は一瞬ためらったが、何かを決意したように携帯を持つ手に力を込めた。

「Rui……少し聞きたいことがあるんだ」






続く(written ハギワラ)