「チ アキ!お銚子がカラッポでーす!早くしなサーイ!」
 ハーイ、じゃあ〜次はアヤ メちゃん、野球拳しまショウ〜♪」

「おいジジイ!それくら いにしておけよ…。」
「チアキ!弟子のくせに師匠に指図するんじゃありまセー ン!」

「ね〜えミルヒー。この子まだセクハラの弟子だった の〜?」
「そうでーす。非常に優秀で才能あふれる弟子デース。」

「違 う!」

「あははー!やだぁ〜、セクハラの才能ってなぁに 〜?」
「まぁ、まだまだワタシの足元にも及びマセン!チアキはもっとこう、ワタ シのようにタッチを上手く…」
「きゃーやだー!ミルヒーのエッチー♪」

「だ から違う…!」





    不機嫌なマエストロ 第8話





「ちー あーきぃー…きぼぢわるいデス…」
「だから程々にしておけと言ったじゃないです か…。」

ま だまだ帰らないと駄々をこねるシュトレーゼマンを、ワン・モア・キッスから半ば強引に引っ張り出してタクシーに押し込むと、エリーゼから聞いているホテル へと連れ帰ってきた。シュトレーゼマンにはいつものように最上階のスイートが取ってあるのだが、驚いたことに俺の分まで予約が入っていた。
… もちろん、部屋は普通のシングルだが。
おそらく、初日はこういう展開になるだろ うと見込んでの手配なのだろう。
エリーゼの奴。
まっ たく、仕事が早いというか、嵌められたというか…。

「ぢー あーぎぃー…ジュース…。」
「はい?」

「マー メイド…飲みたい…。」
「はぁ?こんな時間にそんなもん作れるかー!」

「う うっ…なんて冷たい弟子なんでしょうネ…。」

はぁ、と大き くため息をつく。
とりあえずはシュトレーゼマンの上着を脱がせ、ソファにもたせ 掛けさせる。
これで我慢してください、とミネラルウォーターを手渡すと、ジジイ は少しだけ飲んだようだった。
上着や荷物を片付けながら、俺は特に考えることも 無く疑問を口にした。

「大体、どうしてまた日本に?」
「だ から言ったでしょう。ミーナに会いに、デス。あ、そうそう。のだめちゃんは元気ですカ?」

少 しの間、沈黙が流れた。

なんと答えて良いものか、正直迷っ た。
病気かどうかと言われれば元気には違いないが、今現在のあいつの置かれてい る境遇を考えれば元気というには語弊がある。シュトレーゼマンも日本に来たばかりで、最近のちょっとしたゴシップ騒ぎはまったく知るところではないだろ う。

どうしようか。
少 し迷ったが、しばらくここに滞在するようなら噂もいずれは耳に入る。
つまらない 尾ひれがつくよりも、俺の口から伝えておいた方がいいだろう、と判断した。

の だめの『zephyr』としての活動、ソロの活動、佐久間さんからもらったイギリス地方紙の記事。
そ してここ最近の、日本での無神経なゴシップ記事。
自分の知る限りの情報を、でき るだけ客観的にかいつまんで説明した。
正直、こんな酔っ払った状態のシュトレー ゼマンに話したところで、どこまでちゃんと伝わるのかと危惧したのだが、そんな心配をよそにシュトレーゼマンはぼんやりと遠くを見つめたまま、硬い表情で じっと俺の話を聞いているようだった。

「ふうん。…なるほ どネ。」

俺が一通り話し終わると、シュトレーゼマンはそう 言ってごろりとソファの上に横になり、何かを思い巡らすようにしばらく天井を見つめていた。
何 を考えているのだろうか。
もしかしたら…何か知っていることがあるのかもしれな い。
そんな淡い期待を抱きつつ、俺はマエストロの返答を待った。

「さ て、ワタシはもう寝マース。チアキはもう自分の部屋に下がって結構デス。」
「え?」

い きなりそう切り出されて面食らう。
何なんだ、まったく。
だ が…これで今日は放免されるのだからそれはそれで助かったことには違いない。

「チ アキ、おやすみデース。」

シュトレーゼマンはさっさとベッ ドに潜り込むと、さも早く出て行け、とばかりにシッシッと手を振って払いのける素振りをしている。シュトレーゼマンにもう何も話す気が無いことは明らか だった。

俺の話をちゃんと聞いていたと思ったのは錯覚だっ たのだろうか。
…仕方が無い。
お やすみなさいマエストロ、と声をかけて部屋の明かりを落とすと、
なんだか釈然と しない思いを抱えたまま俺は部屋を後にした。




 







「こ れはこれは、マエストロ。よくおいでくださいました。光栄です。」

先 日、スポンサーの多賀谷社長が訪問した際も、ここ新東響の事務所はいつに無く緊張した雰囲気に包まれてはいたが、今日はまた違った種類の張り詰めた空気が 漂っている。見渡してみると、スタッフや居合わせたメンバーたちの眼差しには、もれなく憧れや畏敬といった類の輝きが見て取れた。

「今 回は…休暇で来日されたとか?」
「そうです。たまには息抜きをしませんとね。あ まり煮詰まっていては音楽的な感性を鈍らせます。それに、私のカワイイ弟子の仕事ぶりを見ておかなくてはいけませんから。」
「お お、さすがは世界の巨匠。後進指導にも大変熱心でいらっしゃる。」

シュ トレーゼマンは軽快に笑って見せながら、やや緊張した面持ちのスタッフと談笑をつづけていた。

実 際のところはといえば…。
シュ トレーゼマンは桃が丘に行ってみたものの、理事長は例によって不在で(妹は居たが)つまらないつまらないと散々当たられた挙句に「チアキの新しい仕事場が 見てみたい」と急に言い出す始末だ。しぶしぶ俺が事務所に連絡を入れ、シュトレーゼマンをいきなり連れて行く旨を伝えると、電話越しにも事務所の人間の動 揺とバタバタが手に取るように分かった。

まったく、このジ ジイは相変わらずだ。
…いつになったらエリーゼは日本に来るんだ?

し ばらくの間、そうして事務所の人間と話をしていたようだったが、よろしければ今度是非うちで客演を…などというスタッフの営業をのらりくらりと受け流しな がら、じきにシュトレーゼマンは俺の元へと戻ってきた。

「チ アキ、なかなか頑張ってるようですネ。ま、私の弟子ですから当然デース。」
「そ れはどうも…。」


ふと、思い出したこ とがあった。
先日佐久間さんからもらった例の楽譜。
の だめが盗作“した”とされているあの曲。

…あの楽譜。
先 日この事務所に寄ったときに、ここに置いておいたままなのだ。

俺 がのだめの近況について話したときの、シュトレーゼマンの反応はやはりどこか不自然だった。
な んでもいい。
少しでも情報が欲しい。
そ れが僅かでもあいつの救いになるのならば。
もしシュトレーゼマンが何かを知って いるのなら、何とかして聞いておきたかった。

「マエスト ロ、実は見ていただきたいものがあるんです。」
「ほう、なんでしょう?あ、写真 集の新刊…それとも月刊『愛人』の最新号デスカ?」

「…違 います。楽譜です。」







一 応人目をはばかって、スタッフに空いているミーティングルームをひとつ借りた。
シュ トレーゼマンを招き入れると俺は椅子を勧め、そして例の楽譜を手渡した。

「こ れは…のだめの師匠であったクリストファー・バートン氏が活動休止直後に一部に発表したという新曲の楽譜です。…そして、先日お話したように、あいつが… のだめが盗作“した”とされている曲でもあります。」

受け 取った楽譜をじっと眺めたまま、しばらくシュトレーゼマンは動かなかった。
少し して、俺の視線に促されるように、ふう、と軽くため息をつくと、ジャケットの内ポケットから眼鏡を取り出しようやくページを捲りはじめる。音符を追うその 目は厳しくもあり鋭くもあり、また…どこか哀しそうな色を帯びているように俺には見えた。

「そ れで…?これがどうかしましたカ?」

「マエストロ。何か、 ご存知のことがあるのなら教えてください。俺は…」


部 外者の俺に何ができるのか…。
俺じゃなくてもあいつの傍には別の奴が…。
で も…。それでも…。
そんな風に堂々廻りをしていた自分はもう御免だ。


そ う。
俺にできること全てで、あいつを救ってやりたい。
そ う心に決めたのだから。



「俺 は…のだめの為に、できることは全て…してやりたいんです。」

俺 は、シュトレーゼマンの眼をまっすぐに見据えた。



目 の前の巨匠が、一体何を考えているのか、俺には良く分からなかった。
シュトレー ゼマンは時に軽く眼をつぶり、しばらく黙って天を仰いでいる。
再び楽譜に視線を 落としたかと思うと、じっと考え込むようにして動かない。
そんなことを何度と無 く繰り返しているばかりだった。

そして、ゆっくりと巨匠は 重い口を開いた。

「これは…いつ発表された曲デスカ?」

「2009 年の7月に、バートン氏の新曲として発表されています。」

「2009 年…ねぇ。…私はね、チアキ。この曲知ってますよ。」

「… えっ。」

かけていた眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭きな がらシュトレーゼマンは続けた。

「あれはいつ頃でしたかね え。1年…いや、ちょうど2年前くらいですかね。どこかのサロンコンサートで、この曲をのだめちゃんが弾いているのを見たことがありマス。」

「… なんですって!」

2年前…ちょうど2年前だって?
だ としたらそれは…2008年のこと…。
バートン氏作として発表されたのは 2009年7月…。

…その一年近くも前に、のだめが自分で 弾いていた?

やっぱり…のだめは盗作なんてしていないに違 いない。
盗んだのは、師匠の方だったのだ!
頭 に、かぁっと一気に血が回ったような感覚がした。
俺は興奮を抑えきれないまま シュトレーゼマンに詰め寄る。

「だとしたら、その曲はもと もとのだめのオリジナルなんじゃ!」

「うーん…まぁ、のだ めちゃんの作ったものなのかもしれませんねぇ…。」

だとし たら。
このシュトレーゼマンの発言は…。
の だめに対する盗作疑惑を一気に払拭できるほどの重大な意味を持つのではないか?
つ い、声が大きくなる。

「マエストロ!お願いします!あなた が世間に向けてそれを発表してくだされば…!」

そうすれ ば…。

あいつは…。
の だめは…。



「お 断りシマス。」

バサリ、と楽譜を机に投げ置くと、シュト レーゼマンは席を立った。

「私は忙しい身デス!そんなこと に付き合っている暇はアリマセン!」

「ど、どうして!」

こ れで…あいつを。
のだめを、救えるかもしれないのに…!
わ ずかな光を掴みかけたのに…!

だが、シュトレーゼマンの まっすぐな視線は、無情にも俺の希望を打ち砕いた。

「チア キ。自分の置かれている立場を理解していますか。」

「それ は…。」

「今は、キャリアを積むべき大事な時期です。自分 の立場をわきまえなさい。」

それは…分かっている。
人 の世話をしている場合ではないのは、十分に承知している。
与えられた仕事を、 チャンスを。
すべてを、全力でものにしていかなければならないのだ。

 ―― もっと音楽に没頭しなさい

巨匠の言うことはもっともだっ た。



「女にうつ つを抜かしている場合ではアリマセーン!」

ぴしゃりと目前 に指を突きつけられる。
でも。
の だめ…だけは。
俺にとっての、のだめは…。

シュ トレーゼマンだって、のだめのことは学生時代からずっと可愛がってきたはずだ。
ど うして?
何故だ?
ま るで、頭の中に熱い渦のようなものがぐるぐると廻って、上手く思考回路が働いていないようだった。
そ れでも俺は一縷の望みをかけて食い下がる。

「マエストロ は…今こうして苦しんでいるのだめを見捨てるんですか?」

「… 私には、どうすることもできません。」

「そんな…!あなた ほどの発言力がある方なら、いくらでも方法が…」

「…しつ こいですよ、チアキ。」



そ れきり、シュトレーゼマンは俺の目を見ることはなかった。




「… そうですか。」

「見損ないました、マエストロ。あなたがこ んなにも冷たい方だったとは…思いませんでした。…失礼します。」



俺 は机に投げ置かれた楽譜を取り上げると、巨匠に背を向けて部屋を後にした。
一気 に全身を駆け巡った血は、未だに頭の中でとぐろを巻いているような心持がした。







              「…ふう。困ったものですねえ。私の弟子は…。」





   **************************





「… だから、もう少しこのフレーズは大事に弾くようにして…。」

「……。」

「… のだめ?」


「のだめ?大丈夫?」

「… あ、はい。大丈夫です。すみません、リュカ。もう一度言ってもらってもいいですか?」



の だめは、取り繕うような精一杯の笑顔をリュカに向ける。
でもその瞳からは彼女ら しい快活な輝きが失われ、文字通り虚ろなものになっていた。

も ちろん純粋に音楽を評価してくれる観客や評論家はたくさんいる。
それでも、人々 の眼に無意識に映る現れては消える疑いの影と好奇の視線。
根も葉もない噂ばか り、根拠の無い嘘だと分かっていても、心無い誹謗中傷は嫌でも漏れ聴こえてくる。
努 めて明るく、気丈に振舞いちゃんと仕事をこなしているように見えても、それらが、じわじわとのだめを苛んでいることは明らかだった。

「今 日はもう遅いし、いいよ。続きはまた明日にしよう。のだめ、なんだか顔色も悪いし…。僕、家まで送っていくよ。」

「あ、 いえ。大丈夫です。」

「でも…。」

「リュ カ、ありがとうございます。せっかくですけど…ちょっと、一人になりたいんです。」

「そ う…じゃあ、気をつけてね。」

「はい。また明日。」

リュ カの心配そうな顔に別れを告げると、のだめは一人スタジオの出口へと向かった。
今 日も、いつものように裏口から人目を避けるようにタクシーで帰宅する。


タ クシーに乗り込み、ぐったりとシートに沈み込む。
考えないようにしていても、の だめの脳裏にはいつも同じ思いがぐるぐると渦巻く。
どうして自分はここまでやら なくてはいけないのか。
こんな生活がいつまで続くのか。


― どうして、デスかね?

―正直、ちょっと…疲れました…。


考 え始めると、きりが無い。
出口の見えない暗黒の箱の中で、脱出する方法も見出せ ない。
何の救いにもならない疲労ばかりが蓄積されていくように思えた。

だ から、できるだけ考えないようにしていた。

ピアノだけが救 いだった。
ただ無心に、ピアノに没頭することで、何とか自分を保つことができて いた。
それでも…限界を超えた心労は、もはやピアノや音楽に対する集中力すら奪 い始めたようだった。







マ ンションのドアを開け、なだれ込む様に部屋に入る。

部屋の 明かりをつけることも無く、ぐったりと床に座り込み壁にもたれる。
全身が鉛のよ うに重くなった気がした。
頭も、心も、思考も。

― このまま、溶けて…
―無くなってしまえたら…いいデスネ。

― そうしたら…楽ですかね…。








RRRRR…   RRRRR…



あ てもない思考を電子音に分断され、半分手放しかけていた意識が一気に戻ってくる。

部 屋の電話が鳴っていた。
重たい身体と意識を一緒に引きずるようにして電話まで 這っていき、受話器を取り上げる。


「も しもし…。」

  ――もしもし、…恵?


「… ヨーコ!どうしたんデスか?」

  ――最近、あまり電話ば かかってこらさんけんが、元気でやっとっと?

「あはは、が ばい元気ばい。ばってん、ちょっと忙しくて、なかなか電話できんかったとよ。」

   ――うんうん、そんならよかばってん、ちゃーんと御飯ば食べないかんとよ。

「… うん。」

  ――そろそろ、恵のとこんお米も海苔も無くな る頃やけん、また送ってやるばい。

「…うん、ありが と。待っちょるね。」

  ――そうだ、よっくんがまた新作 ギョーザ作ったばい、この間皆で試食したとよ…




床 に座り込み、膝を抱える。
温かい一言一言が、カラカラに乾ききって荒んだ胸にじ んわりと染み込んでいくような気がした。
硬くなった心が、優しくて温かい何かに ゆっくりと解されていく。

…こんな感覚は、いつ以来だろ う。
顔の真ん中、鼻の付け根辺りがジンジンと熱くなっていく。




   ――恵、仕事ば楽しかね?

「…うん。…がばい楽しか。」

 
 ―― そんならよかと。やけど、無理はしたらいかんとよ。

「……。」

「……。… うん。」




   ―― …あらあら、恵…。泣いとっとね?

「…ううん、全 然泣いとらんよ?」


抱えた膝は、ひん やりとした床にも負けないくらいすっかり冷たくなっている。

ポ タリ。
ポタリ。

両 の瞳からこぼれ落ちた水滴が、冷えた膝に温かな感触を伝える。
そんなつもりはな いのに、ほんのりと温かい雫はとめどなく頬と膝をすべり落ち続けた。



   ――恵…?
 
「… うん?」 



   ――生きとうと、ほんにいろんなことあるもんね。

「……う ん。」



  ―― いつでも、帰ってきんしゃい。ここは恵の場所じゃけん。

「… うん。」



   ――お父さんも、よっくんも、じいちゃんも、ばあちゃんも。

「… うん。」



   ――みーんな、待っとうよ。恵のピアノば、聞きたいけんね。

「… うん。…うん。…ありがとうね。」





そ うだ。
自分には、ピアノがある。

ピ アノがあるから。




― 前を向かないといけマセンよね。

―頑張れますよね。



カー テンを開け放したままの窓からは青白い月光が柔らかく注いでいて、暗い部屋の中を銀色に染めている。
壁 に体をあずけたままガラス越しに夜空を見上げる。
満月にはやや足りない、中途半 端に欠けた楕円形の月が見えた。


月 も、満ちるまではあと少し。






  **************************






俺 の元にシュトレーゼマンが送りつけられてから2週間ばかりが経った頃、ようやくエリーゼから来日する旨の連絡があった。結局、エリーゼが来るまでの半月の 間、俺が一人で巨匠の面倒を見たことになる。
当然ながら、俺は仕事以外の時間を ほとんどシュトレーゼマンに費やす羽目になっていた。
ジジイはというと、相変わ らずいつものとおりに好き放題振る舞い、キャバクラだなんだと飛び回っていた。

あ れから、俺はまたのだめの過去について少し調べ、頭の中を整理した。
2008年 の6月にコンヴァトを卒業したあと、オーストリアに移ってバートン氏に師事。
シュ トレーゼマンが2年前に聴いたというのだめの演奏。おそらく2008年の夏から秋にかけてのことだろう。
そ のあとリュカやRuiと再会して…。

2009年6月に、の だめとバートン氏の師弟関係は解消しているらしい。彼はそのまま療養生活に入ったという噂だ。
そ のすぐ後、2009年7月には例の曲がバートン氏最後の新作として一部に発表されている。

お そらく、それを知らなかったであろうのだめが、自分のリサイタルのアンコールでその曲を“自作曲”として弾いて『師の作品を盗作した』という批判を受けた のが…2009年9月…。


あの曲がの だめの作ったものであるということを、シュトレーゼマンが明言してくれれば…。
『盗 作』という濡れ衣を着せられたあいつを自由にしてやることができるのではないだろうか。
先 日、新東響の事務所でつい熱くなってシュトレーゼマンに詰め寄ってしまったことを、俺は少し後悔していた。
思 いがけない情報に興奮して、気持ちだけが先へ先へと突き進んでしまったようだ。
そ れでも、わずかに覗いた希望を俺は諦めてはいなかった。
もう一度、改めて…い や、シュトレーゼマンの気が変わるまで、何度でも頭を下げる覚悟でいた。


で も、あの日以来、俺と巨匠の間で再びのだめのことが話題に上ることは一度もなかった。










「ハー イ、チアキ。しっかりフランツの弟子やってたかしらー?」

シュ トレーゼマンの滞在先にやってきたエリーゼはバカンス帰りなのだろうか。
見るか らに、ずいぶんと機嫌が良さそうだった。

「エリーゼ…お前 が俺に押し付けたんだろう?」

「巨匠の元で勉強ができてよ かったでしょ。まぁ、今度いい仕事があったら、しょうがないからチアキに回してあげるわよ。」

「あっ、 エリーゼ。ワタシは今日も、チアキとワン・モア・キッスの約束をして…」

「い いえ、マエストロ。少なくとも1回は日本で振っていただきますからね。さ、仕事してください!」




「ま、 待ってください!」

ゆっくりとシュトレーゼマンが振り返 る。
これが…最後のチャンスかもしれない。
握 り締めた両の拳に、思わずぐっと力が入った。

「待ってくだ さい。マエストロ。例の、のだめの件…考え直してはいただけませんか。」





俺 は、シュトレーゼマンの目前で床にひざまずき、頭を下げた。

「ど うか…お願いします。」




桃 が丘で出会って、飛行機に乗れるようになって、二人でパリで暮らして…。
のだめ と過ごした、かけがえのない時間。

のだめ…。

こ れまで、数え切れないくらいの大切なものを…俺はのだめから受け取っていた。
大 切な、大切な存在であったあいつから、たくさんの大事なものを…。

あ の日。
二人の仲を、俺のこの手で、壊してしまうまで…。

今 こそ、俺は。
あいつに、のだめに…報いる時なのかもしれない。
で きる限りの…恩返しを。





「お 願いします。…何とかしてやりたいんです。」

俺は、もう一 度頭を下げた。






少 しの間、沈黙が流れる。

ふう、という深いため息と共に、い いから掛けなさいという小さな声が聞こえた。
俺はその言葉に従ってのろのろと立 ち上がり、一番手近なソファに腰を掛ける。
いつの間か、巨匠は向かいのソファに 深々と体を沈めていた。






再 び、沈黙が支配する。
固まった空気をゆっくりと解すように、シュトレーゼマンが 静寂を破った。

「いいですか、チアキ。…これは、のだめ ちゃん自身の問題です。」

シュトレーゼマンは、噛んで含め るように、諭すように、柔らかい口調で続ける。
その目には、優しさと、少しばか りの哀しさが浮かんでいるようだった。

「誰かがナイトと なって…魔法のように彼女を救い出せるわけではアリマセン。結局は、のだめちゃん自身が乗り越えていかなくてはならないのですから。」

厳 しい言葉だった。
でも、正しい言葉だった。
俺 は素直に頷き、シュトレーゼマンの言葉に心から耳を傾けた。

「そ れでも、のだめちゃんが再び一歩前に踏み出すことができるように…お手伝いしてあげたいとは思いますよ。でも…。確固たる証拠もないままに周りがいろいろ と口を出せば、かえって事態はこじれる。騒動はより拡大し、憶測は憶測を呼び…結果的に…のだめちゃんが一層傷つくだけです。…分かりますね、チアキ。」

「… はい。」

シュトレーゼマンは、ふう、と再び軽いため息をつ く。

「あの日…私がのだめちゃんの演奏を聴いたという話で すけれどね。多分あれは…2008年の夏でしたよ。のだめちゃんが卒業して、すぐの頃デショウネ…。」

シュ トレーゼマンは話しながらソファにもたれて胸の上で手を組むと、遠い記憶を手繰り寄せるようにゆっくりと目を細めた。それから、宙に向かって懐かしそうに 微笑む。

「相変わらず、いい意味でのだめちゃんらしい素晴 らしい演奏でしたよ。…あの曲、チアキが持ってた楽譜の曲ですね。あれは特に良かった。内面の熟成が感じられるというかね…。」


 
「で もねえ…。」

シュトレーゼマンの表情が曇る。

「何 の確証もありませんからね。私がその日、のだめちゃんの演奏を聴いたということは…。」


あ あ…そういうことか。
何の証拠もないのだ。
下 手に口を出せば、火に油を注ぐようなもの。
それに、シュトレーゼマンとのだめの 間に親交があることは、音楽関係者なら知っていてもおかしくない。のだめを庇っていると邪推する人間もいるだろうし、バートン氏他その関係者と、シュト レーゼマン側との関係をも壊しかねない。
極力波風を立てることなく、事態の沈静 化を図ること。
それが一番大事なことなのだ…。

「… 私が“のだめちゃんの演奏を2008年の時点で聴いていた”という事実を客観的に証明できるものがあればね。…何か、方法はあるかもしれませんけどね。」

や はり、確実な証拠があれば何か突破口が開けるかもしれない。
何か…あるだろう か?
でも、そんな都合のいいものがあるとは思えない。
シュ トレーゼマンは続ける。

「ただし、それが上手くいくかどう かは…それがのだめちゃんの助けになるかどうかは…保障できませんよ。あとは、のだめちゃん次第です。」

の だめ次第…。
マエストロの言葉が、俺の胸に深く刻まれたような気がした。
昔 も、今も、そしてこれからも。
のだめも、俺も、誰であっても。
自 分自身の力で前に進んでいかなければならないのだ。

それで も。
それでも、のだめの助けになるなら俺は出来ること全てをしてやりたい。
… 時には、自分の足だけでは進めなくなることがあるのだから。
そんなときにいつ も、手を差し伸べてくれたのは。
優しく手を引き、導いてくれたのは。

他 でもない。
かけがえのない存在だった、あいつ。

だ から、今度は。

俺が、のだめの為に。





「私 にだってね。」

そう言うと、マエストロは俺に向かって哀し そうに微笑んで見せた。

「…チアキと同じように、のだめ ちゃんを助けてあげたいという気持ちはあるのデスヨ。」









「ね え、さっきから聞かせてもらってるけど…。」

ふいに、エ リーゼがビーフジャーキーを齧りながらこちらに向かって声を掛けてきた。

「2008 年8月。…えーっと、ノダメチャン?でしたっけ、マエストロ?その子のサロンコンサートにお忍びで行かれましたよね?私が止めるのも聞かずに…あの日は本 当はアメリカに飛ばなければならなかったのに、フランツがどうしてもと言って聞かなかったんですからね!『このサロンコンサートに行けないのなら、今度の ベルリン・フィルの客演は振らない!』とか言い張って…」

まっ たくフランツは…とブツブツと愚痴をこぼしながら、エリーゼはシステム手帳をぱらぱらとめくっている。

「さっ きから、確実に聴いていた証拠がどうのこうのって騒いでいるようだけど?その日は確か…そうそう。“8月18日。マエストロ極秘密着取材。撮影スタッフ オーストリア同行”この日はね、実はこっそりとテレビの取材を付けてたのよ、フランツに。」



… 何だって!?

今、何て言った!?

撮 影…?
テレビの取材…?

ち らりと巨匠の表情を窺うが、シュトレーゼマンも全く知らない情報だったようで呆気にとられている。



「ちょ うどその頃、日本のTV局からドキュメンタリー仕立ての番組オファーがあってね。『ぜひマエストロの飾らない日常を!』っていう製作サイドの希望で、半年 くらいかけてフランツに密着取材を付けてこっそり隠し撮りしてたの。…でも、もちろん取材の件はフランツには内緒だったものだから、いつもどおり遊んでば かりで…ダメね、全然!…まあ、結局は番組もボツになってお蔵入りってわけだけど。」

ちょ… ちょっと待てよ?
嫌でも鼓動が早くなる。
と いうことは、もしかして…。

「映像が…残っていたりするの か…?」

エリーゼはジャーキーをまたひと齧りすると、こと もなげに答えた。

「そうね。…あるんじゃない?」







「… で、それがそんなに大事なものなわけ?」





  **************************






ま だ夕暮れ前だというのに、もうずいぶんと薄暗い部屋の中は、目に見えるほどの埃っぽさとすえた黴の匂いで充満している。
俺 とエリーゼは、例の極秘密着取材を行ったという△△TV局のフィルム倉庫に来ていた。

「フ ランツはね。何かにつけて『ノダメチャン』と言って、ヨーロッパに行くと暇を見つけては彼女の小さなコンサートなんかによく足を運んでたのよ。」

エ リーゼは軽く部屋の中を見渡しながら言った。

「何 でかはよく分からないけれどね。彼女のこと、心配していたみたいでいろいろと気にかけていたわ。…あ、例のドキュメンタリー番組はお蔵入りになったけど、 あの映像自体は巨匠の秘蔵プライベート映像ってことで、死後高く売れるかもね。フィルムが見つかったら大事に扱いなさいよ?」

「お い…。」

「さ、どうぞチアキ。明日いっぱいまで自由に探し ていいとの許可をとってあるから、思う存分、気の済むまで探しなさいね。じゃ。」

「え! 俺一人で?」

だだっ広いその空間は、見渡す限り棚で埋まっ ている。棚の中には、びっしりとフィルムらしきものが納められているのだが、あるものは無造作にダンボールに放り込まれ、またあるものは適当に横積みにさ れていたりと、決して整理整頓されているとは言いがたい。

「は? 当たり前じゃない。他に誰が?」

…それはそうだ。
結 局は俺が言い出したことなのだから。

「それじゃあね、せい ぜい頑張りなさい。」

カツカツとヒールの音を高く響かせる 背中を見送ると、俺は改めて部屋の中を見回してみる。
部屋の片隅に簡易デスクと 椅子、その上に確認用の再生デッキのセットがぽつんと置かれているくらいで、あとの空間は全てフィルムで埋め尽くされている。

こ れは…大変だな。
はぁ、とひとつため息を落とすと、とりあえず一番手元のフィル ムを手に取り眺める。
棚の中は一応、年代順に並べて収められているらしい。
ま ずはのだめが卒業した2008年から、バートン氏が例の曲を発表したとされている2009年にかけてのフィルムを全て当たってみるしかない。それだけでも かなりの量だ。

でも、やるしかない。
今 の俺にできる全てを、あいつの為に。

気が遠くなるような フィルムの山を前に、そう誓った。








ど れくらいの時間が経っただろうか。
さっきまで夕暮れに赤く染まっていた空は、 すっかり闇に沈んでいるようだ。
夢中になっていたためか、時間の感覚もとうに無 くなっている。
しばらくぶりに腕時計に目をやると、夜の11時を回っていた。

俺 は床に座り込み、ほう、と一息つく。

「はぁ…。エリーゼの 奴…本当にそんな映像があるのか?」

2008年と2009 年のフィルムはざっと探したが、それらしきフィルムは見あたらなかった。
大体、 フィルムに記入してあるタイトルと中身の映像が一致しているという保障は無い。
タ イトルが書かれていないものさえある。
こうなっては、一つずつ再生して映像を確 認するしか…。

とりあえず、今見た2008年、2009年 のフィルムの中身を一つ一つ再生して確認する。
それでダメなら、年代順に整頓さ れていない横積みのフィルムに見当をつけて再生してみる。
それでも無ければ…周 囲の年次に紛れている可能性も考えて…。

ため息。

で も、やるしか…ないよな。

これが…こんな証拠を探し出すこ とが、本当にのだめの為になるのだろうか。
これで、のだめが少しでも救われるの か。呪縛から解き放たれるのか。
正直、分からない。
そ れでも。


  ――これは、のだめちゃ ん自身の問題です


それでも。
何 とかして、手助けしてやりたい。

そう純粋に思う気持ちは、 俺も、あのリュカも…変わらないのだ。
しかもリュカは…かつてオーストリアでの だめが例の盗作事件に巻き込まれ、あいつが苦悩する姿をずっと間近で見続けてきたはずなのだから。


『誰 が』であっても構わない。
あいつの…のだめの…苦しみを少しでも取り除くことが できるのなら。

…何とかしてやりたい。





こ の倉庫部屋には、申し訳程度の大きさしかない明かり取り用の高窓がある。
そこか ら月光が注いで、部屋の床の一部分を銀色に切り取っていた。

俺 は床に座ったまま、近くの棚に頭をもたれさせて高窓の外を眺める。
満月にはやや 足りない、中途半端に欠けた楕円形の月が見えた。

軽く頭を 振って立ち上がると、俺はフィルムの映像を一つ一つ確認する作業に取り掛かった。




月 も、満ちるまではあと少し。





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ジーッ と、フィルムの再生される音がやけに耳に響いた。




趣 味の良い磁器や絵画が飾ってあり、家主の感性が窺われる立派なサロン。
アーチ型 の豪奢なフランス窓の前には、一台のグランドピアノが置かれている。
ピアノチェ アに座っているのは、やや幼い雰囲気を残した栗色の髪の東洋人の女性。

喜 びと哀しみの入り混じった表情を浮かべた瞳を、そっと閉じる。
ややあって、おも むろに眼を開けると、そっと指を鍵盤にのせた。







「… あ…あった…?」

鼓動が早くなる。
目 の前のモニターには、紛れも無く…。
小さなサロンコンサートのような舞台で、思 いのままにピアノに指を走らせる、のだめ。
弾いているのは…あの、例の曲だっ た。

秘めた想いが溢れ出て、聴く者の胸に鈍い痛みを思い起 こさせるような、哀しい。
それでいて、喜びと充実感で満たされた幸福の感覚も呼 び起こすような甘美な調べ。

 
   ――のだめのパリでの思い出が詰まった曲です…


そ こにいたのは、かつての、俺の知っている…昔のままののだめ。

そ して、シュトレーゼマン。
シュトレーゼマンは撮影されていることに全く気がつい ていない様子だった。
客席の最後尾、一番端の椅子にひっそりと腰掛けて、のだめ の様子を柔和な表情で見つめている。

それはまるで…。
目 を細めて可愛い孫を見守るように優しく、温かな眼差しだった。



「こ れ…これだよな…!?」



再 生機材にかけた手が、こころなしか震えた。
足元には、中身を確認しては投げ捨て たフィルムの山ができていて、俺はその中に埋もれるようにしながら座り込んでいる。
延 々と映像を見続けたおかげで、正直、視界もかすんで朦朧としていた。

そ れでも。
俺の眼は画面の中ののだめに釘付けになったまま離れようとしなかった。


見 つけた…。
本当に…?!

本 当に、あった…!


張っていた心の糸が 一気に弛緩したような、それでいて温かな、安堵の気持ちが胸にじわじわと広がっていく。
こ れであいつが…。
少しでも楽になるのなら…。
あ とはもう、シュトレーゼマンに全てを託すしかない。
きっと…悪いようにはならな い。
そんな気がした。

全 身を、急激に疲労感が襲う。
掛けていた簡易デスクの上に、俺はドサリと突っ伏し た。

そういえば…。
今、 何時なんだ…?
水分は一応採ってはいたものの…腹、減ったな…。



銀 色の月明かりは、いつの間にか眩しい早朝の光へと姿を変えている。
起きたての小 鳥のさえずりが、初秋の爽やかな空気に響いていた。






  **************************






俺 は探し出したフィルムをエリーゼに預け、全てをシュトレーゼマンに託した。

し ばらくは情勢に何の変化も見られなかったが、半月ばかり経ったころ事態は急激に動き出した。
ちょ うど、いつまでも続くと思われた残暑はすっかり鳴りをひそめ、空気は目に見えて冷たさを増している、そんな時候だった。たまの木枯らしが本格的な寒さの到 来が近いことを雄弁に物語っていた。




“…… かねてより、かつての師匠の作品を盗作したのではという疑惑が持たれていたが、バートン氏の新曲として発表された2009年以前に、すでに彼女が同曲を演 奏した事実があるという経緯も明らかになった。また同時に、音楽業界における世界的権威が彼女の盗作疑惑を完全に否定する確かな声明を発表したことなども あり、結果としては彼女とクリストファー・バートン氏が師弟関係にあった2008年から2009年にかけて、両名による合作として誕生した曲であるという のが事実のようだ。また、国内外含め他の音楽関係者からも、不要な混乱を避け早急な事態の収拾を望むという要請が多く出されて……”


俺 は、読んでいた週刊誌をテーブルに放り投げてソファに沈むと、煙草に火をつけた。
ど うやら、大方の論調としてはのだめとバートン氏の合作ということで落ち着いたようだった。
お そらくはエリーゼが上手く立ち回るか何かして、そう受け取られるように根回しした結果なのだろう。
の だめ一人の完全なオリジナルだとしてしまえば、当然メディアの興味はバートン氏へ向く。
そ して、今度は被害者としてののだめに注目が集まってしまう可能性もある。
…極力 波風を立てることなく、事態の沈静化を図る。それが至極最もな選択肢だろう。

俺 は、シュトレーゼマンとエリーゼに感謝した。



こ れらの一連の動きを受けてか、その日以来メディアは段々と大人しくなった。
そし て、半月も経つとすっかりのだめの事件は俺の耳に入らなくなっていた。

世 間の興味が移ろいやすいのか。
すでに面白みを欠いたスキャンダルにいつまでもこ だわっているほどメディアも暇ではないのか。
はたまたこれ以上の混乱を避けるべ く、ゆきすぎる報道に対して何らかの圧力がかかったのか。
あるいはどれも本当の ところなのかもしれない。


…のだめ。
あ いつ…今、どうしてるんだろうな。

どんな気持ちで、これま での日々を耐えてきたのだろう。
そう思うと、胸が締め付けられるような心持がし た。
事態が幾分収束したことで、少しでもあいつは救われただろうか。
少 しでも、心の平穏を取り戻すことができただろうか。

   ――これは、のだめちゃん自身の問題です

自らの足で立ち上 がり、また目の前の壁に挑戦し続けていくあいつの力を心から信じて祈る。
もちろ ん、他に俺があいつの為にやってやれることがあれば何でも…。

火 のついた煙草を灰皿に置くと、傍に転がっていた携帯を手に取る。
俺が夏に新東響 のデビューコンサートを成功させた日、あいつはメールをくれたんだった。
そして それからも…会うことはもちろん、連絡さえとることはなかった。

俺 たちは音楽で繋がっている。
でも今は、二人を繋ぐのは音楽だけだ。
た だ、音楽だけ。

でも…それでも。
   





― のだめ…。


…会いたい。


会 いたい。
会って…俺が、この腕で。
あ いつを抱きしめてやることができたら…。

のだめの番号を呼 び出すと、発信ボタンに指をかけて逡巡する。
また、あいつは困った表情(かお) をするだろうか。
俺の想いは、あいつの負担になるのだろうか…。

し ばらくのだめの番号をじっと見つめていた。

俺はボタンから 指を離して携帯を閉じると、ソファにどさりと横になった。






RRRRR…   RRRRR…


「!!」

俺 は驚いて飛び起きる。
着信のディスプレイには、『野田恵』の表示が光っていた。





  **************************





「お 仕事とか、いろいろ忙しいのに呼び出してしまって…スミマセン。」

「い や、別に。…今はそんなに忙しくないし。」



「何 だか、会うの久しぶりデスね。」

「…ああ。そうだな…。」


「……。」

「……。」



「ど うした?」

「あ、え…えと。」

「何 か、話があったんじゃないのか?」

「…はい。…この間、ミ ルヒーに会いました。」

「……。」



「そ れで…千秋先輩に、お礼を言っておくように…って…。今回の騒動で、千秋先輩がのだめのことをとても心配してくれていて…いろいろ、助けてくれたんだっ て…ミルヒーが、そう言ってました。」

「別に、俺は何もし てないから…。まぁ…心配はしてたけどな。」

「ご心配お掛 けして、スミマセンでした。ありがとうございました。」

「あ あ。」



「それ と…。だから、千秋先輩にも見ていただきたいものがあるんデス。」

「何?」

「… これです。先週、届きました。」

「…手紙?」

「… はい。」





   =============================
 

      親愛なるメグミへ


   この ような、手紙という形でしかお話できないこと、お許しください。    
    お元気ですか、メグミ。久しぶりですね。
   あなたと最後に会ったのは、いつ のことだったでしょうか。
   あれからしばらくはオーストリアに居を置いてい ましたが、
   私は今、自身の故郷であるイングランド、ケント州の小さな田舎 町で
   私を支えてくれる妻と二人、療養生活を続けています。

    このたび、こうしてペンをとったのは他でもありません。
   メグミのかつ ての先生である、オクレール氏から連絡をいただきました。
   そしてあなたが 今、故郷の日本でどんなに辛い立場に置かれているかも聞きました。
   何故、 オクレール氏が遠く日本にいる今のメグミの動向をご存知だったのかは…
   私 には分かりません。
   でも、これは私の想像ですが、メグミの周囲にはきっ と、いつもあなたのことを
   心から心配し、支え、見守ってくれる立派な方々 が多くいるのでしょう。 
   あなたにはそんな、人を惹きつけてやまない素晴 らしいオーラがあります。
   ですから、もしかしたらその方たちの中の一人が オクレール氏に連絡を
   取って下さったのかもしれませんね。
    
   私には、あなたに全てをお話しする義務があると決心しました。
    そうは言っても、あなたは私の言葉など聞きたくもないかもしれません。
    もちろん、分かっています。全ては言い訳だと思われても仕方がないのです。
    それでも、ここに嘘偽りのない事実を書き記すことをどうぞお許しください。

    あれは、メグミが私の元で勉強するようになってからしばらくのことでした。
    あなたが『自作曲だ』と言って弾いていたあの曲。
   私は初めて聴いたと き…本当に素晴らしいと感じました。
   心の奥底をぐっと掴まれるような悲痛 な叫びと、無償の愛とでも言うような
   慈愛に満ちた眼差しが、絶妙なバラン スで混在している…そんな印象でした。
   確かに勉強が足りない部分や、作曲 という技術から見ればまだまだ荒い部分も
   あったことは確かですが、磨いて いけばとてもいい曲になると確信したのです。
   ですから私はその時『作曲の スキルを教えよう』という旨の発言をしたように
   記憶しています。
    ですから、当時の私の気持ちとしては、勉強を兼ねて一緒にあのメグミの曲を
    ひとつの完成された作品として仕上げるつもりでした。
   もちろん、メグ ミの作品として。
   
    でも私は同時に…あなたのその溢れるような才能に嫉妬していたのかもしれません。
    実は、その頃の私は、どうしてか以前のようにうまく音楽を生み出していくことが
    困難になっていたのです。
   その上、ちょうど映画音楽などにも携わるよ うになっていた時期だったこともあり、
   自身の納得のいくものを作り出せな いというジレンマと、相反するように高まる
   周囲の過度な期待に、私は徐々 に精神の安定を欠いていきました。
   いつも焦りに追い立てたれ、動悸が激し くなり、何か得体の知れないものに
   押しつぶされるような圧迫感を、常に感 じるようになっていたのです。 
   メグミの曲を聴いてしまった私はだんだん と…この曲が私のものだったら
   どんなに素晴らしいだろう、と考えるように なりました。
   今思えば、私はメグミの勉強を見るという口実を盾に自分の心 を騙し、
   まるで自分が、自らの手であの曲を作り上げていく様な錯覚に陥っ ていたように思います。
   
    正直に言えば、当時の私はすでに自分自身の心が分からなくなっていました。     
    そのような精神状態でしたから、じきに自らの音楽活動も立ち行かなくなり、
    何人かいた弟子は皆、あなたも含めてすべて師弟関係を解消させてもらいました。
    何より、私はメグミのあの曲を、作業半ばで手放さなくてはならない…。
    もはやその時の私にとっては、あの曲だけが心の拠り所でした。
   決して自 分のものではない。メグミのものだと分かっていても。
   あの曲が私の手の届 かないところに離れて行ってしまうのが耐えられなかったのです。         
    
   もちろん、他意があったわけではありません。
    師弟関係を解消し、あなたが私の元を去って行った後も。
   私は、自身の 心の安定を図りたい一心で、メグミの楽譜の写しに自分で手を加えていったのです。
    私はまだ自らの手で音楽を生み出すことが出来るのだ、という虚構に逃げ込むだけのために。

    マネジメントを一手に担っていてくれた、スティーブを覚えていますね。
    彼は私の活動休止以降も、あれこれと私の書類や手続きなどの雑務を
   引き 受けてくれていました。
   私はしばらくのあいだ、メグミの曲に没頭すること で体調もそれほど悪くなく過ごしていました。
   作品としてもいい出来になっ たと感じられるほど、その出来栄えには満足していました。
   その曲の楽譜を 眺めては、ピアノでフレーズをさらっては、気分も落ち着くのです。
   私はそ れで、満足でした。
   そして図々しくも、『メグミの方はあれから、一体どん な風に仕上げてくれたのだろう』
   とさえ思ったりもしたのです。
    
   そう…運命のあの日までは。
    
   無造作に放置しておいた私がいけなかったのです。
    スティーブは、音楽についてはまるで疎い男でした。ですから、気がつかなかったのです!
    彼が…スティーブが…あの楽譜を。私が持っていた、メグミの曲を!
   私 に断りもなく、『バートン先生の新曲だ!』と言って公表してしまったのです!
    スティーブも、私の活動休止には大変心を痛めていたことを知っています。
    ですから、置いてあった見慣れない楽譜を発見したときには大変興奮して、つい性急な行動を
    とってしまったのかもしれません。
   …ですが、私がその事実を知ったと きにはすでに手遅れでした。
   クリストファー・バートン最後の新曲、などと いう触れ込みで、一部の
   音楽関係者に発表されてしまったあとだったので す。

   私は、激しく後悔し、ひどく自分を責めました。    
   あの曲が本当に自分のものとして認知されるようになってしまった現 実と恐怖、
   そしてあなたに対する負い目に苛まれ、私は平常心を保つことが 一層困難になりました。
   心は乱れ、悪夢にうなされ、私の全てが呪われた闇 の中に沈み込んでしまったようでした。
   私は振り切るように一切を捨てて、 完全に療養生活に入りました。
   しかしそれも、結局は現実から目を逸らすこ とで、逃げていただけだったのでしょう。
   今になって考えると、そのように 思うのです。

   あなたの心を深く傷つけ、あなたの人生 を狂わせてしまった。
   すべては、私の弱い心が招いた結果なのです。
      
      
    メグミ、どうかこれだけは分かってください。
   私はあなたの輝かしい未 来に傷をつけるつもりなど全くなかったのです。
   今となっては何を言っても 取り返しのつかないことかもしれません。
   本当に、申し訳ないと思っていま す。心からお詫びします。

   いくら謝罪したとしても私 の罪が消えることはありません。
   もちろん、あなたがこんな愚かな私を許し てくれるとは思っていません。

   この手紙をあなたに送 ろうと決めたときから、どんな覚悟もできています。
   手紙の内容はしかるべ き筋に提出していただいても、どんなメディアに公開していただいても
   構い ません。どうぞ、メグミの思うようにしてください。
   それで、あなたの今後 の活躍に少しでも力添えができるようであれば本望です。
  
    どうぞお体を大事になさってください。
   微力ながら、メグミの幸せを心 よりお祈りしています。

   
                         
                     心をこめて  

                       クリストファー・バートン


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「こ の手紙、俺なんかに見せてよかったの?」

「いいんです。… 先輩には…本当のことを知っていてほしいんです。」



「こ れ…公表するのか?」

「いいえ。しません。これは…バート ン先生がのだめ宛に書いてくれたものですから。」

「…そう だな。」

「はい。」



「の だめは、バートン先生を信頼してました。それは今でも、変わりません。」

「… うん。」




「で も、お前にとって…とても大事な曲なんだろ?あいつ…リュカって奴が、そう言ってた。」

「…… はい。」

「いいの?」

「… はい。いいんです。」




「の だめの中では、今も、これからも、…ずっとずっと大切な曲ですから。」



そ うはっきりと言って夕日の中で微笑むのだめは、かつての屈託のない晴れやかな笑顔には幾分及ばないものの、俺には日本に帰ってきてから見たあいつの笑顔の 中で一番輝いて見えた。







続 く。(written by レベッカ)