ス
ポットライトが当たるステージ。
横向きに向かい合わせに配置された2台のグランドピアノ。
2台目のピアノは反響
盤が1台目と反対方向に向いてしまうため、2台目の上蓋を取り外してしまっている。
あらかじめ本番と同じ空調の温度、スポットライト
の設定で長時間ピアノをなじませ入念に調律されてはいるが、それでも必ずしも2台のピアノの調律は完全には一致しない。
ここで2人の
たぐいまれないピアニストがお互いに音だけを持って対話をするのだ。
相手の音楽に耳を傾けそれに充分に応える。
個
性をいかしながら主張しお互いを高め合い、尊重しながら融合し一つの音楽を作り上げるのだ。。
しん…と
静まりかえった会場の舞台に本日2人の弾き手が現れる。
一人はリュカ・ボドリー。
期待の新鋭として世界から高く
評価されている彼は、黒の燕尾服を身にまといCMで見せる姿とは違うフォーマルな姿に会場内の女性からため息が漏れる。
そして、もう
一人は野田恵。
その姿が現れ出た瞬間、場内が一瞬どよめいた。
いつもの跳ねるような栗色のボブカットはそこには
なく、黒色の長い髪が歩く度に神秘的にさらりと流れる。
色鮮やかな深紅のドレスを身にまとったのだめは、今までの彼女とはまるで別人
の様だった。
匂い立つような色気と東洋の神秘的な雰囲気。
金髪で輝くようなオーラを持ったリュカとは実に対照的
で。
「ほう……」
千秋は隣の席でシュトレーゼマンが思わず声を漏らす
のを聞いた。
舞台の上手のピアノ傍らにのだめが立ち、下手のピアノの傍らにリュカが立つ。
2人がそろって一礼を
すると会場内に割れるような拍手が鳴り響いた。
そしてそれぞれの席につく。
互いのピアノの上を通って2人の視線
が熱く絡み合った。
そして曲が始まる……。
不
機嫌なマエストロ 9-2話
バッ
ハ 2台のチェンバロのための協奏曲第1番ハ短調BWV1060
ヨ
ハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)。
18世紀に活動したドイツの作曲家である。「近代音
楽の父」と称される巨匠。
その作風は、通奏低音を基礎とした和声法を用いつつも、根本的には対位法的な音楽であり、当時までに存在し
た音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。
バッハの時代には、ピアノはまだ普及するにいたっておらず、
彼のクラヴィーア(オルガン以外の鍵盤楽器の総称)作品は、概ねチェンバロやクラヴィコードのために書かれたものとされている
チェン
バロとは、現在のピアノの前身のようなものでバロック音楽において幅広く用いられ、ピアノの発展とともに人気が衰えたが現代音楽においても主に独特の音色
のためにしばしば用いられている。
チェンバロとグランドピアノはどちらも同じ鍵盤を持ち、外見も似ていたて、どちらも金属製の弦が振
動して音が出る楽器である。
ピアノではフェルトで被われたハンマーが弦を叩く打弦楽器。これに対してチェンバロでは、プレクトラム呼
ばれるの小さなツメが、弦をはじく撥弦楽器。
チェンバロは音量が小さく音に強弱の変化がつけられないので、現在のように大きなホール
で演奏する時はピアノを使うのが一般的である。
バッハの音楽は対位的な構造が非常にしっかりしているので他の楽器に移し替えやすく、
鍵盤曲として非常に優れている。
この協奏曲の原曲は現存していないが、「オーボエとヴァイオリンのための二重協
奏曲」であろうという説が有力である。
バッハは自分が以前に作曲した協奏曲のほとんどをチェンバロ独奏の協奏曲にアレンジし直してい
て、その中にはオリジナルの楽譜が残されているものもあれば、残されていないものもある。
研究者たちは編曲版であるチェンバロ協奏曲
の楽譜を調べ、もともとは何の楽器がソロを受けもっていたのか推測。
原曲の独奏楽器の旋律がそれぞれのチェンバロの右手のパートに移
し替えられているのだが、第1チェンバロの右手は音型が細かく跳躍なども多い上弦楽器的な音型が現れるのに対し、
第2チェンバロの方
は、旋律がずっと伸びやかでいかにも管楽器を思わせる。
しかも、幾つかの旋律について、両パートの間で交換が行われないのは、これら
の2つが異種の楽器であることを示している。
それぞれのパートの音域や調性などを仔細に検討して行くと、第1チェンバロがヴァイオリ
ン、第2チェンバロがオーボエのパートを基にしていることがほぼ確実になる。
「オーボエとヴァイオリンのための二重協奏曲」は頻繁に
演奏される馴染みのある人気の高い作品だが、実は、この「2台のチェンバロのための協奏曲」から復元されたものなのである。
バッハ自
身がこの曲を市民アンサンブル団体用に編曲したとされるのが今日に伝えられるこの曲。
全然古さを感じない曲である。
「バッ
ハですか?」
のだめはきょとんとしたような顔でリュカを見る。
リュカはそんな、何歳になっ
ても子供のような無邪気な表情をみせるのだめが愛しくって、そのなめらかな肌の頬に触れてみたくなる衝動にかられる。
「う
ん、コンサートのプログラム候補、いくつか考えたんだけど……これもいいかなあって」
「2台のチェンバロのための協奏曲ですか……う
ん、いいデスね。のだめ、好きデスよ。それにしても……バッハさんデスか」
のだめは何故かくすりと笑った。
リュ
カが不審に思う。
「どうしたの?」
「いえ。昔の頃を思い出したんデス。のだめとリュカがま
だコンセルヴァトワールの学生だった頃……」
リュカとのだめが出会ったのはフランスのコンセルヴァトワールだっ
た。
ピアノに早熟な才能を現し、12歳にしてコンセルヴァトワールに入学したリュカに対し、22歳というかなり年齢的には遅すぎると
も思われる年齢で日本から留学してきたのだめ。
アナリーゼの授業ではほとんど発言しない彼女に対しての印象はあまりなかったが、ある
場面がきっかけで興味を持つようになった。
初見の授業だった。
予定時間よりも少し早く来すぎてしまったリュカ
は、偶然、前の番であったのだめの授業場面に遭遇した。
それはコンセルヴァトワールの生徒の初見というにはさんざんたるものであり、
彼女が初見が苦手なのであろうということはすぐにわかった。
しかめ面をした初見の先生の顔も見物だったが、それよりもリュカはのだめ
の顔に釘付けになった。
口を尖らしてタコのようになっている。
多分本
人は気づいてないのだろう真剣に集中している時の無意識な癖なんだろうが、すごく面白い表情をしている。
ぷっ。
ぷ、
ぷ、ぷ。
リュカは思わず笑ってしまった。
その時の彼はただの生意気な
早熟な子供で、自分以外の学生がすごく凡庸に見えた。
留学したての彼女が異国の地でどんなに苦しんでいたのかということも、頼るべき
人も頼れずにどんなにつらかったということを知るよしもなかった。
後になって、自分よりもかなり子供のリュカに笑われたと思ってとて
も傷ついたんデスよ……とのだめがいうのを聞いて、すごく申し訳なく思ったことを覚えている。
その時はただ、た
だ、その顔が面白くて。
だから、リュカののだめへの最初のイメージは「ピアノを弾く時にタコの口になる面白いお
姉さん」。
その後「ホワイトボード激突事件」からその距離は急に縮まり、2人は親しくなる。
授
業の合間にホワイトボードに汽車を書いて廊下を走らせたりもした。
同年代の子供なんて周りにいなくて年上の学生達ばかりで、そんな遊
びを一緒にしてくれる人はいなかった。
つまらなかった学校に通うのが、一気に楽しくなった。
レッスンが終わると
いつものだめとカフェで勉強会をした。
……と言っても先生役はリュカの方だったが。
そうい
えば、その時にバッハの話をしたことがある。
フーガの構造とか勉強した方がいいのかと聞いてきたのだめに、リュカは何言ってるの?と
いう顔で答えた。
「のだめはバッハが苦手なの?」
「苦手っていうか…平均律は、作りがガッ
シリというかキッチリというか…正しすぎて入り込めないような…」
そんな時ののだめは眉間に皺を寄せていた。
何
もかもが自由奔放なこの女性は、型にはめられるのを本能的に避けているのだろうなあって思った。
でもリュカは
バッハが好きだった。
リュカの祖父がバッハの有名な音楽学者であり、幼い頃から教会音楽に親しんでいたせいなのかもしれない。
だ
から彼女にバッハの良さを知ってほしくて教会のミサに誘った。
思えばあれが、のだめへの初デートの誘いだったの
だと思う。(実際は黒木が来て邪魔されたけど)
「あの頃のリュカは可愛かったデスね〜」
「……
まるで今の僕が可愛くないみたいな言い方だね……」
「そうじゃなくて」
のだめはリュカの前
に立った。
そして自分の胸のところに手を添えにっこり笑う。
「リュカの背は出会った頃は、
このくらいしかなかったんですヨ〜」
「………」
「そして手はのだめよりもちっちゃくて可愛くって。
……
でも、その小さな手から響くメロディはとても素敵で……小さな魔法使いみたいだって思いました」
そう言って右手
の掌をそっと開いて、リュカの左手の掌に重ね合わせるのだめ。
女性にしては大きい筈ののだめの掌よりも、リュカの掌は一回りも大きく
指も長く固くなっている。
紛れもなく男性と女性の差がはっきりと現れていて。
「それが……
こんなに大きくなっちゃって……」
ふふっと笑うのだめを見つめたリュカは、思わず重ね合わされた手をぎゅっと
握った。
とても強い、強い力で。
「……リュカ?」
不
思議に思ったのだめがリュカを見上げる。
あんなに高く思えた憧れの女性がいつのまにか、自分よりも低くなっていることをリュカは改め
て感じた。
リュカはのだめの顎にすっと手をかけて上を向かせ、ゆっくりと顔を近づけていく。
そしてその柔らかい
唇の感触を確かめようとした瞬間……。
ぷ。
リュカの唇は固いバッハの
楽譜で遮られた。
リュカは口を尖らせる。
「……いいじゃん、キスくらい……」
「駄
目デース」
「この間はさせてくれたくせに……」
「あれは、不意をつかれただけデス。のだめの本意ではありまセ
ン。もう、リュカの前で、絶対に隙は見せませんからネ〜」
「のだめの、ケ〜チ!!」
「ケチで結構ですヨ」
そ
ういうとのだめは無邪気に笑った。
第1楽章:
Allegro
冒頭の主題から、観客はバッハの美しい音色に魅了される。
第1楽章の2台の
ピアノの絡み合い。
アレグロの両端楽章は、どちらも極めて緊張感が高く求心的であるが、それは、それぞれの楽章で展開される様々な要
素の大半が、最初のリトルネッロ(トゥッティ)に含まれているからである。
第1楽章は、ハ短調と変ロ長調という
2つの調が最初の4小節間で対置され、以後の展開の中では、長調と短調が頻繁に入れ替わる。
このような調の組み立ては他の作品にはあ
まり見られないものである。
二人の演奏は、大変完成度の高い演奏だった。
ハメを外すところ
もなく、古典的なこの曲を、虚飾のない硬質なピアノの音色だけで表している。
荒れ狂うようなところはなく、常に冷静に。
バッ
ハほどの天才であれば、楽器とは常に進歩するものであるという簡単なことなど当然解っていただろう。
逆にむしろどのような楽器を用い
ても、自分の作品は変わらない価値を持つことを誰よりも理解していた。
チェンバロも典雅であり、ピアノでも荘厳
である。。
第2楽章:
Adagio
2つのソロピアノの掛け合いが、時には模倣し時には連れ添うような優美なレガートが、観客達に溜息
をつかせる。
まるでこの会場が教会になったかのような神々しさにリュカは一瞬目を閉じた。
世
界が全て自分の手の中にあると思っていた頃の幼い自分。
あの頃のままでずっとずっといられたならばどんなにかよ
かったであろう。
のだめの音はこんなに近くに感じるのに。
そ
の音は自分の音と溶け合うような一体感を常に感じているのに。
彼女の心がとても遠くにある
ように感じるのは何故なのだろうか……。
そ
して第3楽章:Allegro
終楽章はテンポの速い軽快な曲想が特徴的である。
冒
頭のリトルネッロの旋律が極めて広い音域に跨っていることが、曲全体に大きな広がりを与えている。
この楽章では、2つのソロ・パート
の対話が聴きものなのだ。
のだめとリュカは、聴衆を、クリスタルの響きのプリズムと、繊細
で魅惑的な世界の奥深くへと誘った。
二人の表現と音の形成は素晴らしく統一され、響き渡った。
観る者も聴く者も
完全に魅惑されていたのと同様、演奏者もこの響きの中に身をゆだね、完全に一体化していた。
バッハの作曲した協
奏曲の中でもひときわ美しいものとされていると言われる曲が最後の一音まで鳴り響いた。
観
客は、彼らのために熱狂的に長く鳴り止むことのない拍手を贈った。
そ
してのだめは目を閉じ、息をすうっと吸い込むと、2曲目を弾くために、その両手を再び上げた。
ピアニッシモの荘
重な和音が鐘のように重々しく会場に響き渡り、千秋は息を呑んだ。
ラ
フマニノフ ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
そ
の屈指の美しさからあらゆる時代を通じて最も偉大で人気のあるピアノ協奏曲であり、なおかつロマン派音楽の金字塔の一つとしてその地位を揺るぎないものと
している。
わかりやすい旋律美、完璧な構造、ピアノスティックな華やかさなどで非常に魅力的な作品で1905年にグリンカ賞を受賞し
ている。
「交響曲
第1番」が1897年の初演時に批評家の酷評以降、ラフマニノフは数年間にわたって極度の神経衰弱に陥り、鬱傾向と自信喪失に陥って全く作曲ができない状
態になってしまった。
しかし本作品の成功は、のラフマニノフの協奏曲作家としての名声を決定づけて、スランプを抜け出す糸口となっ
た。
作品は、ラフマニノフの自信回復のために心理療法、暗示療法を行うなどあらゆる手を尽くし、創作意欲を取り戻させたニコラ
イ・ダーリ博士に献呈された。
多くのラフマニノフのピアノ曲と同じく、ピアノの難曲として知られ、きわめて高度
な演奏技巧が要求される。
たとえば第一楽章冒頭の和音の連打部分において、ピアニストは一度に10度の間隔に手を広げることが要求さ
れている。
伝統的な3楽章構成により次の順で構成されている。
モ
デラート
アダージョ・ソステヌート
アレグロ・スケルツァンド
&
nbsp;第1楽章:モデラート ハ短調 2分の2拍子 ソナタ形式
千
秋はのだめと2人でこの曲を弾いた時のことを思い出していた。
桃ヶ丘音楽祭での千秋の演奏に魅せられたのだめは、必死に千秋に取りす
がって叫んでいた。
「先輩!!。お願い、のだめにも弾かせて!!」
先
輩のようにコンチェルトが弾きたいんデス。
あんな風に……。
そういう
のだめは何日も風呂に入っておらず、寝食を忘れてただ夢中で曲を弾きまくっていたのだろう。
やせてボロボロになって蛍化していた。
千
秋はそこまで言うのなら……と彼女を大学に連れていき、2台あるピアノの1台に座らせた。
のだめがピアノ独奏。
千
秋がオーケストラ伴奏で。
あの時ののだめを、今でも千秋は忘れることができない。
こ
の曲の最初のピアニッシモをいきなりフォルテッシモで弾いていた。
しかも考えられないほどの速さのテンポで。
無
茶苦茶だった。
作曲しているようで音は多くとてもまともな演奏とは思えない。
とてもまとも
なコンチェルトではなかった。
どうする。
やめる
か?。
そんな考えが一瞬千秋の脳裏をよぎった。
だ
が隣で一心不乱にピアノを叩きつけるように弾いているのだめを見る。
くそ……。
ちゃ
んと合わせてやるから、オレの音を聴け!!。
千秋は鍵盤に指を叩きつけるようにして音で叫
んでいた。
のだめがふっと千秋を見る。
その存在すら忘れかけていた、周囲の音に初めて気づ
いたかのように。
そうだ。
のだめ。
周
りの演奏を聴け。
そして合わせろ。
……それが協奏曲(コンチェルト)
なんだ……。
千秋は超絶技巧で突っ走るのだめに語りかけながら、ピアノをただ弾いていた。
だ
が今日ののだめの演奏は違った。
あの時の無茶苦茶な一人で突っ走る演奏ではない、それは完全なプロとしての演奏
だった。
その音がしっかりと楽譜どおりの旋律を、指定された大きさで奏でる。
の
だめは、主題提示部に先駆けた8小節にわたるピアノ独奏のゆっくりとした和音連打を、ピアニッシモからクレシェンドし続けながら打ち鳴らす。
ピ
アニッシモの音が、それが一和音弾くごとに大きくなっていくピアノの和音。
あたかも、ロシア正教の厳粛な鐘が響き渡るようだった。
そ
の後、分散和音、アルペッジョに続き、ついに最高潮に達する。
ラフマニノフらしい独特な和音で構成され、ピアノの音色を用いることに
よってもっと幻想的な空間を聞く者に与える。
そこで登場する管弦楽で奏でられる筈の圧倒的な第1主題をリュカの
ピアノが重々しく引きずるように低く響く奏でる。
大きなインパクトをもって会場内全ての観客達を魅了し、聴く者の心臓をわしづかみに
して揺さぶった。
主部の最初にリュカがオーケストラのトゥッテイ(総奏)が奏でるロシア的な性格の旋律をピアノ
で歌い上げるが、その間のだめのピアノは和音を下または上の音から順次奏していく演奏法、アルペッジョの伴奏音型を直向きに奏でるにすぎない。
こ
の長い第1主題の呈示が終わると、急速な音型の移行句が続き、ラフマニノフならではの、センチメンタルで大変甘美な魅力をもっている変ホ長調の第2主題が
現れる。
第1主題がオーケストラ伴奏であるリュカに現れるのに対し、より抒情的な第2主題は、まずのだめのピアノに登場する。
の
だめは、第1主題の伴奏音型から移行句まで、急速な装飾音型を奏で続けていた。
これらの音型は、しばしば鈴と誤解されやすいが、ロシ
ア正教会の小さな鐘を模しているのだ。
劇的で目まぐるしい展開部は、両方の主題の音型を利用しており聴く物を飽
きさせず、この間に新たな楽想がゆっくりと形成される。
展開部で壮大なクライマックスを迎えると、恰も作品を最初から繰り返しそうに
なるが、再現部はかなり違った趣きとなる。
リュカがピアノの伴奏音型を変えて第1主題の前半部分が行進曲調で再
現した後、後半部分はのだめのピアノによって再現される。
そして第2主題は移行句なしで美しくゆったりとしたテンポでおおらかに再現
され、入念にコーダ(終結部)を準備する。
その様はロシアの大地、針葉樹林や都市の風景が脳裏をよぎるようで。
第
1楽章においてののだめのピアノ独奏は特異なことに、第1主題の主旋律の進行を、完全にリュカに委ねている。
のだめのピアノの演奏至
難なパッセージの多くが、音楽的・情緒的な必要性から使われており、しかも伴奏として表立って目立たないこともあり、聴き手に本来ならば絶賛される筈のピ
アノの超絶技巧の存在を感付かせない。
彼女ははオーケストラのオブリガート(主旋律と相競うように奏される助奏)的な役割に徹するこ
とで、時には室内楽的な、時には交響的な印象を生み出すのに役立っている。
のだめは作曲当時の、ラフマニノフ苦
悩や不安、そして自分自身への期待などを完全に表現していた。
「の
だめは何かやりたい曲があるの?」
リュカは尋ねた。
のだめは、まさかそんなことを言われる
とは思いもよらなかった……といったような意表をつかれた顔をした。
「ムキャ!!。やりたい曲って……そんな、
のだめにそんな決定権がある訳ないじゃないデスか……。リュカじゃあるまいし」
「もちろん僕にだって決定権はないよ。
コンサートプログラムを決めるのは事務所側だけどね。
でも、もし何か希望があれば、それくらいは言ってもいいんじゃないのかな」
「2
人でやりたい曲……」
のだめは思い出したかのようにくすりと笑った。
「そ
ういえば……1つだけ、ありマス」
「へえ……何?」
「当ててみてくだサイ」
挑
戦的ににっこり笑うのだめに、リュカは思わず年甲斐も無くムキになる。
「モーツァルト
2台ピアノのためのコンチェルトとか?」
「ブッブー」
「ベートーベンの大フーガ Op.134?」
「違
いマス」
「シューベルトの幻想曲?」
「はずれデスね」
「ああ、そうだ」
リュ
カはポンと手を叩いた。
「ラフマニノフの組曲だろ?」
「う〜ん、惜しいデスけど、はずれで
す!!」
のだめは悪戯っぽい顔でリュカに告げた。
「惜しい?」
「ラ
フマニノフのピアノ協奏曲、第2番デス」
「え……」
リュカは目をぱちくりさせた。
「組
曲……じゃなくて協奏曲(コンチェルト)?なんでまた……」
のだめは遠い目をして何かを懐かしむような表情に
なった。
「昔……のだめがまだ日本の学生だった頃、とても衝撃的なラフマニノフの協奏曲を聞きました」
「………」
「そ
の人の音がずっと耳に残って……離れなくて……何日もピアノに向かってその曲を再現しようとしました。寝ることも食べることも忘れて……」
「………」
「の
だめも、その人のようにオーケストラとその曲を奏でたいって真剣に思ったんデス。
だからお願いしたんデス、その人に。
『の
だめにコンチェルト弾かせて!!』って……」
その人というのが誰を差しているのかは、のだめの表情からリュカに
はすぐにわかった。
「そしたら……その人は、のだめを学校に連れて行ってくれました。
そ
して2台のピアノがある部屋に来ると、こう言ったんです。
『オレがオケ部分を弾くから、お前は普通にピアノ弾いて。オケがいると思っ
て』……って」
「………」
「実を言うと、のだめその曲の楽譜を見たことが一度もなかったんデスよ。
ただ、一度聞いたその人の演奏だけを追いかけて……追いかけて……それだけを頼りに……弾きました」
のだめの耳
がいいというのは以前から知っている。
昔から、楽譜を見て曲を覚えるのではなく、耳から聞いて覚える方が多かったと。
だ
けど……まさか……ラフマニノフのあの曲を耳だけで聞いて演奏できるものなのか?。
信じられないと思った。
「……
正直言うと、その時のことはあまり覚えてないんデス。
ただ衝動に突き動かされて……無我夢中で……弾いていて……」
「………」
「きっ
とすっごくメチャクチャな演奏だったと思いますヨ」
のだめはふふっと笑い、そして急に真顔になった。
「だ
けど……その時、隣にいる先輩の声が聞こえたような気がしました。『オレの音を聴け!!』って」
先輩……とのだ
めは口に出して言った。
「その瞬間にわっと耳から圧倒的な大音響の先輩のピアノの音が入ってきました。
……
まるで本当にオーケストラとコンチェルトしているみたいだったんデス……
……すごく気持ちよくて……最高で……のだめ、本当に幸せ
でした」
「………」
「……あれが、のだめの生涯で初めてのコンチェルトだったんデスね」
そ
ういうとのだめはふわっと笑った。
その笑顔は、失われてもはや二度と帰ってこないものを夢見るようなそんな笑顔だった。
リュ
カはしばらくの間、ずっと黙っていた。
そして口を開くとこう言った。
「それ……やろう」
「……
え?」
「2台のピアノで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を。のだめがソロで、僕がオーケストラ部分を担当して」
「ちょ……」
思
いがけないリュカの提案にのだめは本気で慌てた。
「そ、そんなこと、事務所が許す訳ないじゃないデスか!!。ま
してやのだめがソロだなんて……」
「大丈夫。僕がこの曲を、コンサート用に編曲する。……ピアノで……オーケストラを確実に表現して
みせるから」
これでも作曲の勉強もしてるんだよ……と。
固い決意の表情を浮かべたリュカ
に、のだめは何も言うことが出来なかった。
第
2楽章:アダージョ・ソステヌート ホ長調 4分の4拍子 3部形式
波瀾万丈の第1楽章が終わると、それとは好
対照をなす緩徐楽章が始まりを告げる。
重厚な第1楽章とは対照的に、第2楽章では甘く切ないメランコリックな世界が広がる。
リュ
カが弾く序奏は、ハ短調の主和音からクレシェンドしながら転調し、不思議な浮遊感を生み出す範囲で留められたまま、ホ長調ののだめのピアノ独奏を呼び入れ
る。
このピアノによるアルペッジョは1891年に作曲された六手のピアノのための「ロマンス」の序奏から採られている。
ど
こか懐かしさを感じさせるような、抒情性あふれる旋律が魅力的な楽章である。
ピアノの3連音符にのせて、本来ならばクラリネットで奏
でられる筈の第1主題がリュカによって奏でられる。
こうやって聞き比べてみると、2人のピアノは明かに違う。
の
だめの自由奔放でともすれば一人で先走りそうな危うい雰囲気を醸し出しながらも、時に猛烈に心を揺さぶる瞬間が訪れる演奏に対し。
リュ
カは素晴らしい技術を持ちつつも、それをひけらかすようなことはせず、激しく音楽を崩すようなこともしない。
奇抜なところのない、
クールな正統派のあくまでも誠実な男らしい演奏である。
リュカのような知名度があるピアニストが、無名ののだめ
の伴奏部に徹するということはとても異様なことだ。
だがのだめを引き立てるかのようでいて、さりげなくリードし、その彼らしいバラン
ス感覚によって、聴くもの全てにぴったりと息の合った心地よい音楽を提供している。
2人で1つの音楽を作るためには、その音楽をより
深く理解し、相手の音楽、絶えず動いている音楽の流れを 理解する能力や感受性、柔軟性、瞬時に対応できるリズム感やテクニックなどが要求される。
そ
して2台のピアノが重厚で艶やかな音色を奏で、見事な一体感が感動を呼ぶ。
2台の現代ピアノを同時に鳴らすこと
でなければ得られない「独特の共鳴」による演奏効果が充分に発揮されるのだ。
リュカの主題が多声的に扱われた
後、ウン・ポコ・アニマート(少し生き生きと奏でる)の中間部へ。
この後、のだめのピアノが華やかに、そして、燦然とカデンツァを奏
する。
妙にテンポを揺らしながら叙情的に歌い上げていく様は実に見事である。
主
部が反復され、のだめのピアノ和音によるコーダ(集結部)となり、最後は静かに曲をとじる。
の
だめの独壇場だった。
パワフルなフォルテッシモ。細やかなパッセージ。
第
2楽章ののだめの透きとおってそれでいて温かみのある叙情的な音色は、もう、右に出る者がいないのではないかと思わせるほどの美しさで。
「こ
れが、のだめちゃんのラフマニノフですか……」
隣の席に座っているシュトレーゼマンがポツリと呟いた。
「ず
いぶん変わりましたネ……」
「………」
千秋は無言で2人の演奏を聞き
ながら、その中に確実にあるであろうリュカの明確な意志を、ビシバシと強く感じていた。
ど
うだ、千秋。
お前とのだめが演奏したという曲だ。
ど
うだ。
今ののだめの、感情豊かな音は。
ど
うだ。
今ののだめの、聴く者を捕らえて放さない、旋律は。
ど
うだ。
僕はお前なんかよりも、ずっとずっとのだめの音を理解してい
る。
お前なんかよりも、こんなにものだめを自由に生き生きと走らせることが出来るんだ。
ど
うだ。
千秋は拳をぎゅっと握った。
リュ
カの意図は明白だった。
奴は、明かにオレに挑戦状を叩きつけているのだ……と千秋は思った。
第
3楽章:アレグロ・スケルツォアンド ハ長調 2分の2拍子
リュカの旋律の序奏は、1台のピアノで奏でられなが
らも多彩な音が引き出され、まるでオーケストラがそこにあるかのような錯覚に陥る。
ともすれば単なる伴奏で終わってしまいがちなこの
オーケストラ部を、それを1つのたぐいまれない芸術として奏でる。
リュカのエネルギッシュな好サポートが印象的に残るこの楽章が耳に
残る。
そしてのだめが中心となる主題を優しく、温かく導き出すのだ。
疾風怒濤の楽章だが、
スタッカートで奏され、非常に軽く、おどけたスケルツォ的な気まぐれな雰囲気が印象的である。
この気ままに気まぐれに歌うような箇所
は、のだめの最も得意とする部分でもある。
オーボエとヴィオラによって奏される第2主題はリュカの担当であり、
第一主題とは対照的に、ラフマニノフらしい叙情的な美しさにあふれている。
展開部では、第1主題の変形、第2主題の要素の再現がみら
れる。
勢いをもってコーダにむかいハラハラさせるほどの急速なテンポで疾走し、、最後は猛烈な勢いを持ったまま
圧倒的な合奏により堂々と曲を閉じる。
軍楽風のリズミカルでにぎやかな終結部は、ラフマニノフ作品の典型的手法で、「ラフマニノフ終
止」と呼ばれる。
第3楽章ののだめは冒頭から、ぐいぐい飛ばしていくものの、その圧倒的な迫力で、聴く者全てを
包み込むかのような勢いで。
コーダののだめのピアノとリュカのピアノの見事な一体感はまさに天下一品であり、鳥
肌が立つようだった。
そして。
の
だめが手を止めた。
リュカも手を止めた。
演奏が
終わったのだ。
人々はその演奏から解放されることがなく、しばし呆然としたまま息をすることさえ忘れているかのようだった。
次
の瞬間……。
怒濤のような拍手が起こった。
3
曲目が始まる。
のだめとリュカが2台のピアノを挟んで、視線を交わ
す。
そしてふっと表情が変わる。
先ほどまでの物々しい装いとは違う、2人とも悪戯っぽい目つき。
「や
るよ」と言っているようで。
くすりと微笑むその音まで聞こえてきそうなそんな静寂の中で始まったのは……。
ア
イ・ガット・リズム変奏曲 ジョージ・ガーシュウィン
ジョージ・ガー
シュウィンはポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し、「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。通称『完璧な音楽家』である。
彼
はその卓越した作曲能力と、新しく台頭してきたジャズやヨーロッパの実験的な現代音楽に対する強い傾倒を組み合わせ、作曲と演奏の在り方を根底から変革し
た。
それは生まれながらにして持っていた彼の2つの天分による。
1つは忘れがたい曲を作る才能と、その曲に豊か
な思いもかけないハーモニーをつける素質である。
彼の作品の中でハーモニーは過度の複雑さに陥ることなく、絶えず変化する和音のパ
ターンを繰り広げる。
この「アイ・ガット・リズム変奏曲」は彼と兄で作詞家であるアイラ・ガーシュウィンが組ん
で、ミュージカル「ガール・クレイジー」のために書き下ろした「アイ・ガット・リズム」というスタンダードナンバーが元となっている。
「ガー
ル・クレイジー」は後に「クレイジー・フォー・ユー」としてリメイクされた。
1930年代のニューヨーク。
銀
行家の放蕩息子ボビーは、周囲の心配を余所に踊ることに夢中で、ブロードウェイの劇場に入り浸っている。
大事な跡取り息子を心配した
母の命令でさびれた炭鉱町へ物件の差し押さえに行かされる。
そこで、町の娘ポリーと出会い、一目惚れ。
ところが
ポリーは、彼が劇場を差し押さえに来たと知るや、いきなり平手打ち。
彼女はその劇場主の娘だった。
そこでボビー
は一計を案じる。
彼が大興行師ザングラーになりすまし踊り子達を引き連れて、ショーの上演許可を求める。
劇場を
復興して、町に再び活気を取り戻そうというのだ。
町の男達が即席のダンサーに仕立てられ、踊り子達とリハーサルが始まる。
だ
が、そこへ恋しい踊り子のテスを追って本物のザングラーが現れて、ますます複雑になる人間模様……。
「アイ・
ガット・リズム」という曲は、ヒロインであるポリーが歌う、一度聴いたら誰でもすぐに口ずさむ事が出来る程、親しみ易いメロディを持っている曲である。
「の
だめ、『クレイジー・フォー・ユー』は見たことある?」
リュカの問いかけにのだめはにっこり笑って言った。
「ハ
イ。日本にいた時、劇団五季が上演するのを見ました」
「劇団五季……?」
「日本の有名な劇団で、たくさんのブ
ロードウェイ・ミュージカル作品を上演しているんデスよ」
「ふーん……」
そういうとのだめ
は思い出すかのように口ずさみだした。
「このリズム、このミュージック、この恋、他にはいらない……」
「そ
れは日本語?」
「ハイ。歌詞が違うと曲のイメージも違うでしょう?」
「うん……でも、とっても耳に心地良い
ね。……とても綺麗で自然に響く……」
リュカは笑って、CDをかけた。
底
抜けに陽気な明るいジャズミュージックが流れ始める。
リュカがすっとのだめに手を差し出す。
「お
嬢さん、お手をどうぞ……」
のだめは笑ってその手をとった。
「……も
う、のだめはお嬢さんって言う年じゃないデスよ」
真面目にそう言うのだめにリュカはつい笑って言った。
「そ
んなことないよ。のだめはいつまでたっても少女のようだよ?」
「……」
「可愛くって無邪気で……ずっと……初め
て僕たちが出会った頃のままだ……」
ずっと。
可憐に咲く、愛くるしいマーガレットのような
少女。
それはずっと、ずっと変わらないでいて……。
そして2人はス
テップを刻む……。
「I Got
Rhythm」
Days can be sunny
With never a
sigh,
Don't need what money
Can buy.
Birds
in the tree sing
Their dayful of song.
Why
shouldn't we sing
Along?
I'm chipper al the day,
Happy
with my lot.
How did I get that way?
Look at what
I've got.
I got rhythm,
I got music,
I
got my man --
Who could ask for anything more?
I
got daisies
In green pastures,
I got my man --
Who
could ask for anything more?
I got daisies
In
green pastures,
I got my man --
Who could ask for
anything more?
Old man trouble,
I don't mind him
--
You won't find him
'Round my door
I
got starlight,
I got sweet dreams,
I got my man
--
Who could ask for anything more --
Who could
ask for anything more?!
溜息なんか無し
に
毎日が楽しくやれるわ
お金で買うものなんか何もいらないわ。
梢の鳥
たちはいつものように
楽しい歌を聞かせてくれている
だったら私達も一緒に
歌えなくはないで
しょ?
私は一日中とても元気よ
こんな運命で充分幸せだし
どうしてこん
な風でいられるかって?
私が手に入れたものを見て!。
リズムも手に入れたし
音
楽もよ
それに私の好きな人
これ以上何を望めっていうの?
緑の牧場には
ひ
な菊が咲いてるし
私には愛する人がいる
ほかには何を望んだらいいの?
悩
み事なんか1つも気にならないわ
私のまわりにはそんなもの見あたりません
星の光もあるし
楽
しい夢も見られるし
私には素敵なあの人がいる
だったらもうこれ以上なにも要らないわ
「……
のだめ、結構ダンス、上手だね」
「ムキャ、そうですか?。先輩からは下手だって言われましたけど……あわわ」
の
だめは慌てて口を押さえた。
「……どうしたの?」
「……だって、リュカに先輩の話をする
と、ここに皺が寄るんデスもん」
そう言ってのだめは眉間に指を当てて皺を寄せてみせた。
リュ
カは憮然とした表情でそれに答える。
「……そうかな?」
「そうですヨ」
の
だめはふふっと笑う。
「……そんなつもりはないんだけど……」
「リュカと先輩って似てます
ヨ」
「ええっ!!」
リュカは露骨に嫌な顔をする。
「ど
こが!!」
「どこが……って言われても答えられないんデスけど……なんとなく、デスよ」
そ
して2人は明るいビートに合わせて、踊り続ける。
「この『クレイジーフォーユー』っていうミュージカルは、ボー
イ・ミーツ・ガールの話なんだよね」
「ボーイ・ミーツ・ガールですか……」
「そう、少年は少女に会った……」
「………」
「ガー
シュウィンの曲は、どこかに優しさと一種の救いを見せるのが特徴なんだ」
「………」
「苦しい恋の歌でも、いつか
はきっと大丈夫だって歌ってる……」
「………」
愛を信じる力。
恋の困
難を越える希望。
そういったものを感じさせるところにガーシュウィンの本領を見る。
これこそが彼の人柄であり、
彼の世界の1つの極地であるともいえる。
のだめはリュカの言葉にはあえて答えないで、わざと明るく言った。
「リュ
カ、タップダンス上手ですネ。なんなら、のだめが舞台でピアノ弾いている間、リュカはタップダンス踊りマス?」
「……それだけは勘弁
して」
「音楽が楽しくてしょうがない」って気分
が心の底から伝わってくる、楽しさや嬉しさが溌剌と歌われている底抜けに陽気な曲である。
その作風はウィットと
知性に、弾むようなジョージのキャラクターが重なり、独特の輝きを持つ。
最高のガーシュウィン音楽はとても親しみやすいと同時に常に
新鮮である。
彼の音楽には無理なところが1つもない。
これぞ、アメリカの音楽!!。
勢
いよく4つの音を駆け上がっていく出だしのフレーズ。
2人のピアノは「アイ・ガット・リズム」の歌の部分全てを演奏し、そしてオーケ
ストラで奏でられる才気溢れる変奏曲を展開していく。
ガーシュインの大規模な楽曲では一番人気の作品であるこの
曲。
ヨーロッパのクラシック音楽にはない特徴を持つアメリカの音楽、ガーシュインならではのクラシック音楽とポピュラー音楽の融合。
うっ
とりするようなメロディー、おしゃれな和音、わくわくするようなリズム。
音楽の楽しさが箱いっぱいに詰まっている。
と
にかく「ガール・クレイジー」のナンバーから作曲家自身が編み出した痛快なピアノと楽団のための作品を、2台のピアノで表現するのだから、楽しいことと
いったらない。
変奏曲では、構成、メロディ、リズムだけではなく、曲の雰囲気までが変化する。
第
1変奏曲は動物的なエネルギーに満ち、第2変奏曲はゆったりと悲しみが漂う。
その後にはきっぱりとして攻撃的な曲、激しく鳴り響く
曲、あるいはお祭り気分の目が回るような活気溢れる曲が続く。
どこをとっても自信に溢れた力作である。
ジャ
ズ・ナンバーとしても有名な曲に基づいているためジャズ的な書法が目立ちはするものの、やはりクラシカルな面も残されている。
ガー
シュインの書いたシンフォニック・ジャズ(ジャズとクラシック音楽の融合体)の最高傑作ではないかと思えるくらい面白い。
変奏はクラ
シックとジャズ各々のアレンジを交互に繰り出してくる巧みなものである。
リズムの重視されるガーシュインの曲の
中でも際立ってリズム変化の効果的な楽曲であり、リュカとのだめの演奏はうまくそれを掴んでいた。
明るく開放的な演奏だが、決しては
み出した演奏にはならない。
楽譜に書いてある音を全部きちんと再現しようとして一生懸命弾いてしまえば、およそスイング感からは遠い
ものになってしまう怖れがあるが、2人の演奏にはそれがなかった。
ここに来て2人のバラン
ス感覚が物を言う。
前の2曲では明かに違うと感じられた2人のピアノが、だんだんどちらが
どれを弾いているのかがわからなくなる瞬間がある。
それほどぴったりと息が合っているということだろう。
前
半はモチーフをお互いジャブのように繰り出しながら、様子を見ている感じ。
しかし、演奏後半になると、くるくるとアドリブを交代して
いる。
楽譜にないのに、その場の雰囲気や自分達が今まで培ってきたものから、即興的に出てくるめまぐるしいアドリブの応酬。
の
だめはアドリブが格段に上手い。
リュカもそれに遅れを取ることなく、余裕の演奏であっさりと答える。
2人の鮮や
かな指づかいが物を言う。
まさに、インタープレイの極致だ。
聴
いていると、だんだん1台のピアノで演奏しているのではないかとも思えてくる。
後半は2人
共ほとんど自由闊達に弾いているようでいて、それが息がぴったりと合う快感を観客に味合わせる。
ソロとしての力を十二分に持った2人
が競うようにしてフレーズを取り合う。
これこそ、デュオの面白さだ……ということを圧倒的に見せつける。
本
当に2人とも、ピアノが好きで好きでたまらなくって、まるでピアノをおもちゃのようにいじくっている遊んでいる子供のようだ。
最
後に、沸騰的な速さからスロー・テンポとなる雰囲気の音からは「もうそろそろ終わりだけど、どうだった?」語りかけてくるようで、余韻を残したまま終わっ
た。
「ブラボー!!」
と誰かが叫んだ。
それに続いて凄まじいほどの割れるような拍手が起こる。
リュカとのだめは互いに立ち上がるとお
互いに、にこっと見つめ合い、観客に向かって深々とお辞儀をして見せた。
いっそう大きくなる拍手の嵐。
そ
こで一旦休憩時間となった。
舞台が暗くなり、変わって客席の方が徐々に明るくなる。
ざわざ
わとロビーに出て行く人達。
「……すごくエネルギッシュな演奏でしたネ……。若くて……フレッシュなパワーがみ
なぎっているような……って……千秋?」
シュトレーゼマンは隣に座っている千秋に声をかける。
「千
秋!!」
目の前で手を振ると、やっと反応した。
どうやら千秋は目の前のコンサートに感情移
入するあまり、しばし放心状態に陥っていたようだ。
「あ、……すいません」
「……どうでし
たか?のだめちゃんのコンサート」
シュトレーゼマンの直球の問いに、千秋はこう答えた。
「……
正直、悔しいです」
「ほほう……」
シュトレーゼマンは可笑しそうに笑う。
「珍
しく素直ですネ」
「今更、貴方の前で強がってもしょうがないでしょう……。すごく、悔しいです」
「………」
「の
だめの才能をここまで開花させてやることができたのが、自分ではないことに……自分自身に無性に腹が立ちます……」
「ほう……」
「何
をどう、言われてもいい……のだめを大舞台に引きずり出すのは、他の誰でもない、オレでありたかった……」
千秋
はゆっくりと感情を抑えた声で言った。
あの音楽の女神を、この世に知らしめるのは本来ならば自分の役目だった筈なのに……と。
そ
の目の真剣な光が、今、とつとつと語っていることが彼の本音であることを物語っていた。
「だけど……」
「だ
けど?」
シュトレーゼマンが優しく促す。
千秋はふっと微笑んだ。
それ
は嘘でも強がりでもない、本当の笑顔だった。
「だけど……それと同時に、俺は、今、すごくわくわくしています。
今まで見たこともない才能を持った2人のピアニストのデュオ……今度はどんな演奏を見せてくれるのだろう、どんな風に俺を感動させてくれるのだろう……。
その期待にこの胸が無性に震えています」
「………」
「俺は……心の底からこのコンサートを……楽しんでいま
す……」
千秋の心からの言葉にシュトレーゼマンは頷いた。
「……ワタ
シも同じ気持ちデスよ……。
第2部は『トリスタンとイゾルテ』ですネ……。
のだめちゃんは、どんなイゾルテ
を演じてくれるんでしょうか……」
休憩時間の終わりを告げるブザーが鳴った。
第
2部が始まる……。
続
く(written ハギワラ)
&
nbsp;