幕 が下りた舞台の中で、2台のピアノのうち1台が片づけられて行くのをのだめはじっと見てる。
もはや、舞台の中央に置かれているのは1 台のピアノ、そして2脚の椅子のみ。

ここで、リュカとのだめのピアノデュオ「zepyhr」の最後の演目が行わ れるのだ。

慌ただしくスタッフが行き交う舞台を、立ったままじっと見据えていたのだめだが、ポンと肩を叩かれて 飛び上がる。

「ムキャ……なんだ、リュカですか。びっくりさせないでくだサイ!!」
「のだ め、何見てるの?」

優しく言うリュカ。
のだめは一呼吸置くと、ふふっと笑って言う。

「ちょっ と、感慨にひたってたんデス」
「………」
「これが、リュカとの期間限定デュオ、zephyrの最後の舞台なんだ なあ……って」
「そう……」

リュカとのだめは2人で黙って、ただピアノだけを見つめてい た。
重いカーテンを隔てた向こう側にはたくさんの人がいて、彼らのピアノを待っている。

…… もちろん千秋も。

だけど、この場所は、そことは完全に切り離された別世界のようだった。
リュ カが口を開く。

「……のだめ」
「ハイ?」
「いつか聞いたことがあるん だけど……もう一度、聞いてもいい?」
「何デスか?」

きょとんとした表情ののだめに、リュ カが深い眼差しで問う。

「……のだめの『夢』って何?」

その瞬間、の だめは言葉につまった。
それは、2人の間では禁句のようなものだった。
お互いに、その話題に触れることを避け、 何気なくやり過ごしてきていたのに。

どうして。

今。

こ の時に。

のだめにはリュカの真意が図りかねた。

「……今、言わなきゃ 駄目デスか?」
「今、聞きたい」
「………」

のだめはためらうように視 線を彷徨わせると、やがて決意したようにしっかりとリュカの目を見据えた。

「のだめの夢は、指揮者『千秋真一』 と共演して、ゴールデンペアになることデス」
「………」
「先輩の指揮に似合うだけのピアニストになりたい……」
「………」
「…… ただ、それだけデス」
「……もう、千秋がのだめを愛してなくっても?」

リュカは静かに言 う。
のだめは迷うことなく笑って答えた。

「……それでもいいんデス」
「………」
「先 輩に他に愛している女性がいても。
 のだめのことなんか、もうなんとも思っていなくっても」
「………」
「…… 例え、ゴールデンペアには、永遠になれる日が来なくっても……」
「………」
「……それでも、『夢』は『夢』、で しょう。
 この『夢』だけは、誰ものだめから奪えまセン。
 のだめの胸の中の……一番底にある大事なところに そっとしまってマス。
 ずっと……ずっと……」
「………」
「リュカ?」

の だめはそうっとリュカの顔を伺った。
リュカはじっと目を閉じたまま、のだめの言葉を聞いていた。

「…… 気分を悪くしましたか?」
「ううん?……どうして?」
「………」

リュ カは、以前幼い頃は見上げていた、愛しい女性の顔を、今は上から優しく見下ろしながら言った。

「……かえって、 ふっきれた」
「え?」

リュカの意外な言葉に、のだめは訳のわからないといった表情を見せ る。
そしてのだめは話題を変えようと、逆にリュカに聞きかえした。

「……それじゃあ、リュ カの『夢』はなんデスか?」
「それは……」

リュカはしばらくの間、黙っていた。
そ してのだめと目が合うと、いつものように優しく笑ってみせる。

「後で……演奏が終わってから言うよ」

次 の瞬間、リュカはきっと顔を引き締めた。
演奏家としてのリュカ・ボドリーに戻ったのだ。
そして、のだめを舞台に 誘うかのように、その肩を抱いた。

「さあ、行こう。第2部の始まりだ。僕たちの……『zephyr』の、最後の 舞台だ」






不 機嫌なマエストロ 9-3話






幕 が上がり、観客達は異様な熱気を持って舞台を見つめる。
ここで行われるであろう最高の演奏を今か今かと待ちわびているのだ。
そ して主役である2人が舞台袖から現れた時、熱狂的な拍手を持って彼らを迎えた。

のだめとリュカがそろってお辞儀 をする。
その途端に一層割れるような拍手が起こる。

そして、彼らは定位置についた。

の だめがファーストとして、ピアノの上半分を使う位置に。
リュカがセカンドとして、下半分を使う人の位置に。
最後 の2曲は1台のピアノで連弾を行う。

そして隣同士で、顔を見合わせ視線を熱く交わすとそれぞれが両手を上げた。
4 手が、鍵盤の上に振り下ろされ……曲が始まる。




曲 は楽劇「トリスタンとイゾルテ」からの曲、前奏曲とイゾルデ「愛の死」




楽 劇「トリスタンとイゾルデ」は、リヒャルト・ワーグナーの3幕の舞台音楽である。
ワーグナーは、この作品を13世紀の詩人、ゴットフ リート・フォン・シュトラスブルクの騎士道本を参考として作った。
オペラを総合芸術としてとらえ直し、音楽、言葉、劇内容などを一層 融合させた「楽劇」を目指したのだ。
これは音楽的な部分では、あらゆる音楽の頂点に達したといえる。

当 時彼は、元花形女優であった妻ミンナとの不幸な結婚に悩んでおり、その後、革命騒動で政治犯として指名手配され、スイスに逃れていた。
そ んなワーグナーに資金面で援助してくれたのが富裕な商人のオットー・ヴェーゼンドンクだったのだ。
この作品を作曲している時、実際 ワーグナーはパトロンであるヴェーゼンドンクの妻マティルデ・ヴェーゼンドンクと不倫関係にあった。
人妻マティルデへの愛情からこの 作品への深い力を得、その苦悩の感情が作品完成の基礎になったと思われる。

凡人ならば世間一般に良くある単なる 不倫で済むところだったが、ワーグナーは非凡だった。
自らの愛の苦悩を革新的な音楽にまで昇華させた。
そんな肉 欲的な愛の姿が、これほどまでに崇高に描かれた事実を、我々は一体どう理解すればよいのだろうか。

ワーグナーは 自ら「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだ。

トリスタンを自分、イゾルデをマティルデ、マルケ王を ヴェーゼンドンクに投影させて、彼は作曲に没頭した。

そして、偉大なる音楽は残った。
 
第 1幕の前奏曲と最後第3幕フィナーレであるイゾルデの「愛の死」はワーグナーが全曲の初演に先立って演奏会形式で発表したことにちなみ、現在でも演奏会で よく演奏される。
そして、今回、のだめとリュカが最後の演目として演奏するのが、この2曲なのだ。


そ の前に「トリスタンとイゾルデ」の楽劇の全容を記して置こう。



第1幕

独 特の前奏曲で幕が開く。
何とも落ち着きのない収まりの悪い不協和音が不安を誘い、物憂げでありながら心の底の方へ染み込んでいくよう な哀しい美しさは、これからの物語がどこへ行き着くのかを既に暗示している。
船の上、船乗りが歌う哀調を帯びた民謡は、静かな海を風 を求めて走る帆船の気怠い雰囲気を映している。
トリスタンの船は、コーンウォールに近づいていた。

船 にはイゾルデとその侍女のブランゲーネがカーテンで仕切られた中央に座っている。
イゾルデは激しく苛立ち、侍女ブランゲーネに隠し通 してきた秘密を打ち明ける。

あの男、英雄とやらのトリスタン、傷ついた彼を私は癒し看病した。
ト リスタンは私の手当てを受けるため、タントリスという偽名を語ってアイルランドへ来た。
しかし私は彼の正体を知ってしまった。
私 の許嫁モロルトの首に残っていた金属の破片が、トリスタンの剣の小さく欠けた部分にぴったりはまったからだ。
彼は私の許嫁モロルトを 殺した男だ。
仇を討とう思っていたがどうしても出来なかった。
すっかり快復したトリスタンはコーンウォールへ帰 るが、ほどなくして戻ってくる。
仇を討つことを諦め生きて帰してやったというのに、恥知らずにも私を伯父マルケ王の妻として迎えに やって来た。

どうしてあの時殺してしまわなかったのか……。

彼女は恋 と憎しみの間をさまよう。
ブランゲーネは必死にイゾルデを宥める。

トリスタンが姫様をマル ケ王の妻に迎えるのは、高貴な地位を差し上げようという真心なのですよ。

しかし、イゾルデは聞く耳を持たない。

あ の酒を用意しなさい……。

あの酒とは死の薬。

魔術に通じたイゾルデの 母はブランゲーネに薬の調合を教えたのであった。
イゾルデは、許嫁を殺し自分を侮辱したトリスタンと、その仇を討つこともせず、おめ おめここまで連れてこられた自分に死を望んでいるのだ。

船上でトリスタンはイゾルデを見ようとはしない。
話 し合いたいから彼を連れてくるよう、イゾルテが侍女のブランゲーネに命じるが、トリスタンは応じようとしない。

入 港が近づく。
仕方なくイゾルデの元に現れたトリスタン。
2人の陰鬱な口論。
音楽だけが、彼 らの心の奥底に秘められた愛の感情をひたすら描き続ける。

トリスタンに皮肉っぽく絡むイゾルデは、お互いに償い をしなければならない身だと迫る。

彼女の挑発的な言葉に、トリスタンもついに自制を失った。
ト リスタンは剣をイゾルデに差し出す。

ならば、なぜあの時、傷つき身動きのままならなかった私に振り上げた剣を落 とした?さぁ、今度は仕損じないように……。

イゾルデは死の薬を満たした杯をトリスタンに差し出す。
モ ロルトを殺した償いとして私とともに毒を飲みなさいと迫る。

あなたは罪を、私は恥辱を償わなければならな い………。

トリスタンに差し出された死の杯、それは甘美な誘いを持っていた。
彼にとって死 とは恐れるものではなく憧れるもの、永遠のくつろぎ、懐かしい揺りかごなのだ。
トリスタンは迷わず死の薬を飲み、杯を奪い返したイゾ ルデが残りを飲み干す。

そして………前奏曲の「愛の動機」の旋律が二人を周囲から切り離してしまう。

二 人共が求めていた死は訪れず、代わりに登場したのは五官を焼き尽くす愛。

ブランゲーネが死の薬を、マルケ王との ために用意してあった愛の薬と入れ替えてしまったのだ。

愛の薬はマルケ王とイゾルデが万一仲良くなれなかった場 合のために用意されたもの。
薬の力で、押し殺していた愛に目覚め、愛欲の淵に沈む二人。
上陸騒ぎもマルケ王を讃 える声も聞こえなくなった二人は、惹かれ合い、愛の法悦に浸り、ただただ見つめ合うのみ。
そして彼らの永遠に続く憧憬と苦悩があらた に始まる。

騎士の名誉と王妃の貞節を捨ててお互いを選んだ時、彼らはこの世を否定した。




 
第 2幕


舞台は深夜、コーンウォールのマルケ王の城の庭。
爽やかな夏の 宵。
遠くから狩りの角笛がこだまする。
マルケ王は、部下のメロートに進められ、狩りに出て行った。

イ ゾルデは愛するトリスタンが忍んでくるのを今か今かと待っている。
2人は狩りに出た王の留守中に密会を図る。
彼 女の心を指示し暗示して音楽も次第に高揚していく。

ブランゲーネは恋に浮かされて現実を見ない姫を諫めている。
逆 心を懐くメロートが王に密告するかもしれないと注意を促すが、もはやイゾルデの耳には届かない。

王妃とその臣 下、義理の叔母と甥、女の許嫁を殺した男とその許嫁が与えた傷を癒した女、そして、死の薬を共に飲み干した男と女……。

ト リスタンへの合図は松明を消すこと。
そう、二人は闇を待ち望んでいるのだ。
待ちきれないイゾルデは制止も聞かず 松明を消してしまう。
辺りは漆黒の闇、トリスタンが現れる。

音楽の激しい熱狂。
2 人は短い言葉で愛を交わす。

昼を呪い、夜を賛美する二重唱が続く。
マルケ王との愛のない 昼、そして愛するトリスタンとその存在を1つにする陶酔の夜。
イゾルデにはもはや光に対する未練はない。

そ してトリスタン。
トリスト(悲しみ)という言葉を含む悲しみの子という意味を持つ男。
どうしてこんな名前が付け られたかというと、彼が生まれると同時に母はこの世を去り、父もすでにこの世になかったからだ。
悲しみの子は夜の子でもある。

彼 は勇敢な騎士としての名誉もマルケ王に捧げた忠誠も、全てを闇の中に捨ててしまったようだ。

完全な愛という死の 向こう側にしか存在しないものに絡め取られた二人には、生が、光が、厭わしいものでしかない。
欺瞞にあふれた昼の世界から、清く崇高 な夜の愛の世界に達した喜びが2人を充たすのだった。
2人は完全な一体感に酔いしれる。

興 奮が次第に収まっていくと、二重奏は、この上ない官能の喜びに変わり始める。
この二重奏は古今の愛の音楽の中でも最高傑作と呼ばれる ものである。

しかし、官能の音楽がまさに絶頂に達しようとした瞬間。
トリスタンの忠臣クル ヴェナルが王の帰還を知らせるが、時すでに遅く、メロート、続いて王が荒々しく現れる。
王の寵愛を一身に受けるトリスタンに嫉妬した メロートが告げ口をしたのだ。

愛する妻と信頼する甥、何よりも忠義一筋だったトリスタンの夜の姿を突きつけられ たマルケ王は呆然と立ち尽くす。

そなたはなぜわしを裏切る。トリスタンの名誉と純潔はどこへ行った?。

マ ルケ王は全ての領土をトリスタンに譲ろうと跡継ぎを持たなかったのだ。
それに嫉妬したメロートらがしつこく結婚を勧めるため、マルケ 王は、イゾルデを妻にした。

そのトリスタンが妻と愛し合っている。

な ぜこんな仕打ちを?。

胸を灼かれつつ嘆くマルケ王。
しかし、マルケ王はトリスタンの孤独を 理解し得ていなかった。

マルケ王はトリスタンの忠誠に対して感謝で応えた。
しかし、トリス タンの孤独、彼の心の中の死の淵は埋まらない。

だから彼は答えない。
静かに佇むトリスタン は哀しい目でマルケ王を見上げる。

彼には分かっている。

もはや何を もってしてもイゾルデと離れることはできないと。
もう決して武勇と忠誠を歌われた騎士の鏡トリスタンに戻ることはできないと。
な ぜなら彼は夜に、彼が生まれた悲しみの闇に、死の世界に引き寄せられているから。

今、トリスタンとイゾルデの心 にあるのは、ともに夜の国……死へ向かうことだけ。

……メロートが憤然として剣を抜く。
ト リスタンが受けて立つ。
メロートの剣が突き出された瞬間、トリスタンの罪悪感と後悔がイゾルデへの愛よりも強くなり、トリスタンは剣 を捨て、メロートの剣の上に倒れ込む。
崩れ落ちるトリスタン……。




 
第 3幕

低音域から始まる重たい前奏曲で幕が開く。
瀕死のトリスタンは、彼に忠実なクルヴェナ ルに伴われ故郷ブルターニュに逃れてきた。
羊飼いの吹く笛の寂しげな旋律、トリスタンが力無く横たわっている。
彼 には自分がどこにいるのかも分からない。
傷は悪化し、見かねたクルヴェナルはイゾルデに使いを送る。

昏 睡から醒めたトリスタンはイゾルテを待つ。

……トリスタンがこれから行くところとは、暗闇、夜の世界、それは母 の胎内。

父を知らず誕生と同時に母を失い「悲しみの子」と名付けられたトリスタン。
彼のこ の世にあるが故の不安と苦悩を癒すには、彼は生まれる前に戻る以外にない。

悲しみの子には最初からこの世に居場 所なんてなかったのだ。

しかし、トリスタンは一人ではそこへ行けない。
彼は既にイゾルデと 完全な融合を果たしてしまった。
人は半分だけ死ぬなんてことできない。

トリスタンとイゾル デは一緒に生き、一緒に死ななければならない。

そのイゾルデはまだ来ない……。

錯 乱するトリスタンと必死で宥めるクルヴェナールの元に羊飼いの笛の音が響く。
船が見える!。
歓びの旗をマストに なびかせて矢のように近づいてくる!。
イゾルデが来た!。

死が生を凌駕する瞬間……トリス タンは傷口を覆った包帯を引きちぎる。
傷口から命がこぼれ落ちていく。
生からの解放、悲しみからの解放、この時 をどれほど待ちこがれていたことか……。

トリスタンは最後の力を振り絞ってイゾルデに近づいて名を呼び彼女に触 れ、そのまま彼女の腕の中で息絶える。
イゾルデが嘆く。

怪我では死なないで、私たちが一つ になるときに、命の光が消えればよい。どうしてこんな酷いことを?一度だけ、今一度だけ!。

トリスタンの遺体に すがったままイゾルデは意識を失ってしまう。

ブランゲーネから愛の薬の秘密を聞いたマルケ王が二人を許し、そし て結びつけるために登場する。
クルヴェナルは奸臣メロートを殺し、自分も深手を負ってトリスタンの後を追う。
最 愛の甥を失った年老いたマルケ王が嘆く。
マルケ王は彼は誰よりも愛したトリスタンを失い、妻イゾルデを失い、メロートとクルヴェナル という家臣を失う。

彼は子供が欲しくなかった。
我が子のように愛しているトリスタンに王位 を譲りたかった。
そのために独身を通してきたのに。
その挙げ句が当のトリスタンと妻の密会現場に居合わせること になるわけで、王はトリスタンから二重の意味で裏切られた。

彼はトリスタンを愛していた。
そ してイゾルデも愛していた。

そして永遠の虚無の中にただ一人立ち尽くす。
人間の愛の哀しさ ともどかしさが、そのままマルケ王の嘆きである。

イゾルデはトリスタンの亡骸の上に身を投げ、自らも法悦のうち に彼女を包み込んでいく波打ち潮の高鳴る中に溺れ、心臓をつぶし死んでいくのだった。
死せる両親によってこの世に送り出された悲しみ の子は、彷徨い、傷つき、殺し、苦しんだ。
そしてイゾルデとの愛によって完全に満たされ、存在することの苦悩から解き放たれた。

生 まれる前の世界へ。
悲しみのない世界へ。

かつてはトリスタンとイゾルデと呼ばれ、今は一つ になって名前すら持たない魂となって帰って行く。





そ して、リュカとのだめの演じる「トリスタン」と「イゾルデ」が始まる……。




「ト リスタンとイゾルデ」前奏曲。





時 は伝説上の中世、舞台はイングランド西南部のコーンウォール。
トリスタンは、アイルランドの王女イゾルデとの婚姻を目論む、忠誠を誓 う叔父マルケ王の使いとして、アイルランドからコーンウォールへの彼女の移送の任務を負わされる。


リュ カ・ボドリーが舞台の上で演じるのは、悲しみの子トリスタン。

彼は生まれた時から死に取り憑かれている運命だっ た。
悲しみの子は生まれた時からすでに死に場所を求めていたのだ。

トリスタンはこの世に拠 るべきものを持たない。
彼は両親を知らず、故郷もなく、叔父であるマルケ王から忠臣として愛されてはいるものの、その愛は彼の騎士道 としての忠誠と勇気に対して報酬として与えられる愛。
この若者は無償の愛を知らない。

コー ンウォールの騎士が誰も立ち向かおうとしなかったアイルランドの勇者モロルトに、たった一人で立ち向かいそれを討ち取ったトリスタン。
だ が、モロルトはアイルランドの王女イゾルデの婚約者だった。
自分自身も傷を負ってしまい、治療を求めてイングランドを目指す彼は、途 中で船が難破、流れ着いたところはアイルランド。
彼は素性を隠してあろうことかイゾルデに介抱されることになる。
し かし彼の剣の切っ先が欠けていてモロルトの頭蓋骨の中に残っていたことから身元発覚。
幸い勇敢な騎士ぶりが評価され、命は救われる。
帰 国したトリスタンからイゾルデの美しさを聞いたマルケ王は「嫁に迎える」と宣言し、トリスタンに誓いを立てさせた。

彼 は、あの時イゾルデに恋をした。

しかしその恋はマルケ王の存在ゆえに許されない。
彼は騎士 であり、王への忠誠と誓いは絶対なのだ。

彼は忠実な家臣として、王の妃としてイゾルデを迎えるために出向く。

な んとつらい役目だろう。
だが、もう一度会える、そしてずっとそばにいられる、でももう決してあの手が私に触れることはない……。

そ れは渇いた人間が見る泉の幻、手を伸ばしたところで届きはしないのだ。
無償の愛を知らないことの孤独。
無償の愛 とは安息。

何をしても、しなくても、ただ自分であるというだけで愛されることの安らぎを彼は知らない。
だ からこそ彼は死を求める。
彼にとって死とは、この底知れない孤独からの救済であり、顔も知らない母の胸に今一度赤ん坊となって抱かれ ることなのだ。

しかし、傷つきやつれ果て小舟で彷徨うどこの誰とも知れない若者を、イゾルデは癒してくれた。

イ ゾルデの手が触れた時、その手に癒される自分の肉体を感じた時、彼は初めて無償の愛を知ったのだ。
その愛を彼は騎士道ゆえに、この世 のしがらみゆえに諦めなくてはならない。



のだめが演じるのはアイルラ ンドの王女イゾルテ。

美しく誇り高いこの王女は、婚約者であるモロルトの仇とも知らずに、小船で流れ着いたトリ スタンを癒し看病してしまった。
イゾルデは一度はトリスタンを死の誘いからすくい上げたの女性なのだ。
しかし、 トリスタンの抱えている死の淵はとてつもなく深く、そして暗黒に満ちていた。
一度その淵を覗き込んだ者はもう引き返せないほどに。

「病 の床から彼が見たものは、剣ではなく、それを握る手でもなく、私の目だった。
 あの哀しい瞳、私は彼を無事に帰した、あの瞳が私を苦 しめぬように」

……トリスタンの瞳の中にほの暗く光る死の淵を覗き込んだ時点で、イゾルデはトリスタンに向かっ て、そして、死に向かって歩き始める。

イゾルデは「あの哀しい瞳」を見たときからトリスタンを愛していた。

そ うでなければ決して傷を癒したりはしなかった。
トリスタンは許嫁の仇でありながら彼女が命を救った男なのだ。
彼 女は当然に自分とトリスタンは結ばれると信じていた。

ところがトリスタンは彼女よりもマルケ王との誓いを選ん だ。

屈辱と絶望が彼女を苛む。
イゾルデが死を求めるのは、マルケ王を拒否しているからでも 恥辱からでもない。
もしそれだけならば、彼女は一人で迷いもなく毒薬を呷る。
あるいはもっと簡単に船から身を投 げていただろう。

だが、イゾルデはトリスタンと一緒に死にたいのだ。

…… なぜならそうする以外に彼とは結ばれないから。

イゾルデは王冠よりもトリスタンの哀しい瞳が欲しかったのだ。

こ れは当時の王女としては決して許されないこと。
夫の愛する、このタブーに足を踏み入れたイゾルデには、この世に居場所はない。



あ まりにも有名なこの前奏曲は、余すところなくこの楽劇の魅力を伝えきる。



ワー グナーは、自身の楽劇から、序曲を廃して前奏曲を置くこととした。
劇が始まる前に冗長で、劇の開始自体とは関係のない種明かし的な序 曲が演奏される事を避け、劇の開始とより一体化した曲を求めたためである。
これはより後の時代に受け継がれる。




冒 頭に流れるのは半音階進行によるトリスタン和声の最たるもの「憧憬の動機」

これはライトモティーフとも呼ばれる オペラに使われる短い動機。
モティーフというのは動機。
メロディーの一番小さい単位だ。
登 場人物や感情にそれぞれ決まったテーマ音楽を付けることで、曲の中で繰り返し使われる。
これは、示導動機とも呼ばれる。
ラ イトモティーフの使用は、単純な繰り返しではなく、和声変化や対旋律として加えられるなど変奏・展開されることによって登場人物の行為や感情、状況の変化 などを端的にあるいは象徴的に示唆するとともに、音楽的な統一をもたらしている。

リュカが手を上げて、厳かに鍵 盤に打ち下ろす。

トリスタンの愛の告白。
ひっそりとした静かな響きから、しなだれかかるよ うなどっしりとした低音のピアノの音が、悲しくクレッシェンドで響き渡る。
ここの音の跳躍は次の下降音型を強調するためのものであっ て、その長い下降音型が「痛み」を表現している。
一度上昇した音が下降する。

そしてそれに 答えるかのようにのだめのイゾルデ。

作品の象徴である有名なこの和音。
何ともいえない不協 和音が不安を誘い、物憂げでありながら心の底の方へ染み込んでいくような哀しい美しさは、これからの物語がどこへ行き着くのかを既に暗示しているようだ。

斬 新で不思議な響きを持つ減五短七のこの和音はトリスタン和音と呼ばれた。
何の役割も持たない、機能的ではない和音。
そ れはそれまでの機能和音では解釈できない非常に特殊な音の並びであり、当時は音楽家達に衝撃を与え「和音崩壊の危機」とまで言われたが、後世の作曲家達に 多大な影響を与えた。

この和音の発見をもって、クラシック音楽全史を「トリスタン以前」と「トリスタン以降」に 分類することができる。

ワーグナーがこのようなスタイルの曲を書いたのは、結局この「トリスタンとイゾルデ」1 曲だけである。

当時、ロマン派音楽では他にも似た和音の片鱗の曲もあったにもかかわらず「トリスタン」という冠 がかぶせられるのは、この曲が音楽史上屈指の名曲であったからである。
しかし、面白いことにトリスタン和音のこの新しさを、ワグナー 自身はさほど意識していなかったようだ。
要するにこの音楽を特徴づけている独特の調性不明瞭感は、ワグナーの意識的な創造ではなく、 いわば本能的な創作の結果だと思われる。
間違いなくこの時のワーグナーには何かが降臨しているように感じられる。

ト リスタン和音は、非常にとらえどころがない響きで、行き場と解決のない不安定な音の固まりである。
そしてその和音の解決が再び次の不 協を生み、この解決もまた…といった具合に、問題は次々と提起され、解決されないまま引き継がれていくことになる。
この延々と続く未 解決の和音のうねりは、トリスタンとイゾルデ二人の永遠に解決されることのないであろう愛を意味していることは言うまでもない。

そ して、なによりも重要なのはこの、トリスタン和音の持つ独特な生理的効果である。
こののだめの奏でる絶妙な和音は、観客の心の奥底を 体の中心を、一瞬にしてとらえ官能の世界へと誘った。

この音楽以前にこれほど法悦感を喚起し、官能美をたたえた 音が鳴り響いたことはなかった。
結果として麻薬的効果が聴衆を陶酔の世界へと誘い、音楽的快感の虜とさせるのだ。
観 客達はこの前に立ちはだかる和音のもつ圧倒的な煽情効果の前になすすべもなかった。

この「憧憬の動機」が3度繰 り返され、そしてトリスタンの苦悩が現れる。
大いなる悩みに苦しんでいる2人。

そして現れ る「愛の動機」。
リュカが先導を取る。
全てはトリスタンの哀しみの眼差しが原因だったのだ。
次 第に曲が複雑になってはいくものの、心地よい調和には至らない。


夢の中で怪物に追いかけら れるような……あの感じ。

……走らなくては……逃げなくてはいけない。

そ れが分かっているのにどうしても足が前に出ない。

なぜ、出ないのかも自分でも分からないようなこのもどかしさ。

曖 昧で暗く不安定で、霧の中を歩むようなこの感覚は、弱く消え入るように前奏曲が終わるまで続いていく……。


愛 の媚薬を飲むことがその解決法であるかのように、「運命の動機」の旋律が2人を誘惑する。
一方甘美な旋律に不気味な低音「死の動機」 を絡ませている。

その媚薬には、2人の運命を握る鍵、愛と死が潜んでいるのだ。

ト リスタンの哀しみの眼差しに答えるようにイゾルデが「愛の動機」を奏でる。

リュカとのだめが、対話をするように 囁きを交わす。
お互いに呼び合うようなフレーズは、トリスタンとイゾルデそのもので。
2人の想い、思惑と視線が 複雑に交錯しているようでもある。
愛の媚薬が2人を誘う。
ぎこちない対話がなんとももどかしい。

徐 々に音が増えて厚くなっていき、動機を半音階ずつ上昇させて盛り上がりを魅せる「運命の動機」。
終止音を避けて延々と続く無限旋律と 言われるいつ果てるでもない旋律のうねりは、トリスタンとイゾルデの飽くことなき憧憬と張りつめた心理状態をただ一点に導く。
その官 能のうねりが徐々に大きくなり、曲を盛り上げ大きな変化を迎える。
昇りつめて、ついにぶつかり飛び散る愛。
クラ イマックスの瞬間は、リュカとのだめによってトリスタンとイゾルデの指導動機が同時に絡みつくように鳴らされる。

最 初は遠かった2人の距離が徐々に近づき、指が触れ合って、やがて指が絡んで……。

媚薬を2人が飲んだ後は、もは や官能の世界である。
何とも研ぎ澄まされた美しさ。
音楽のみが2人の行為を表現している。
切 ないまでの激しい憧憬。
更に抗いがたき哀しさと暗さの感情を伴い、至高の高みへ登り詰めた音楽が人々に官能と感銘を与える。

ク ライマックスが崩れた後は、再び冒頭の静けさに戻っていく。
まるで全てを出し切ったような虚しい脱力感。
そこに 描かれた深淵は人間の持つ性や罪を全て飲み込んだ上での諦念さえ感じる。



楽 理を超越した仮想界。その抗い難いメフィスト的求心効果。幻影への陶酔。カタルシス的な憧憬。情動の浄化。
「音楽」というものの魅力 を余すところなく表現しつくしたこれぞ芸術中の芸術。

たった10分間のこの曲に、いや数小節に、これほど多くの 複雑な感情を詰め込めることができるのだろうかと驚くばかりである。

それが、この前奏曲なのだ。

ワー グナー自身がヴェーゼンドンクにあてて書いたこの前奏曲の解説にはこうある。
「もっとも強い衝動、もっとも激しい努力へと、それが満 たされることのない欲求をたかめていった。
それは、途方もなく熱望する心に無限の愛の歓喜の海へ到達する道を開き、突破口を見いだそ うとする欲求である」

死を覚悟したはずのトリスタンとイゾルデが、侍女ブランゲーネの「作為」によって愛の媚薬 を飲んでしまったばかりに、死よりも救いのない禁断の愛の世界に踏み込んでしまう。





そ して観客に休む与える間もなく、曲は次の曲へ進む。





「ト リスタンとイゾルデ」、第3幕「イゾルデの愛の死」




静 かなソロで始まる「イゾルデの愛の死」は、終幕のクライマックス、イゾルデがトリスタンの後を追って死ぬ場面である。
あらゆるオペラ の中でも20世紀演奏史上に残る神話ともいえる域に達しているものの一つが『トリスタンとイゾルデ』、その最高峰。

終 局に向かって突き進む唯一の巨大なクレッシェンド。



冒頭部、二人で顔 を見合わせて、一瞬目を合わせて、頷く。
セカンドのリュカは、少し身体を引き、ファーストののだめが鍵盤を使いやすいようにする。
の だめは、リュカの鍵盤まで届かせるように、身体をリュカの前まで持って行く様に弾く。

そして、一瞬リュカとのだ めは同時に息を吸い込み……。

のだめがリスト編曲の「愛の死」の冒頭部を弾き始める。

リュ カは、あえてこの部分はリストを採用した。
冒頭部というのは、その曲の"顔"である。
その顔を出すことで、昼間 部がどうであれ、この曲は"愛の死"なのだと、見せつける。
のだめは、そんな冒頭部の顔を見事に、表す。
情緒豊 かに、だが凜とした誇りは忘れず、歌い始める。

恍惚に顔をゆがめるように。穏やかに、おおらかに、でも何処か女 性なのに雄々しく。
何処か、自慢をするように。私以上の幸せ者は、この世には存在しないのだと、そう誇るように。

そ して数小節後から、リストの編曲から離れていく。ここからがリュカの編曲だ。
リュカは低音部を揺らすようにトリルをたたみかける。ま るで、イゾルデの死を歓迎するように。
死に神の鎌を、にこやかに持つように。

のだめは…… イゾルデは、そんな死に神の様なトリルを、まるで自分の宝飾品の様に、おおらかに歓迎する。
そして、緩やかにおおらかにまるで愛に勝 利するかのように天を仰ぎ見るように、ソプラノのテーマを歌う。
リュカが徐々に音程を上げていき、のだめがピアノで歌う。


  穏やかにそっと 彼が笑(え)まうのを
 眼をいとしげに 開けているのが
 見えますね、皆さまに。よもや見えぬ とは。


のだめはそう、歌う。
右手で綺麗に
リュカ は右手で徐々に音程を上げて、テーマを補うように伴奏を入れるのだけれど。
左手が、トリスタン和音から、徐々に伴奏の中に不協和和音 を入れ始める。

そして、のだめが、「見えませんか」というテーマを歌った瞬間。

リュ カが、唐突にぱぁんっ。と音をはじけさせる。


「トリスタン、トリスタン!」


唐 突にそう和音で叫ぶ。
だが、のだめはその和音が落とされた直後に、何もなかったかのように穏やかにテーマを歌い続ける。
リュ カが聞こえないのだ、まるで過去の亡霊だ、と言うように。
ただただ、恍惚と、神から下された悦楽を噛み締めるように。


  いよいよ明るく 彼がかがやいて
 星光(ほしかげ)をまとって
 高くのぼるのが 見えませんか。


な のに、次の瞬間に、リュカが叫ぶ。


「ようこそ、わが血よ! 楽しく流れるがいい!」


ト リスタンが死に酔う様に、笑い声のような和音をケラケラと紡ぐ。
のだめは穏やかな水のようなハープの様な音を綺麗に繰り返す。
た だ、その二つの曲の調号を合わせ、和音が合うように、絶妙に調整された。

まるで夢と現、過去と未来、死と悦楽。

そ の対比のように、リュカは瞬間的に叫ぶ。
観客はどちらを信じて良いのか分からない状況に陥る。


「歓 呼して急ぐ、このおれの前から世界など消えうせてしまえ!」


その直後にのだめは歌う。

心 穏やかに。
トリスタンの不安を吹き消すように。

リュカの不況的な和音が徐々に解消され、ト リスタン和音に戻っていく。


 その心臓が 雄々しく膨らんで
 胸いっ ぱいに 高くほとばしるのが。
 その唇が 楽しげに優しく
 甘やかな息を 柔らかに吹くのが、
  皆さま、見えますね。感じられますね。
 私には聞こえます。このような様子が。


「な んと、この耳が聞いたのは光か?」


聞こえるに掛けるように、再びリュカが瞬間的に叫ぶ。


  おどろくほどに かすかながらに
 喜びを訴えつつ 全てを語りつつ
 穏やかになだめつつ 彼より音の出でつつ、
  私の中に貫き入って、自らを揺り動かして、
 愛らしくこだまさせつつ 私を鳴り廻るのが。
 冴え冴えと響きつつ  私を彷徨い廻りつつ
 柔らかな空気の 波なのか、
 うれしげな香りの 怒涛なのか、
 そ れらが膨らむのを、私をざわめき廻るのを


そう歌うのだめ。
今度は、 リュカはトリスタンだの忘れたように、ただただ寄り添うように、穏やかな伴奏を弾く。
のだめは其れを受けて、ますます穏やかに緩やか に、愛を叫ぶ。


 吸いとりましょうか。

 「吸い 取め」

 聴きとりましょうか。

 「聴きとれ」

  啜(すす)りこみましょうか。

 「啜り込め」

 潜りこみましょうか。

  「潜りめ」


リュカが、のだめのメロディを低く、分散和音にして返し始める。
ま るで、死に神が其れをささやき返すように。


 甘やかな香の中に 息をひきとり、

  「死の誘惑」

 波だつ波浪の中に 轟く音響の中に

 「愛の誘惑」

  世界の息の 吹き通う万有の中に

 「其れが全て」


そ うリュカが解説した、分散和音をリュカは紡ぐ。
そして次の瞬間。


  「イゾルデ!」


トリスタンの死のテーマで、トリスタンが最後に発した言葉の和音を。
リュ カは叩きつける。

死に魅了された、生を離した、恋人を待たなかった、愚かな男の、末声。

そ の音を、鋭く、強く、その一言で愛の全てを語るかのように。
だから、その和音が響いた瞬間、のだめもリュカも何も音を発しない。

ト リスタンの死の、トリスタンの愛の、全て。
だから、のだめは、イゾルデは其れを受け入れる。
そのための、空白。

暫 く空白の、時間。

 溺れこみ 沈みこみ
 無意識に 最高の愉悦。

そ して。
そうのだめが、穏やかに、そう勝利するかのようにささやく。
まるで、甘い吐息のように。
其 れを受けて、そしてリュカが、トリスタンが、第一幕(第4場)で夢中でむさぼった、愛をトレースする。


  「トリスタン! イゾルデ!」


そう夢中で呼び合った、あの時の音楽を深く静かに、奏でる。
ト リスタンとイゾルデの愛のテーマ、愛の全て。
そして、それを奏で終わり、リュカは、ふっと全ての音をやめる。


  溺れこみ 沈みこみ
 無意識に 最高の愉悦。


其れを包み込むように、 そうのだめがもう一度だけ、歌う。
晴れやかに、幸せそうに、死に神に手をさしのべ、愛を昇華するように……。
そ してリュカが下から穏やかにぽろんぽろん、と徐々に上がってくる音を紡ぎ、其れをのだめが途中で受け取り、最後に、ぽろろろん、と終止の和音を弾き……。
惜 しむかのように、ペダルでその音を伸ばし、伸ばす。
そして、のだめの足が静かにペダルからそろそろと離れ……。

穏 やかに、このとき確かに。

トリスタンとイゾルデの愛は、会場の空気に、溶けた。



ト リスタンとイゾルデの愛は、「完全な愛」。
そこには全てがあり、同時に何もない。
完全に満たされた時、人はもう 明日を望まない。
1人と1人が完全な合一を果たした時、そこに存在するのは2人ではなくて1人。
では、その1人 とは誰なのか?。

それは誰でもない存在。

完全なもの。

唯 一存在するものには定義は必要ないのだ。

その愛が空に上っていく。

冒 頭で流れた「憧憬の動機」の和音が、恋人達の壮絶な死によって、初めて解決する瞬間は、観客達に圧倒的な感動を与えた。



巨 大な迫力に打ちのめされる。

そして迫力よりも深淵で、なおかつ昇華されるような美しさで迫ってくる。
官 能のうねりとは別種の芯の強さ、逞しさが此処には存在する。
現実からひたすら乖離してゆく愛の浄化ともいうべき神々しさと静寂さ。

ま さに13世紀の最高芸術と呼ぶに相応しい音楽が今ここに歴然と存在している。

観客はその姿に圧倒された。

『zephyr』 のイゾルデ役の野田恵が、どんなにスキャンダラスに書かれ、どんなに悪評を抱えているかなど、そんなこともはや彼らにはどうでもよかった。

た だ目の前にいる、観客である彼らに至上の感動を与えてくれたこのピアノデュオこそが、本当の姿なのだ。


そ れだけで満足だった。





千秋 は演奏の間、ずっとのだめのイゾルデを見ていた。

少し前までの、のだめは「トリスタンとイゾルデ」の世界に入り 込めずに苦しんでいた。
それがまるで嘘のように、彼女はイゾルデそのものになりきっていた。

最 初の頃の、のだめのイゾルデは「怒れるイゾルデ」であった。

彼女は、誇り高く強いアイルランド王女。
自 らの王女としての誇りを踏みにじられた彼女は怒りに満ちてなお、すごく生命力に溢れ、かつ官能に満ちている。
トリスタンへの狂おしい までの愛情を表す術を知らず、彼女はただひたすら怒っている。

彼女のその生命力は、最初から死に急いでいるよう な英雄トリスタンと比べれば対照的だ。

そして彼女は恋に目覚める。

そ れが媚薬のせいだったのかそんなのは関係ない。
そんなことはどうでもいいことなのだ。

今、 この瞬間、彼女が彼を狂おしいほど愛しているのは事実なのだから。

恋に目覚めてからのイゾルデは素晴らしい。

愛 に溺れているからと言って媚びるようなことはせず、毅然として立っている。

新しい愛の世界を挑戦的にひたすら突 き進む。
朗々と歌い上げる。

彼女は、のだめと同じ激しい女性なのだ。

そ う。

別れに怯え、女々しく縋り罵詈雑言を浴びせる恋人を、壁に投げつけ叩きつけるほどの、強い意志を持った女性 であるのだめ。

……いつだって本気で。

いつだって自分の心のままに生 きている女性なのだ。


のだめは、恍惚に満ちた真っ直ぐな眼差しでリュカを見つめる。
そ してリュカもそれに答えるかのように愛おしくのだめを見つめる。
2人が見つめ合うたび、そこだけ時が永遠に止まったように思える。

陶 酔的なその表情。

……のだめのあの表情を千秋は覚えていた。


昔、 2人でベッドの中で愛しあったあの時の表情。

強い衝動にかられる行為。
途方もなく相手を熱 望する心。
寄せては返す無限とも思える快楽の波。
そして互いに満たされるなんとも言えない喜び。

あ の時の欲情
あの時の肌のぬくもり。
あの時の匂い。

自分だけしか知らな いと思っていた。
誰にも見せたくないと思っていた。

のだめのあの時の官能的な姿を見せつけ られているようで、千秋は思わず口に手を当てた。
胃液が逆流しそうだった。

のたうつような 激しい嫉妬に胸が焦げ付く。

まるでトリスタンに愛しいイゾルデを寝取られた間抜けなマルケ王のように。


苦 しい。

苦しい。

苦しい。


2 人の手が交差する度に、その体が触れ合う度に、千秋は叫びそうになるのを必死で堪える。


や めろ。


触るな。


そ い つ  は 、 俺 の も の だ 。


他の誰でもない、俺の……。


俺 だけの……もの。


だから。


だ から……勝手に……触るな……。






曲 が終わった。

のだめは無音の世界にいた。
何も音が聞こえずに静寂の中、別世界にいた。

い まだ彼女はイゾルデであり、トリスタンとの愛を昇天させた興奮と喜びに満ちていた。
もはや2人を引き裂くものは何もない。
満 たされた幸福感が彼女を包んでいる。


誰かがのだめの手を取って立たせる。


誰?

…… トリスタン?

……それとも……。


のだめは手を 取った相手の顔を見た。


金色の髪、緑の瞳、優しい笑顔。


愛 しいトリスタン……。


……違う。


こ れは、リュカだ。

私の、大事な友達で、私の大事なパートナーである……。


そ う認識した瞬間。


わああっと、凄まじいほどの歓声が大音響で、のだめの耳に洪水のように押 し寄せて来た。

のだめは観客席を振り返る。

どの顔も興奮と喜び、そし て感激に満ちた笑顔で溢れている。
まるでスコールのような拍手の嵐が鳴り響く。
所々で起こる、「ブラボー!!」 といった声。

のだめはふと観客席のある一点に目を留めた。

そこには彼 女自身が、恋い焦がれてやまない人物がいた。

彼は演奏前に目をそらさないと約束した。
その 言葉通りにその人物は目を逸らさずに、まっすぐにのだめだけを見つめている。
どこか苦悩しているような表情ではあるものの、ただひた すらにのだめだけを見据えていた。
のだめはただ、その顔だけしか目に入らなかった。

2人 は、舞台の上と客席からお互いに長い間見つめ合った。

ふと隣にいたリュカに促されるようにして、のだめは現実に 戻る。


そうだ。


お辞儀をし なくては。


ここまで、私達を応援してくれた……ここまで、私達の音楽を聴いてくれたみんな に……。


のだめとリュカは観客席に向かって深々と頭を下げた。


あ りがとうございマス。

本当に、本当に、ここまで、弾かせてくれて、聴いてくれて、本当にありがとう……。

あ の時、ピアノをやめないで良かった。
ずっとずっと弾き続けてきて良かった……。


の だめの瞼が熱くなり、感動で涙が溢れ出しそうになった瞬間。

意外なことが起こった。


リュ カが突然、その場で床にひざまづいたのだ。


そしてリュカは、片膝をついたまま、のだめの両 手を握り、その瞳を真正面から見つめた。


のだめは混乱した。

こ んなことは演奏前の打ち合わせになかった……。


リュカはまっすぐにのだめを見つめていた。
そ の瞳にはのだめ自身の姿だけが映っていて。
今までにないような真剣な眼差しに、のだめはごくりと唾を飲み込んだ。


観 客達も何事かと思い、一瞬ざわつき始めるも、これも演出の一環かと思ってすぐに収まった。


何 かが起こる。

そう皆が思っていた。


しん……と静 まりかえった場内に、リュカの澄んだ声が響いた。


「NODAME Je l'aime(のだめ、愛している)」


のだめは驚きで目を見開いた。

聞 いていた千秋も思わず息を呑んだ。


「Veuillez m'epouser(僕と結婚してください)」


リュカは言った。










続 く(written ハギワラ)

以下のサイト等を参考にさせていただきました。
http://pippo.sakura.ne.jp/page/tristanundisolde0.htm
http://homepage3.nifty.com/operasuzume/TristanUndIsolde.htm

な お「イゾルデ愛の死」の箇所は、「初動捜査」の水神斎槻さんの文章です。