会 場は興奮と混乱の渦に巻き込まれた。

リュカの言葉はフランス語だったため、その内容がわかる人間はごくわずか だった。
だが、どうやら愛の告白をしているらしいというのは、はたから見ても明白だったようだ。
そして、誰かの 口から「プロポーズだ」という言葉が漏れると、その言葉が人から人を通じて、どんどん会場内に広まっていく。

「が んばれ!!リュカ」
「いいぞ!!」

などのリュカを応援するような歓声が沸き起こる。
事 態はますます混乱を極めた。

のだめはただ顔を真っ赤にしたまま、舞台上で立ち尽くし、おろおろと戸惑っているだ けだった。

一方、リュカは涼しい顔で立ち上がると、のだめに向かって優しく微笑みかける。
そ して客席の方を向いて、ゆっくりした動作で右手を前に出すと、まるで騎士のように優雅にお辞儀をした。

いっそう 湧き起こる歓声の嵐。

その拍手を受けながら、リュカは混乱の中にいるのだめの肩を抱いて、舞台袖に退場した。






楽 屋裏にいたスタッフも突然の出来事に呆然としていたようだが、2人が楽屋裏に戻ると温かい拍手を送った。
リュカはそれに、にこっと 笑って答えるとスタッフの労をねぎらう。
そして、通路を通って自分の控え室に戻ろうとした。

「待っ てくだサイ!!」

リュカが振り向くとのだめが走って追いかけて来て息を切らしている。
ウィッ グをむしり取ったその髪はボサボサのままで。
のだめの顔は耳まで真っ赤だった。
それが、演奏が終わった後の興奮 のせいだけではないことをリュカは知っていた。

「……リュカ」

のだめ は呼びかける。

「……どうしてっ……あんな……あんなっ……」

声が震 えて言葉にならない。


どうして。

あんなことを 言ったんですか。

……どうして。


のだめの今にも 泣き出しそうな顔をリュカは、黙って見つめていた。
彼女のくるくる変わる表情が好きだった。
おひさまのような眩 しい笑顔も……頬をふくらまして怒った顔も……今のように涙が今にもこぼれそうなその顔も。

全てを好きだと思っ た。
全てを愛しいと思った。

リュカはのだめを真っ直ぐに見据えると、こう言った。

「…… 決めてたんだ」
「え?」

リュカは目を逸らさなかった。

「決 めてたんだ」
「……リュカ?」
「このデュオをやるって決まってから……ずっと、考えていた」
「………」
「い つも頭の中にあった」
「………」
「ラストコンサートが終わったら、のだめにプロポーズしようって……そう、決め てたんだ」

のだめは息を呑む。
リュカは、いつものように優しく微笑んだ。

「本 番前に、僕の『夢』は何か?って聞いたよね」
「………」
「僕の『夢』は……のだめ、……君なんだ」
「リュ カ……」

その言葉に呆然と立ち尽くすのだめ。

「……ずっとずっと、君 を手にいれたいと思っていた。
 そう、初めてコンセルヴァトワールで出会った時から……ずっと」
「………」
「…… ずっと諦めてたんだ。……僕には手に入らないものなんだって。のだめの心は他にあるんだって……」
「………」
「…… でも、どうしても諦めきれなかった……」

そういうとリュカは晴れ晴れとした表情になった。

「舞 台で公言したことを僕は少しも後悔していないよ」
「……リュカ……」
「すぐに返事をくれなくていいから……ずっ と待ってるから……本気で考えてみてくれないか?」

そう言うと、リュカはゆっくりとのだめに近づいた。
そ の紅潮した頬に手を触れると、その瞬間のだめはびくっとして体を固くした。
リュカは笑って額に軽くキスを落とす。

「じゃ あね……今日は、お疲れ様」

そう言うとくるりときびすを返して立ち去った。

一 度も振り返ることはなかった。

のだめはその後ろ姿をただ、無言で見つめていることしかできなかった。







不 機嫌なマエストロ9-4話







観 客達は興奮の渦に包まれながら、次々と客席を後にしていく。
きっと明日の朝刊にはでかでかと、この記事が載るだろう。
観 客達は皆、その現場に居合わせた自分達のことを本当に幸運だと思った。

野田恵は、リュカ・ボドリーのプロポーズ を受け入れるか?。

もちろん受け入れるに決まっている。

あんな容姿も 才能も素晴らしい魅力的な男性から、あんな情熱的なプロポーズをされて、断る女性がいるとはとても思えなかった。

人 々は先ほどまでの最高に素晴らしい演奏と、目の前で起こったドラマティックな出来事の余韻にひたっていた。






「…… 千秋」

シュトレーゼマンの言葉に千秋は、はっと我に返る。

「……今、 タクシーが通り過ぎましたヨ」

そうだった。

会場を出てからシュトレー ゼマンをホテルへ送るために、タクシーを止めようとしていたのだった。
あれからどうやってシンフォニーホールを出たのか覚えていな い。

会場を出て歩きながらも、シュトレーゼマンが延々と語っていた。

今 日の「トリスタンとイゾルデ」の演奏がどんなに素晴らしかったか。
技術的にも、演出的にも、どれほど2人のピアノが世界に通用する高 度なものだったか。
そして愛しののだめちゃんがどんなにセクシーだったか。

そんなことばか りを陽気に話続けていた。

……そう、何事もなかったのように。

いつも のように何気ない口調で。

千秋は、適当に相づちをうちながらも、足が地についてないような感じを覚える。

ま るで自分の体が自分のものでないようで。

自分で意識していないのに、足は勝手に動いて歩いている。
頭 が真っ白になって何も考えられないのに、シュトレーゼマンと普通に会話をしている。

体が泥になったように重い。

あ あ、今すぐここにベッドがあったらいいのに。
何も考えずに多分ぐっすり眠りたいと思った。

「…… すみません」

タクシーを見逃したことを謝る千秋にシュトレーゼマンは言った。

「千 秋……どうかしましたか?。さっきから上の空ですヨ」
「………」

千秋は答えられない。
振 り絞るようにして声を出す。

「……マエストロ。俺は……」
「………」
「俺 は……」


わからないんです。

自分がどうしたらい いのか。

自分自身の気持ちがわからないんです。


「………」

シュ トレーゼマンは深い愛情を持った目で千秋を見る。
そして、ゆっくりと近づくと、俯いたままの千秋の肩を優しく抱いた。

「千 秋……今、貴方がとても苦しんでいることを私は知っていマス」
「………」
「私は貴方に何もしてあげられません が……1つだけアドバイスしてあげられることがありマス」

千秋は顔を上げた。
シュトレーゼ マンと視線がぶつかる。

「貴方が今、しなければいけないことは……ただ1つだけデス……」
「マ エストロ……」

千秋は救いを求めるかのようにシュトレーゼマンを見つめた。

「…… マエストロ……それは……?」
「……それは……」

……シュトレーゼマンは千秋の手をぐっと 固く握りしめた。



「今から一緒に『One More Kiss』へ行きまっショウッッt!」



……… ……… ………



「…… はあっ??」

千秋はぽかあんと阿呆のように口を開けたまま、師匠の顔を見つめた。
シュト レーゼマンは有無を言わさず、そのまま千秋の手をぐいぐいと引っ張っていく。

「今日は、『One More Kiss』では、徹夜でクリスマスパーティなんだそうデ〜ス!」
「ちょ、ちょ、ちょっと」
「なおみちゃんも、ゆ みこちゃんも、まゆちゃんも千秋が来るの、待ってますヨ〜」
「いや、なおみちゃんとかじゃなくてっ!!」
「さ あ、行って、パアッと盛大にやりまショウ!!。ヘ〜イ!!タックシ〜〜ッッ!!」

目の前にキッとタクシーが一台 止まる。
開いた後部座席のドアに強引に千秋を押し込もうとするシュトレーゼマン。

「さ〜 あ、千秋!!スッペシャルな夜を共に過ごしまショウ!!」
「オイッッ!!ちょっと待て!!このくそジジイッッ!!」

激 しく抵抗する千秋の耳に、懐かしい声が聞こえた。

「千秋くん」

千秋は その声がする方を振り向いた。

……その視線の先にいた人物は。

「…… 黒木くん?」

そこにいたのはまぎれもなく黒木泰則だった。

彼はコンセ ルヴァトワール卒業後も拠点をフランスにおいていた筈なのだが……。

……何故ここに?。

意 外な人物の突然の出現に、疑問符がいくつも頭の中に浮かぶ。

とにかく話は後だ。
今はこのエ ロジジイをどこかに追っ払わないと。

シュトレーゼマンの手が一瞬ゆるんだ隙に、千秋はその手を振りほどく。

「…… すみません、マエストロ、ちょっと彼と会う約束をしていたので」
「え〜〜ワタシ1人で行けって言うんデスか〜」

シュ トレーゼマンの言葉を完全無視して、無理矢理タクシーに押し込めると千秋はバタンとドアを閉めた。
タクシーの運転手に合図を送り、出 発するように促す。

「チアキ〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

世界のマエストロ を乗せて走り去るタクシーを、手を振って見送る千秋。
小さくなっていく彼の姿をしばらく後ろを振り返って見ていたシュトレーゼマンだ が、やがて正面を向いた。

「すみまセン、銀座までお願いしマス」

そし てシュトレーゼマンはタクシーの中でふっと微笑み、独り言のように呟いた。

「……千秋……ここが、正念場デス よ……」





のだめは、まだ控 え室にいた。

舞台化粧を落とすことも、ドレスを着替えることも忘れたかのように、ただ鏡の前に座って両手で顔を 覆っていた。


……とうとう言わせてしまった。


リュ カが自分に好意を持っているのは、ずっと知っていた。

だけど、それは年上の女性に憧れている少年の一時的な感情 の延長線であって、今は仕事上の大事なパートナーとしてお互い割り切ってやれている筈だった。

……本当にそう だったのだろうか。
そう、思っていたのは自分だけだったのだろうか……。

リュカは……リュ カは……どんな気持ちでずっと自分のそばにいたのだろうか。


のだめは目をギュッと瞑ると歯 をギリリと噛みしめた。


その時、トントンとドアがノックされた。
のだ めは後ろを振り返らないで、顔を上げることすらしないで言った。

「……すみません……今、1人にしてもらえマス か?」

トントン。

その声が届かないようにノックは続く。
の だめは思わずかっとなってドアを開けて、外にいる人物に向かって叫んだ。

「今は1人になりたいんデス!!」

そ の瞬間、のだめはそこに立っていた人物に驚いて目を見開いた。

「……ターニャ……」










「…… びっくりしたな……まさか、皆が日本に来ているなんて……」

リュカは驚きを隠せないと言った表情で、旧友達の顔 を見回した。

「ふふっ。びっくりした?」

そう悪戯っぽく笑うのは孫 Rui。
全く1年で1番忙しい筈のこの時期に、世界でも有名なこのピアニストはこんな所で何をしているのかとリュカは思う。

ま あ、確かに。

確かに、Ruiからラストコンサートのチケットが6枚欲しいとメールが来ていたので、チケットを郵 送したのは事実だが。

……まさかこんな濃いメンバーで来るとは思わなかった……。

「…… リュカ、しばらく見ない間に背が伸びたネ」

そう眼鏡の位置を手で修正しながら言うのは李雲龍(リ・ユンロン)。

「ユ ンロン……わざわざ、このため だけ に来たの?」
「Ruiさんから電話をもらっちゃったら来ない訳にはいかないだろう!!世界中の どこにだって行くヨ!!」

そう言ってユンロンはRuiの顔を、熱く見つめる。
Ruiから にっこりと微笑み返されて、ユンロンは、はうんととろけそうな笑顔になる。
相変わらず、彼にとってRuiは憧れの対象らしい。

「そ れにしても、zephyrのラストコンサート、すごくよかったよ!!2人の音がまるでオーケストラみたいな迫力だった!!」

フ ランクが、感動を隠せないといった口調で言う。
彼は出会った当時と変わらない、人の良さそうな優しそうな青年のままだった。

「オ オッッ!!ここが日本の地ネ〜」

ハハハと笑うのは、ポール・デュボワ。

「お 腹が空いたから、後でスシとテンプラ食べに行こうヨ!!」

全く……こいつら皆、何をしにはるばる日本にまでやっ てきたんだか……。

溜息をつきながらリュカは思う。
だけどやっぱり懐かしい顔に出会えたこ とは嬉しかった。
このメンバーがそろうということは……チケットの残りの2枚の行き先は、彼らしか考えられない。

「…… ヤスとターニャは?」

そう尋ねるリュカに、4人は微妙な表情をした。
なんだか言いづらそう だった。

「いや……もちろん来てるんだけど……」
「ヤスはちょっと千秋に挨拶したいからっ て言って……」
「ターニャは、のだめが心配だからって、会いに行ったわ」
「2人とも後から合流するヨ」
「そ う……」

リュカはそれ以上何も言わなかった。

「だけど、びっくりした ヨ……舞台上でのだめにプロポーズなんて」

ユンロンは心底驚いたというようにふうっと息を吐きながら言う。
そ れに合わせるようにしてボソッと呟くフランク。

「……やっぱり、リュカはしぶとかった……」
「何 か言った?」
「い、いや、別に……」

ギロリとリュカから睨まれて、フランクは肩をすくめ た。

「リュカ!!ボクは感動したヨ!!」

ポールが目を輝かせてリュカ の手を握る。

「あれでこそ、本当のフランス人の心意気だヨ!!アムール魂だっ!!」
「…… どうも」

リュカの手を両手で掴んだまま、ぶんぶんと興奮で振るポール。
顔をひきつらせる リュカに、Ruiが言った。

「最高の演奏の後で、最高の瞬間に、最高のプロポーズ。
 …… 女性にとってはこの上もない演出だったけど……
 ここまで注目されて、もしのだめサンから、振られでもしたら、リュカ、目も当てられ ないヨ?」

彼女は、この後、間違いなく起こるであろう大騒動を心配していた。
それはリュカ 自身が予想していたことでもあった。

「……別にかまわないさ」

リュカ は平然として言った。

「愛している女性に愛してるって言えないことよりも恥ずかしいことなんて、僕にはないよ。
  誰に何を言われたってかまわない。
 ……僕が、のだめを愛しているのはまぎれもない事実なんだ」
「………」
「や るべきことはやったし、言うべきことも言った。
 ……のだめの答えがどうあるにせよ……公開プロポーズしたことを後悔はしてない よ?」

そう言うと、リュカは、うーんと伸びをした。

「……ああ、すっ きりした!!」

晴れやかに笑うリュカの顔に、Rui達はかってのあどけないリュカの面影をちらりと見たような気 がした。
なんだか昔に戻ったみたいだと思った。

「よし!!、ボクは『リュカが振られる』に 100ユーロ賭けるヨ!!」
「ええっと……じゃあ、僕もそれに200ユーロ賭ける」
「私も同じ!!。『リュカが 振られる』に500ユーロ賭けるネ」
「うん!……ボクは同郷のよしみで50ユーロにしとくヨ」
「……あのね…… 君たち」







そ の時、すぐ近くを別のグループが歩いていた。

「びっくりしたよな〜。リュカって奴、のだめにプロポーズしたんだ ろう?」

驚きが隠せない峰龍太郎に向かって清良は言った。
(もちろん峰はフランス語がわか らなかったので、清良から通訳してもらった)

「ええ。とてもシンプルだったけど……あれは確かにプロポーズだっ たわ……」
「のだめ……どうする気かしら……」

そう心配そうに言うのは真澄。

3 人はのだめから、プレミアムチケットをもらっていたのだった。
特に、峰くんと清良さんには結婚のお祝いに……と。

「よ く……わからないけど、あんなに情熱的に告白されたら、いくらのだめちゃんでもくらっとくるんじゃないのかしら……」

そ う言う清良に真澄は聞いた。

「……じゃあ、龍ちゃんのプロポーズはどうだったの?」

「「えっ!?」」

ぱっ と顔を赤くして俯いて黙り込む清良。
それに比べて峰は、平然と胸をはって言った。

「俺のプ ロポーズも情熱的だったぞ!!」

頬を紅潮させたままますます俯く清良。

「へ え……どんなんだったのか聞いてもいい?」
「あれは……忘れもしない敬老の日、9月15日だった。
 清良を訪ね ていった先の、夜景の美しい高層ビルのレストランで、俺たちはワインを酌み交わしていた……。
 シチュエーションは完璧だった。
  そして……俺は清良の手を握りしめた。
 ……正面から目をじっと見つめて……そして言ったんだ。

『清 良……子供作ろう!!俺たちの遺伝子を未来に残そうっっ!!』」

うわあ、最低……と真澄は清良を振り返った。

「…… それで、清良はなんて答えたの?」
「有無を言わさず、その場で張り倒したわ」
「あ、やっぱり」

と 真澄が言う。

「それで、鼻血を出して倒れた龍の上に上乗りになって、更に往復ビンタを20発ほど……」
「…… けっこうあなたもバイオレンスよね」

でも、と、続けて清良は頬を赤く染めながら言った。

「そ れから……『……はい、ふつつかものですが……こちらこそよろしく』って言ったの……」
「………」
「……あの時 の清良、涙ポロポロ流していて、すごく綺麗だったぞ……」
「レストランの客達が何事かと思って注目してたけど、そんなの全然気になら なかった……」

そして2人は見つめ合う。

「清良!愛してるぞ!!」
「龍! 私も!!」

がしっと道端で抱き合う2人に、真澄は呆れて物も言えない。
こうのバカップル は、日本の恥を世界に晒しに行ったのじゃないかしら……。
そんなことを考えながら前方を見ると、視線の先に異質なグループを見つけ る。

「あれ……」
「ん?どうした?真澄ちゃん」
「あれって……もしか して、リュカ・ボドリーじゃない?」

興奮で震えながら、そう言う真澄の指さす方向を見た峰は、目を輝かせた。

「本 当だ!!。それと、一緒にいるのはフランクとユンロンじゃないか!!。おーーーいっっ!!」

峰は大声で叫び手を 振った。
そしてあっという間に駆け寄って言った。

「ボンジュール!!2人とも久し振りだ な!!」
「あっ、リュウッ!!」
「なんでこんなところに?」

驚くフラ ンクとユンロン。
彼らと峰は、のだめがフランスにいた時に、紹介されて会っているのだった。

「…… 誰?このひよこみたいな頭の男は」

と囁くリュカにRuiがこっそり耳打ちする。

「な んだかのだめの友達みたいよ……」

峰とフランクとユンロンは抱き合って再会を喜びあった。

「リュ ウ!!ボクは日本に来たからには、アキハバラに行ってアニメショップに行きたいんだけど、明日案内してくれない?」
「オッケー!!秋 葉原だな。もちろん、メイド喫茶には連れていってやるぞ!!」
「リュウの実家って、中華料理店だったよネ。それは北京料理なの?広東 料理なの?それとも四川?」
「おう、裏軒は麻婆豆腐が一番お薦めのメニューだぞっっ!!」

そ れにポールが加わって更にややこしくなる。

「オオ!!。貴方が、ワビサビの日本人ネ!!」
「う んもちろんそうだな!!。俺は寿司は、わさびをうんと効かせた方が好きだ!!」

「……なんだか……」
「フ ランス語と日本語で微妙にずれてるけど……」
「話が通じてるみたい……」

呆然と見つめる Ruiと清良は、はっとしたように顔を見合わせた。
2人はかって共演したことがあった。

「お 久しぶり、Rui」
「キヨラ、帰国してたのね!!」

こちらも嬉しそうに手を取り合って喜 ぶ。

「おお!!。な〜んだ、2人は知り合いだったのか」

峰がにこにこ しながら近寄ってくる。
そしてRuiに向かって言った。

「ボンジュール!!。マイネームイ ズ、リュウタロウ・ミネ。キヨラのハズバンドだ!!」

バッキイッッッ!!。

清 良の右ストレートが見事に決まる。
スローモーションのように崩れ落ちていく峰。
Ruiは顔を青ざめながら言っ た。

「き……キヨラ。あの……この人、あなたのご主人じゃ……」
「いいええっっ!!。全く の赤の他人ですっっ!!」

いててて……と峰は頬を赤く腫らしたままゾンビのようにむくっと立ち上がると、今度は リュカに向かって言った。

「おい!!。お前!!。お前がリュカ・ボドリーだな!!」
「…… え……あ……そうだけど……」

さすがのリュカも逃げ腰だ。

なんだ?。
こ の奇妙な日本人は。
のだめの友達とかなんとか言っていたけど……。

「お前に是非食べてもら いたいどんぶりがあるんだっ!!。名付けて『是非、いる丼』だっっ!!」
「ゼヒ……イル……ドン」

リュ カにはこの男の言っている呪文のような言葉がさっぱりわからない。
気にせずにそんなリュカの肩を、初めて会ったというのに馴れ馴れし くがしっと抱くと、峰はハハハと笑った。

「よし!!。お前ら、皆、今から裏軒に来い!!。R☆Sオケのクリスマ スパーティーが始まるぞ!!」






「…… そっか……皆と日本に来てるんだ……」

千秋は黒木と歩きながら言った。
2人は近くの地下鉄 駅に向かって歩いていた。
冷たく澄んだ空気の中では、言葉を発するたびに吐く息が白い。

「ター ニャとは結婚するの?」

千秋の問いに、黒木は顔をさっと赤らめて、どぎまぎしながら答えた。

「い、 いや……お互いまだ駆け出しだし……そういうことはまだ全然考えてないけど……」

でも、と言う。

「…… 一緒に暮らしているんだ……」
「そっか……」
「……千秋くんは?」
「………」
「そ の……風のうわさで、昔の彼女とよりを戻したって耳にしたけど……」

風のうわさも何もないだろう。
情 報源は、きっとあそこの中華料理屋の息子に決まっている。
千秋は苦笑しながら言った。

「…… 振られた」
「え?」
「彼女に言わせると、俺は見た目はいいし音楽の才能だってあるけど、情けなくって、うだうだ 考え込むタイプで、ヘタレで、カッコばっかりつけて……肝心な事は何一つ言えないバカなんだそうだ」
「ぷっ……」

黒 木は口を押さえる。
顔を隠しているものの、その肩がぷるぷると震えていて、笑いをこらえているのがわかる。
千秋 はジロリと黒木を睨む。
黒木は慌てて、コホンと咳払いをするとこう言った。

「えっと……そ れは……また……その……確信をついてるよね」
「……黒木くんも俺のことをそう思ってたのか……」

ま さかといわんばかりに顔色を変える千秋に、黒木は取り繕いながらもまだ唇をひくひくと震わせている。

「まあ、そ の、全てがそうという訳じゃないけど……そんな部分もなきにしもあらずかな……なんて……」

そして2人で顔を見 合わせる。
次の瞬間、ぷっとお互いに吹き出した。
笑いながら黒木が言った。

「…… だけど、素敵な女性だったんだろうね……その人は」
「……ああ」

本当に、自分にはもったい ないくらいの女性だった。
毅然として、けして男に媚びることなく、自分の足できちんと立って生きている彩子のことを千秋は思った。

ち くしょう。

どうして、俺の周りの女性はこんなに強い奴らばかりなんだ。

「そ いつが言ったんだ。……本当に欲しいものを手に入れたかったら、死に物狂いで頑張りなさいって……」

冷たい風が びゅうっと音を鳴らせて2人の間を吹き抜ける。
コートの襟を立てながら黒木が口を開いた。

「…… 聞いたよ。恵ちゃんのこと……」
「………」
「なんだかいろいろ大変だったみたいだね……」
「………」
「そ れに」
「………」
「リュカ……あんなに本気だとは……知らなかった……」

千 秋は何も答えない。

「千秋くんは」

黒木が千秋を見て言った。

「…… 千秋くんはどう思うの……?」
「………」

俺は……と言いかけて千秋は口を閉じる。
の だめは……と言いかけてまた口を閉じる。

言葉にならない。

やがて千秋 は静かに口を開いた。
その言葉は、敢えて淡々と言っているかのように聞こえた。
俯いていたのでその表情はわから なかった。

「……俺には何も言う資格がない……」
「………」

し ばらくの沈黙が2人を包んだ。
黒木は、ふうっと溜息をつくと苦笑した。

「……本当に、彼女 の言うこと、当たってるよね」
「え?」
「ヘタレ」
「……えええっ?」
「あー あ、こんなことになるんなら、あの時に恵ちゃんを諦めるんじゃなかったなー」
「黒木くん……」

黒 木は悪戯っぽい目で笑って言った。

「……しっかりしてよ、マエストロ千秋!!」

ど んっと強く背中を叩かれる。
穏やかな黒木にしては、珍しく手加減なしにやられる。
これは他の感情もかなり関与し ているのではないかもとひそかに思いながら、千秋はその痛さに顔をしかめる。

だけどその痛さは、黒木の精一杯の 励ましなんだとわかっていた。

千秋は急に胸にこみ上げてくる。
思わず涙が滲みそうになるの を隠すかのように、わざとこう言う。

「……何言ってるんだ。……ターニャに言いつけるぞ」
「げ!!」

黒 木の顔が青ざめる。

「千秋くん……それだけはやめて……ターニャが怒ったらものすごいんだよ……」
「俺 には関係ない」
「お願いだよ、マエストロ〜」

千秋は笑った。
ちらほら と白い雪が降り出した。







「雪…… 日本にも振るのね」

ターニャはひらひらと舞い落ちる雪のかけらを手で受け止めた。

「ハ イ。でも、ロシアとは違って、なかなか積もるまではいかないですけどネ〜」

のだめも星も出ない真っ暗な空を見上 げた。
地面に落ちては消えていく、落ちては消えていく雪がとても儚くて。

「でも、ター ニャ、久し振りデスね!!」

のだめは振り返って笑顔で言う。

「どこに 行きたいデスか?東京タワー?お台場?温泉巡りなんてのもいいデスね」
「……のだめ」
「早く皆に会いたいデ ス!!。黒木くんに、フランクにユンロン、ポール……」
「のだめ」

ゆっくりと、でもはっき りとターニャはのだめの言葉を止めて言った。

「……リュカのプロポーズ、受けるの?」

の だめの顔から笑顔が消えた。

「………」
「別に……言いたくないなら、言わなくてもいいけ ど……」

のだめはしばらく黙っていたが、やがて独り言のように呟いた。

「…… リュカは、のだめの『恩人』なんデスよ」
「『恩人?』」

のだめがふふっと笑う。
そ して昔を思い出すかのように遠くを見つめる。

「あの時……盗作事件の時……皆がのだめのことを、白い目で見てい ました。
 師匠の曲を奪った裏切り者。
 恩を仇で返す最低の日本人だって……」
「………」
「…… でも……リュカは……リュカだけは、ずっとのだめのことを信じていてくれていたんデス」


僕 は知っているよ。
あの曲はのだめのものだ。
のだめは全然悪くないんだ。
僕は、あいつに直談 判してくるよ!!。


「ずっとそばにいてくれて……」


の だめ。
閉じこもってばかりじゃ体に毒だよ。今日はいい天気から、散歩に行こうよ。
近所の公園に花が綺麗に咲き 誇っているよ。


「ずっと励まし続けてくれて……」


の だめ。
ピアノやめちゃ駄目だよ。
苦しくても、つらくってもそれだけは駄目だ。
ピアノだけは 絶対に続けるんだ。


「のだめが復活するチャンスをくれた……」


の だめ!!。
僕と一緒にピアノデュオをしようよ!!。
今なら事務所の方も乗り気になっている……これはチャンスだ よ!!。


「リュカは……リュカは……ずっとずっと……」

の だめの声は途中から涙声になっていく。
ターニャは、のだめの頬を伝わり落ちる涙を、バッグから取りだしたハンカチで拭った。
そ してのだめの頭を胸に抱き抱える。

「……のだめ」
「でも……ターニャ……のだめは……」

顔 を上げてターニャを見るのだめ。
その瞳からは涙が溢れてあとからあとからこぼれ落ちてきて。

「の だめは、リュカにそこまで想ってもらえるような、女じゃないんデス……」

大きくしゃくりあげた。

「の だめの夢は、有名なピアニストになって先輩とゴールデンペアになることだって……リュカにずっと言ってました。
 ……だけど、本当 は、そうじゃなかったのかも知れない……」
「………」
「本当は……本当は……ゴールデンペアなんて、もうどうで もよかった……」
「………」
「……あのまま先輩のそばにいたかった。
 有名なピアニストに なんかなれなくても、ずっと先輩の隣で笑っていたかった。
 ……本当は……あの時別れたことを……ずっとずっと後悔してたんデ ス……」



あのまま。

ずっ と。

そばにいたれたらどんなに。



「の だめは……のだめは……嘘つきデス」
「………」
「最低の女デス」
「………」
「皆 が言うように、ただ、リュカを利用しただけなんデス……」
「……のだめ……」

顔をぐしゃぐ しゃに歪める。

「ーリュカ……ごめんなさい……!!」

のだめは大きく 声をあげて泣いた。
通行人が振り返って見ていることなど全然かまわなかった。
雪が降る中、ターニャはずっと黙っ たままのだめの体を抱きしめていた。








「ど うだ!!。リュカ!!……これが、『是非、いる丼』だ!!」

リュカは目の前に置かれたほかほか湯気のたつ怪しい 物体を見て、ごくりと喉を鳴らした。
ちらりと峰の顔を見る。
その顔は期待でキラキラと輝いていた。
そ こでしかたなくリュカは「是非いる丼」を、一口食べると無理矢理に笑顔を作ってみせた。

「……な、なんだか、面 白い味だね……」
「そうだろう!そうだろう!!すっげえ美味しいだろう!!」

ガッツポーズ をとり、満足そうに笑う峰。

「キャーッッ!!リュカが笑った!!」
「リュカがどんぶり食べ てる……かっわいい〜」

リュカの一挙一動に注目して、周囲でキャーキャー黄色い声をあげて騒ぐR☆Sオケの女性 達。
皆が携帯のカメラでカシャカシャと写真を撮っている。
そこをさすがのコンマスである高橋が一掃した。

「う るさい!!。リュカ君がゆっくり食べれないじゃないか!!」

そして、真正面の椅子に座るとリュカの顔をじっと熱 く見つめた。

「ボンジュ〜。リュカ。僕はR☆Sオケのコンマスを勤めている、高橋紀之だ。初めまして!!」
「…… どうも」
「……僕もコンセルヴァトワールの出身なんだ……すごい偶然だね♪」
「……はあ……」

そ して大河内といえは無謀にもRuiに接触を図ろうとしたが……。

「Ruiさん……今度、良かったら……僕の実家 に遊びにき」
「Ruiさん!!サインください!!」
「一緒に写真撮っていただけますか!!」
「Rui さんこっち向いてください!!」

あっという間にR☆Sオケの男性陣に囲まれるRui。
当然 のようにその波からはじき飛ばされて床に倒れる大河内。

「なんだかにぎやかだネ!!」
「た まにはこんなクリスマスもいいな」
「本場の中華料理とは……ちょっと違うけど、ここの料理はまたひと味変わってて美味しいヨ」

ど うやらポールとフランクとユンロンも楽しそうだ。

その時。

「峰くん、 元気かな」
「あいつはいつも無駄に元気だ」

ガラッと戸が開いて、黒木と千秋が入ってくる。

「あ……」
「あ……」

お 互いに見つめ合う、リュカと千秋。

その時。

「ほら……いつまでも泣い てないで……ね」
「すびばせん、ターニャ……ハンカチびしょびしょ……」

またガラッと戸が 開いて、今度はターニャといまだ涙目ののだめが入ってきた。

「あ……」
「あ……」
「あ……」

リュ カがのだめと千秋を見る。
のだめが千秋とリュカを見る。
千秋がリュカとのだめを見る。

3 人の視線が複雑に絡まった。
なんともいいがたい気まずい雰囲気がその場を漂う。

「えーっ と……」

峰が沈黙を破るように口を開く。

「……まあ、それぞれ、いろ いろあるとは思うけど……」



こほんと咳を1つすると。



パ アン!!

峰はいきなり隠し持っていたクラッカーを盛大に鳴らした。



「と りあえず、メリークリスマスだぜーーーーーーーっっっ!!」



その声が 合図になったかのように、皆がわあっと声を上げた。
それぞれが思いのままに騒ぎ出す。

「メ リークリスマス、千秋様!!萌です!!」
「お久しぶりです、薫です!!」

いきなり左右から 豊満な胸を押しつける鈴木姉妹に千秋は顔を赤くした。
そして真正面からはこの男、高橋紀之がジャンピングアタックする。

「千 秋君……好きだーーーーーーーっっっ!!」
「何やってるのよ!!あんたは!!」

ハエ叩きで 高橋を叩き落とす真澄。

「この私がいる限り千秋様には指一本触れさせないからね!!」
「な んだとこのもじゃもじゃ!!」

そしてこの場での人気者はやっぱりリュカとRuiだ。

「リュ カさ〜ん、こちらの唐揚げ美味しいですよ♪」
「ビールどうぞ……あ、まだ未成年でしたよね。いけない、てへ♪」
「じゃ あ、コーラにします?」

女性陣がリュカを取り巻くようにして囲めば。

「Rui さん、こっちに座ってください!!」
「あ、椅子が汚いですね!。僕のハンカチで拭いておきます」
「おい、そのハ ンカチ洗濯してるのかよ。ぐしゃぐしゃじゃないか!!そんなハンカチ使うな!!」

男性陣がRuiを取り囲み、喧 嘩を始める始末。

「のだめーーーーっ!!」
「久し振りネ!!」
「元気 だった?」
「ふおお……ポール、ユンロン、フランク……会いたかったデス〜!!」

三人と笑 顔で抱き合い、ぴょんぴょん跳ねて喜ぶのだめ。
それを見ていたターニャと黒木はふっと目を合わして安心したように笑った。

清 良は、調子にのって公衆の目前で自分にキスしようとしてきた峰を、容赦なく平手打ちで張り倒していた。




結 局この日はそのまま、もみくちゃの大宴会となだれ込んだ。
皆、心ゆくまで飲み、食べ、歌い、そして踊った。

あ まりの騒動にのだめと千秋とリュカの3人がその晩、言葉を交わす暇などなかった。








次 の日の新聞にはこんな記事が載せられる。

≪『zephyr』のリュカ・ボドリーがパートナーの野田恵に舞台上で プロポーズ!!≫

そこには、舞台上でリュカがのだめにプロポーズしている写真が乗せられていた。

…… そしてその横には、いつ捕られたのであろう千秋とのだめが抱き合っているように見える写真が載せられていた。

≪ しかし当の野田恵は、舞台直前に楽屋裏では新東響の常任指揮者である千秋真一と抱き合っていた!!≫











続 く(written byハギワラ)