3
月。
梅が花開き、しかし桜の蕾はまだまだ固く。
抜けるような青空は、何でもお見通しと言わんばかりに頭上に広
がって。
そんな日に、俺が受け持つ大学の春期講座が始まった。
不
機嫌なマエストロ 第3話
桃ヶ丘音楽大学特別春期講座。
春
休み期間である3月の間だけの、週1回合計4回の特別講座だ。
日本に帰国するなら後輩のために是非、と理事長に頼まれ、随分世話にも
なったことだし引き受けたのだが、人前に立つと言うのは、指揮台に立つのとは違い何とも性に合わない。
顔と顔を見合わせるから、だろ
うか。
少人数だから、と理事長は言っていたが、蓋を開けてみれば・・・俺が講師をしているこの教室は大講義室で、ざっとみても300
名くらいの学生がいそうだった。
騙された感じは拭えないが、しかし学生達は皆真剣な様子で俺の話を聞いてくれているので、まあ多少は
目を瞑ろう。
「では、これで今日の講座は終わります。何か質問はありますか?」
ざっ
と教室を見渡すと、挙手する学生が数名。
「では、君」
俺が学生を指し
示すと、教室の最後部に控えていたアシスタントが学生の所までマイクを持っていく。
そしてマイクを手に学生が質問をし、それに俺が答
え、また別の学生にマイクが渡り・・・を、数回繰り返した。
「それでは、続きはまた来週です」
俺
が教壇を降りると、学生達は俺をちらちらと見ながら後ろの出入り口から順に出て行く。
これでも一応指揮者として名を上げてきていると
思っていたので、もしかしたら質問攻めや取り囲まれるんじゃないか、という不安があった。
理事長が「皆が一斉に詰め寄ってくる、なん
ていうのは困るわよね。でも指揮者はある意味人気商売だしね」と言っていたが、何かしら対処してくれていたんだろうか。
おかしな質問
もなく、そして取り囲まれる恐怖を覚悟していただけに、やっと肩から力が抜けた。
出入り口へと流れていく学生達
の流れを見ていたら、その間を縫って、アシスタントがマイクを手に俺の所までやって来た。
「千秋センセ、お疲れ
様デシタ!」
アシスタントは、のだめだった。
別の意味で、肩に力が入
る。
「・・・先生はやめろよ・・・」
「じゃ、千秋先輩?」
「・・・あ
あ」
先輩、か。
胸に何だか甘酸っぱい感情が沸き起こる。
「ふ
ふ、先輩も立派になったもんデス」
だって先生ですよ〜、なんて、いたって暢気な口調ののだめを横目でちらっと見
る。
2年前より、やっぱり少し痩せた、か・・・?
先日の小ホールでの姿を思い出す。
相
変わらずのワンピース姿。
髪型も相変わらずのおかっぱ頭で、ぴょんぴょんと跳ねている。
化粧は以前と同じでして
いる様子はないが、肌は肌理細かく、唇は血色がいいのか赤く艶やかだ。
俺の知っているのだめと、どこも違わな
い。
2年前ののだめと・・・。
「どうかしマシタ?」
「あ、い
や・・・」
俺はじっとのだめを見ていたようで、のだめが首を傾げている。
誤魔化すように、
俺はのだめに尋ねた。
「何で、お前がアシスタントなんだ?」
そう。
今
日、大学に来たらのだめがいて、アシスタントのバイトです、なんて言って控え室にやって来たのだ。
講座の開始時刻ぎりぎりだったた
め、詳しいことは聞けずだった。
「えとデスね。この前ガコに来た時に谷岡センセに頼まれたんデス。休みの間は職
員も手薄だから、時間があるなら簡単だから手伝ってくれって」
この前、というと、俺がのだめのピアノを聴いた、
あの日だろうか。
「ちょうどいいんで引き受けちゃいマシタ」
「ちょうどいい?」
「今
のだめ無職なんで」
「無職?」
「あ、今は、デス。来月は理事長に頼まれてここでちょっとしたミニ・リサイタルし
マスし。その後も・・・」
のだめはそこで少し言い淀んだ。
「とにか
く、色々、ありマスから!のだめ、これでも忙しいんデスよ」
売れっ子ピアニストデスから、なーんて、と自分で
言って笑っている。
「それにしても・・・帰国、してたんだな」
のだめ
の笑い声が途切れて、思わずぽつりと口から言葉が零れ出た。
それはまるで相手を責めているようにも聞こえて自分でもはっとするが、口
に出した言葉は取り消せない。
のだめは特に驚きもせず、返事をした。
「はい、先月に」
「オー
ストリアに、ずっといるもんだと思ってた・・・」
「・・・先月までいマシタよ」
一瞬どこか
遠い眼差しをしたのだめは、すぐにいつもののだめに戻った。
「コンクールにも出て賞を取ったりしマシタし。のだ
め、オーストリアでピアニストとして一応プロデビューしたんデスよ」
「そうか・・・」
将来
が見えなくて、のだめがもがいていた時期を思い出す。
あの時、俺がもっとのだめを・・・。
いや、今更過去をどう
こう言ったって、もう終わったことだ。
「先輩も、帰国してたんデスね」
今
度はのだめが聞いてきた。
「年が明けてからな」
「マルレは契約更新しなかったんデスか」
「こっ
ちで、いい条件の契約があって・・・新東響の常任、なんだ。夏からだけど・・・」
「すごいデスね!新東響って歴史あるオケデスよ
ね?」
「まあ、そうだな」
「おめでとございマス!」
「サンキュ。でもまだ内緒だからな」
「ハー
イ」
傍から見れば、ごくごく普通の会話。
でも何故か緊張している俺。
大
学でこうしてのだめと並んで歩いていると、2年前の出来事は、実は夢で。
俺達は、俺達の気持ちは、まだ、寄り添っているんじゃない
か、と錯覚してしまいそうで・・・。
だけど、それはやっぱり錯覚で。
以前と今とでは、決定
的に違う事がある。
「先輩。お腹空きマセンか?裏軒行きましょうよー」
の
だめは全然変わっていない。
2年前と変わらない態度で、俺に接してくれている。
で
も・・・。
もう、俺の腕にその手を絡めてくることはない。
この距離
が、俺達の今の距離だ、と。
そう理解すると、胸の奥の奥で、何かが軋んだ気がした。
俺はそ
れを無視した。
そんな感情は、もう、必要ないから。
俺達は、もう、終わっているのだから。
そ
れに俺だって、今は恋人と呼べる存在が、いる。
「先輩。お昼ご飯〜」
俺
の記憶の中ののだめと、寸分違わぬ今ののだめ。
どうしても、とまどってしまう自分がいるけど。
俺だけ意識しすぎ
なのも、悔しいし、不自然だから。
「分かったよ」
昼飯を一緒に食べる
くらい、別にどうって事ないだろう。
控え室で鞄に荷物を詰めると、事務局に声をかけてのだめと昼飯に出かけた。
**********
次
の回も、のだめはアシスタントとしてやって来た。
といっても教室の最後部に控えて、にこにこと学生達と一緒に俺の講座を聞いているだ
けなのだが。
講座が終われば、またのだめは腹が減ったと言い、俺達は再び裏軒へ行った。
話
す事は他愛もないことばかり。
最初はお互いの近況報告から。
それから俺はマルレや客演で呼
ばれていった国の話、のだめはコンクールやサロン・コンサートの話。
音楽の話ばかりで、お互いのプライベートな事についてはお互い触
れず。
だから俺は今の恋人のことを話さず、そして俺からのだめに今そういう人がいるのかも、のだめが話さないので聞かなかった。
で
も何故か気になって。
左の薬指に指輪はないが、ピアノ弾きだから、つけていないだけかもしれない。
で
も名前は野田のままだ。
そんなこと確かめてどうするんだ、と内心思うけど。
それくらい気に
したって、知らない仲じゃないんだし普通だよな、と自分に言い訳してみたり。
見たところのだめは俺に対して全く
普通の態度だから、俺だけ意識しすぎなんだろうか・・・。
裏軒に行けば峰がいて、だけど俺達の事情をある程度
知っている峰は、あれこれとは言わずにいてくれた。
ただ懐かしい顔が再び揃ったことを喜んで、場がしんみりしない様に気を遣ってくれ
ていたようだった。
こういう時、峰はバカだけど、人間としては俺よりずっと出来ている、と口には決して出さないが思う。
だ
からか、裏軒でのだめと過ごす時間は思いの外楽しくて。
のだめと過ごすこの時間がちょっと捨てがたい、なんて俺は思っていた。
そ
して講座も3回目となる今日も、俺とのだめは裏軒に来ていた。
「美味しかったデスー!」
俺
の目の前で麻婆と炒飯を平らげたのだめは、これ以上の幸せはないとばかりの至福の表情。
ああ、この顔も懐かしいな、なんて思う。
そ
う、全てが懐かしい。
この時間が捨てがたいと思う気持ちは、きっと懐かしさから来ているんだろうと片付ける。
そ
れ以外の感情はない、とは言い切れないが、それもきっと一時的なものだ。
そしてこの捨てがたい時間も、もうすぐ
タイムリミットだった。
今までは食事が終わると「じゃあ、また来週」と少しだけ名残惜しい気もしながら別れていたから。
し
かし、今日はそうならなかった。
「先輩、この後予定ありマスか?」
一
瞬どう答えたものか迷った。
今日の予定はもうない。
今は午後2時だった。
「今
のマンションにもピアノはあるんですけど、ガコの練習室のほうが集中できるので、理事長に頼んで春休みの間だけ、自由に使わせてもらってるんデス」
そ
れは知らなかったが、どうせのだめのことだから部屋は掃除もろくにしてなくて、酷いことになっているんだろう。
「で、
実は江藤センセに時間のある時だけ、レッスンしてもらってたんデス。『もう教える事はあらへん』って言われマシタけど」
ハ
リセンに・・・。
それも以外な組み合わせだが、ハリセンも実は結構いい教師だったと、卒業してから気付いたっけ。
「今
日は江藤センセに見てもらえる日だったんデスけど、センセ都合が悪くなったって。だから先輩に時間があるなら、少しでいいんで、見てもらえマセンか?何で
もいいから、感想とか意見を聞きたくて」
そう言うのだめは、以前と少しも変わりない上目遣いで。
俺
はこれに弱かった、なんて思い出した。
のだめの申し出は、後で思えば断るべきものだったけど。
こ
の時の俺は、のだめの「お願い」以上にどうにも逆らいがたい思いが沸いてきて。
―――のだめのピアノが聴きたい
―――
先月偶然聴いた、のだめのピアノ。
どんなに時が過ぎても、色褪せることなどなかった
それ。
記憶の中より更に鮮やかさを増していて、どうしても、脳裏から消えなくて。
あのピア
ノを、もう一度。
再会してから、本当はずっと思っていた。
だから。
再
び聴いてしまったら、自分がどうなるか、なんて考えもせずに。
まだ今なら、懐かしさだけでのだめと一緒にいられる、そう分かっていた
のに。
「聴くくらいなら・・・」
俺はそう答えていた。
そ
して場所を再び大学に移して、俺達は比較的広い練習室までやってきた。
のだめは指慣らしにいくつかのスケールを辿る。
「実
は来月ここでするミニ・リサイタルって、入学式の後の新入生びっくり歓迎企画なんデス。それまでここで練習してるんデスけど。当日弾くのは2、3曲で、プ
ラスアンコールに1曲って事になってるんデス。曲目は当日まで内緒で、のだめが好きに決めていいって理事長が」
の
だめは楽しそうにそう教えてくれた。
こういう企画は、のだめが好きそうだな、と思う。
理事長の狙いどおりのだめ
がこの話に飛び乗っただろうことが容易に想像できてしまった。
「いくつか曲を用意してはいるんデスけど、まだ決
められなくて」
のだめはどれも捨てがたくて、と言う。
「じゃ、聴いて
てくだサイね」
のだめが目を閉じて、すっと息を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。
再び目を開
くと、鍵盤に手をかざして、そして流れるように動く指と、溢れるきらきらとした粒ぞろいの音。
相変わらす唇を尖
らせて、身体を揺らして。
楽しそうに、飛んで、跳ねて。
ああ、のだめのピアノだ。
世
界中、どこを探しても、これと同じ音には出会えない。
俺をこんなに惹きつける音には、きっと出会えない。
俺
はピアノの音に包まれながら、じっとのだめの横顔を見つめ続けた。
「どデシタ?」
ほ
うっと一息ついて振り返ったのだめは、窓から降り注ぐ陽の光に淡く輝いて見えて。
誰かが、のだめのことを「天使」だと言っていたな、
なんて記憶が甦った。
「先輩?」
不思議そうにこちらを窺うのだめに我
に返る。
「あ、いや・・・。良かった、凄く」
「本当デスか?」
「う
ん・・・」
「歓迎企画ですから、明るく楽しい曲がいいデスよね」
のだめが選曲について話始
めたが、俺は半分上の空だった。
ずっとずっと、心にぽっかり空いていた空洞。
今、のだめの
ピアノに、のだめの音に包まれて。
そこになみなみと注がれ、溢れる程に満ちた幸福感。
だけ
ど、それをただ単純に嬉しいと思えない自分。
聴くんじゃなかった、と思う。
こうなると、ど
こかで分かっていたはずなのに。
でも、どうしても、のだめのピアノが聴きたかった。
俺
は再び、このピアノに囚われてしまった・・・。
**********
ド
アを開けると、いつもは真っ暗な空間が今日は明るい。
足元には、女物のヒールの高い靴がきちんと揃えてある。
「お
かえり」
「ただいま」
ダイニングキッチンから顔を覗かせたのは、彩子。
大
学の時の元恋人であり、そして今の俺の、恋人だ。
夏に新東響へ就任するにあたり、パリと日本を行き来していた時
期に再会した。
新東響の企業スポンサーのひとつが多賀谷楽器で、彩子はそこで取締役として働いていて、偶然仕事関係の場での再会だっ
た。
昔馴染みの気安さもあって、帰国の度に食事に行ったりしていたのだが。
パリを引き上げ帰国した際、彩子から
ヨリを戻さないか、と持ちかけられ・・・特に断る理由がなかった俺は頷いていた。
お互い仕事で忙しく会えるのは週末くらいだが、今の
ところそれなりに恋人らしくは過ごしている。
今日は彩子から、仕事が早く終わりそうだから部屋で待っている、と
メールが入っていた。
「ご飯はまだ?簡単に作っておいたんだけど」
テー
ブルの上には、サーモンのカルパッチョとサラダ、そしてバゲットの入ったカゴ。
部屋に漂う香りから、鍋に煮込み料理でも入っているの
だろう。
大学時代は手料理を作ってもらう事なんてなかったから知らなかったが、彩子は多賀谷楽器のお嬢様ではあ
るが、料理も含め家事はひと通りそつなく出来るようだ。
手料理はまだ数えるほどしか食べていないが、いいセンスをしていると思う。
「も
らうよ」
寝室で着替えて出てくると、綺麗にテーブルセッティングされていた。
「い
いワインをいただいたの。どう?」
そう言って彩子はグラスに注ぎ、俺も彩子のグラスに注いだ。
お
互いの近況を話しながら食事をしていると、彩子がふと言った。
「真一、今日は機嫌がいいのね。この前会ったとき
は難しい顔していたのに。大学の講座、それとも新東響のほうかしら?順調なのね?」
「ああ、まあ」
「ふうん、そ
う」
彩子がそれ以上尋ねてくる事はなく、また新しい話題が始まったのだが。
俺は内心少し
焦った。
俺の機嫌がいいのだとしたら。
その原因はひとつしかなくて。
女っ
てヤツはカンが鋭いっていうけど、彩子もご他聞に漏れずそうなのか、それとも俺が顔に出やすいのか。
どちらにしても、別にやましいこ
とがある訳でもないのだが。
食事が済むと、彩子は「明日も朝から急がしいから、今日は顔を見にきただけ」と言っ
て帰り支度を始めた。
普通の恋人なら、ここで引き止めるんだろうか。
でも俺にはそんな気が全然起きなくて。
ア
ルコールを飲んでいるので送れないから、せいぜいタクシーを呼ぶくらいで。
それでも笑顔で帰っていく彩子に悪いなと思いつつ、どこか
ほっとしていた。
部屋に戻ると、綺麗に片付けられたキッチン。
彩子が全てやってくれた。
気
心知れた相手だし、彩子は一緒にいて楽な存在だと思う。
俺の部屋で彩子は料理をする。
俺は
それを食べる。
そして彩子が片付ける。
別に何の不満もない。
だ
けど彩子には、まだ俺の料理を食べさせたことは、ない。
作って、片付けて。
そんなことまで
していたのは、アイツだけ・・・。
昼間のアイツ・・・のだめをふと思い出す。
思い出すと、
頭にピアノの音が流れ出して止まらない。
あの瞬間の、あのピアノ。
きらきらとした宝物のよ
うな、それ。
それを、あの時は俺だけが聴く事ができた。
俺だけの・・・ものだった。
色
んな感情を取っ払ってしまえば、それがとても嬉しいという事実だけが残る。
そう、俺は嬉しいんだ。
俺
はあのピアノに、再び囚われた。
もう、これは否定しようがない。
だけ
どピアノに囚われれば、きっとまた、のだめにも・・・。
そう思った。
『のだめ、今はほとん
ど毎日、ここでピアノ弾いているんデス。
先輩、もし時間があるなら、また聴いてくだサイね』
だ
からそう言われても、断るべきだった。
だけど口から出た言葉は。
『いいよ』
了
承の言葉で。
俺は一体、どうしたいんだろう。
全て、終わったことだろう?
距
離をおくべきだ、と思うのに、実際していることといったら真逆の事ばかりで。
耳に残る、ピアノ。
俺
は自分でもどう整理したらいいのか分からない、どうしようもない気持ちを誤魔化すように、煙草に火を点け紫煙を燻らせた。
**********
の
だめときちんと約束をした訳ではないが。
俺は講座がない日に大学に来ていた。
今日の午前中
は、来月客演がひとつ入っているので、その打ち合わせだった。
その帰りに、たまたま近くだったから大学に寄ってみた、そう、それだけ
だ。
でも俺の足は、のだめが使わせてもらっていると言っていた練習室に自然と向かっていた。
練
習室の窓を覗くと、のだめがいた。
ここまで来たが、やっぱり帰ろうか、と思い練習室から離れようとした時、勢い
よくドアが開いた。
「あ、先輩!来てくれたんデスか?」
邪気のない笑
顔で迎えられて、この場を立ち去るタイミングを逃してしまった。
「まあ、近くまで来たから」
取っ
て付けたような理由を口にしていた。
「ちょっと休憩しようと思ってたんデスけど。せっかく来てくれたんデスか
ら、一曲弾きマスね!」
そう言ってまた練習室に戻ろうとするのだめにストップをかける。
「別
に慌てなくても・・・時間、あるし。休憩すれば?」
「そデスか?じゃ、そこの自販機まで行ってきマスね」
ぱ
たぱたと足音を響かせて廊下を走っていく後姿を見送って、俺は練習室に入った。
ピアノの上に楽譜が数冊。
手に取
ると、いたるところに書き込みがびっしり。
のだめがどれだけ勉強を、練習を積んできたのかがひと目で見て取れて、大学にいた頃ののだ
めを思えば感慨深かった。
「お待たせしまシタ!」
また勢いよくドアを
開けてのだめが飛び込んでくる。
「先輩もどうぞ」
缶コーヒーを手渡さ
れ、受け取った。
「何だか大学時代に戻ったみたいデスねー」
「そうだな・・・」
春
休み中の校内は静かで、練習室のある校舎も当然静かで。
ここだけ切り取られた場所のように感じる。
「春
休みも終われば、ここで練習出来なくなるんデスよねー」
のだめは窓の外に見える桜の枝を見上げた。
蕾
も膨らみ、あともう少しで開花だろう。
「今日江藤センセに、新学期が始まったらレッスンはできそうにないって言
われたとこなんデスよー。仕方ないデスよね、ここのセンセだし」
「こっちで師事する先生はいないのか?」
「今の
ところ特には。向こうにいた時は、オクレール先生には時々会いに行ってレッスンしてもらってマシタけど」
「それじゃオーストリア
の・・・」
「師弟関係は、一年前に解消してるんデス。一応独り立ち、デスかね」
俺が最後ま
で言う前にのだめは俺の言葉を遮った。
のだめの表情が一瞬曇ったように見えた気がしたが、気のせいだったのか。
瞬
きする間に、もうそんな表情は消えていた。
「最初の頃は演奏旅行に付いていって、その合い間にレッスンしても
らって。色々、勉強になりマシタ。オーストリアに行って、良かった、デス」
のだめがどことなく切なそうに笑っ
た。
「そうか」
俺にはそれしか言えなかった。
「江
藤センセも時間のある時は見てくれるって言ってくれマシタし。だいじょぶデスよ。それより先輩も来てくれたことデスし、何か弾きマスね」
話
題を切り上げて飲み終えたミルクティーの缶を置くと、のだめはピアノチェアに座った。
のだめの纏う空気が変わ
る。
この瞬間ののだめは、どこか神がかり的なものを感じさせる。
そして始まる曲。
あ
あ、やっぱり。
俺はこの音には逆らえない。
魂が吸い寄せられるようだ。
の
だめのピアノを聴きたい。
もう、この欲求はきっと止められない。
俺は2年前、あんな酷いこ
とを言ったのに。
のだめは何も言わないし、俺を責めない。
こんなに近く、ピアノを聴くことを許されている。
で
も、のだめの優しさは、逆に残酷だ。
俺に、謝罪することを許さないと言っているのと同じだから。
いっ
そ謝ることが出来るのなら、そしてそれでもピアノを聴くことが出来るのなら。
この胸の内にわだかまるものも、少しは楽になるのかもし
れないのに・・・。
自分勝手だとは分かっていても、思わずにはいられなかった。
**********
の
だめの練習には、その後週2、3回の程度で付き合っていた。
最初は何だかんだと理由をつけていたのだが、結局のだめのピアノが聴きた
いから付き合っていたようなものだ。
練習室にほぼ一日いるのだめのところに、適当な時間に足を運ぶ、そんな感じだった。
そ
してそうこうしている内に、春期講座が無事に終了した。
最後の講座の後は、最後とあって学生達が俺を取り囲む、という事態になった訳
だが、それを見越していた理事長が職員を数名付けていてくれたので、酷い混乱になることはなかった。
講座が終わ
ると、当然のだめのバイトも終わった。
のだめの練習に付き合うのも、入学式はもうすぐだからそろそろ終わりだろう。
俺
達の接点も、もうなくなる。
練習室の隅に陣取ってのだめのピアノを聴く、たったそれだけの、でも何にも変えがた
い時間。
もうすぐ、手放さなくてはならない。
「先輩?聴いてマシタ?」
の
だめが唇を尖らせて俺の前に立っている。
「聴いてたよ」
「本当デスか?」
「う
ん」
そのまま床にぺたんと座り込んだのだめは、にこにこと俺を見て笑った。
「先
輩のおかげで、練習はかどりマシタ。ありがとございマシタ。入学式は、聴きに来てくれマスか?」
「俺は関係者じゃないだろ」
たっ
た2、3曲のリサイタルでも、聴きに行きたいけれど。
「理事長に頼んで入れてもらいまショウよ。きっと大丈夫デ
スよ」
きっと大丈夫。
何故だろう、のだめの「大丈夫」は、本当にそんな気になるから不思議
だ。
「入れるなら、行く」
「じゃ、決まりデスね。明日にでも理事長に頼んできマス」
そ
して入学式当日。
俺は理事長の計らいで、入学式会場である講堂の目立たない席をひとつ確保してもらった。
入
学式は滞りなく終わり、だが学生達にはまだ席に着いているようにアナウンスが入る。
一体何事か、と何も知らされていない学生達はざわ
めいていたが、ステージにピアノが用意されのだめが現れると、皆が一斉にそちらに注目した。
のだめがピアノチェアに腰掛けると、何が
始まるか理解したのだろう、学生達は静かになった。
遠くからでも、のだめが息を吸い込むのが分かる。
目
を閉じたまま、まるで祈りを捧げるように天を仰ぐと、ゆっくりと瞼を開いた。
のだめはどんな曲を弾くのか、俺に
も内緒にしていたが。
これから、のだめ曰く「新入生びっくり歓迎企画」のリサイタルが始まる・・・。
1
曲目。
メンデルスゾーン『無言歌集』第30番イ長調op.62-6「春の歌」。
『無言歌集』の中で最も有名な
曲。
アルペジオを巧みに用いた美しい旋律がとても華やか。
「春の歌のように」とある発想標語のとおり、春の訪れ
を言祝ぐ様な、軽快で優美なメロディー。
のだめは優しく微笑みながら、春の喜びを曲に乗せているかのようだ。
繊
細な技巧による抒情的な演奏が講堂を包み込み、あっという間に学生達をのだめのピアノに釘付けにした。
2
曲目。
ラヴェル「水の戯れ」。
テンポ、リズム、旋律、和声等の曲の構成はシンプルだが、その肉付けは複雑で変化
に富んでいる。
一瞬一瞬変化する水の美しいきらめきや動きが、見事に表現された曲。
技巧的に難曲であるが、のだ
めはそんな事を微塵も感じさせない。
きらきらと透明感のある水と戯れるように、ラヴェルの洗練された魅力をたっぷりと、滑らかに弾い
ていく。
3曲目。
モーツァ
ルトのピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332。
ピアノ・ソナタ第11番(トルコ行進曲つき)に隠れてしまいがちだが、モーツァルト
独特の美しさがよく現されている。
リズミカルで元気な第一楽章、ロマンチックで美しいゆったりとした第二楽章、生き生きとして快活な
第三楽章。
非常によくまとまった、シンプルかつ奥深さのある、ひとつひとつの音そのものが美しい曲。
モーツァル
トらしい軽やかで華やいだ雰囲気を、のだめのピアノが魅力的に歌い上げる。
の
だめはいつものように身体を揺らして、唇を尖らせて。
練習室で聴いていたのとは比べ物にならないくらいの圧倒的
な技巧と表現力で、流麗にピアノを弾いている。
学生達は皆、曲の間に拍手をする事も忘れ、ただただのだめの演奏
に聴き入っていた。
そして3曲の演奏が終わり。
静
まり返ったままの講堂。
のだめが立ち上がってお辞儀をすると、そこで皆が我に返ったように大きな拍手が一斉に起
こった。
鳴り止まない賛辞の拍手に応えてのだめが再びピアノチェアに腰掛けると、また訪れる静寂。
そ
してアンコールの演奏が始まった。
アンコールは
宮城道雄の「さくら変奏曲」。
舞い散る桜の花びら一枚一枚が目に浮かぶような、一音一音丁寧で豊かな響き。
ここ
がまるで桜が咲き乱れる里山であるかのような、そんな錯覚を引き起こす幻想的なトレモロ。
のだめらしく、飛んで、跳ねて。
何
て楽しげで、何て魅力的な音色。
もっと、もっと
この音に酔いしれたい。
のだめだけが奏でる事のできる、このピアノに・・・。
し
かし、曲は美しい余韻を残して静かに終結した。
ピ
アノの音が消えた講堂は、水を打ったように静かで。
聴衆の反応がない事にのだめは戸惑いながらも立ち上がり、深々とお辞儀をすると袖
に下がっていく。
その瞬間、爆発的な拍手が沸き起こり、一気に大きな波となってのだめに向かった。
びっ
くりしたのだめが聴衆である学生達を振り返ると、拍手だけでは足りないとばかりに、皆一斉にスタンディングオベーションで演奏を称えた。
そ
れに笑顔で応えるのだめ。
アンコールを入れてもたった4曲のミニ・リサイタル。
ほ
んの数十分のひと時。
たったそれだけでも、のだめのピアノは会場を支配した。
それは学生達
の反応からも疑いようもなくて。
割れるような拍手喝采を浴びて、「先輩」であるのだめからの祝福は終わりを告げ
た。
誰もがもっと聴きたい、そう思っただろう演奏だった。
俺も、間違いなくその内の一人
だ。
あのピアニストは一体何者なんだ、と学生達が囁きあう。
今日のミニ・リサイタルでは、
のだめの正体は伏せられていた。
それがのだめのピアノを、のだめを、より神秘的に印象付けただろう。
プ
ロとして活動していると言っても、のだめは日本ではまだ「名もなきピアニスト」だ。
だが今日のこのリサイタルを聴く限り、機会があれ
ばすぐにでも、のだめというピアニストは日本で名を轟かせるだろう。
熱い興奮に包まれた講堂は、それでも新入生
達が席を立っていくごとに静寂を取り戻していき、俺は最後までその場に残っていた。
この余韻に、少しでも長く浸っていたかったから。
今
日の演目。
モーツァルトにラヴェル。
思い出すのは、サン・マロの教会でのリサイタル。
あ
の日、厳かな教会に満ちたのだめのピアノ。
俺がした「覚悟」。
あの覚悟を、俺はいつの間に
か忘れてしまっていたんだな、と今頃過去を振り返って思う。
もう、全てが・・・遠い。
ぼ
んやりと講堂の隅の座席に居座っていたら、ふと背後に人の気配がした。
振り返らなくても、誰であるのかは以前と変わらずに分かった。
「先
輩・・・」
のだめは、今日の選曲に合わせたようなふんわりとした桜色のドレスを身に纏っていた。
そ
の様子は、まるで桜か春の精のように可憐で。
のだめの実態を知らない新入生の中には、のだめのピアノとのだめ自身に魅せられた者も間
違いなくいるだろう。
「どうデシタ?」
演奏後間もないせいかまだ上気
した頬で、満足のいく演奏ができたのだろう、その表情は満ち足りていて。
だけど、どこか不安そうな瞳で俺に感想を求めてくる、そんな
のだめを。
抱きしめたい。
なんて、俺は思ってしまった。
「良
かった」
俺の言葉を聞いて、のだめは蕩けるように微笑んだ。
「たくさ
んの拍手も嬉しいデスけど、先輩のその一言が一番嬉しいデス」
そんな顔で、そんな言葉を。
今
はどうか言わないで欲しい。
この瞬間、時間が巻き戻ったような気がしてしまうから。
い
いや、違う。
俺は、時間を巻き戻したいんだ。
のだめを、今でも、愛し
ている・・・。
のだめと再会してから、多分ずっと感じていた思い。
蓋
をしていた自分の気持ち。
今日、この場で。
のだめのピアノを聴いて、聴いてしまって。
今
にも、溢れてしまいそうだ。
今でもお前が好きだ、愛している、と告げて。
それでのだめが再
び手に入るのなら、いくら言っても構わない。
だけど、俺は怖い。
きっ
と、2年前と同じことを、また繰り返す。
のだめと共にありたい、と願っても。
のだめを縛る
ことは出来ないから。
「俺さ、お前のピアノ、今でも好きだよ」
ピアノ
だけなら。
きっと、苦しまないし、苦しめることもないはず。
「だから、また、ピアノ聴かせ
てくれ」
そう言った俺に、のだめは笑顔で頷いてくれるかと思ったのに。
「・・・
どこで?」
のだめは困ったようにそう言った。
「もう、ここでピアノ弾
けまセンよ?」
大学の練習室はもう使えない。
大学の頃はいつも俺の家で聴いていたし、パリ
ではお互いの家で聴いていたけど。
でも今は?
俺の家、のだめの家、
どっちにしても・・・俺達は、もうそういう関係ではない。
それでも、側で、のだめのピアノを聴きたいと思う自分。
「俺
の家でよければ・・・、メシくらい作ってやるし・・・」
するとのだめは顔を少し顰めた。
「峰
くんに聞いて、のだめ、知ってマスよ・・・彩子さんのこと」
峰の奴・・・。
でも、峰を責め
る訳にはいかない、か。
きっとのだめに良かれと話したんだろうから。
そう、俺には・・・彩
子がいたんだ・・・。
「のだめが先輩の家に行くのは、彩子さんに悪いかな、と・・・」
「・・・
そう、だな・・・」
「・・・のだめの家に、聴きに来マスか?」
「え?」
「のだめには、誤解
されて困るような人はいマセンし。ただちょっと、今住みづらいデスけど」
そう言って笑うのだめは、よく知ってい
るのだめで。
「俺に、掃除手伝わせる気か?」
「ばれマシタ?」
「った
く、相変わらずだな」
今まで通りに会話を交わすけど。
のだめの一言が心の奥深くに残った。
―――
誤解されて困るような人はいマセンし。
その言葉に、鼓動が早くなる。
多分、のだめに恋人が
いないことが分かって、どこかほっとしている俺。
でもだからって、俺とどうかなる訳でもない、とも思う。
と
にかく、この時は。
のだめの家で、これからも時々レッスンに付き合うという名目でピアノを聴かせてもらう約束を取り付けられた事が、
ただ、嬉しかった。
それからは、客演の準備や勉強の忙しい合い間を縫ってのだめのピアノを聴きに通う毎日で。
の
だめの部屋は予想通りの有様で、でもそれさえも懐かしくて。
2回に1回くらい、俺が料理をしたりもして。
学生時
代か、パリにいた頃に戻れたような・・・そんな気分を俺は味わっていた。
そしてお互い、以前とは違う立ち位置か
らも音楽を眺められるようになっていて。
時には俺がオケで振る曲の勉強のために、ピアノを弾いてもらったり意見を求めたりもして。
俺
達は音楽家として、お互い信頼できる関係を築いていっていた。
俺とのだめの今の関係を他人に説明するならば、元
恋人で、今は音楽仲間、になるんだろうか。
だけど、それだけじゃない思いを俺は抱えている。
俺
はのだめのピアノが愛しい。
この思いは、捨てられないし、捨てたくない。
そしてのだめ自身
も。
心の奥の奥のずうっと奥、誰にも決して覗かれることのない場所に、今もアイツが・・・いる。
で
も、俺には彩子がいる。
こんな思いを抱えている俺は。
もう、彩子と身
体を重ねても、心が重ならなくて。
もう、誰と身体を繋げても、きっと心は繋がらない。
思い
が満たされないその代わりに、彩子だったらのだめのように俺の前から突然いなくなるんじゃないか、という不安な思いはしなくてもよくて。
家
に帰れば家族が温かく迎えてくれる、いつか、そんな当たり前の家庭を、このままいけば、彩子と持つことに・・・なるのかも、しれない。
彩
子には酷いことをしているとは思うけど。
それでも、俺はこのぬるま湯のような居心地のよさを捨てられない。
俺
は、狡い。
俺はのだめと、ピアノを介して会うことを続けていて。
俺と彩子は、別れずに今も
続いていた。
そうしているうちに、桜咲く4月はあっという間に終わりを告げ、新緑も眩しい5月を迎えようとして
いた・・・。
続く。
written
by びわ