2011 年2月17日 AM10:00  成田空港


のだめが日本を発つ日------



冬 晴れの快晴。ガラスから差し込む日差しは暖かだった。
小さな黒い四角い鞄を足元において、のだめはうーんと伸びをした。

俺 は黙ったままその姿を見ていた。
のだめは振り返り、俺の顔を見て微笑んだ。

何故だ か、今日の俺たちの間にはあまり会話が存在しなかった。
目と目が合うと微笑んで、そして目を逸らして…。



ポ ロロン…
「日本航空…便、ニューヨーク行きのお客様は只今から出国手続きをお始めください…」

の だめは顔を上げた。

「先輩。お見送りありがとうございました。」
真っ直ぐに目を向 けて、そう言った。
「…ああ。」
俺は俯き加減で、そう呟いた。

の だめは大きく深呼吸をした。
「新東響、頑張ってくださいね。」
こいつは言葉尻を強めて、はっきりと言っ た。
「ありがとう。お前もがんばれよ…。」

のだめは、はい。と、言って大きく笑っ た。

「それでは、先輩。のだめはここで…。」

茶色い澄んだ瞳 が---

「ああ。」

俺をまっすぐ見つめて---

「お 元気で。」

そして---

「…お前も。」

そ の温もりを永遠に身体に刻み付けるように----

「…はい。」

そ の身体を、力いっぱい抱き締めた。









小 窓から見える茶色い田園地帯がどんどん離れていく。

そして白い雲が徐々に現われ始め、やがて窓を白く覆い、 それからしばらくして、目の前に青い空が一気に広がった。

ポーン

シー トベルト着用のランプが消えた。




----3 年前の今日、フランスで先輩と別れて、

   1年前の今日、日本で先輩と再会した。

    そして、再び私は、先輩の元から離れて行った---




今 日は先輩の誕生日だ。








 
  不機嫌なマエストロ 最終話 1







 

「…… そろそろのだめの乗った飛行機が飛び立つ頃よね……」

同時刻頃、真澄がポツンと呟いた。
こ こは毎度おなじみの裏軒。
いつものようにこの店にたむろしているR☆Sメンバーだったが、今日は何故か元気がなかった。

「お 見送りとか……しなくて……よかったのかな……」

そう言うのは薫。
ちなみに今日は 萌と木村はデートらしい。

「俺達が行ったら……かえって邪魔だろ……」

寂 しそうに遠くを見つめる峰。


……今頃は、2人の間でどんな別れが交わされているの か……。


高橋はぶすっとした顔でさっきから椅子にふんぞり返っている。

「……っ たく……馬鹿な女だよな。あの千秋くんを振るなんて……まあ、でも、これで僕にもチャンスが……」
「あんたになんてチャンスは一 生来ないわよっ!!」
「なんだと!このもじゃもじゃ!!」
「うるさい変態!!」
「ちょっ と!!。2人とも……」

相変わらずいがみ合う高橋と真澄を止めようと、うんざりした顔で清良が入るが、次の 瞬間、清良は、うっと口を押さえた。
そのまま、だっとトイレに駆け込む。

「清 良……」
「どうしたんだ?」

しばらく後にトイレから出てくるも、その顔色は悪い。

「ごめん……ちょっと吐き気がして……」

その言葉にはっとなる真 澄と薫。

「吐き気って……」
「もしかして、清良!!」

そ のまま2人は目を輝かせて、峰を見た。
峰は、訳がわからないような顔で2人の視線を受け止めていたが、やがてはっとしたように清 良を見る。

「清良……」

信じられないといった顔。

「…… も……もしかして……そう、なのか……?」

頬を赤く染めて、こくんと頷く清良。
キャーーーーーッッ と黄色い声を上げる女性陣。

「オヤジ!!」

峰が厨房に向かっ て大声で叫ぶ。
ただごとではない息子の声に慌てて顔を出す龍見。

「なんだ?龍太 郎。そんな大声をあげて!」
「やっぱり、昨日の麻婆豆腐の豆腐、やばかったんだよ!!。賞味期限ギリギリだったもんな!!」


………  ……… ………


バキッ!!ドスッ!!ガスッ!!。


次 の瞬間、女性陣(真澄も含む)から袋だたきにあう峰。

「いってえ!!……お前ら何するんだよっ!!」
「違 うでしょ!!龍ちゃん!!。食中毒じゃないわよ!!」

真澄が、しんそこ呆れた顔をしていた。

「へ?」
「吐き気っていったら……つわりしかないじゃない……つまり妊娠よ!!」

ぽかんとした 顔で真澄を見つめる峰。

「妊娠って……」
「清良に赤ちゃんが出来たのよ!!」
「え…… 清良に……」

峰は呆然としたまま、その視線を清良に移す。
清良は首まで真っ赤に なって俯いていた。

「清良……」
「………」
「赤ちゃんっ て……」
「………」
「……誰の子?」


ぶ わっしいいいいんっっ!!。


清良の張り手が峰の顔を直撃した。
裏 軒の床にどうっと音をたてて倒れた峰に向かって、なおも攻撃を加えようとする清良を必死で真澄がとどめる。

「あ んた以外に、誰が父親だっていうのよ!!」
「き、清良、落ち着いて!!体にさわるわよっ」
「だって真澄 ちゃん、この馬鹿ー」
「……そっかー……」

張り倒されてしばらく呆然としていた峰 だが、やがて床に倒れたまま、ふふっと笑う。
そんな峰の様子に清良と真澄は言葉を止めた。

「そっ か……俺……父親になるんだ……」

その目には涙が滲んでいる。

「龍……」

ポツンと呟く清良。
峰はゆっくりと起きあがると、清良の手をとってその瞳を見つめた。

「……ありがとう……清良……」

次の瞬間、峰は顔をくしゃくしゃ に歪めて泣きながら、清良をその胸に抱きしめた。

「清良……ありがとう、ありがとう……俺、すごく嬉し い……」
「龍……」

清良も感極まって目から涙が溢れた。
その まま峰の背中に手を回し、しっかりと抱き合う。
そんな2人の様子を周囲が温かい目でそっと見守っていた。

「…… だとしたら……だとしたら……」
「え?」
「さっそく名前を決めなきゃな!!」

急 に峰が口調を変える。
その瞳はキラキラと輝いていた。

「……え?」

突 然態度が変わった峰に目をぱちくりとさせる清良。

「……男の子だったら、ずっと前から決めている名前がある んだよ!!」

そういうと峰は拳に力を込めた。

「その名も峰昇 星(みねこうせい)!!」
「こ……こうせい?」
「ああ!!。星が昇る……その名もずばり!!ライジング ☆スターだっっ!!」


……… ……… ………


「あ の……」
「名前は別に……」
「……今、決めなくても……」

呆 然とする周囲をよそに峰は1人で盛り上がっている。

「だけど、龍太郎の太郎と、清良の清をとって、清太郎 (せいたろう)も清々しくていいよな〜。か〜迷うぜ!!皆、どう思う?」
「守……っていう名前は出世するらしいよ」

さ らっと髪を掻き上げながら言うのは、もちろん大河内守。

「……却下」
「ええ えっっ!!なんでっっ!!」
「だって、どう考えたって平凡な人生しか送れなさそうだし。……俺と清良の子なら、やっぱり優秀だろ うから、世界に出て行かなきゃな!!」
「あの〜」

薫がためらいがちに声をかける。

「あの……峰くん……もし、女の子だったら……どうするの?」
「女の子?うーん、そう だな。女の子だったら、峰野田芽(みねのだめ)かなっっ!!」
「の……の……のだめ……?」
「うんっ。 あいつの名前なら世界に強く羽ばたきそうだ!!。俺のソウルメイトだしなっ!!」

そこへ父親の龍見がひょいっと 口を挟んだ。

「うん、なかなかいいな。龍太郎!!。あと、清良さんの真っ赤なルビーをイメージして峰留美子 (みねるびこ)なんてどうだ?」
「オヤジ!!さすが、いいセンスしてるぜっ!!。峰不二子みたいでかっこえ えーーーーーーっっ!!」
「ちょっと真面目に考えなさいよ、あなた達!!」

わあわあと盛り 上がって騒いでいる集団から離れて、清良は店の隅に座り込んで、どんよりした顔で携帯で誰かと話し込んでいた。

「あ…… お母さん?、うん……うん……やっぱり私、実家に帰ろうと思うの……。……この家に嫁いでいく自信がなくなっちゃって……」



   
 *   *   *




「遅ー い!」
「え?そんなに遅かった?ゴメン」

待ち合わせ場所で頬を膨らませている萌を 前に、木村は素直に謝った。
急いで来たから遅刻はしてないと思うんだがと、腕時計に目をやると、

「ふ ふ、そんなに待ってないから平気」

萌は木村の腕に、自分の腕を絡ませた。

普 段の木村は、おかっぱ頭に丸メガネ、妙な柄のシャツを着ていたりする。

だけど、萌と二人で会う時だけは、髪 をワックスで整えて、メガネは流行のフレームか、かけずにコンタクト。
着るものも、萌がコーディネートしたものだったり、その影 響で買うようになったシンプルなものが増えた。

初めこそ萌がお願いしてそうしてもらっていたが、今では自然 にそうしてくれるようになった。

ただし普段からこうでは困る。
ライバルはいないに 越したことはない。
こうして腕を組んで歩いていても、木村を振り返る女の子だっているのだから。

R☆S のリハがあった日。
たまたま偶然、初めて素顔を見たときは驚いた。
それから気になって気になって、気が 付けば好きになっていた。

最初は全然取り合ってくれなかったけど、今は・・・。、

萌 はわざと木村の腕を強く引っ張った。
そうする事で、どうしても自分の胸に木村の腕が当たる。

ち らりと覗った木村の頬は、ほんのり赤く染まっていた。

そんな所も好き、と思う萌は、すっかり恋する乙女だ。

「ねえ、後で裏軒に行きましょうよ。今日は皆で集まるって薫が言ってたから」
「それ じゃ、お昼にでも行こうか」
「うん」

二人の頭上には、高層ビルの隙間からのぞく青 い空。
その空を、銀色に輝く小さな機体が横切っていった。




 *   *   *




「びっ くりしたよ。いきなり電話もらって」
「ん、たまたま公演でボストンまで来ていたから、ついでにね」

菊 池は、目の前に座っている舞子を見た。
ついこの間、R☆Sオケの公演で会ったばかりだから久し振りという感じではない。。
舞 子は相変わらず元気な様子でにこにこ笑っている。

「ついでに……ってのはひどいなあ」
「ご めんごめん」
「そういえば、この間のR☆Sオケのコンサートでの、フルート協奏曲、すごく良かったよ」
「ふ ふふ、千秋くんに大プッシュしちゃったんだもん」
「僕もチェロ協奏曲を提案したんだけどなあ」

突 然、ガーシュウィンの音楽が流れる。
菊池の携帯の着メロだ。

「ちょっと失礼」

そ う言って菊池は電話に出た。

「HELLO Catherine(もしもし、キャサリン)……」

ど うやら女性らしい。
ガールフレンドかなと舞子は思う。

「……I love you(愛してるよ)……」

そう言ってチュッと口を鳴らして菊池は電話を切った。

「彼 女?」
「いや、ただの友達だけど?」

そこで今度はラヴェルの着メロが鳴り響く。

「……ごめん、また失礼」

そう言って菊池はまた携帯に出る。

「Bonjour Marine(もしもしマリーヌ)………」

どうやら今度はフランス人らしい。

「……Je l'aime(愛してる)……」

その直後に、かかってきた着メロはベートーベンだ。

「Guten Tag Anne(もしもしアンネ)…… 」

ということはドイツ人なのだろう。

「……Ich liebe es(愛してるんだ)……」

ふうっと舞子は呆れて溜息を吐く。
ずいぶ んグローバルな男だと思う。

「ごめんね〜さっきからたて続けに…」

やっ とアンネとの電話を終えた菊地が舞子に向き直ろうとした時、また着信が鳴った。
『地上の星』だ。
その着 信の名前表示を見た菊地は少し驚いた顔をして、舞子を見た。
舞子は悪戯っぽい表情で携帯を耳に当てている。
菊 地は、ふっと笑って携帯に出る。

「もしもし、舞子ちゃん」
「は〜い、菊地君、元 気?」
「よかったら今から食事にでも行かない?美味しい店を知ってるんだ。案内するよ?」
「う〜ん、ど うしよっかな〜」

舞子は少し考える素振りをした。
 
「そ の携帯に入ってる女性の電話番号、全部消してくれたら考えてもいいよ?」
「……まいったな……」

苦 笑いをする菊地を可笑しそうに見てから舞子は空を見上げた。




 *   *   *





「そ こ、タ〜ラ〜ラでヴァイオリン、もっとビブラード入れて、盛り上がって!!」

指揮台の上で熱く指揮棒を振っ て叫んでいるのは、今年が不惑の年40歳になる、Mフィルの常任指揮者である松田幸久。
ここはMフィルがいつも練習に使っている 都内のホールだ。
松田の指揮が、全ての楽器を支配し、統合して、荘厳な音楽を奏でている。
彼がMフィル の指揮になってはや数年。
もはや、ベテランのメンバーとはお互いに気心が知れ、今では何も言わなくても呼吸がぴったり合うように なった。
松田幸久は日本でもトップクラスの若手指揮者と言ってもいいだろう。

……しか し……最近、新東響の千秋真一がその地位に迫ってきているという噂だ。

そんなMフィルでの休憩時間。
ロ ビーで自動販売機で買った飲み物を飲みながら、ふっと息をつくひととき。

「なあ、こないだのR☆Sの定期公 演、行ったか?」

楽団員の1人がコーラを片手に持って言ったのがきっかけだった。
松 田の眉がぴくりと動いた。
そんな松田の何気ない表情の変化に全く気が付かないかのように、男は公演を聞いた時の感動を熱く語り出 した。

「いや〜R☆Sって、結局はアマオケだろ?。
 あんまり期待してなかったん だけどさ、それがすっげえ良かったのなんのって!!。
 あれは特別客演指揮者の千秋真一が良かったのかな〜。
  千秋真一って言ったら、新東響の常任指揮者になってからぐんぐん評判が良くなって、今、もっとも注目されてる指揮者らしいじゃないか。
  最後のアンコールでは弾き振りとかしちゃってさ……。
 なんだったっけ……なんだか知らない曲『Musique sans le nom』とか掲示板に書いてたけど、鳥肌立つくらいすごくって……」

そこで男は口をつぐむ。
同 じ団員の1人が袖をひっぱり、松田の方を指さしたからだ。
たちまち顔を青ざめる男。

「あ…… いや……そういえば、R☆Sオケの常任指揮者って……松田さん……でした、よね……」

嫌な汗を背中にだらだ ら流しながら、必死で取り繕う男に向かって松田はこう言った。

「うん。俺はR☆Sオケの常任指揮者も兼任し てるけど……それが な に か ?」

にっこり笑う松田の背後には黒いオーラが漂っており、男はヒイイと悲 鳴をあげた。

「……俺もこないだのR☆Sの定期公演は聴きに行ってたけど、ぜんっぜん駄目だったね!!」
「は、はあ……」
「R☆Sオケはともかく、何よりも指揮者が駄目!!。顔が駄目!!。スタイルが駄目!!。 俺の方が全然イケてるし!!」
「いや……指揮者に顔やスタイルは関係ないんじゃ……」

そ う言いかけた団員も松田の一睨みで震え上がる。

「とにかくまーだまだヒヨッ子の域を超えてないね!!。ぜー んぜんうちが気にする必要なんてなし!!」

……誰も気にしてないんですけど……。

「ま あ……でも……」

しばらくの間を置いて、松田が言った。
その目は遠くを見ているよう で、次の瞬間、彼の顔にふっと微笑みが浮かんだ。

「アンコールの曲は、悪くはなかったかな……」

顔 を和ませて呟く松田に、皆の間にどよめきが走る。
この性格が歪んでいる松田が、今まで他の指揮者の演奏を誉めたことなどなかった からだ。
しかしそれもつかの間、次の瞬間には松田は、はっと我に返ったように口調を変える。

「だ けど、千秋真一が優秀だって訳じゃないし!!。奴なんて屁のカッパだしっっ!!俺の方がもっともっと最高にグレートだしっっ!!」

そ ういうと松田は飲みかけていたコーヒーをぐいっと飲み干すと紙コップを握り潰した。

「今度のMフィルの定期 公演は、R☆Sの公演をぐうんと越えてやるもんねっ!!」
「あの……」

R☆Sもあ なたのオケじゃ……との言葉が口にされることはなかった。

「さあっっ!!練習、再開、再開!!」

休 憩していた団員達をせかすようにして、ホールの方に追いやる松田。
ぶつぶつと(松田に聞こえないように)文句を言いながら、それでも 団員達は自分達のパートに戻っていった。
途端にがらんと静かになるロビー。
松田は、ポツリと一人ごとを呟い た。

「……だいたい、一人の女もつなぎ止められない男なんて、たいしたもんじゃないさ……」

松 田は休憩室の窓から晴れ渡った空を見上げた。




 *    *    *




「の だめちゃん、NYへ行くんですって?すごいわね〜!」

「ああ。そうらしいな。野田も出世したモンや。」

綺 麗に手入れされたネイルをきらめかせながら、かおりはティーカップを手に取る。
リビングのガラス窓には屋外の冷たい風が吹きつ け、カタカタと音を立てている。
部屋の中は暖かくて快適だが、窓を揺らす風はきっと刺すように冷たいのだろう。

「家 にのだめちゃんが泊り込みで練習しにきてたあの頃が懐かしいわ〜。」

「ああ…そうやな…。もう、何年前にな るんやろな。」


  ――こんな生徒を俺は今まで持ったことがないんや…。


「やっ ぱり、千秋くんものだめちゃんもすごい才能の持ち主なのね。」

「まあ、千秋も野田も俺の教え子やからな。当 たり前や!」

確かに、すごい奴やった。二人とも。
そして俺の予想を遥かに越えた素 晴らしい活躍を続けている。

「ははは、二人とも今頃、俺に大いに感謝しとることやろ。」

「ふ ふ、耕造さんってばそんなこと言っちゃって。あの二人のこと、すごく気に掛けてたこと知ってるわよ?クラシックライフとかその他の雑誌とか、千秋くんやの だめちゃんの記事が載ってる時はそれこそ紙面に穴の開くほど読み込んだと思ったら、コソコソと切り抜いてスクラップしてるみたいだったし…。」

「ぶっ…!?」

「…あ、それに千秋くんの振ったCDとかもしっかり買ってきてちゃんと並べてあるし…。今度出るゼフィールの CDももちろん買うんでしょ?あ、もしかしてもうすでに予約したかしら?」

「…げえほっ!げほっ!…そ、そ れはやな!別に深い意味は無い!ちょっとした興味みたいなモンや!」



「そ うそう千秋くん、最近さらにカッコよくなってるわよね!ぐっと大人の色気が出てきたというか…。あーあ、また家に遊びに来ないかしら♪耕造さんの、居ない ときにでも…。」

「な…なんやと!」

「ふふ、嘘よ、嘘!まっ たくもう、耕造さんったら本気にしないでちょうだい!」

「うっ…。」




取 り繕うように自分のカップを呷って、紅茶を飲み干す。
空は高く、抜けるように青い。
あの空を渡って、俺 の可愛い教え子たちは世界へと羽ばたいていくんやな。
頑張れよ。…そんな風に思った。




 *   *    *




「谷 岡先生!お伺いしたいことがあるんです!!」

せっぱ詰まった表情でこう切り出したのは、谷岡の受け持っている女 子学生だった。

「……どうしたんだい?いきなり」
「先生は……先生は、あの、新東響の千秋 真一さんや、zephyrの野田恵さんの担当教諭だった時期があるって本当ですか!?」
「ああ……そうだけど」

落 ちこぼれ専教諭と言われている谷岡が、千秋やのだめの担当だった時期があるということはあまり知られていない。
彼女はどこのルートか らか、その情報を聞きつけてきたのだろう。
その女子学生は真剣な眼差しで谷岡を見つめた。

「お 願いです!!。どうか……どうか、私も先輩達のように……特に、野田恵さんのように有名なピアニストになりたいんです!!。
 彼女と 同じように私にレッスンをしてください!!」
「………」

谷岡は目の前の女子生徒をじっと見 つめた。
その熱意は本物だと思った。

「わかった……だけど、彼女のようになるには、並大抵 の努力じゃないよ……」
「もちろんわかっています……どんな厳しいレッスンでも受ける覚悟は出来てます……」
「よ し……」

谷岡はこくりと頷くと、棚からある楽譜を取りだしてそれを女子生徒に渡した。

「じゃ あ、これからやってみようか」


……… ……… ………


「お…… おなら体操……?」

女子学生はポカンと口を開けた。

「うん、彼女の レッスンはここから始まったからね。……これが、彼女の原点なんだ」

谷岡は、くすっと笑うとその楽譜を懐かしそ うに見つめる。

「あ……あ、あの……」
「さあ、ボクがピアノを弾くから一緒に歌おう!!。 ♪元気に出そう〜いい音だそう♪」

教室から谷岡のピアノが流れ出す。
その窓からは、青く晴 れやかな空が見えていた。




 *   *    *




あ…… 雪。

ターニャは、空から舞い落ちる粉雪を見つめた。
ここフランスでは冬でもター ニャの母国、ロシアほど凍える寒さではない。

あるロシア人が言った。
「ロシアには 冬しかない。雪がある冬とない冬だ」

ロシアの冬は長くて暗くて寒い……まるで氷の国のように。

い つも思っていた。

こんな所には居たくない……。

こんな寒い所 には。

ターニャはすぐ隣を歩いている人物をふと見上げる。
黒木泰則。
日 本人で……ターニャの恋人だ。
日本で生まれ日本で育った彼はあの寒さを知らないだろう。
凍えるような寒 さ……人の体も心も、そして音楽さえも凍り付かせるような……。

「ん?」

ター ニャの視線を感じて黒木が振り向いた。
首にはターニャの手編みの縞模様のマフラーが巻かれている。

「ど うかした?」

そう、優しく問いかける。
……彼はいつだって優しい。

「う うん。なんでもないわ」

ターニャは首を振って答える。
黒木とは、同じアパルトマン の住人でもあり友達でもあるのだめを通じて知り合った関係だ。
なんとなく側にいて、いつの間にかなんとなく一緒に暮らすように なったような。
マルレオケではオーボエのオーボエの首席を務めるほどの優秀な人だ。

の だめや千秋……そして黒木を見て、ターニャは、成功する人ってこういう人達のことを言うんだな……って思った。

そ れに比べて自分は……。

これ以上、何も望んでなどいやしない。
暖かく便利なフランスで の生活。
文句のつけどころのないような優しい恋人。

……これ以上は。

「そ ういえば……」

黒木が不意に切り出す。

「……今度、ロシアの 公演に招かれてるんだ」
「……そう……」

彼ほどの腕を持ったオーボエ奏者なら、そ ういうこともあるだろう……。


……そして私はまた取り残される。


ター ニャは、ふと頭をよぎった不吉な考えにぶるっと首を振った。

何を考えてるのだろう。
い けない。
こんな暗い雪の日には、どうも心もネガティブになる。

あの日、ロシアで雪 が降った日のように……。

「……だ」

黒木が何かを言っていた が、ターニャはそれを聞き逃してしまった。

「あ……ごめんなさい。今、なんて言ったの?」

申 し訳なさそうなターニャに向かって、黒木は優しく微笑んで言った。

「……せっかくロシアまで行くんだから、 一緒に行かないかなって思って」
「え……?」
「どうせなら……その……ターニャのご両親にも挨拶したい し……」

思いがけない黒木の言葉に、ターニャはしばし呆然としたまま彼の顔を穴が開くほど見つめた。

次 の瞬間。

ターニャの目が滲む。
思わず顔を覆う。

突 然泣き出したターニャを見て、黒木はおろおろと慌てる。

「ご、ごめん、……ターニャ、僕……何か悪いことで も言った?」
「ううん……」

ターニャは首を振る。
そして 幸せそうに微笑みながら、涙混じりの声でこう言った。

「……嬉しくって……」

そ して灰色の空を見上げる。
この空はあの日本にも、NYにもつながっているのだろうか。
 
そ うしたら、あの馬鹿でお人好しで真っ直ぐなあの子の所にも、今の私の幸せがつながってくれるといい……とターニャは思った。




 *   *   *




「あ、 あ、あ、あーーーーーーーーっっ!!」

フランクはドタバタと部屋のドアを開け、テレビのスイッチを入れた。

「ふ う〜間に合った……」

♪GORO
 GORO
 GOROTA!!♪

画 面に映し出されているのは、フランス版「プリごろ太」のオープニング。
もちろん予約はしていたが、放映をリアルタイムで見たいという のは、やはりオタク魂であろう。

「う〜〜〜、やっぱり、『プリごろ太』……最高ッッ!!」

そ して、はるか遠い国に行く筈の彼のオタク友達のことを思う。

「……のだめは今度、NYに行くって言ってたよね。
  NY版の『プリごろ太』ダビングして送ってもらおうかな……」

フランクは窓の外を見上げながら呟いた。




 *   *   *




「高 いっっ!!高すぎる!!」
「お客さ〜ん……いいかげんにしてくださいよ……」

天津甘栗の露 店の店主はうんざりしたような顔で言った。
さっきから20分もこうやって揉めているのだ。

「こ の天津甘栗……ほら、ここら辺が腐ってるじゃないか!!。1袋5元は高すぎるヨ!!半額にしてヨ!!」

ユンロン は、ぐいぐいとその部分を店主に見せつけた。
ただのなんてことはない、いくつかの栗の色が変色しているだけであったが。
店 主は肩をすくめる。

「わかりました……じゃあ3元でどうですか?」
「交渉成立だネ」

そ の言葉に、にこっと表情を変えるユンロン。
粘りに粘ってねぎった甘栗の味は最高だった。

そ ういえば。

いつかのだめともこうやって焼き栗を食べたよネ……あの時はのだめがボクより2コ多く食べたっ け……。

そんなことを考えながらユンロンはあの時と同じ寒々しい空を見上げた。




 *   *   *




「…… だから、これがなんだって?」

皿に盛られた不思議な物体を前に、シモンとテオは言った。
目 の前の物体は何やら赤く香辛料の香りが漂っていて、上にはチーズがかかっているようだ。
この料理を作ったのはポールだ。

「こ れは、『是非・いる丼』っていう日本のどんぶりネ。すっごく美味しいから食べてみてヨ!!」
「はあ……」

た めらいながらも口に運ぶテオ。

「まあ、美味しいけど……これって本当に日本料理?なんだかイメージが違うんだけ ど……」
「間違いなく日本料理だヨ!!リュウが言っていたんだから間違いないって!!」
「……ったく……」

シ モンは溜息をついた。

「こんなことをやっている暇があったら、お前はパソンをもっと練習しろ!!」
「ま あまあ、シモンさん……」

怒りに眉間の皺をピクピク動かしているシモンを宥めながら、テオは言った。

「そ れより千秋、元気だった?」
「うん、向こうでの新東響でのオケでも上手く言っているみたいだしネ」
「……噂は聞 いている」

シモンはそう呟いた。

「きっと奴なら、日本でも活躍してい けるだろう……」
「シモンさん……」

しんみりとしかかった雰囲気を吹き飛ばすかのように ポールが言った。

「ささっ冷めないうちに早く食べてヨ!!。どんぶりはできたてが一番なんだってリュウが言って たヨ!!」

そう言いながら、ポールは窓の外に広がる空を見上げた。




 *   *   *




「多 賀谷さん、この書類に目を通していただけますか?」

秘書が持ってきた書類を、彩子は仕事用の眼鏡の奧から覗 き込むようにして見た。
そんな彩子の視線に秘書は萎縮したように、

「じゃ……ここ に置いておきますので……」

書類を机の上に置くと、逃げるようにしてあたふたと部屋を退出した。
そ んな秘書の姿を彩子は苦々しく見遣る。


私って、そんなに怖い印象なのかしら……。


そっ と机上にあった手鏡に自分の姿を写してみた。
最近の連続した徹夜仕事のせいか、目の下に隈が出来ている。


や だわ……こんなんじゃ、もてなくなっちゃう。


彩子はふっと笑った。


も うそんなことを気にする必要もないのに。

誰かの目を気にすることなんて……。


彩 子は、書類を机の上に置くと、窓に向かってうーんと大きく背伸びをした。


……真一?。


あなたは元気にやってる?。

私は元気よ。

仕事も私生活も忙しいけど、どうにかこうにか乗り越えられないことはないわ。


あ なたは……。


あなたは。


ちゃ んと欲しい物を欲しいって言えてる?。

死にものぐるいで頑張ってる?。


不 器用でヘタレで情けなくって……それでいて誠実な彼のことを彩子は思った。

今日は、彼の大事な彼女がNYへ 旅立つ日……。


あなたはどうするつもりなのかしら。

…… もし、失敗して諦めて戻ってきても、今度は受け止めてはあげないわよ。

私はお母さんじゃないんだから。


そ して自分の考えにくすっと笑う。


どうか。


ど うか……彼が、欲しい物を欲しいと素直に言えますように……。


心の底からそう願った。


それから彩子はまた仕事モードに入り、眼鏡の位置をずらして顔を引き締めた。
今 日の空は快晴で眩しいくらいだった。