不
機嫌なマエストロ 9-1話
「よー
し!!皆、そろったな!!」
峰龍太郎はぐるりと店内を見回した。
ただでさえあまり広いとは
いえない、ここ中華料理店裏軒には、R☆Sオーケストラの総メンバーが集まりぎゅうぎゅう詰めに座っていた。
どこから出して来たの
か、予備の椅子なんかも揃えられていてそれぞれのテーブルにつく形になっている。
急の峰からの呼び出しに、R☆Sオケのメンバー達は
戸惑いを隠せない。
「……なんだよ、峰」
R☆Sオケのコンマスである
高橋紀之はいささか不満そうである。
「急に呼び出したりして……すごく重要な話ってなんだよ」
「私、
今日は、美容院の予約いれてたんだけど〜」
可愛くふくれっ面をするのはクラシック界の叶姉妹と言われているクラ
リネット奏者の鈴木薫だ。
「私も、クリスマスの洋服を一緒に買い物に行こうって言ってたのよ。ねー、木村くん
♪」
「別に僕は洋服なんて欲しくないけど……それより新しくできた楽器屋によりたいんだよ」
も
う一人の叶姉妹であるフルート奏者の鈴木萌が、熱い視線をヴァイオリンの木村智仁に送るも、当の本人の態度はそっけない。
どうやらま
だまだこのカップルは萌の一方通行らしい。
「ボクもデートの予定があったのになあ…」
と
思わせぶりに呟いた自称副指揮者の大河内守であったが、いつものごとく彼の言うことは完全に無視された。
「も
う、みんな!!真面目に聞きなさいよ!!。龍ちゃんがこうやって皆を呼び出すんだもの!!。きっと重大な話があるに違いないわ!!」
立
ち上がったのはティンパニー奏者のアフロヘアーがトレードマークの奥山真澄だ。
彼女は新都フィルとの兼任ではあるが、仕事との忙しい
時間の合間にこうして呼び出されても文句1つ言わない。
そうしてそっと意味深な表情を浮かべて、ニヤっと笑うと声をひそめる。
「……
例えば、来年2月予定のR☆Sコンサートで千秋様が指揮をしてくださることが決まったとか……」
「「「「えーーーーーーーーーっっ!!」」」」
突
然わっとどよめきたつ店内。
高橋が興奮して椅子の上に立ち上がり両手にガッツポーズを作りながら叫ぶ。
「千
秋くん、好きだーーーーーーーーーーっっ!!」
もちろん他の女性達も、期待に胸を膨らませながらそれぞれに黄色
い声をあげる。
「ええ?本当に千秋様が……?」
「新東響での評判もよくて、現在多忙を極め
ている筈の千秋様が!?」
「本当に私達のために振ってくださるのかしら!!」
そんな盛り上
がったメンバーを見て、峰はばつの悪そうな顔になる。
「あーいや〜まあ、そんな話ももちかけてはいるが……今回
の話は……それじゃないんだ」
「「「「えーーーーっっ」」」」
「……なんだ〜」
「期待して
損しちゃった……」
途端に皆が一斉に肩を落とし、がくっと空気が盛り下がる。
巻き起こる
ブーイングの嵐に峰はまあまあと皆を宥める。
「今回呼び出したのは他でもない……皆に試してもらいたいことが
あってな。オヤジ!!用意はいいか!!」
「あいよっっ!!」
店の奧から峰の父親である龍見
が息子の呼びかけに弾むように答えた。
そして、何やら大きなお盆を手に厨房から出てくる。
お盆の上には何やらほ
かほかと湯気の立つどんぶりが置かれているようだ。
どうやらそのどんぶりは人数分用意されているらしく、龍見はいそいそと何度も厨房
と食堂を往復して、皆一人一人の前にどんぶりを置いていった。
不審な表情で目の前のどんぶりを見つめる面々。
「……
何、これ」
「……もしかして……麻婆丼……?」
「でも上にかかってるのは……これって……チーズ?」
「よー
し、皆、行き渡ったか?」
頃合いを見はらかって、峰がわざとらしくコホンと咳をして一同の注目を促した。
「……
皆、俺のソウルメイトでもあり、R☆Sオケの前身であるSオケのマスコットガールであったのだめこと野田恵が『zephyr』というピアノデュオで活躍し
ているのは知ってるだろう?」
「ああ、『zephyr』すごい人気よね〜」
「クリスマスイヴに行われるラストコ
ンサートチケット、発売当日に1時間で完売らしいわよ」
「リュカって貴公子!!って感じですっごく魅力的なのよね〜」
「ま
あ……もちろん、千秋様には劣るけど」
「でものだめちゃん……かなりマスコミから叩かれてすごく可哀想だったわ……」
「……
別に僕はあいつのことなんてどうでもいいけど」
ボソッと呟いた高橋に皆のギンっとした責めるような視線が突き刺
さる。
R☆Sオケには直接は関わらなかったとはいえ、Sオケ時代で苦楽を共にしてきたメンバーにとっては、のだめはやはり愛すべき存
在なのだ。
「そう。……のだめもいろいろあって大変だった……。
情けない話だが……ソウ
ルメイトである筈の俺は……あいつのために何もしてやれなかった……」
「龍ちゃん……」
真
澄が目を伏せて峰の肩にそっと手を置く。
峰はキッと顔をあげると、何か固い意志を持ったような表情を見せた。
「そ
こでだ!!。
いよいよ期間限定デュオである『zephyr』も今度の12月24日でラストコンサートを迎える!!。
ソウルメイトたる俺としても精一杯の応援をしてやりたい!!」
「……それはよくわかったけど……それとこの麻婆丼と何の関係がある
の?」
「よくぞ聞いてくれたっっ!!」
しごく当然とも思える真澄の問いかけに、意を得たと
言わんばかりに満面の笑みを浮かべる峰。
そしてどんぶりを持ち傾け、中身を全員の目が届くようにそれを見せつけた。
「……
これはただの麻婆丼じゃない。
……のだめがこの世で一番愛している麻婆。そして相方であるリュカ・ボドリーの出身地フランスといえ
ばチーズ。
麻婆の上にチーズをのせエスプリを効かせたこのどんぶり……。
これぞ、『zephyr(ゼフィール)』のためのラストコンサート記念丼……『是非、いる』丼だっっ!!(どーーーーーーんんっっ!!)」
………
……… ………
「……是非、いるって……」
「……もしかして……ぜ
ひ、いる……ゼフィールってこと……?」
「……なんてくだらないダジャレ……」
皆が呆れか
えって物も言えない中、峰一人だけ興奮したまましゃべり続ける。
「ささっ!!試食してみてくれ!!。なんせ、俺
とオヤジが3日3晩寝ながら考えた傑作だっっっ!!」
龍見は、カウンターの向こうからそんな息子の姿を誇らしげ
に、うんうんと頷いていた。
峰の勢いに圧倒されてしかたなく箸をつける面々だが、口に入れた瞬間その表情が変わる。
「あ
ら……?」
「意外とこれ美味しい……」
「麻婆とチーズって……案外合うのね」
「これっ
て……けっこういけるかも……」
「なっなっ美味しいだろうっっ!!」
次々と出てくる賛辞
に、胸をふんぞり返って威張る峰。
そうして胸ポケットから数枚の写真を取りだしてニヤリと笑う。
「実
は、この『是非、いる』丼はプロマイド写真つきなんだ……」
そういってテーブルの上にずらっと並べて皆にプロマ
イド写真を見せた。
「キャーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!」
途
端に女性陣の黄色い声があがる。
そのプロマイド写真に写っていたのは……。
仕事バージョン
なのだろう、眼鏡をかけて楽譜と向き合っている真剣な表情のリュカ・ボドリー。
疲れて椅子に座ったまま居眠りをしている、まだあどけ
なさの残る寝顔のリュカ・ボドリー。
着替えの最中なのだろうか、シャツを脱ぎかけて上半身裸の背中が写っているリュカ・ボドリー。
「う
わっ……ちょっと、これどうしたの!?」
「すっごいレアものの写真じゃない!!」
「いやーん、峰くん、お願
い!!1枚ちょうだい!!」
「別に……僕は子供には興味がないけど……(ごくっ)……いいかも……この背中の肉体美……」
た
ちまち写真にくらいつく女性達(高橋も含む)を見ながら、はっはっはと高笑いする峰。
「ちょっと、龍ちゃん、こ
の写真どうしたの?」
「ーん?のだめに頼んで隠し撮りしてもらった!!」
真澄の問いかけ
に、悪びれた様子も無くしれっとと答える峰。
真澄はがくっと肩を落とし大きくため息をついた。
「相
変わらず、どこへ行ってもやることが変態なのよね〜あのひょっとこ娘……」
そう言うと、真澄はふと真面目な顔に
なった。
「……でも、のだめがリュカとつき合ってるって噂……本当なのかしら……」
そ
の声に周りのメンバーも、互いに顔を見合わせ、ぼそぼそと遠慮がちに本音がこぼれる。
「うん……正直、気になる
よね……」
「さんざんテレビとか雑誌で騒がれてたし……」
「リュカの方はのだめちゃんに本気だって話よ」
「千
秋様とコンヴァト卒業前に別れたというのは聞いてたけど……」
真澄がポツリと呟く。
のだめ
がフランスに行っていた後でも、メールやチャットなどでずっと交流をとっていた真澄。
だが、のだめがオーストリアに移ったくらいから
連絡は途絶え、ここ2年くらいは音信不通だったのだ。
「あの子が……千秋様以外の人を好きになったりするのかし
ら……」
真澄の言葉にしんみりとなる一同。
その時。
裏
軒の入り口のドアが、突然ガラッと開けられた。
入ってきたのは2人の見知らぬ男達。
一人は手にカメラを持ってい
た。
どう見ても、ちょっと食事をしに来たという出で立ちではない。
「すいませーん。今は準
備中なんですけど……表の看板見えませんでした?」
そうカウンターから言う龍見を無視して、男達はずかずかと
入ってきた。
「いやあ、すいません」
すいませんと言いながらも男達の
表情には全く謝罪の表情は浮かんでいない。
男達は飢えた獣のように不気味に目を光らせたまま、周りを見回してこう言った。
「今
日ここでR☆Sメンバーが会合を行っているっていう話を聞いたものですから」
「あの……いったい……」
「申し訳
ありません、挨拶が遅れましたが、私達こういう者です」
不審に思った峰が声をかけると、1人の男が峰に近づいて
さっと名刺を出した。
「週刊『暴露』の記者……?」
「私達、今、噂の『zephyr』の一
人、野田恵さんについて調べているんですけど」
「え?」
「なんでも、学生時代には、あの今現在、人気沸騰中の新
東響の常任指揮者である千秋真一さんとつき合っていたという噂があるみたいですが」
「千秋さんは桃ヶ丘大学在学中にこのR☆Sオケの
指揮もしていましたよね」
「………」
「R☆Sオケの皆さんなら、2人がつき合っていたことご存じですよね」
「学
生時代の何かエピソードとか教えてもらえませんか?」
「聞くところによれば千秋さんはその気はなかったのに、野田さんが千秋さんにス
トーカーのようにつきまとって交際するようになったらしいじゃないですか」
「彼女のその強引なアプローチについて何か話を聞かせても
らえませんかね?。……例えば色仕掛けとか?」
ダンッッ!!
「いいか
げんにしろっ!!」
峰がテーブルを強く叩いた。
『是非、いる』丼の一つがそのはずみで床に
落ちて、陶器のどんぶりがガシャーンと割れる。
床に飛び散る麻婆の赤い色。
峰の目は怒りに燃え、その唇はぷるぷ
ると震えていた。
「お前ら……お前ら……人の過去さぐって……そんなに楽しいのかよ……。
あいつらがどんな気持ちでいるのかって考えたことがあるのか!?
好き放題に書かれた奴がどんなにつらいのかって少しでも思ったこと
はねえのかよっ!!」
そう出てこられるとは思ってもいなかったのだろう、あまりの峰の剣幕に男達が怯んだ。
「い
や……その……別に」
「私達はあくまでも世間が知りたいことを調べているだけで……」
峰が
青くなった男の一人の胸ぐらをがっと掴み上げた。
「……じゃあ、教えてやるよ。
千秋は俺
の親友で、のだめは俺のソウルメイトだ……。
2人とも大事な……大事な……俺たちの仲間だ。
……あの2人を
傷つけようとする奴らは、俺達が絶対に許さねえ!!」
その言葉に周りのメンバー達も声を揃えて男達を睨み付け
る。
「お前ら品がなさすぎるんだよ!!」
「のだめちゃんは色仕掛けなんてするような子じゃ
ないわよっ!!」
「そうよそうよ!!」
「何言ってるのよ、あんた達!!」
「さっさと帰れ
よっ!!」
R☆Sオケ全員が一丸となって、記者達を取り囲み非難の言葉を叩きつける。
その
剣幕に押されて記者達が一歩退いた時。
「ばっかじゃないのっ!!」
真
澄が怒りに我を忘れて突然叫んだ。
「千秋様が学生時代につき合ってたのは……のだめじゃなくて、この私
よっっ!!」
……… ……… ………
途端に波を打ったように静まりか
える店内。
「……あの……」
「真澄ちゃん?」
「……のだめちゃんを援
護したい気持ちはわかるけど……それは……ちょっと、方向が違うような……」
「そうだ!何を言っているんだ!!。それは違う!!」
高
橋が立ち上がり、親指で自分の胸を指さした。
「千秋くんが好きだったのは、この僕だ!!」
………
……… ………
「……あの〜、もしもし?」
「……高橋くん?」
皆
の困惑した表情もなんのその、高橋はうっとりした顔で夢を見るように遠い昔を思い出す。
「千秋くんに出会ったの
は……忘れもしないR☆Sオーケストラのコンサート。……感動して会いに行った僕を、指揮者控え室で千秋くんは、シャツの胸ボタンを開けて僕を迎え入れて
くれた……」
「何言ってるのよっっ!!ただ単にあんたが千秋様の着替えを覗きに行っただけじゃない!!」
「うる
さいこのもじゃもじゃ!!……僕が千秋くんと友好を深めようとして一緒に帰ろうとしたら、ゴミバケツなんてかぶせやがって……」
「当
たり前よっ!!。あんたのやってることはただのストーカーじゃないのよっ!!」
「いつもいつも僕と千秋くんの間に入り込もうとして、
この変態っ!!」
「あんたに言われる筋合いはないわよっ!!」
真澄と高橋が睨み合い、話が
恐ろしく脱線しそうになるのを防ごうとあせった峰は叫んだ。
「お前らっ!!。今はそんなことを言っている場合
じゃないだろう!!。千秋がつき合っていたのは……千秋がつき合っていたのは……」
そうして峰はR☆Sメンバー
をぐるりと見回す。
ここは萌か薫に話をふるべきか?。
でも、そうしたら今度はそいつがこのゴシップ記者達の餌食
になってしまう……。
そんなことをさせるくらいなら……そんなことをさせるくらいなら……。
峰
は叫んだ。
「千秋がつき合っていたのは……この、俺
だーーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!」
……… ……… ………
静
まりかえる店内。
記者の一人がおそるおそる声を発する。
「あの……R☆Sオーケストラっ
て……いったい……何の集まりなんですか……?」
ドサッ!!。
何か荷
物が床に落ちる音がして振り返ると、裏軒の入り口には三木清良が立っていた。
「清良!?」
「ど
うしてここに!?」
皆が驚きの声を上げるが、清良はそれには反応しなかった。
顔は俯いたま
までその表情は見えないが、その肩が怒りでぷるぷると震えていた。
そしてキッと顔を上げるとその目には涙がたまっていた。
「……
り、龍が……両親に挨拶に行くから……って言ってくれたから……仕事の合間を縫って帰国したっていうのに……」
「き、き、き、清
良……?」
「……あんたなんて大嫌いっっ!!婚約はもう破棄よっっ!!」
そう言って左手の
薬指につけていたルビーの指輪を強引に外して床に投げつけた。
「ああっっ!!俺の真っ赤なルビーがっ!!」
慌
てて床をはいずり回って拾い上げる峰。
「清良、落ち着いて!!」
「落ち着いていられる訳な
いでしょうっっ!!このバカが千秋くんとつき合っていたなんて知らなかったわっ!!」
「だからそれはー」
パ
ニックになる一同にカメラを向ける記者達。
「おい、あれはこのあいだ国際コンクールで優勝した三木清良じゃない
か!!」
「三木清良にR☆Sオケの一人と結婚話!!しかしあっけなく破談!!」
「原因は新東響の千秋真一との三
角関係か?」
「ええと……この場合、どっちが千秋真一と関係があったことになるんだ?」
事
態はますます面倒なことになって、収拾がつかなくなってきたように思えたその時。
救世主が現れた。
「い
や〜。なんだかえらい騒ぎになっちゃってるね」
のほほんとした口調でくわえ煙草で現れたその男は……現在の
R☆Sオケの常任指揮者でもあり日本の若手No.1と言われる(最近千秋がその地位に迫ってきているが)松田幸久だった。
「松
田さん!!」
途端に飛びつくようにして抱きつく高橋。
腰に高橋をぶら下げたまま、松田は
ゆっくりと店内を見回す。
「今日は大事な用があるからって、峰くんから呼ばれた訳だけど……いやはやとんでもな
い展開になってるよね」
記者達はいいところに来たとばかりに、今度は松田に食らいついた。
「M
フィルの松田さん!!。ちょうどいいところへ!!」
「是非、後輩でもある千秋真一さんの乱れた女性(男性)関係について、お聞きした
いんですけれども!!」
松田はそんな記者達をちらりと一瞥して、落ち着いた様子で空いていたテーブルの席につ
く。
そして目の前にあった「是非、いる」丼をに手を伸ばし、一口食べるとこう言った。
「あ、
これ、けっこういけるじゃないの。峰くん」
「あ、そうですか。いや〜松田さんに気に入ってもらってよかった〜」
「い
やそうじゃなくてっっ!!『zephyr』の野田恵さんと、新東響の千秋真一さん、それから三木清良さん達との関係についてお聞きしたいんですが!!」
「別
にそんなこと、どうでもいいじゃん。俺、興味ないし。……それよりさあ」
そう言うと、松田は記者達に手招きして
自分の方へ呼び寄せた。
そして小声でそっと耳打ちする。
「えっっ!!」
「あ
の大物俳優の○○さんと清純派女優の○○さんがっ!!」
「不倫関係って……本当ですかっ!?」
た
ちまち目の色を変える記者達。
どうやら松田の漏らした情報は、目の前にあるネタよりもよほど興味のある話題だったらしい。
目
の前に骨をぶら下げられた犬のようによだれをたらさんばかりに松田にくらいつく記者達。
もうzephyrのこともR☆Sオケのこと
も、完全に彼らの頭からは、吹き飛んでしまったようだ。
「是非、是非、その話についてもっと詳しく教えてくださ
い!!」
「どうかよろしくお願いいたします!!」
「んー。だけどね」
松
田は相変わらず何を考えてるのかわからないような表情で言った。
「そのネタを提供するんだったらさあ。僕の可愛
い後輩の千秋くんとか、のだめちゃんとかさあ、R☆Sオケのメンバーのことには一切書かないって約束できる?」
「は、はい!!」
「誓
約書とか書いてもらってもいい?」
「もちろん書きますともっっ!!」
「ん〜、じゃあ、場所変えようか」
そ
う言って松田は立ち上がった。
大きく伸びをする。
「あ〜なんだか六本木とか行きたくなっ
ちゃったな〜。ドンペリニヨ〜ン♪とか飲みたい気分?」
「はいっっ!!どこまでもお供しますっっ!!」
す
り寄る記者達を従えて店を出る時に、松田は振り返ると皆に向かって軽くウィンクをしてみせた。
R☆Sオケのメンバー達は、目の前で起
こったその出来事を、ただあっけにとられて見ているだけだった。
裏
軒でそんなことがあったなんて何も知らなかった。
新東響での年末コンサートに向けた練習を終えて帰宅する途中の千秋は、自宅近くのコ
ンビニに寄った。
必要としたこまごまとしたものを買って帰ろうとした時、ふと入り口付近にあった雑誌コーナーに目が行く。
そ
して彼は眉間に皺をよせた。
松田とR☆Sオケメンバーの隠れた尽力によって週刊「暴露」の記事は抑えられたものの、他雑誌はそうはい
かないようだった。
《人気ピアノデュオ『zephyr』の野田恵の知られざる一面!!》
《音
楽界の巨匠達を次々と利用していくその手口とは!!》
思わずゴシップ誌の一冊手に取った。
記
事を読み進めるうちに怒りがふつふつとわき出してくる。
シュトレーゼマンのおかげで事件は解決に結びついたかのように見えたが、やは
り今一番注目されているピアノデュオということもありスキャンダルの余波はいまだ続いているようだ。
あることないこと書き放題に書か
れたその記事を見るに耐えなくて、千秋は雑誌を閉じて棚に戻そうとした。
その時。
ひょ
いとその雑誌を取り上げられる。
驚いて横を向くと、そこにはヒョウ柄のコートを着て可笑しな帽子を被り、サング
ラスをしたのだめが立っていた。
そして千秋と視線が合うとにっこり笑う。
「の……のだ
め……」
お前、なんでこんな所にいるんだよ。
なんだよ、その似合わない格好は……。
と
千秋の頭の中で疑問符がぐるぐると回るも言葉にならない。
そんな千秋の動揺を知ってか知らずしてか、のだめは手にした雑誌をパラパラ
とめくって読んだ。
「ふお〜っ!!」
問題の記事に差し掛かった時、の
だめが奇声をあげる。
「『音楽界の魔性の女!!野田恵。次々と男達を手玉に……』デスか〜!!」
「………」
「『その豊満な肉体を武器に…』デスか。ふおお……先輩、のだめってすごいデスね〜」
「………」
ふ
おーとかむきゃーとか奇声をあげながら記事を読んでいるのだめの手から、たまらなくなってぱっと雑誌を取り上げる千秋。
少し怒りを含
んだ真剣な表情でのだめを睨む千秋に、のだめは目をぱちくりとさせる。
「お前……」
「?」
「……
お前……こんなこと書かれて……平気なのか……?」
「………」
しばらくの沈黙の後、のだめ
はサングラスを外した。
そして千秋に正面から向き直ると、にっこりと笑って言った。
「……
平気ですヨ」
「………」
「のだめは……自分のことについて書かれた記事を読む時に、こう考えるようになりまし
た。
……もし、本当のことが書かれていたら、ああ、これは本当のことだなあって思いマス。
……もし、事実と
違うことが書かれていたら、ああ、これは違うことだなあって思いマス」
「………」
「ただそれだけデス」
「………」
の
だめは淡々と話していた。
千秋は何も言えずにただ黙っているだけだった。
「本当の事は……
本当に大事なことは……わかって欲しい人にだけわかってもらえたら、それでいいんデス」
「………」
「それでいい
んです」
のだめは千秋を真っ直ぐに見据えて、また笑った。
その笑顔は、嵐が過ぎ去った後の
晴れ渡ってどこまでも澄み切った眩しい青空のようで。
いろいろな出来事を乗り越えたものにしか出来ないような、清々しい笑顔で毅然と
した姿でのだめはそこに立っていた。
千秋はそんなのだめが眩しくて目を細める。
「だから、
のだめは誰に何を言われたって平気なんですよ……ただ」
そこでのだめは何故か口ごもった。
一
瞬少し声のトーンが落ちたような気がしたので、千秋は聞き返した。
「……ただ?」
の
だめは首を振ると、笑顔のまま答えた。
「イエ、何でもありまセン!!それよりも……」
の
だめはバッグからごそごそと封筒を取り出すと、すっと千秋に差し出した。
「これ……」
「今
度、12月24日にある、zephyrのラストコンサートのチケットデス。すっごくいい席なんですヨ。今回のことで先輩にはすごくお世話になったか
ら……」
「………」
「ちゃんと2席とってありますから、彩子さんと来て下サイ!!」
「……
のだめ、その……」
千秋は彩子と別れたことを言おうと思った。
だが……それを、今、告げる
のはためらわれた。
きっとのだめは千秋と彩子が別れたことを知れば、自分のせいではないかと思うだろう。
……
大事なコンサート前に……こんなに晴れ渡った笑顔を曇らせるような、そんな余計なことは言いたくない……。
そう
思った。
「のだめ、頑張って弾きますから絶対に見に来てくださいネ!!」
両
手でガッツポーズをとってむん!と気合いを入れるのだめを見て、千秋はふっと笑った。
「……うん……必ず行く」
「ハ
イ!!」
「……それはいいけどお前……」
「ハイ?」
「その格好はなんなんだ?」
の
だめは目をぱちくりさせた。
そうして、身にまとっているコートと帽子とサングラスを見てふふっと笑う。
「こ
の間、ミルヒーに買ってもらったんですヨ。のだめも有名人になったんだから変装しなきゃいけないって言われて」
「いや……それはか
えって目立つんじゃ……」
「ムキャ!!じゃあ、どうしたらいいデスかね〜。峰くんくらいに相談した方がいいデスかね?」
「……
やめとけ。余計にひどくなる」
「そんなことを言って、峰くんが聞いたら怒りますヨ〜」
のだ
めが顔をしかめてそう言うのを聞いて、千秋はハハハと笑った。
久し振りに心の底から笑ったと思えた。
そ
して12月24日。
クリスマスイヴであり、恋人達が共に過ごす最高のイベントの日だ。
ついに期間限定
「zephyr」のラストコンサートの日がやって来たのだ。
外は冷え切った空気に吐く息が白くなるほど寒くて、空からはロマンティッ
クなこの日を演出するかのように、粉雪が舞い降りて来た。
ここコンサートが行われる都内のシンフォニーホールではぶつくさ文句を言っ
ている老人がいた。
「……全く。日本ではクリスマスは恋人と過ごすっていうのが定番なんでショ」
「………」
「そ
んな特別な日に、誘う女の子もいないんデスか、チアキ!?。ああ……私の弟子だっていうのに情けない……」
「……それとこれとは関係
ないでしょう」
むすっとした表情で隣に座るマエストロに答える千秋。
結局、のだめからも
らった残りの1席を無駄にすることも出来ず、母の征子を誘ったも仕事で断られるし、由衣子も彼氏とデートということで振られ、
なんだ
かんだで桃ヶ丘の理事長目当てで日本にずっと居残っていたシュトレーゼマンを誘ったのだ。
全く……この人はちゃ
んと仕事してるんだろうか……。
今回のホールはラストを締めるには最高の舞台ともいえるだろう。
昔
風の建築設計に趣向と余裕を凝らした造りで、2階座席配置も贅沢な間取りである。
横幅が広く、音の拡散が大きそうで期待感が持てる。
公
演の時間が迫り、ぞくぞくと入ってきた人々が、ホール内を埋め尽くす。
はたして、のだめとリュカのデュオはここでどのような音楽を奏
でるのか……。
期待と不安で胸が高鳴り先ほどから落ち着かない千秋に、シュトレーゼマンはそっと耳打ちした。
「千
秋……演奏前の控え室に、のだめちゃんを激励に行きましょうヨ」
「な……」
思わず千秋の言
葉が詰まる。
「本番前の一番大事な時にそんなことが出来る訳ないじゃないですか!!。だいたい関係者以外立ち入
り禁止ですよ」
「大丈夫、大丈夫、ここのプロデューサーとは顔見知りだから、顔パスデース」
そ
う言いながら、意気揚々と楽屋裏に向かって行くシュトレーゼマン。
躊躇いながらもその後をついていくしかない千秋だった。
舞
台裏ではたくさんのスタッフが今から行われるコンサートのために走り回っていた。
誰も自分の仕事に懸命で、シュトレーゼマンと千秋を
咎めるものなどいなかった。
たまたまふと目が合ったとしても、「世界のマエストロと新東響の常任指揮者」に立ち入り禁止を申し出る者
などいなかったに違いない。
そして、2人は『zephyr』野田恵様…と入り口に書かれた控え室の前に来た。
シュ
トレーゼマンがコンコンとノックする。
「ハーイ」
可愛らしいのだめの
声がした。
それを聞いた途端に、シュトレーゼマンは急に股間を抑えた。
「チアキ……ワタシ
急にトイレに行きたくなりましタ」
「はあ!?」
怪訝そうな顔をする千秋にニヤッと笑って
シュトレーゼマンは言った。
「じゃあ、後はよろしくお願いしますネ〜」
そ
う言って即座に廊下を走り去る。
「ちょ、ちょっと……」
千秋が後を追
いかけようとした時、目の前の控え室の扉が開いた。
「ハーイ、なんデスか?」
そ
う言いながら出て来たのは……のだめだった。
思わず千秋は息を呑む。
そこに現れたのはのだめであるにもかかわら
ず、千秋の知っているのだめでなかった。
黒色のロングヘアのウィッグを着けて、腰まである長い髪が、動くたびにさらりと流れるように
動く。
のだめは肩を大きく露出したまるで豊満な胸を強調するかのような深紅のドレスを着ていた。
唇の色もドレス
の色に合わせて赤く艶やかで濃く、まるで見る者を全てを虜にするような出で立ちの姿に千秋の心臓はどくんと鳴る。
「先
輩デスか?」
「……あ、ああ……」
千秋に気づいた途端にのだめが笑顔になった。。
先
ほどの雰囲気をがらりと変えて、屈託のないいつものその無邪気な笑顔に千秋はほっと胸を撫で下ろす。
「どうした
んデスか?」
「いや……エロジジイが、コンサート前ののだめを激励しようって言うから……仕方なく……」
「ふお
お……ミルヒーも来てくれたんデスね!!……あれ?でも、彩子さんは……?」
「その……」
言
い訳の仕様もなく言葉につまる千秋。
幸いにものだめはそんな千秋の変化に気づくこともなく無邪気に笑う。
「で
も、嬉しいデス!!。本当に先輩、来てくれたんですネ!!」
「……ああ」
そしてしばらくの
沈黙が辺りを漂う。
ここでのだめに何か一言、声をかけてやりたいと思ったが、今の自分に何が言えるだろう。
本番
前の自分のピリリと張りつめた緊張と期待と興奮を思い出す。
自分ならこんな時にかけて欲しい言葉など……ない。
そ
の代わりこんな言葉が口に出る。
「……その……衣装……」
「へ?」
「……
相変わらず、露出度高いな……」
千秋の指摘に気づいたのだめは屈託無く笑う。
「あ
あ、これは事務所の方針なんですヨ〜。できるだけ、ムラムラさせる路線でっていう……」
「髪も……」
「ちょっと
リュカの意向もあって、ロングヘアにしてみました。どうですか?素敵でしょう!!」
「………」
「どうしマス?先
輩。今日ののだめとリュカの舞台は官能ムラムラですヨ〜。先輩がまともに直視できないかも知れませんヨ〜!?」
ぷ
ぷぷと悪戯っぽく笑うのだめに、千秋は答えた。
「……ちゃんと見るよ」
「え……?」
千
秋はしっかりとのだめの目を見据えて、言葉を出した。
「どんな演出だろうと……きちんと最後まで見届ける……。
けっして目をそらさない……」
「………」
「……お前の舞台だから……」
「先輩……」
千
秋の言葉を聞いた途端、のだめの白い首筋にさっと紅が走った。
のだめが口を開くが、その声は出てこない。
お互い
に言いたいことがあるのに伝わらないようなそんなもどかしさが2人を包む。
千秋が言った。
「……
その変わり、俺様の目の前で無様な演奏をしてみろ!!ただじゃおかねえからな!!」
「ムキャーーッッ!!やっぱり先輩は鬼デス!!。
悪魔デス!!」
「なんとでも言え!!。……俺を納得させる演奏をしてみろ……」
のだめは千
秋を見た。
千秋ものだめを見た。
2人の視線が熱い思いを絡めて交わった。
……しばらくの沈
黙の後で、口を開いたのはのだめだった。
「……のだめ、もう、時間だから行きますネ」
「あ
あ……」
そう言ってその場を立ち去ろうとしたのだめはロングスカートの裾を踏んづけた。
思
わず揺らいで前に倒れそうになるのだめの体を千秋は抱き留めた。
本番前の興奮して熱い体温が千秋の胸に、腕に、直に伝わる。
昔
感じていた懐かしい香りがする。
千秋は思わずその場で抱きしめそうになった。
その時。
「の
だめ!!」
と鋭い声が走った。
その声の先を見ると廊下の真正面に燕尾
服を着たリュカが立っていた。
厳しい視線は真っ直ぐに千秋を見据えている。
2人の視線があった。
一
瞬、2人の間に火花がバチバチと燃え上がるのを感じた。
「のだめ、もう、時間だから行くよ」
「あ、
ハイ。すいません、先輩、のだめよろけちゃって……」
「いや……」
軽く会釈をするのだめの
腕を掴んで自分の元に引き寄せると、リュカが冷たい視線を千秋に送る。
こ
こから先は僕とのだめの領域だ。
誰も立ち入らせない。
そ
う告げているようで、千秋には何も言うことが出来なかった。
席
に戻った千秋を、ちゃっかりと先に席についていたシュトレーゼマンが迎えた。
「……のだめちゃんと話は出来まし
たか?」
「……やっぱりわざとだったんですか……あれ」
「弟子を思いやる親心デース」
違
うだろう……と心の中でツッコミながらも千秋は憮然として自分の席についた。
舞台が次第に暗くなり、開演のブザーが鳴る。
楽
しい音楽の時間が始まる……。
続
く。(written ハギワラ)