不思議の国ののだめ
春
のほがらかな日差しの中、のだめと千秋は散歩がてらパリ市内の公園に来ていた。
二人でサンドイッチを食べてゆっくりした後、千秋は楽
譜を取り出してアナリーゼの講義を始める。
「ーだから、この作曲家の意図は…って、聞いてるのかのだめ」
「あ
うーせっかくのデートなんデスから、勉強はやめましょうヨ」
「お前、今度試験があるんだろう!そんなこと言っている場合か!」
「…
ぎゃぽん」
そうして続けられる難解な千秋の講義を聞きながら、のだめはいつの間にかうつらうつらしていた。
気
がつくと千秋の姿がなかった。
「ふぉ?先輩、どこに行ったのデスかね?…飲み物でも買いに行ったのかな…」
そ
こへ、せかせかと目の前を通り過ぎる人影があった。
「黒木くん?」
「あ、恵ちゃん」
黒
木は正装をしており、どこかへ出掛ける途中のようだ。
ひどく慌てており、懐から懐中時計を取り出して時間を気にしている。
「黒
木くん、どこかに行くんデスか?」
「うん…ちょっとね。ー遅れそうだ!ゆっくり話したいけど、時間がないからまたね!」
「あ…
黒木くん!」
のだめの制止の言葉も振り切り、黒木は早足で行ってしまった。
「ー
黒木くん、なんだか急いでましたネ。ーあれ?これは?」
草むらの中にキラリと光るものが落ちている。
ー
先ほど黒木が持っていた懐中時計だ。
「黒木くん、落としていったんですネ!早く届けないと!」
の
だめは黒木の後を追った。
公
園の奧へ奧へと入っていく。
鬱蒼とした木々と茂みがなんだか気味が悪い。
「ー?。この公
園ってこんなに広かったですかネ?」
それでも道に沿って進んで行くと、行き止まりになっていた。
よ
く見るとすぐそばに洞窟のようなものがある。
「…おかしいですネ。他に道はなかったし…黒木くん、ここに入った
のかな…」
多少不安に思いながらも、のだめは洞窟の中に一歩足を踏み入れる。
ーとたんにが
くんと落ち込んでそのまま急降下しはじめた。
「ギャボー!!」
深い穴
の底に向かってまっさかさまに落ちて行った。
何故かかなりの滞空時間だったにもかかわらず無事に穴の底に着地す
る。
目の前には緑色のドアがあった。
のだめは取っ手を握りドアを開ける。
そこは広い殺風景
な部屋だった。
「ベーベちゃん」
声をかけられてのだめは振り返る。
そ
こに立っていたのは…シャルル・オクレールだった。
「ふぉ…先生、どうしてこんなところにいるんデスか?」
「ベー
ベちゃんこそどうしてここに来たの?」
「のだめは、黒木くんを追いかけて…ここはどこですか?」
「ふふ」
オ
クレールは微笑むばかりで答えようとしない。
のだめは、ふと思いついたように言う。
「ーオ
クレール先生、のだめ一度聞きたいことがあったんですけど…」
「何?」
「ーどうして、のだめのことをベーベちゃ
んって呼ぶんデスか?のだめ立派な大人なのに…」
オクレールはゆっくりと答えた。
「ー
君は…まだ赤ちゃんのように自分の能力を表現する術を知らないから…。本能のままにまっすぐにしか進めきれない…青くて荒々しい」
「…」
「ー
それを導いて行くのがボクの役目だけどネ。ーオーボエ科の黒木くんを探しているんだろう?」
「ハイ」
「彼なら、
このドアから出て行ったヨ」
そう言って指し示したのは、部屋の隅にあるのだめの膝までしかないような小さなド
ア。
「ふぉ…こんな小さなドアじゃのだめ入れませんヨ」
「ーじゃあ、そこのテーブルの上の
瓶の中身を飲んでごらん」
いつの間にか今まで無かった所にテーブルが現れて、その上にはきらきら光る小瓶があっ
た。
『飲みなさい』とラベルに書いてある。
「…なんデスか、これ」
「い
いから、飲んでごらん」
のだめはおそるおそる瓶の中の液体を口に含み、ごくりと飲み込む。
み
るみるうちにのだめの体は、小さく小さく縮んでいき…気がつくとドアをちょうど通れるくらいの大きさになっていた。
「ふ
おおおっ!小さくなってしまった…。ありがとうございます!オクレール先生!」
振り返るとオクレールの姿は消え
ていた。
のだめは不思議に思いながらも、小さなドアの取っ手を握り、静かに開けた。
ド
アを開けると目の前には、キラキラと輝く青い海があった。
白い砂浜をさくっと踏む。
ふと気づくと目の前に人間の
男性が走っていったような足跡がある。
「ふぉ…これがきっと黒木くんの足跡ですネ」
の
だめは点々と続いているその足跡を追っていくことにした。
だんだん体の大きさがもとにもどるのを感じる。
しばら
く進むと、波の打ち寄せる音に混じって…ピアノの音が聞こえてきた。
しかも、この曲は…フランス版プリごろ太!
慌
ててピアノの音が聞こえてくる方へ走ると、ー砂浜の上に大きなグランドピアノが置かれていて、フランクがピアノを弾いていた。
その周
りにターニャとユンロンもいて、皆で何かを話している。
「フランク、ユンロン、ターニャ!」
呼
びかけるのだめに3人は笑って手を振る。
「のだめ!やっと来た!」
「へ?」
「フ
ランクがプリごろ太の曲の一部分がわからないっていうのよ」
「ほら、のだめ、ちゃらら〜んちゃらら〜んの次だよ」
「ー
ああ、それはですネ」
のだめはピアノの椅子に座った。
息をすうっと吸い込むと曲を弾き始め
た。題名は「プリごろ太のだめアレンジバージョン」
主題歌の覚えやすく簡単な主旋律はそのままに、複雑な和音や高度な技巧を加え、ダ
イナミックな作品になっている。
弾き終わるとフランクがパチパチパチと拍手をした。
「ブラ
ボー!!すごいよ〜のだめ!完璧だ!」
「たかが…アニメの曲なのに…そこまで本気になるか?」
ぼ
そっとユンロンが言う。
「でも、本当にのだめ、ピアノ上手になったわね。練習も今までよりずっと頑張るように
なったし。
やっぱり千秋の影響?…指揮者の千秋に、あんだけ完璧にバッハ弾かれて…悔しかったの?」
「…ハイ」
ター
ニャの言葉に素直に頷くのだめ。
「ーどんなに頑張って練習しても…先輩には追いつけない気がして…。
だっ
て、先輩は自分で指揮してピアノ弾けるんだったら、もうのだめの存在って必要ないじゃないデスか…。
ーそれに…今の先輩の視線の先に
は、きっとのだめはいませんヨ…」
のだめは遠い目になる。
ー千秋の視線の先。
そ
こにいる人物が、のだめが乗り越えていかなければいけない…最も大きな壁なのだ。
「ーなんだかよくわからないけ
ど、あんた達大丈夫?ユンロンなんか千秋とデートしたくていつも部屋の前でうろうろしているわよ」
「ムキャ?」
「ユ
ンロン…きみ…」
「ヒィィー!誤解しないでネ!ボクにはそんな趣味はないヨ!…確かにうっかり惚れそうになったケド…」
「わ
あーっっ!」
「やっぱり!」
「ー違う!!。ボクの理想の女性のタイプは
孫Ruiだヨ!美しく知的で、才能に溢れてて…」
「…それはかなり高嶺の花っぽいけど」
「フランクは、どんな女
性が好きなんですか?」
のだめがフランクに話しかける。
急に話を振られたフランクは顔を
真っ赤にさせる。
「いや…その…」
「フランクはね、日本人が好きなのよ」
「タ、
ターニャ…」
ニヤリと意味ありげに笑うターニャにフランクがとまどう。
「ふぉ
〜日本人ですか。あ、じゃあ、のだめ日本の友達紹介してあげますネ!
マキちゃんがいいかな〜。レイナちゃんがいいかな〜」
「…」
「…
天然って…はた迷惑な奴よね」
その時、のだめが急に思い出したようにハッとする。
「ー
あ、そうでした!のだめは黒木くんを探しているんでしタ!」
「…ヤスを?」
「落とし物届けないと」
「ふ
うん…」
「ーどうしたんデスか?ターニャ、顔が怖いですヨ?」
「えっ」
慌
ててターニャは顔を両手でパシンっと叩くとそのままグニャグニャと揉みほぐす。
「べ、別になんでもないわよ。私
は将来性のある金持ちのいい男絶対ゲットしてやるんだから!
ーヤスに言っときなさいよ!あんたは私の眼中にないって!!」
「…
は、ハイ?」
なんだかよくわからないまま、のだめは3人と別れて海辺を後にした。
足
跡をずっとたどっていくと、どうやら森に入っていくようだ。
のだめはそのまま森の中へ入り込み、黒木の姿を探す。
し
ばらく進むと、目の前を歩いている二人の人間の背中が見えた。
「あの〜ちょっとお聞きしたいのデスが…」
「え?」
の
だめの声に振り返ったのは…なんと桃平美奈子と沙夜子。
「ふぉ〜…理事長…と妹さん。二人並んでいるところ、初
めて見ましタ〜」
「あなた…うちの学園の学生だった子よね。ー確か中退してコンセルヴァトワールに留学した…」
「は
い、のだめデス」
「ーありがとう」
「へ?」
美奈子は優しく微笑んだ。
「千
秋真一くんが…海外に行けるようになったのは貴方のおかげなんでしょう?
あの才能と情熱を、日本でくすぶらせているのはあまりにも
もったいないと思ってたのよ…」
「…別に…のだめは何もしていまセン…。
先輩はずっと一人で人の何倍も努力して
勉強してきて、自分の力で壁を乗り越えたから…」
のだめはため息をついた。
「ー
多分、これからもずっと…」
千秋はどんどん先を歩いていくのだと思った。
ーのだめの決して
追いつくことのできないようなスピードで。
「ーそうかしら?」
「え?」
美
奈子はのだめの肩をポンっと叩いた。
「ーシュトレーゼマンは少なくとも、そうは言ってなかったわよ」
「ミ
ルヒーが?」
「あなた…自分で思っているよりもずっと彼に強い影響力を持っているのよ。自信持ちなさい」
「…」
「そ
うよ、そうよ!」
沙夜子はハハハッと豪快に笑う。
「あなた、音楽家に
しては細すぎるわよ〜!もっとたくさん食べないと。
お勧めは裏軒のレバ・ハンランチよ!」
「あ、のだめもレバ・
ハンランチ大好きデス!あと麻婆豆腐とか餃子とか」
「チャーハンがたまらないのよね〜」
「デザートはチョコパ
フェとアイスティーで!」
きゃあきゃあと裏軒のメニューのことで盛り上がるのだめと沙夜子を見ながら、美奈子は
ため息をついた。
「あの、オーボエの男の子を探しているんでしょう?。その子なら、この道を真っ直ぐにいったわ
よ」
「ありがとうございマス!」
のだめはぺこりと頭を下げて、二人に手を振った。
桃
平姉妹から別れてしばらく行くと、のだめは小さくて可愛い造りの家の前に出てきた。
「誰の家デスかね?」
バ
タンッ。
急に玄関のドアが開いて、黒木が出てきた。
「ふおっ!黒木くん!」
「ー
あれ?恵ちゃん…」
「のだめ、ずっと黒木くんを探して来たんですヨ…」
そうしてポケットか
ら懐中時計を出して、黒木に手渡す。
「はい、これ落としてましたヨ」
「ーああ、探してたん
だ!ありがとう!」
「ここは、黒木くんの知り合いのお家デスか?」
「えーと」
「突撃!隣の
お宅拝見!!」
のだめはいたずらっぽく笑うと、黒木の横をすり抜けて部屋の中をうかがう。
小
さな部屋の中央にテーブルがあり、その上には皿に盛られたクッキーがあった。
ぐう。
のだめは急にお腹が空いてく
る。
思わず、テーブルに近寄りクッキーを手に取る。
クッキーの表面には『お食べなさい』という文字が書かれてい
た。
「すみません、黒木くん、一枚いただきますネ」
「ーあ、ちょっと、恵ちゃん…」
黒
木が止めるのも聞かず、のだめはクッキーをぱくりと口にする。
ーそのとたん。
先ほどとは逆に、どんどん体が大き
くなり部屋からはみ出しそうになった。
足がドアを突き破り飛び出し、腕は二階の窓からそれぞれ突き出る。
顔は二
階の大きい窓からかろうじて見えるだけとなった。
「ふおぉぉ…!これはどういうことデスか!」
「恵
ちゃん…どうしよう…」
黒木は顔を青くして、周囲を見回す。
そこへ、何故かはしごを抱えた
リュカが通りかかった。
「リュカ!ちょっと手伝ってくれないか!」
「あれ…ヤス。どうした
の?」
「リュカ〜〜助けてくだサ〜〜イ」
情けない声のする方へ顔を向け、二階を見上げた
リュカはぎょっとする。
「ーのだめ!どうしたの?そんなに大きくなっちゃって!」
「クッ
キーを食べたら、こんなに大きくなっちゃったんデス〜」
「リュカ…悪いんだけど、煙突をつたって恵ちゃんを家から出してあげてくれな
いか…」
「ーったく…のだめ、食い意地が張ってるんだから…」
リュカは家の壁にはしごを立
てかけると、するすると身軽によじ登って行く。
それから、のだめの顔の部分の所まで来ると、しばらく考えて首を振る。
「駄
目だよ、大きすぎてどうにもならない」
「そんな〜」
「仕方ないよ、のだめ。いつも鈍感過ぎるくらい鈍感だから、
バチが当たったんだよ」
「へ?」
「ーいつまでたっても、僕やヤスの気持ちにちっとも気づかない。千秋ばっかりし
か見てないからこんなことになるんだ」
のだめには何が何のことやらさっぱりわからない。
黒
木は苦笑する。
「やめなよ…リュカ。恵ちゃんは恵ちゃんのままでいいんだよ…。ー僕はそんな恵ちゃんが好きなん
だから…」
「…そりゃ、僕だってそうだけどさ…」
ふう…と諦めたように肩をすくめて、リュ
カはポケットの中からトマトを出した。
「はい。これ食べて」
「へ?…でも、これトマトじゃ
ないですか。…のだめ、トマト嫌いなんデス…」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
怒っ
たように言うと、リュカはトマトをのだめの口の中に投げ込んだ。
ーすると、のだめの体はみるみるうちに、どんどん縮んでいった。
い
つの間にか、のだめの体はネズミくらいの大きさになった。
気がつくと、黒木もリュカもいない。
「は
う〜二人ともいない…これから先、いったいどうしたらいいのでしょう…」
仕
方なく、のだめは小さい歩幅で歩いていくことにした。
目の前は野原で、美しく色とりどりの鮮やかな花がたくさん咲いていた。
し
ばらくすると、だんだんとまた体の大きさはもどってくる。
「あれ、のだめ?」
不
意に声をかけられて振り向くと、そこには大学時代の親友のマキの姿があった。
何故か、ピンクの薔薇の花を頭につけて、それと同じ綺麗
なふわふわのピンクのドレスを見につけている。
気がつくと、隣には同じような格好をした、レイナ、萌、薫の姿があった。
「ふ
お…マキちゃん!…レイナちゃん、萌ちゃん、薫ちゃん…皆、どうしたんですか?そんな可愛い格好をして」
「ーそんなことより、あん
た、今、本当に千秋様とつき合ってるんだって!」
「ぼへ?どうして知ってるんデスか?」
「真澄ちゃん情報よ!ー
それで、どうなの?」
「本当デス」
「ーえーっっ!嘘でしょう〜!。大学時代にも、いつも一緒にご飯食べてるとか
お風呂に入れさせてもらってるとか言ってたけど、また妄想してるんだって全然本気にしてなかったのに!!」
のだ
めは右手と左手の人差し指の指先を合わせて、照れたようにぷぷっと笑う。
「ハイ〜。そうなんですヨ〜。いつの間
にかそうなっちゃって〜」
「うらやましい〜!のだめちゃん〜!!」
「ーいつか、私達、フランスに行って千秋様の
おそばにいようと思ってたのに…」
萌と薫がショックを受けている横で、マキがのだめに心配そうに言った。
「の
だめ、ちゃんと向こうでもご飯食べてる?ーあんたのことだから大丈夫だとは思うけど…少しやせたんじゃない?」
「大丈夫デス!(時々
缶詰の時もあるけど)『千秋先輩』が主夫になって、のだめに食べさせてくれてマス♪。」
「うそ〜っ!超幸せ〜!」
「私
なら、失神しちゃう〜!」
そして萌と薫はしっかりとのだめの手を握る。
「ー
でも、のだめちゃんだったら、許せるかも!」
「そうね、他の人だったら許せないかもしれないけど…のだめちゃんなら…」
「あ
の厳しい千秋様に恐れをなすこともなく、何度はねつけられてもひるむことなく近くに寄って行ってたんだもの!」
「頑張ってね!のだめ
ちゃん!私達、ずっと応援してるから!」
「萌ちゃん…薫ちゃん…ありがとう」
の
だめは笑顔で4人に別れを告げた。
の
だめは草をかき分け、木立の間をぬい、ひたすら森の中を進んでいった。
しばらく行くと…目の前に見えて来たのは、巨大なキノコだっ
た。
キノコのかさの上には、人影があり、座り込んで何か作業をしている。
のだめはそうっと近づいて行くと、目を
見張った。
「江藤先生…」
「おう、野田か。こんなところで何やっとんや」
「先
生こそ…何してるんデスか?」
見ると、ハリセンは、白くて大きい厚紙を端の方から丁寧に折り曲げていっている。
「ー
見てわからんのか。ハリセン作っとるんや。ーお前も手伝え」
「…え…あ、ハイ」
訳がわから
ないが、言われるままにのだめも厚紙を一枚取り、端から折り始めた。
これがけっこう難しい。
「何
やっとるんや!幅は2cmで揃えるんや!少しでもずれたらだいなしやからな!」
「もきゃ…」
不
器用なのだめは時々怒鳴られながらも、2人でしばし黙々と作業に集中する。
やがてのだめが口を開く。
「あ
の…先生…なんで、こんなもん作ってるんデスか?」
「ん?お前達が卒業(中退?)していってから、また新しい生徒がぎょうさん入った
からな。
また、ビシビシ鍛えんといけん」
「はう…」
「ーもっとも、このハリセンが通用せん
生徒が2名ほどおったけどな」
「…」
「ー特に、野田。…お前は最後まで俺にはようわからんかった…。ものすごい
集中力を見せるかと思えば、他の奴が簡単に出来ることがでけへん。ー俺は、お前みたいな生徒を教えたことは今までにない。
ーお前みた
いな奴、もう2度と現れてきいへんのやろうな…」
「先生…」
のだめはハリセンに向かって深
く頭を下げた。
「本当に…感謝していマス…。先生がいなかったら、コンクールに出ることも、パリのコンセルヴァ
トワールに留学することもありませんでしタ…。…本当にありがとうございましタ…」
「…別に、礼を言われるようなことやない。ーその
割には、お前卒業式の時には俺に来ィへんやったな」
「だって、谷岡先生の方が好きデスから」
「…」
ハ
リセンは苦虫を噛みつぶしたような表情になった。
「ーまあ、いい。ーほれ、ハリセンや。一個持ってけ」
「あ
りがとうございマス」
のだめはもう一度頭を下げると、巨大なキノコを後にした。
や
がて、道が二本に分かれたところにさしかかった。
のだめはどちらの道を進もうかと考えていた。
「のっ
だめっちゃーん!!」
いきなり後ろから手が出てきて、のだめの胸をがしっと鷲掴みにする。
「ぎゃ
ぼーっ!!」
バシイイインッ!。
のだめは後ろにいた人物を思いっきり、手に持っていたハリ
センで殴りつけた。
「ぶほっ!」
もんどりうって倒れるその顔を見て、
のだめは驚く。
「ミルヒー!!」
「…のだめちゃん、お久しぶりデス。あいかわらずトレビア
〜ンですネ」
「…ミルヒー…その登場の仕方、止めてくださいヨ。セクハラデス!。ー先輩に言いつけますヨ!」
シュ
トレーゼマンは、両手を広げて肩をすくめてみせた。
「オォ〜。そんなこと言いつけられたら、私、千秋から殺され
マス。ーそれよりのだめちゃん」
「ハイ?」
「今度、中国に演奏旅行に行くんデス。一緒に行きまセンか〜」
「ふぉ…
中国デスか」
「ハイ、私の身の回りの事をする第一秘書として。千秋の顔はもう見飽きましたからネ〜」
「中国…
ラーメンがおいしそうですネ」
「中華料理、おいしいですヨ〜。それにOne more KISS 中国店に連れて行ってあげマ〜ス。
お
色気修行で、今度はチャイナ服ってゆうのどうデスか?スリットのきわどい奴」
「生足で、千秋先輩を悩殺デスね!」
「ふぅ
〜。想像しただけでたまりまセン。のだめちゃんのチャイナ服姿…」
のだめはくすくすと笑っていたが、急に真顔に
なった。
それから、真剣な表情でシュトレーゼマンを見つめる。
「…行きたいのはやまやまな
んデスけど…のだめは行けまセン」
「どうしてデスか?」
「ーミルヒーの演奏旅行には、秘書とかそんなんじゃなく
て演奏家として同行したいんデス。
…のだめはピアニストデスから」
シュトレーゼマンはふっ
と笑った。
「ー私が、指揮する演奏に参加できるのは、世界的に認められた一流の音楽家だけデス。
例
えば、…千秋雅之やRuiのような。それは知ってますよネ」
「ハイ」
「あなたは、そこまでたどり着けるのデス
か?」
シュトレーゼマンは真剣な眼差しでまっすぐにのだめを見つめる。
のだめは目を逸らさ
ずに、その視線を受け止めた。
「わかりまセン…今はまだわかりまセンけど……必ず、いつか絶対に、たどり着いて
みせマス」
シュトレーゼマンは微笑んだ。
「そうですか…では、待って
ますヨ」
そう言うと、シュトレーゼマンは足の方からだんだんと消え始め…最後に笑った口の形だけが残り…それも
消えていった。
「ふぉ!マジックですか?…でも、…ミルヒー…はっきり言って…気持ち悪いデス」
ど
ちらにしようか悩んだあげく、結局右の道を選んで行くと、森の中に隠れるようにして小さな一軒家があった。
その庭にテーブルがあり、
誰かが集まってどんちゃん騒ぎをしているようだ。
のだめがそちらの方に吸い寄せられるように近寄ると、テーブルにいた人物がのだめに
気がついた。
「うぉーっ!のだめか!」
「峰くん!?」
「何よ、ひょっ
とこ娘!何しに来たの?」
「ー真澄ちゃんも!」
「こんにちは」
「………誰………?」
の
だめは、峰達とともにテーブルについている見慣れない顔に首を傾げる。
「…大河内守…。…Sオケで一緒に演奏し
たこともあるんだけど…」
「ああ、そういえばそんな人もいましたネ」
のだめはさらりと軽く
流す。
「どうしたんデスか?こんなところで皆で集まって」
「見てわからないか!祝いの宴会
だ、宴会!!お前もかたれ!」
峰はなみなみと注がれたビールのジョッキを軽く上げる。
見る
と、テーブルの上にはビールの瓶が何本も転がっており、枝豆や唐揚げなどのつまみも置いてあった。
「ふぉ…豪勢
ですネ…。でも、いったい何のお祝いなんデスか?」
「決まってるだろう、お前が千秋と無事にくっついたお祝いだ!ー長い片思いがよう
やく実ったな!のだめ!」
そう言って峰はのだめの肩をバシバシ叩く。その勢いと痛さにのだめはちょっと顔をしか
める。
それから峰は肘を目に当てるとおうおうと泣き始めた。
「…良かったな…のだめ。俺は
絶対にお前には千秋は無理だと思ってたぜ〜」
「峰くん…」
「ー私はまだ、認めた訳じゃないのよ」
泣
きじゃくる峰の背中を抱きながら、真澄が不満そう唇を尖らせて言う。
「あんたみたいな、がさつで無神経な女を選
ぶなんて…千秋様は一時の気の迷いがあったとしかかんがえられないわ!
ーどうせすぐに正気に戻るだろうから、すぐに捨てられるわ
よ!」
「ムキャ!そんなことないですヨ!先輩とのだめはラブラブです!」
「ふん!どうだか…」
真
澄はふふんっと意地が悪そうな顔で笑う。
「前にチャットで、服を着る暇もないし千秋様が横で寝ているなんて言っ
てたけど、あれ、嘘なんでしょう」
「…どきっ」
「どーせ、夜中にこたつの前で一人で寂しくパソコン打ってたに違
いないわ!」
「うっ…(図星)」
「…そうなのか…のだめ。お前って…寂しい奴だなあ」
「…」
「ほー
ら、ごらんなさい!」
ホッホッホッホと真澄は勝ちこほったかのように高笑いをする。
ーそれ
から、少し声のトーンを下げた。
「…でも、あんたがフランスに行けて千秋様のそばにいられることは良かったなっ
て…思ってるのよ、少しだけ」
「え?」
「…前にしばらく落ち込んでいたことがあったじゃない…」
「…」
「結
局は…なるようになった…って、ことなのかしら」
認めたわけじゃないからね!とあくまで釘をさし、キッとのだめ
を睨み付ける真澄。
のだめは、思わず感極まって真澄に抱きついた。
「ばすびちゃ〜ん!!
(涙声)」
「ええいっ!離れなさいっ!ーうっとおしいわね!!」
目の前でもみ合っている二
人を見ながら、大河内はポツリと呟く。
「…こいつが彼女だなんて…千秋の趣味って…あんまりよくないよなー」
「ム
キャ?」
その言葉を聞きとがめてじろっと大河内を睨むのだめ。
「どう
してそんなこと言われなきゃならないんデスか!ーあなた、いったい誰デスか?」
「あれ、?千秋から聞いてない?俺のこと」
「へ?」
「俺
は、千秋の『親友』っていうか『盟友』かな。
大学時代からシュトレーゼマンの弟子として一緒に音楽やって来たし。
今
でも連絡取り合って、お互いの情報を交換してるんだ。
あいつはマルレオケの常任指揮者として、俺はR☆Sオケの副指揮者として切磋琢
磨しあってるってところかな。
ーまあ、俺もいずれヨーロッパに進出することになるから、その時は寄らせてもらうよ!」
「ぎゃ
ぼん…千秋先輩にそんなお友達がいたなんて、知りませんでしタ」
「…信じるなよ…のだめ」
峰
がはあっとため息をつきながら頭を抱える。
「ゆっくりしたいのは、やまやまなんデスけど…先輩が心配してるだろ
うから、そろそろ帰りますネ」
そう言うとのだめは峰達に別れをつげた。
し
ばらく行くと、突然目の前に美しい庭園が広がった。
薔薇の花が美しく咲き誇り、のだめを誘っているようだった。
「ふぉぉ…
綺麗な庭ですね。今度はいったいどこに来たんでしょう」
すると、垣根の間からわーっと子供が二人駆けて来た。
の
だめの周りをぐるぐると回り、二人してにっこりと笑いかける。
「恵ちゃん!」
「元気だっ
た?」
「ふぉ!コータくんと真衣ちゃん!」
のだめはびっくりして二人の顔を見る。
二
人はのだめが小さい頃、ピアノ教室に通っていた時のままの姿だった。
「恵ちゃん、新番組見たか〜?。獣拳戦隊ゲ
キレンジャー!俺、今あの主題歌を練習してるんだぜ〜」
「私もプリキュア5見たいんだけど、お母さんがなかなか見せてくれないの…」
「コー
タくん、真衣ちゃん…どうしてここに?」
のだめの問いを無視して、コータはいきなりだーっと前に走り出す。
そ
して手招きをして、のだめを呼んだ。
「向こうにリカちゃんもいるぜ!こっちにおいでよ、恵ちゃん!」
「リ
カちゃんが?」
そうしてコータは真衣とともに二人で走り出した。
思わずその背中を追って走
るのだめ。
子供達は早足で垣根の間を縫うようにして走り、いつしかのだめはその姿を見失ってしまった。
それでも
道沿いに進み垣根を抜け、お城のような立派な建物のところへ来ていた。
「…この中に…いるのですかネ…」
ゆっ
くりと広い階段を上り、中に入る。
赤い絨毯のしかれた大広間のようなところに出たのだめは、中央に二人の人影がいることに気がつい
た。
「ーリカちゃん!」
のだめは幼少期のピアノの先生であった鈴木理
香子のもとへ駆け寄った。
懐かしさで胸がいっぱいになる。
「お久しぶりデス!」
「恵
ちゃん、ピアノ頑張っているみたいね!。私も嬉しいわ!」
理香子は嬉しそうにのだめに微笑む。
「噂
は聞いているわ!パリのコンセルヴァトワールに留学したんですって!」
「ハイ!」
「ーあの、問題児って言われて
た恵ちゃんが…すごいわ!」
その時、理香子の影から現れたもう一人の人物がゆっくりと口を挟んだ。
「ー
でも、今更留学なんて、もう遅いよ」
「…ゆーとくん…」
瀬川悠人は眼鏡の奧を鈍く光らせて
ゆっくりと呟く。
「ー天才も二十歳を過ぎればただの人っていうじゃない…。
留学するなら、
少なくとも十代のうちにしておかないと…ねえ、花桜先生」
悠人は部屋の奥を見て呼びかけた。
の
だめは驚きで目を見開いた。
今まで、暗がりに紛れて見えなかったが…カツンカツン…と足音を響かせて、花桜が窓の光が差す方へと歩み
寄って来た。
「…そうだな。もう遅すぎる」
「…は、な…ざくら、せ
ん、せい…」
「ーだから、あの時に海外留学をしておけば良かったんだ…。
…私があれほど
言ったのに…。
君と君の両親は、私の言うことを無視した。
ー今更、ピアニストを目指しても、もう無駄だ。
君
のライバル達はずっと遙か先を進んでいるんだよ」
「…」
「ーもう彼に
は追いつけないよ」
花桜の声ががらんとした広間に響き渡る。
「…そん
な…」
のだめは呻く。
顔が強ばり、体中が震えた。
「ー
君の才能は枯渇した。もう、君は世界に羽ばたくことはできない…」
「ーでも…のだめは…先
輩と一緒に…」
「ー
のだめ、のだめ!」
千秋に強く揺さぶられて、のだめははっと目が覚める。
ど
うやら、いつの間にかアナリーゼの講義を聞きながら寝てしまっていたらしい。
「ーどうした
んだ、お前。すごくうなされていたぞ」
「あ…」
手
で目をこすると涙で濡れていた。
「…なんでもないデス。…ちょっと…嫌な夢を見ていただけ
デス…」
へらっとして笑うのだめを見つめながら、千秋は一瞬ためらった後、言葉を切り出した。
「な
あ…のだめ。俺、ずっと考えていたんだけど…」
「へ?」
「…俺達……
結婚しないか」
「ぼへっっっ!!」
突然の千秋の言葉に、のだめは奇声
をあげる。
顔がぼっと燃え上がり、口をパクパクさせたまま言葉を発することができない。
「せ、
先輩…それって…」
「プロポーズだ」
あっさりと千秋は言う。
「は…
はう…」
幸せすぎてなんだか天に昇るような気持ちデス…。
思考回路が全て停止してしまっ
て、ふわふわと体中が浮かんでいるように地に足がついている感じがしない。
恍惚にひたっているのだめを見ながら、千秋は言いづらそう
に次の言葉を口に出す。
「それで…お前、学校辞めないか?」
「…えっ…」
「ー
今のお前、無理してあがいているみたいで…見ていてつらいんだよ。
…よくホタル化してるし…。
ーそうすれば、
きっと俺達今までみたいに仕事や学校の事ですれ違うことだってなくなる…。
もう別に…ゴールデンペアの夢なんてどうだっていいじゃな
いか…二人が一緒にいられれば」
「…」
「ーお前には、ピアノと家庭の
両立なんて無理だろう…。俺はお前には家庭に入ってもらいたいんだよ」
のだめは押し黙ったまま、千秋の言葉を
じっと聞く。
千秋の言うことは、正論だ。正論だけど…。
「ピアノは趣味程度にとどめておけ
ばいいじゃないか。ー俺と、そのうち生まれてくる子供に弾いて聞かせてくれれば…それでいい…」
「先
輩…」
たまらなくなってのだめは口を開く。
「ー
どうして…どうしてそんなこと言うんデスか?…のだめの知っている先輩は…そんなこと言いまセン…」
千
秋が何か言いたげに、のだめに向かって手を差し出す。
のだめはその手を避けるようにして、一歩退いた。
「ー
そんなのは、先輩じゃありまセン!!」
もう一歩後ろに下がる。
ガサ
リッと草を踏み分けた瞬間…。
「ギャボーッ!!」
足
下の地面が急に無くなって、のだめは深い深い暗闇の穴の底へと真っ逆さまに落ちていった。
バ
シィィィン!!
頭を強く小突かれて、その衝撃でのだめは目を開けた。
「の
だめ〜っ!俺様の講義で眠りこけるとはいい度胸だ!」
見ると、目の前に千秋が怒りの表情で立っている。
の
だめは思わず回りをキョロキョロと見回した。
「ーあれ…ここは…?。あ、…あれ?…今までのことも…さっきのこ
とも…夢…?」
「ーお前…何、寝ぼけてるんだ!!」
千秋は持っていた楽譜で、呆れたように
もう一度のだめの頭をバシッと叩く。
のだめは、はう〜と叩かれた場所をさすりながら、恐る恐る千秋に聞いた。
「…
先輩…もしかして…のだめは学校を辞めた方がいいとか思ってマスか…?」
千秋はのだめの言葉を聞くなり、無言で
のだめの口に両手の指を突っ込むと左右に思いっきり引いた。
「ふ・ざ・け・ん・な。ーお前はいったい何をしにパ
リまでやって来たんだ!」
「ず、ずびばぜん…ぞうでずよね…」
のだめは口を引っ張られなが
らとりあえず謝る。
ため息をつきながら、千秋は指を離した。
それからふっと笑う。
「…
ゴールデンペアとやらになるんだろ?」
ーのだめは急に嬉しそうな表情になり、千秋に飛びつ
いた。
「ー先輩!」
「わ!!何するんだ、こんなところで!」
「のだ
め、やっぱりいつもの先輩が、だいだいだ〜い好きデス!!」
「やめろ!押し倒すなーっ!!」
の
どかな昼下がりの出来事。
終
わり。