Innocent〜または そうでないもの
 

惹 かれたその部屋の向こうに、何があるのか想像できなかったわけじゃない。。
たけど、そのドアを開ける自分の手を止めることができな かった。
細くドアを開ければ、微かに乱れた息遣いが聞こえる。
この声は君?
この声が?
い つも聞いていた声とはまるで違うその声が、僕の心臓を強く握り締めた。
 
開けたらいけない。
だ けど、震える僕の手は、ゆっくりと扉を押し開く。
 
目の中に飛び込んできたの は、男にまたがりしなだれかかっている女の人。
肩まで伸びた綺麗な髪が男の動きに合わせて軽く揺れる。
 
どくん。
大 きく心臓が波打った。
大きな鼓動から始まったそれは、音をたて僕の中で走り出す。
胸の鼓動の早さに息苦しくな る。
息苦しさに喘ぐ僕は、それでも彼女の背中から目を離すことができなかった。
 
彼女の背中は、隠す布切れ もなく、あらわに空気にさらされている。
男の手で落とされたのであろう彼女のピンク色のワンピースは、彼女の腰にとどまって、彼女と 男の繋がりと隠していた。
 
男の上にまたがり、喘ぐよ うにのけぞる彼女。
男は優しく彼女の背中に手を回し、その素肌をなどりながら微かに見える彼女の白い胸に顔を寄せて、彼女を躍らせ る。
 
動けなかった。
窓 から降り注ぐ月の光りに包まれた二人から、僕は目を逸らすことが出来なかった。
鼓動はなおも早鐘をうち、体は急速に熱をもっていく。
 
のだめ。
 
僕に見せていた子供のよう な笑顔は嘘だったの?
 
ここには僕の知らない君が いて、彼は当たり前のように君を受け入れる。
 
細く奏でる声に、揺れる 体。
 
そんなただの女のような君 を僕は知らない。
 
のだめを抱く男が何かに気 付いたようにわずかに視線を上げた。
 
その視線が僕を捕らえた。
 
彼の目は驚愕に見開かれ て、動きを止めた。
 
僕は咄嗟にドアを強く閉め て、そこから走って逃げた。
 
走りながらも頭の中は2人 の姿でいっぱいだった。
 
白い背中。
乱 れた呼吸。
しがみつくように男に抱かれていた・・・彼女。
 
その日から僕の地獄は始 まってしまった。
 
 
 
あれから僕の体は熱をもっ たまま、未だ冷めない。
食事をする時も、ピアノを弾く時も、眠る時も、いつも彼女ー僕がずっと好きだったのだめとのだめの恋人の千秋 の姿あった。
 
この熱を冷ますにはもう方 法はひとつしかなくて。
僕は毎晩のように自分の熱を解放してやった。
その時に思い浮かべるのはいつものだめ。
僕 に会う時のいつもののだめ。
膨れた頬や心から楽しそうに笑うのだめ。
けど、思い浮かべるのはそんなのだめばかり じゃなく。
千秋の上で踊るように喘いでいた、女ののだめが僕の中にはいた。
 
たとえばあの時、のだめを 抱いていたのが僕だったら。
僕は、のだめの白い背中に手を這わしてその綺麗な肌を優しくなどる。
のだめは僕の肩 に手を置いて、涙目で懇願する。
僕はのだめのお願いを聞いてあげて、のだめの望むままに、彼女を突き動かすんだ。
そ の時の彼女はいったいどんな顔をしているんだろう。
きっと。
どんな女の子よりも、きっと。
 

「リュ カ!」
 

息が 止まるかと思うくらいびっくりした。
いつのまにかまたあの日の2人に思いを馳せていて、現実の世界から抜け出していた。
 
テーブルに置かれた目の前 のカフェオレはもうとっくに冷めていた。
 
「どしたんですか、ぼうっ として。レッスン終わりましたよ、帰りましょう。」
 
「う、うん。」
 
あれから僕は普通にのだめ と会ってお茶したり、一緒にピアノの勉強したりして、何も変わらない態度でいた。
頭の中では、凄いことになってたけど、のだめにそん な事を悟らせたりしなかった。
 
「最近・・・。」
 
「なんですか?」
 
鼻歌を歌いながら機嫌よく 前を歩き出したのだめが振り返った。
 
「千秋とは・・会わない の?」
 
ずっと気になっていたこと だった。
あの日、確かに千秋は僕の顔を見ていた。
もう何度か会ったことのある僕を千秋は覚えていないはずがな い。
けど、次の日に会ったのだめはいつもどおりだった。
 
のだめの顔を見てみると、 何故かのだめは急速に不機嫌な顔になっていた。
 
「先輩とは離婚協議中で す。」
 
一言、声のトーンも低くの だめはそう言った。
 
「はあ?!」
 
びっくりしすぎて思わず立 ち止まった。
 
「な・・なんで?喧嘩でも したの?」
 
「先輩はどこでもお構いな しの人でなしなんです・・・。反省するまではしばらく別居です!・・・もう別居はしちゃってますけど・・。」
 
「派手に跡がついてたわよ ねえ。」
 
いきなり背後からのだめに 抱きついてきたのはターニャだった。
その顔はかなり嬉しそうな顔をしている。
 
「派手なって?」
 
「こう、千秋のほっぺた に、みみずばれのひっかき傷がね、はっきりと。かなりの痴話げんかと見たわ。」
 
「なんでターニャはそんな に嬉しそうなんですか・・。」
 
のだめはますますどんより してきている。
 
「他人の痴話げんかほど楽 しいもんはないじゃなーい?ほほほ。ねえ、のだめが怒るなんてよっぽどのことでしょ?
 千秋が浮気でもしたの?」
 
「むきゃーー!そんなわけ ないじゃないですか!先輩はのだめ命ですよ!どこでも発情しちゃうくらいなんですから!」
 
僕とターニャは一瞬にして 固まってしまった。
 
「発情って・・・千秋 が?」
 
僕が言葉が出ない間にター ニャがしっかりと聞いている。
僕は頭が真っ白になりそうだった。
 
「むう、そうですよ。この 間なんか最悪です。マルレのコンサートの後楽屋にいったら・・・。」
 
「い、行ったら?」
 
ターニャは生唾を飲み込ん でそう言った。
その先を僕は知ってる。
いつだって鮮明に頭の中に蘇る。。
 
「ここから先は言えませ ん。リュカには刺激的すぎます。」
 
のだめの言葉に僕は全身の 血が頭に上ってしまった。
 
「子ども扱いしないで よ!!」
 
そう叫ぶとびっくりして大 きな目を見開くのだめが見えた。
そんなのだめに僕はひどく悲しくなった。
 
僕にはそんな君しか見せて くれない。
いつだって、皆の知っている君しか僕は知らない。
千秋にはあんな姿を当たり前のように見せているの に。
そのことが僕はたまらなく悔しくて・・・涙が出そうになった。
僕にも見せてよ。
君の奥 深い場所にある本当の姿を。
僕も見たいんだ。
あの日の、全てをさらけだし、快感に身を委ねていた君の姿が。
 
 
 
のだめから逃げるように家 に帰った。
ドアを開いて階段を駆け上がる。
そのまま僕の部屋に入ってドアに鍵をかけ、ベッドの上にダイブしてそ のまま動けなくなった。
 
悔しさが心を覆い尽くして 苦しい。
のだめの顔が頭の中から消えてくれなくて泣きたくなった。
思い知るしかなかった。
 
僕はまだ子供で。
の だめは僕を男としてなんか一度だって見た事はないんだ。
ほんの少しでも千秋から奪い取れるかもしれないなんて思っていた僕は馬鹿だ。
た だの思い上がった、がきだったんだ。
 
 
 

眠れ ないまま夜が明けた。
のだめへの気持ちは消えてくれることもなく、逆に苦しくなるほどに募っていった。
 
いつか手にいれるって決め ていた。
いつか千秋を超える男になって、のだめを僕のものにするって、確信に近い思いがあった。
 
いったい何の根拠があって そんなに自身満々でいられたんだろうと、今はそんな過去の自分を指をさして笑ってやりたい気分だった。。
 
遅いんだ。
僕 が今の千秋の年になってからじゃ、間に合わない。
今、のだめを手に入れないと、千秋は永遠にのだめをさらっていってしまう。
 
さらわれたくない。
千 秋なんかに、のだめを奪われたくない。
 
僕は、のだめに出会ってか ら初めて、心が軋んで痛いほどの焦りを感じた。
 

コン セルバァトワールでのレッスンが終わって扉を開けると、目の前にのだめが立っていた。
昨日のことで気まずかった僕は、目を逸らしての だめの横を通り過ぎようとした。
 
「リュカ!待ってくださ い!」
 
「何か用?」
 
「むきゅ・・・やっぱり、 怒ってます?」
 
のだめの哀しそうな声を聞 いて、僕の胸は痛んだ。
 
「別に・・・、もう怒って ないよ。」
 
そう言いながら、のだめに 背中を向けて早足で歩いていく。
 
「だったらどうしてのだめ から逃げるんですか?」
 
「別に、逃げてなんかな い。」
 
僕の足はさらに速くなっ た。
半ば意地でのだめに背中を向けていた。
 
「逃げてるじゃないです か・・!」
 
「逃げてないよ!追っかけ てこないでよ!」
 
「リュカが逃げるから追っ かけるんです!」
 
「逃げてないっていってる だろー!」
 
そう言って、僕は駆け出し た。
びっくりして体を避ける人たちの間をくくりながら全力疾走で、逃げた。
今はのだめの顔を真正面から見ること をしたくなかった。
どうしたって苦しいばっかりなんだから、今は会って話すきになんてなれなかった。
 
「むっきゃああああ 〜〜!!」
 
のだめ特有の叫びが背中か ら聞こえてきた。
僕はびっくりして後ろを振り返った。
すると、のだめが恐ろしい顔をして、僕を追っかけてきてい た。
 
「ひ・・!」
 
僕は思わず悲鳴を上げた。
あ んなに全力で・・・嘘だろ?!
 
本当にのだめは奇想天外な んだから!
 
僕はのだめに捉まらないよ うに全力で走った。
 
絶対捉まりたくなんかな い。
だって、のだめが僕に言いたいことなんかわかってる。
 
僕に謝りたいんでしょ?
子 供扱いしてごめんって言いたいんだよね?
 
そんな言葉なんて、聞きた くない。
哀れんだ目なんて見たくないんだよ!
 

僕は 相当必死に走ったのに、のだめはついてきた。
途中知らない奴らから冷やかされながら僕たちは、音楽院歴史に残る壮大な追いかけっこを してしまった。
 

のだ めの気迫に追い詰められて、僕は適当な部屋に飛び込んだ。
運よく、この練習室は今使われていなかったみたいで、黒いピアノだけがこの 部屋にぽつんと取り残されていた。
 
さすがに疲れて、その場に へたりこんでしまう。
 
疲れた。
の だめが僕をここまで追ってくるなんて。
けど。
僕は少しだけ唇を噛んだ。
少なくとも、のだめは僕を 大事に思ってくれているんだろうか。
その考えは、ほんの少しだけ、僕の心に灯りをともしてくれた。
 
大きく息を吐いて立ち上が ろうとしたとき。
背後のドアが勢いよく開き、僕のお尻に直撃して、僕は前へとすっ転んだ。
 
「リュカはここです か?!」
 
勢いよくドアを開いて叫ん だのは、のだめだった。
 
「のだめ・・・・痛い よ。」
 
もう怒ってる振りも出来な くて、ため息をついてそう言った。
床に座り込んで、立ち上がる気力も出てこない。
 
「リュカ・・・。」
 
のだめはパタンとドアを閉 めた。
 
そのドアの音がなぜか凄く 耳について、僕は振り返った。
 
その途端、のだめの顔が僕 の視界の中いっぱいに入ってきて、僕は心臓が止まるかと思った。
 
「な、な、何?!」
 
のだめは膝をついて、僕を 心配そうに覗きこんでいたんだった。
 
「リュカがそんなに怒るな んて・・・。」
 
のだめは切な気に僕を見て いた。
心臓が音をたてた。
 
息が苦しい。
 
のだめの柔らかそうな頬や 大きな瞳が今目の前にあって、逸る鼓動を止めることができない。
目の前にある、さくら色の唇に、自然に目が釘付けになる。
 
「リュカ・・・。」
 
のだめのふっくらとした唇 が、僕の名前を紡いだ。
 
「子供扱いなんてしてない ですよ。」
 
のだめは困ったようにそう 言った。
 
「ただ・・あの時は、確か にのだめの失言でした。リュカを傷つけちゃいましたね。ごめんなさい。」
 
そう言ってのだめは僕に ちょこんと頭を下げた。
 
「別に・・いいけど。」
 
頭を下げてくれたのだめ は、可愛かった。
けど、可愛いと思う心とは別に、全く逆の心が僕の中で首をもたげる。
僕は自分でも信じられない ほどの冷たい声色を出していた。
 
「じゃあ・・・あの時の話 の続き、教えてよ。」
 
僕は自分の口から飛び出し た言葉を信じられない気持ちで聞いていた。
この言葉に一番驚いているのはたぶん僕だ。
 
「は?」
 
「僕を子供扱いしてないっ ていうなら、あの話の続き、教えてよ。楽屋で・・・どうしたの?」
 
心に痛みを感じながらも、 言葉を止めることができない。
僕は冷たい目で、のだめに詰め寄っていた。
 
「リュ、リュカ?」
 
「もしかして・・・そのま ま事に及んじゃったの?信じられない、よくやるよね、千秋も。」
 
「リュカ・・・。」
 
さすがに僕の尋常でない態 度に脅えたのか、のだめが表情を曇らせた。
 
「リュカ・・・どしたんで すか?気分でも悪いんですかね。さっきたくさん走りましたからねー。」
 
僕の意図に気付かないの か、気付かない振りをしてるのか、のだめは少し不安げな顔をして、僕の額に手を当てた。
 
その瞬間に、僕の中の頑丈 に守られていた大事な場所が崩れ粉々になった。
 
僕は頑張って繋ぎとめてお いたのに。
 
今にもちぎれてしまいそう な感情の糸を、必死に繋ぎとめておいたのに。
 
なのに、どうして君は簡単 に僕の心をばらばらにしてしまうの。
 
僕は、額にあったのだめの 手首を握り締めた。
 
「その時、千秋の誘いに のったんだ、のだめ。」
 
「そ・・・それ は・・・。」
 
「だって、のだめが本気で 嫌がれば千秋だって無理はしないだろ?」
 
のだめは僕の言葉に傷つい たのか、瞳を見開いて固まってしまった。
 
「なんだ。のだめだって好 きなんだ。そういうこと。」
 
僕は笑ってのだめにそう 言った。
 
「どうしちゃったんです か・・リュカ。何か悪いモノでも・・。」
 
それでものだめは僕の言葉 に怒ったりしなかった。
 
言葉とは裏腹に、のだめは いつまでたっても僕を子供扱いする。
どうあったって、のだめは僕を対等には見てくれないんだ。
だったら。
 
「むきゃ?!」
 
のだめの両手首をつかん で、そのまま冷たい床に押し付けた。
 

「僕 だって、男なんだ。」
 
「し、知ってますよ?」
 
「嘘だ。」
 
「ほんとですよ!リュカを 女の子だって思ったこと一度もないです。」
 
がっくりと肩を落としそう になったのを、僕はなんとか踏ん張った。
 
「・・・そんな事思われて たらたまんないよ。」
 
そう言ってのだめを見下ろ すと、床に引き落とされて、身動きできないのだめの姿が目に入った。
襟の少し開いたワンピース。
胸元におちてる の赤い色は、前に一度聞いたことがある。
千秋からのプレゼントのルビーのネックレス。
 
一瞬で沸き起こった憤りと いう感情に、僕はぎゅっとそのネックレスを握り締めた。
 
「リュカ?」
 
「こんなもの・・・外し ちゃえばいいんだ。」
 
僕の言葉にのだめはとうと う黙りこんでしまった。
怖くてのだめの顔は見れない。
軽蔑してる?
だけど、これが僕の本当 の姿なんだよ。
 
あの2人の姿を見た日か ら。
僕の感情はどこまでも高ぶっていって、爆発させる瞬間をずっと待ち望んでいた。
もう僕はこのまま、止まれな いかもしれない。
 
「のだめ・・・。」
 
手にしたネックレスを引き ちぎってしまおうかとさえ思う。
このネックレスでさえ、のだめは千秋のものなのだと僕に突きつける。
目の前にい るほんの少し脅えたようなのだめが、普段とはまるで違うのだめのようで、僕の中の加虐心を緩やかに膨らませていった。
 
ネックレスから手を離し た。
ほっとしたような顔をするのだめに僕は小さく笑う。
僕の中に安心を見出そうとするのだめの心を打ち砕くよう に、僕はのだめの両手首を床に強く縫い付けた。
 
ごめんね。
 
もう多分止められない。
 
どうしたら、この感情を納 めることができるのか、自分でもわからないんだ。
 
のだめごめんね。
 
もし、全部終わってしまっ た後に、この手首に跡がついてしまっていたら、優しくこの手首を癒すから。
 
手首だけじゃない。
 
君の傷ついた体全部を、僕 が癒してみせるから。
 
だから僕を受け入れて。
 
君の全部で僕を受けとめ て。
 
「リュカ・・・。」
 
のだめの唇と僕の唇が触れ 合いそうになった瞬間のだめが僕を呼んだ。
 
「僕・・・止めないよ?」
 
「のだめ・・・昨日お風呂 に入ってないんです。」
 
全身の力が抜けそうになっ た。
 
「・・・そんなの関係な い。」
 
「実は・・・その前の日も 入ってないんです。」
 
強引に押し進めようとする と、またのだめがそう言った。
 
「気にしないった ら・・!」
 
「その前の日もです よ・・・?」
 
「・・・どうして入らな かったの?」
 
「えーと。入るの忘れてま した。」
 
緊張の糸が途切れそうにな るのを必死に持ちこたえた。
のだめの事だから、ピアノに没頭しすぎて、日常がおろそかになったんだろう、きっと。
お 風呂に入るのを忘れるなんてそれくらいしか思いつかない。
 
「だからのだめは今とって もくさいです。」
 
「それでもいいって言った ら?」
 
「リュカ、チャレンジャー です・・。」
 
「茶化さないでよ、のだ め。」
 
真剣にのだめを見ると、の だめは押し黙った。
 
「のだめがどう思ってたの か知らないけど、僕はずっとのだめが好きだったんだ。」
 
少し驚いたようにのだめが 目を見開いた。
やっぱり気付いてなかったんだ。
 
眼中にさえなかったんだと 気付いて悔しさと哀しさで目の中が熱くなっていった。
 
「好きだったんだ、のだ め。千秋なんかに渡したくない、あんな奴どこがいいのさ、 いつでものだめの事放りっぱなしで、寂しい思いばっかりさせてるじゃないか!僕のほうがよっぽどのだめの事大事にできる!僕のほうがよっぽど、のだめの事 考えてる!僕のほうがよっぽど・・・!」
 
思ってること全部言いた かった。
けど、出てくる言葉は稚拙な子供じみた言葉ばかりで情けなくて、言葉も失ってしまう。
もっと優しくのだ めに好きだと言いたいのに。
大人の余裕でのだめを抱きしめたいのに。
悔しくて、情けなくて、とてもみじめだ。
 
「のだめ・・・そんな事言 われたの、初めてです。」
 
俯いていると、のだめのそ んな声が聞こえた。
のだめの顔を見ると、頬を染めてにっこりと笑っていた。
 
「嬉しいです、リュカ。」
 
「のだめ・・・。」
 
「だけど・・。」
 
ずきん、と胸が痛んだ。
だ けど、の後に続く君の言葉。
僕はもう知っている。
 
「のだめは」
 
「聞きたくない!」
 
「リュカ・・・。」
 
「どんなにのだめが嫌がっ たって、絶対のだめを僕のものにする。もう決めたんだ。」
 
本当は、もう気持ちが追い ついていってなかった。
体は高ぶっているけど、本当にのだめを傷つけることができるのかどうかわからなかった。
た だ哀しさと悔しさが僕の体中を浸していった。
 
「いいですよ。」
 
思いもかけないのだめの言 葉に僕は体が強張った。
 
「え・・・?」
 
「リュカの思うとおりにし ても、いいです。」
 
「のだ・・め?」
 
「けど。」
 
のだめは真っ直ぐに僕を見 た。
 
「のだめは一生千秋先輩が 好きです。」
 
のだめの言葉に、胸を凶器 でえぐられた、そんな衝撃を受けた。
 
「ずっとずっと、先輩のこ とだけが好きです。」
 
「のだめ・・・。」
 
「これだけは永遠に変わる ことはありません。」
 
真っ直ぐに、僕の瞳を貫い てそう言うのだめは、迷いがなくて、綺麗だった。
 
あの日の情景がよみがえっ た。
 
あの一室で、月光にさらさ れながら抱かれていたのだめは綺麗だった。
もたらされる快感に身を委ね、彼に思うがまま揺らされていたのだめは、僕の心の中にずっと 消えない痛みと鮮烈な憧憬を植えつけた。
 
わかってる。
 
それは遠い場所にあって、 本当は僕の手の届く場所にないことくらいわかってる。
 
だけど。
 
どうしても、手に入れた かったんだ。
 
僕の目から一粒涙が零れ落 ちた。
 

「の だめの・・・馬鹿。」
 
「リュカ・・。」
 
僕はただ黙って何粒も何粒 も涙を落とし続けた。
捕まえていたのだめの両手首の拘束も次第に緩んでいった。
 
哀しくて、だけど、のだめ を傷つけることをしなくて済んで、どこか安心している僕もいて。
哀しいのかほっとしたのかわからない、まざりあった心が痛くて涙が溢 れた。
 
のだめはそんな僕に両手を 差し伸べた。
 
そしてその優しい手でそっ と僕の頭を引き寄せて包みこんでくれて。
 
僕は憧れてやまなかったの だめの柔らかな胸元に包まれた。
 
抱きしめられる前にふと見 えたのだめの手首がうっすらと赤くなっていて、僕はまた心が痛んだ。
 
のだめを少しでも傷つけた ことへの後悔とそこに取り残された僕の激情が悲しくて、可哀相で、切なくて。
 
僕はまた涙がこぼれた。
 

コン セルバァトワールからの帰り道。
僕とのだめは言葉もなく一緒に歩いた。
 
少し寒くてコートも着てな い僕は震えた。
 
のだめが心配になって横を 見てみると、のだめも寒さに体を小さくしながら歩いている。
 
こんな時どうして僕はコー トの1つや2つ持ち合わせていないんだろう。
 
こんな時大人の男なら、恋 人なら、優しく肩を引き寄せて、のだめの肩を温めてあげることができるのに。
 
僕はまだのだめを包み込め る大きさを持っていない。
 
「リュカ。」
 
見るとのだめは、にこっと 笑って、寒さに鼻を赤くしながら僕に手を差し伸べていた。
 
「手をつなぎましょー。少 しは暖かいです。」
 
そう言って笑う君は、無邪 気で、可愛い。
 
戸惑う僕の手を無理矢理 とって、のだめは笑顔でまた歩き始めた。
 
僕はされるがままにのだめ についていった。
 
きっとのだめにとって僕は まだまだ幼い子供なんだろう。
 
対等になったと思っていた のは僕だけで、好きだ好きだと喚く僕は、のだめにとってただの子供にしか見えなかったんだ。
 
繋がれた手の暖かさは、心 を暖かくするだけじゃなく、痛みも一緒に連れてきた。
 
小さくため息をついた。
 
出てくるのは、白い息。
 
僕がのだめに認めてもらえ るのはきっとまだまだ先の未来に違いない。
 
今はどんなに手を伸ばそう としても、のだめのいる場所まで手は届かない。
 
僕があの男と対等に肩を並 べる日がやってくるまで、僕はのだめの傍で羊の皮をかぶった狼であろう。
 
そしていつかあの男と対等 になったとき。
 
僕はぎゅっとのだめの手を 握り締めた。
 
のだめは僕を見た。
 
このぬくもりを手にいれた い。
 
いつ必ず。
 
あんなに手ひどく振られな がら、のだめへの事を諦めない自分は相当しぶとい。
 
僕はのだめにひかれる手を 見つめながら苦く笑った。
 
 


終わり。