風邪と風呂
風
邪をひいてしまった。
こちらに来てから体調管理にはじゅうぶん気を付けていたつもりが、最近の過酷スケジュールでかなりまいっていた
らしい。
熱を計ると39度。
ひどい寒気と頭痛、気分が悪い。
とりあえず練習を休む連絡をす
ると早々にベッドに倒れ込んだ。
(あ…薬飲まないと…でもその前に何か食べなきゃ)
わかっていても体が動かな
い。
ふと気づくと携帯が鳴っていた。
ぼんやりとした頭で手に取る。
『ア
ロー黒木くん!のだめデス』
「恵ちゃん?」
『この間、貸してくれるって言っていた本のことなんデスけど…どうし
たんデスか?なんか元気ないデスよ』
「ごめん…ちょっと風邪をひいちゃって…寝込んでるんだ」
『そうなんです
か!大丈夫ですか?』
「うん…だけど今日は動けそうにないんだ。本はまた今度ね」
電話を早
々に切り上げると意識が遠のいて行った。
どのくらい時間が立っただろう。
チャイムが鳴っ
た。
震える体を押してインターフォンに出る。
「アロー…」
『黒木く
ん?のだめデス』
「えっ…恵ちゃん!?」
慌ててドアを開けるとそこには恵ちゃんの姿が。
「ど
どどどどどうしたの!恵ちゃん!」
「異国の土地で一人で寝込むなんて心細いと思って〜。突撃お見舞いデス☆」
「えっ…
いやいやいや…それは嬉しいけど!いやっでも!」
「いいからいいから病人は寝てください。今おいしいお粥を作りマスからね〜」
そ
う言うと恵ちゃんは僕をベッドに押し込み台所に向かった。
熱が上がって顔が熱くなるのがわかる。
そ…そんなお見
舞いなんて一人暮らしの独身男性の家に若い女性が上がり込んでもいいんだろうか…。
その前に千秋くんはこのことを知ってるんだろう
か。
コンコンと台所から包丁の音が聞こえてくる。
…そういえば母さんも僕が熱を出すとこう
してお粥を作ってくれたな…。
なんだか安心する…。
「…
こ…これは何?」
「ハイ、のだめ特製薬用お粥デス」
目の前の鍋にはどす黒い物体がとぐろを
巻いていた。
…なんの臭いだろう…。すごい異臭がする…。
「栄養をつけるためにレバーと納
豆とにんにくをたくさんいれました!あと香りづけにバジルとローズマリーがはいってマス☆」
どろりと糸を引く。
僕
にお椀を手渡しながらにっこりと天使のように微笑む恵ちゃん。
こ…ここで食べない訳には…。
「あ、
そうだ」
突然何かを思い出したかのようにポンッと手を打つ恵ちゃん。
「お
願いがありマス。黒木くんお風呂を貸してくだサイ」
「…は?」
「最近試験の練習が忙しくてずっとお風呂入ってな
いんですヨ〜。さっきから頭がかゆくて〜」
「…え…え…えーっっ!!」
…さ、さすがにそれ
はまずいんじゃ!!
ぱくぱくと口を魚のようにさせながら動揺している僕を尻目に、じゃあタオル借りますね〜と恵ちゃんはバスルームに
消えて行った。
ジャーというシャワーの音を聞きながら僕は部屋の中をうろうろと歩き回った。
め…
恵ちゃんが僕の部屋の風呂に…。
これって…何か意味があるんだろうか…。
…いや、恵ちゃんのことだから何も考え
てはいないんだろうけど…。
ぼくがあれやこれやと考えている間にいつの間にか風呂から出てきたらしい。
「ム
キャー!!病人がなにうろちょろしているんデスか!」
「え…」
「早くベッドにはいりなサイ!!」
剣
幕に押されるようにしてベッドに潜り込む。
「風邪はよく食べてよく眠るのが一番ですヨ!そーだ!のだめが子守歌
歌ってあげマス!」
…子守歌?
「ねーんねーんころーりーよーおこー
ろーりーよー」
…恵ちゃんはいったい僕をいくつだと思っているのだろう。案外リュカなどと変わらないのかもしれ
ない。
それでも透き通った彼女の歌声はとても心地よくて。
だんだん眠気に誘われる。
ふ
と気づくと歌声がやんでいた。
彼女の方を見るとベッドにもたれかかりいつの間にか眠り込んでいる。
(ずっと試験
の勉強していたって言ってたからあんまり眠ってないんだろうな…)
それでも来てくれたんだ。
僕のために。
ね
え恵ちゃん。
君は気づいていないだろうけど。気づかせる気も一生ないけれど。
僕
はずっと君のことを。
無意識に手が伸びていた。
指先が彼女の頬に後少
しで触れようとしたその時。
ピンポンピンポーン。
立
て続けにチャイムが鳴った。
ビクッとして慌てて手を引っ込める。
あ…危ない所だった…。
気
を取り直すようにしてインターフォンに出る。
「アロー」
「あっ…黒木くん、俺だけど!」
千
秋くん!。
慌ててドアを開けるとそこには千秋くんとターニャが立っていた。二人とも走ってきたのか息を切らしている。
そ
のまま僕のベッドのそばで眠りこんでいた恵ちゃんをみて千秋くんが凍結する。
「…お前!!いったい何をやってん
だー!!」
「だから黒木くんのお見舞いに…」
口
をとがらせて正座させられたまま千秋くんのお説教を受けてる恵ちゃん。
いつもの光景だ。
「見
舞いに来てガースカ寝てる奴がどこにいる!」
「お粥も作りましたヨ?」
「お粥って…あの不気味な物体のこと?」
「お
前は病人を殺す気かー!!」
はあはあと肩で息をする千秋くん。
「そ、
それにしても二人揃ってどうしたの?」
場の雰囲気を変えようと僕はターニャに話題をふった。
「ア
パルトマンの前で仕事から帰ってきた千秋とばったり会ったのよ。そのまま立ち話してたら偶然のだめからメールが来て、千秋ったらそれ見て血相変えて飛び出
しちゃったのよ。訳もわかんないまま成り行きでついて来たわ」
「あのふざけたメールはなんだ!『黒木くんのお家でお風呂を借りました
ので着替え持ってきてくだサイ』」
「あー早かったデスね〜」
「普通男の部屋で風呂に入るか!!」
「で
も黒木くんデスよ?」
「あのなあ、黒木くんはお前のコトを…」
言いかけて途中で千秋くんは
僕をチラッと見て止めた。
僕はふっと微笑む。
「千秋くん、そんなに恵ちゃんを責めないで
よ。
実際恵ちゃんが来てから僕は具合が良くなったし」
「やっぱり特製お粥が効いたんデスね」
「ふ
ざけるなー!!」
結局恵ちゃんはさんざん絞られた。
帰ろうとする二人
を見送りに出た僕に千秋くんが珍しく言いごもる。
「…く、黒木くん。…黒木くんのことを俺はっ信用してるケド」
僕
は微笑んだ。
「わかってるよ、千秋くん。別に何もなかったよ」
何の話
デスか〜と振り向く恵ちゃんを蹴り飛ばしながら二人は出て行った。
二人が出て行った部屋の中は急に静かになっ
た。
「まったく人騒がせな奴らよね〜」
背中からターニャの声がした。
「タ、
ターニャ!!一緒に帰ったんじゃなかったの?」
「わ、悪い!?なんとなく帰りそびれちゃったのよ…。どっちみち病人を看病する人は必
要でしょ!」
何故か顔が赤い。
「それに…そんな顔してる人間置いては
帰れないわ」
よっぽど僕は情けない顔をしているらしい。
もう一度ため息をついてベッドに腰
をかけた。つられるようにターニャも隣に座る。
「ため息つくくらいなら襲っちゃえば良かったのに」
「襲っ!?」
「好
きなら千秋からのだめを奪うくらいの覚悟がないと…まあヤスには無理か」
ハハハーとターニャが高笑いする。僕は
苦笑するしかない。
「うん、そうだね。それも考えたけど」
「考えたの!?」
「あ、
一瞬、ちょっとだけね」
千秋くんには言えないけど。
「でも、それは僕
のキャラクターじゃないし」
「…」
「それに…確かに恵ちゃんのことは好きだけど…もうそんなんじゃないんだ。そ
ういう対象じゃなくて」
もっと大きな存在。
さっきの彼女の天使のよう
な歌声を思い出していた。
音楽の女神が人間に姿を変えて僕をもっともっと高い極みへ引っ張り上げてくれるようなそんな感覚。
そ
んなこと言ったらまたターニャは笑うだろうか。
「…まあ別にいいわ」
そ
ういいながらターニャはすくっと立った。
「とりあえず熱下がったみたいだからお腹空いてるでしょ。のだめの皿に
は手をつけてないし(当たり前か)。暇だから胃に優しい日本料理でも作ってあげるわよ」
「え、ターニャ日本料理作れるの?」
「さ、
最近勉強してるのよ!。美容とダイエットにもいいって言うし!別にあんたのためじゃないからね!」
できるまで
ちゃんと寝てなさいよ〜と言いながらターニャは台所に消えて行った。
なんだかよくわからないままにベッドにはい
る。
トントンという台所の音が耳に心地よく響いて、僕は眠りについた。