まなつのよるのゆめものがたり1
久しぶりの東京。
わずかな時間だと思っていたけど、目に入る風
景が思い出の姿と大きく変わっている事に驚いた。
…でも、やっぱり、ほっとする。
トランクを引きながら目指す場
所は、懐かしい場所。
ガラッ。
「よお、のだめ。待ってたぜ。」
懐かしい声。相変わらずだな…。
「お
かえり。」
そう言って、峰君は笑顔で迎えてくれた。
「ただいま…です。」
少し目が潤んだ。
* * *
のだめは学校の夏休みを利用して、日本に一時的に戻った。
帰国後すぐに向ったのは裏
軒。
しばらくの間、ここにお世話になる事になる。
と、言うのも、今度のR☆Sオケの公演にのだめも出してくれる
事になった。
ピアノコンチェルトで…。
「絶対、お前ならイケるから。」
峰くんの誘いに胸が高まった。
のだめも、オーケストラと一緒の舞台に上がる事ができる。
今まで客席からしか見ること
ができなかった、あの舞台に…。
「一緒にやろうぜ!俺達と…。」
ずっと憧れていたあの舞台に…。
たくさんの観客の前で、スポットを浴びて…。
「…いいんですか?のだめで…。」
「当たり前だろう。って言うか、お前とでしか出来な
い事をやりたいんだよ。」
あの舞台に
のだめが立つ…。
* * *
お前としか出来ない事…と、言われて差し出された演目は
『ショパン ピアノ協奏曲第2番ヘ短調Op.21』
指揮者は松田幸久。
最近は海外からも客員で呼ばれる事が多く、R☆Sで振るのは久しぶりになるらしい。
い
ろいろな意味で注目の浴びる舞台になるらしい…。
「で、松田さんはいつこっちに来られるの?」
「昼の便で成田って
言ってたから、もう日本には着いていると思うよ。そのままこっちに顔を出すらしいけど…。」
峰くんと『沙悟浄』と呼ばれている木村く
んが、部屋の隅でそんな話をしていた。
今日は練習室を借りてもらって朝から練習をしていた。
「しかし、忙しいよな〜。あの人
も。Mフィルでも公演あるんだろう。最近、よく名前を耳にするし…。」
「だけど、こんなアマオケでも、都合がつけば振ってくれるか
ら、ありがたいよね。」
「ぎゃぼ。そんな人とのだめ、一緒に共演なんていいんでしょうかね…。コンチェルトなんて初めてですし…。」
峰
くんは笑った。
「大丈夫、大丈夫。千秋なんかよりもキャリアも実力もあるんだから、大船に乗ったつもりで安心しろよ。」
「大
船…ですか…。」
不安そうにしていると、木村くんが眼鏡を動かしながら口を開いた。
「とにかく、音を一度聴いて
みて考えたいって言っていたから、今日会ってみればわかるんじゃないかな?」
「そ、そうですね。」
RRR。携帯電話の鳴る音がした。峰くんがジーンズの後ろのポケットから電話を取り出した。
「は
い…。あ、松田さん。着きました?これからそちらに向います。」
ドキドキ…ちょっと緊張してきた…。木村くんは立ち上がると部屋を出
て迎えに行った。
「よお、久しぶり。」
しばらくすると眼鏡姿の松田さんが入ってき
た。
「あ、松田さん。お忙しい所ありがとうございます。」
のだめの横に座っていた峰くんが立ち上がり、松田さん
の方へ歩いていった。
「お疲れみたいですね。」
「まあね。前日ちょっと眠れなくて…。」
は
あと溜め息をついた。
「あ、あの。よろしくお願いします。」
のだめは頭を下げた。
「あ、あ
あ。えっと、君だよね…千秋の…えっと、名前は…。」
「野田恵…のだめです。」
「ああ、のだめちゃん。そう、あ
の時も特徴的な名前だったから、何となく覚えていたんだよ…。」
「はあ、あの時…。」
二人で話していると、峰く
んが不思議そうな顔をした。
「あの時って面識あるの?」
「ん、ああ。千秋ん家で。衝撃的な出会いだったよな。お
互い。」
そう言って、豪快に笑った。
「そうなんだ。」
峰くんはのだめの顔を見て微笑んだ。
「そ
う、音楽院生だよね。コンチェルトは初めてなんだっけ?」
「あ、はい…。」
「そうか…。早速、聴きたい所だけ
ど、ちょっと休憩させて。今までノンストップだったから。」
そう言って、近くのパイプ椅子に座り込んだ。
「あ、悪い。何か買ってきてくれる?冷たいの…。」
そう言って、
ジャケットの胸ポケット探り出した。
「今、いくらだっけ?缶コーヒーって。」
「120円です。」
木
村君が答えた。
「そう、4人だから500円で足りるか…。じゃあ、これで。俺はコーヒー。ブラックがいいな。他は好きなのでいいか
ら。」
「あ、のだめも一緒に買いに行きます。」
そう言って、木村くんの後を付いていった。
木村くんと二人で買い物に行っている間、峰くんと松田さんで今度の公演について話をしていた。
「松
田さん。買って来ました。」
「おお、サンキュ。」
そう言って、コーヒーを受け取ると、カツンとプルタブを開け
た。
「今日はこれから予定あるんですか?」
峰くんが聞いた。
「今日はない。明日は午前中に
用事があってね…。なんだかんだ言って、ちょこちょこ用事が入っているんだよね。出来る限りこっちに力を入れたいんだけど…。」
「しょ
うがないですよ。まあ、短期集中という事で頑張りますので…。」
「悪いね…。」
そう言って、缶コーヒーに口を付
けてゴクリと一口飲んだ。
「あ…じゃあ、まずはのだめの演奏を聴いてみてくれますか?まだ、途中までなんですけど…。」
そ
う言って、のだめはピアノの椅子に座った。
「ん、ああ、そうしようか…。」
そう言って、松田さんは足を組んだま
まこっちに身体を向けて、手を上げた。
「では、ピアノのパートの出足から…。」
大きく深呼吸をして、鍵
盤に指を置いた。
「ショパンピアノ協奏曲第2番ヘ短調Op.21」
1830年 ショパンのポーランド時代の作品。
初恋の人コンスタンツィア・グラドコフ
スカへの恋慕が強く描かれていて、甘く哀しく、繊細で色彩豊かな旋律がロマンティックでどこか幻想的な世界へと聴く者を誘っていく。
届かぬ思いの苦しみの、物悲しい旋律から始まり…。
ピアノを弾き始めると、皆の視線がここに集まった。
木村君は驚いたように口を開き、峰
くんはニヤッと笑い、
松田さんは缶コーヒーを持ったまま、こっちに視線が釘付けだった…。
「これは……、面白くなりそうだ。」
この時松田さんは、こう呟い
たそうだ。
・ ・ ・
早めの夕食。裏軒には行かずに、近くのファミレスで皆で食事を取った。
「すごいね、の
だめちゃん。千秋が嵌るのも無理ないよ。」
松田さんは機嫌よくそう言って、和定食を食べていた。
「でも、オケと
合わせるの、大変じゃないですか?」
木村くんはスパゲッティーを食べながら、冷静に言った。
「ただでさえ、ショ
パンのコンチェルトは管弦楽が弱いんですし…。」
「はは、そうだな、頑張ってもらわないとな…。」
「そもそも、
何でこの曲なんですか?」
その問いに、松田さんは自信一杯で答えた。
「俺達が新しい音楽を生み出すんだよ。今ま
での常識を覆すような、な。そういう事をやってみたいんだよ。可能性の秘めているこのオケで…。」
「松田さん…。」
峰
くんはその言葉に大きく感動したみたいだ。
「おおー、そうだ。俺達が作り出すんだ。」
そう言って立ち上がり一人
握りこぶしを握って、震えていた。
「まあ、オケの方も頑張ってもらわないとな〜。ピアノに負けてしまう。」
「…やっぱり
のだめってコンチェルトに不向きなんですかね。」
そう言いながら、のだめはエビフライを頬張った。
「いや、そん
な事ないよ。」
松田さんはそう言って笑った。
「技術的には申し分なしだよ。あとは経験と…。」
「と…?」
「気
持ち的なもの…かな?ショパンがこの曲を作った時の背景をしっかりと描けるようになれば…。」
松田さんは宙を見ながら、そう呟いた。
「まあ、のだめ。大丈夫だ。お前なら!!」
そう言って、峰くんはのだめの背中をポンと
叩いた。
「ん…そうだな、もうちょっとソリストとの練習時間欲しいな。予定はどうなってんの?」
そう松田さんは
言うと、木村君は大きなシステム手帳を取り出して捲った。
「ここの練習室で借りているのはこんなもので…あと押さえてあるのは…。」
「う
む…。」
松田さんは腕を組み考え込んだ。
「できる限り時間を作ってみるか…。のだめちゃんの連絡先教えてくれ
る?」
「あ、はい。」
そう言って、のだめは携帯電話を鞄から取り出した。
「じゃあ、のだめ。また明日な。お疲れさん。」
峰くんはそう言って、手を振って部屋を
出て行った。
「あ、はい。おやすみなさい。」
今、峰くんのおうちの一室を借りて、寝泊りしている。
もともと客間として開いている部
屋だという事だ。
…でも、ここにはピアノがない。
---大学が夏休みになったら、帰省する学生の部屋を借りられたら借りてみる…
そんな
事も言ってくれている。
のだめは鞄から楽譜を取り出して、布団の上に寝転んだ。
…はあ、本当にできるんでしょうかね…
…あんなに憧れていたコンチェルトなんですけ
ど…
「大丈夫だ。」
峰くんはそう言ってくれるけど、根拠なさそうですし…。
「あとは気持ち的なところ…。」
松田さんはそう言ってるし…。
気持ち…ですか。
ショパンの気持ち…。
プルルルル…
携帯の音。
ガサゴソと鞄を漁って、電話を取り出した。
着信表示がない…という事は海外から?
ピッ。
「はい。」
「俺。」
「千秋先輩?」
「ど
う、調子は。」
思わず起き上がって正座をしていた。
「あ、はい。体調は大丈夫です。」
「そ
う。で、R☆Sの方は。」
「あ、今日、松田さんと会いました。ピアノ聴いてもらったんです。」
「…そう。で、ど
うだって?」
「すごいって言われました。」
「そうか。」
「でも、経験と気持ちが足りないそ
うで…。」
「足りない…。」
「そ…なんです。すぐにでもピアノ弾きたい所なんですけど、今日は無理でして…。」
ふっ
と笑い声が聞こえた。
「…まあ、焦る事ない。帰国してすぐなんだろう。まずは体調を整えて…。松田さんはピアノを見てくれるんだろ
う。」
「あ、はい。リハに入る前にできる限り音を聴いておきたいって言ってくれました。でも、お忙しいみたいで…。」
「ま
あな。今、ノリに乗っているからな…。」
はあ、と溜息をついた。
「弱気だな。珍しい。」
「日
本に帰ってきて、実感しちゃいましたよ。大きな仕事なんだな〜って…。」
弱弱しくそう言うと、センパイはおいおいと言った。
「先輩は聴きに来てくれるんですか?」
「ん、今の所は、ギリギリだけどそっちに行ける
はずだから…。」
「そですか。では予定が決まりましたら教えてください。」
「ああ、そうするよ。じゃあ、また電
話するから…。みんなに宜しくな。」
「はい、では、おやすみなさい。」
ピッ。
気落ちしていた心が、少し落ち着いた気がした。
…先輩のお陰ですかね…。
--焦る事ない…。
その言葉を心の中で何度も思い出して、眠りに就いた。