まなつのよるのゆめものがたり 2

 

「そこは感情に流されないように…。」
「あ、はい…。」
午後の練 習室、松田さんと二人で協奏曲の練習をしていた。

昨日の夕方、初めて(正確には2回目)会って、今日は昼過ぎから夕方までスタジオを予約してある。
松 田さんの楽譜はすでにびっしりと書き込みがされてあった。

「…ん、もうちょっと抑えた方がいいかな?」
「あ、はあ…。」

 

「片思いって経験あるでしょ。」
練習後、二人で近所のイタリア料理の店で食事をしてい た。
「ありますよ。」
のだめの前には大きな海老の入ったトマトスパゲティーが置かれていた。
「好 きだけど、好きだといえないもどかしい気持ちとか…。」
松田さんは水の入ったグラスに口をつけて、一口飲み込んだ。
「あ、 でも、のだめは好きなら好きっていいますよ。」
「へえ、情熱的…。」
松田さんは目を丸くした。
「だっ て、そう言わずにはいれなくって…。」
「へへ、日本人にしたら珍しいんじゃない?」
「そですか?」
の だめが驚いた顔をしたら、松田さんは笑っていた。

「千秋の時は、どっちからなの?」
松田さんはパンをちぎって口に入れた。
「え と…、好きになったのはのだめの方が先ですね。ずっと、好きですって言ってたんですけど、相手にされなくて…。音大時代はずっと片思いだったんですよ。ピ アノの指導はスパルタだし、グーで殴られるし…。」
「…結構、過酷なんだな。」
「でも、いつの間にか、こうなっ ていて…。」
「そう言えば、あいつ言ってたな。抵抗するのしないのって…。」
「そうなんですか?」
の だめが声を上げると松田さんは、はははと笑った。

「じゃあ、千秋への想いが通じない時の気持ちとかって…思い出さない?」
松田さんはの だめの目を見てそう問いかけた。
「はあ…。」
「どんな気分だった?」
「むむ…。」
先 輩の後姿を追いかけていた時…。

---最初は淡い恋心だった。とにかく先輩の音楽が好きで、傍で聴いていたかった。

でも、この人はいつまでもここにいる人じゃなくて…

もっと広い世界に出て行く人であって…

「コンクルの時は必死でした。やれる所までやってみようって。もしかしたら、できるんじゃないのかって…。 いや、できるんだろうって、そんな自惚れもありましたが…。」

----現実は厳しくって…。

「で、どんな思いだったの…。」
「…その瞬間は何もかもが絶望的でした。まさか、自分 のピアノでこんなにも打ちの目されるなんて思いもしなかったし…。」

----先輩を追いかける事も、ピアノを弾く事も全て…。

「でも、やるだけの事はやってダメならしょうがないですから…。」

そう言うと、松田さんはぷっと吹き出した。
「オトコマエだね〜。」
「え?」
「い や、潔くて、結構。」
そう言って目の前のカルボナーラを一口食べた。

 

「…どうやらのだめの恋愛はショパンの恋愛とはかけ離れているみたいなんですよね。」
そ う言うと、先輩は「確かに」って言って笑っていた。
「まあ、いいんじゃないの?お前ならお前のピアノ協奏曲で。」
先 輩は笑い混じりに言った。
「どおいう意味ですか?」
少しむっとしました。
窓際に立ち、カー テン越しから月を眺めた。細長い三日月。
「でも、思い出しましたよ。昔、先輩に片思いしていた時を…。」

---一緒にいることがただ楽しかっただけの時…。
あの頃はあの頃で、幸せだったのか もしれない…。

「恋しないとダメですかね?」
「へ?」
「胸がきゅんとなるような 恋…。」
「何いきなり…。」
先輩が少し動揺した声を出す。

「…先輩…ちゃんと聴きに来てくれますよね。」
「…え?」

何となく、この距離が切なくなっちゃいました…。

「え、ああ、大丈夫。楽しみにしているから…。」
「良かったです。」

恋人同士になってからの方が会えなくなる事が多くなっているから…。

「じゃあ、寝ます。先輩はお仕事ですよね。」
「ああ。今日はお疲れさん。また電話する から。」
「はい。では、また。」

電話のボタンを押して、深く深呼吸をして電気を消した。


・・・・・

今日は午前中の練習。昼前になって松田さんが訪ねてきた。
そして、一通りのだめのピア ノを聴いて、アドバイスを貰って何度か弾いて…。
松田さんは腕を組んだまま、しばらく考え込んで…。

「そうだ。これからデートしよう。」
「は?」
「もう、スタジオ使 えないんだろう。なら…。」
そう言って、にこっと笑った。


平日にも拘らず公園には人が沢山いた。
そこは大きな池が会った り、美術館があったり、動物園があったりする場所。

「久しぶりだよな〜。でも、思ったほど変わってないな。」
「のだめも久しぶりです。大 学時代に動物園に行った以来ですかね。」

二人で池の周りを歩いた。今日は雲が多くて、過ごしやすくて良かった。
池には蓮が浮か んでいた。

「ボートでも漕いでみる?」
松田さんは嬉しそうに指を指して言った。
「ほ へ?」

昼下がりの午後の公園の池。
二人で向かい合ってボートに乗っていた。
松 田さんは白地に細いストライプのシャツを肘の所まで巻くって、オールを握ってゆっくりと漕いでいた。
「うは〜、学生以来だ。」
妙 に嬉しそうに笑っていた。
「デートで、ですか?」
のだめが訊く。
「そう。1年生の時にね。 あれが初めてまともに付き合ったんだよな〜。」
少し上を向いて、思い出を辿るように答えた。
「どんな人です か?」
「んーと、声楽科の同級生。」
「ぎゃぼ、歌ですか…。」
「そう。声がキレイだったん だよな。お嬢様で…。」
「そですか…。」
「そう言えば、ショパンの初恋の相手のコンスタンツィア・グラドコフス カも歌手だっただよな。」
パシャン、水面に水しぶきが上がった。
「歌を歌う人はモテるんですね。」
「ま あね。セクシュアルな部分を大きく刺激するからね。実は俺も歌には自信があって、真面目に考えた事あるんだよな。」
「何をですか?」
「歌 手になろうかな〜って。」
そう言って、しばらく沈黙して、それから二人で大笑いをした。
「動機が不純じゃないで すか。」
「そうか?」
のだめは笑い終わった後、一呼吸して、口を開く。
「千秋先輩の昔の恋 人も声楽科の人でした。」
「そうなんだ。」
「はい。美人で成績優秀で、お嬢様でしたよ。」
す ると松田さんは目を丸くして、それから微笑んだ。
「…らしいよなー。いかにもって感じ。」
「え?」
「で も、のだめちゃんだっていい声しているじゃん。」
「そうですか?実はのだめも歌には自信があるんですよ。」
「そ う?じゃあ、カラオケでも行くか?」
そう言って、二人で笑った。
水面の光がキラキラと反射して眩しかった。


ボートを漕ぎ終わったら、自動販売機で冷たいお茶を買って、ベンチに座って飲んだ。
「ん、 あ〜、落ち着いた。じゃあ、行こうか?」
「行こうって、どこへですか?」
そう言うと、のだめの手から空の缶を 取った。
「ピアノを弾きに…。」
「へ?」


・・・・

「懐かしいな〜。」
「ふお…。」
そこは松田さんの母校である音大 だった。
歴史を感じさせる建物が目の前に建っていた。

人気がなく薄暗い校内を歩くと、ひんやりとした空気が心地よかった。
松田さんはすたす たと前を歩き、灯りのともる部屋をノックした。
中から白髪の男性が出てきた。
「お久しぶりです。」
「や あ、松田くん。よく来てくれたね。」
二人は微笑み合い、握手を交わした。

「僕の恩師なんだ。もう10年以上前の話だけど。」
「そうなんですか。」
「物 腰は柔らかいんだけど、要求は厳しくてね。随分、苦しんだもんだよ。」
そう言って、遠い目をして在りし日の事を思い浮かべているよう だった。
「ここ、使わせてもらえるから、練習していていいよ。」
目の前には年代を重ねた、でも手入れの行き届い たピアノが置いてあった。
「僕は少し話しているから…。」
そう言って、手を挙げて部屋を去って行った。

ピアノチェアを引き出して、腰を掛ける。
蓋をそっと開けて…。

ポンッ…

「いい音…。」
静寂の中のひんやりとした空気は神聖さを感じた。
目 を瞑って小さく深呼吸をして、鍵盤に指を置いた。

 

・・・・・・


パチパチパチ…。

後ろから拍手が聞こえた。
あれ?どれくらい弾いていたのでしょうか?

「素晴らしいね。知り合いなの?」
振り返ると松田さんの恩師と呼ばれていた紳士が立っ ていた。
「ええ、今度のコンサートのソリストです。」
「ほほう。」
「まだ、彼女、学生なん ですよ。フランスの音楽院の…。」
「ほう…。」
のだめは恐縮しながら頭を下げた。

 


「どう、いい練習になった?」
「はい。ありがとうございます。」
気 がつくと日が暮れていた。
「今度は…週末になっちゃうかな〜。」
松田さんは上を見上げて、そう呟いた。
「あ、 はい。よろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
そう言って、のだめの顔を見てにこっと微笑んだ。

 

松田さんと駅で別れて、のだめは裏軒へ向った。
♪〜。
なんだか、 足取りが軽い気がするのですが…。
今日は楽しかったです。

今度は、週末…ですね。

むむっ、何だか待ち遠し…い?

不思議な感覚に首を傾げて、裏軒の入り口を開けた。


「おお、のだめお帰り。部屋見つかったよ。」
のだめが帰ってくる とすぐに、峰くんからそう言われた。
「部屋?」

 

「帰省中の学生から半月、借りれる事になったんだ。」

---ピアノ弾けるんですね。

「そう。でも、いくら野郎の部屋だからって、汚すなよ。」

---ぎゃぼ。

「食事はうちで済ませて、ここは寝に帰る部屋って事で…な。」

---は、はい。


そう言われて、借りたのはワンルームのマンションの一室。
のだめ が日本で借りていた部屋よりもちょっと小さいです。
男の子の部屋だけに、シンプルです。
でも、丁寧に使ってるん ですね…。

早速、その夜は遅くまで練習をした。

     「そこは、ゆっくりと…。」
     「感情は表に出さないで…。漂う空気に想いをこめて…。」

面白い事言いますよね…。
クスっと笑った時、鞄に入れっぱなしの携帯電話のバイブレー ションが震えた。

「あ、忘れてました。」
取り出すと、着信先の表示が無かった。

先輩?


----俺。
「あ、あ、先輩。」

「何?なんかしてたの?」
「あ、そうなんです。里帰り中の学生さんの部屋を貸してもら える事になって、練習していました。」
「ごめん。邪魔したな。」
「い、いえ。そんな事ないです。」

「…電話してもらえて…嬉しいです。」


その気持ちには偽りは無いのですが…。
何故か申し訳ないような気 持ちが心の奥に引っ掛かったのを感じました…。