まなつのよるのゆめものがたり 3
----ごめん。急用。また明日って事でいいかな?
「あ、はい。
いいですよ。」
----悪いね。
ピッ。携帯電話のボタンを押した。
明日…ですね。
何となく、気が抜けてしまいました。
来週からオケとのリハが始まります。楽しみでもあ
るし、不安でもある。
「大丈夫よ。完璧、完璧。」
そう言って、松田さんは笑っていますけどね…。
シャワーを浴びて、タオルで頭を拭いていた時、携帯電話が鳴った。
着信表示は「松田さ
ん」
「もしもし。」
「あ、のだめちゃん?今大丈夫?」
「はい。大丈夫
ですよ。」
「今日、夜、少しいい?」
「え?」
時計を見ると夜の8時を回っていた。
髪の毛を乾かして、洋服に着
替えた。
---女の子の家に夜訪ねるって、失礼なんだけど…。
---いいですよ。気にしません
から…。
---ちょっと、試してみたくてね…急にひらめいたから。
---はい?
何を試すんでしょうか?いつも難しい顔をするあの箇所の事なんですかね?
そう考えなが
ら、楽譜を開いた。
RRRRR
あ、電話…。
着信表示はなし
「もしもし、先輩?」
「ああ、今、平気?」
「あ、はい。丁度、何もしていませんでしたから…。」
「そ
う。」
「先輩、お仕事は?お昼ですよね、そっちは。」
「…さっき帰ってきた。昨日から徹夜…。」
「…
お疲れ様です。」
「順調?」
「あ、はい。あ、でも、どうなんでしょうか?」
「どう
した?」
「来週からリハなんですよ。」
「そう。いよいよだな。」
「はい。」
コツコツ
時計の音が聞こえる。
「あ、松田さんが、これから来るんですよ。」
「松田さん?」
「は
い。ちょっと練習見てもらうので。」
「…今何時だよ。そっち。」
「えと、9時になりますよ。」
「…
遅いだろうよ。一人なんだろ。」
「あ、でも。1時間くらいって言ってましたよ。」
「普通そんな時間に来ないだろ
うが…。」
先輩の声に棘を感じる。
あれ、心配されているんですかね…。
「そなんですけど、
この先、二人だけで見てもらえる機会が無くなりそうなんですよ…。」
「…。」
「大丈夫ですよ。本当に…。」
ちょっと、まずいですかね…やっぱり…。
大丈夫ですから、と、何度も言って電話を切った。
先輩の電話の後、しばらくしてから松田さんが来た。
「悪いね。こ
んな時間に。」
「いいえ。じゃあ、早速…。」
そう言って、ピアノの前に座った。
「じゃあ、ここから…。」
指示された場所から弾き始めた。
「どう、わかった?」
「えと、何となく…。」
「悪
いね。やっと出来上がってきたところなのに、変えちゃって…。」
そう言って、松田さんは頭を摩った。
「明日は大
丈夫なんですか?」
「うん、明日は大丈夫。遅れるかもしれないけど、行くから。」
そう言って、鞄を開いて楽譜を
しまいはじめた。
「こちらこそ、すみませんでした。お忙しい中、来ていただいて…。」
「いやいや、じゃあ、僕は
帰るね。」
松田さんはそそくさと立ち上がった。
時計を見ると10時過ぎていた。
「ありがとうございました。」
のだめは頭を下げて玄関まで見送りに行った。
ふう…。
気を遣ってもらったんですかね。さすがに夜、女一人の部屋は居辛いですか
ら…。
そんなに気を遣わなくていいんですけどね。のだめは信頼しているんですけど…。
…
…あ…でも…。
やっぱり、連絡入れた方がいいですよね…。
テーブルの上の携帯電話を取り上げた。
「allo、先輩?……さっき、松田さん帰りましたよ…。…はい……」
次の日、リハ前の最後の練習。
今日は峰くんと木村くんも一緒だっ
た。
松田さんは本当に最後に顔を出してきた。
「お疲れ〜。」
「あ、お疲れ様です。」
「あ、
ありがとうござます。」
「ん、じゃあ、一通り聴いてみていい?」
そう言って、椅子に腰掛けた。
「は
い。」
のだめは息を吸った。
帰り道。
「今日は松田さんも裏軒来ます?」
「ん
〜、俺デート。」
「?」
「ほほう。」
一斉に松田さんの方を見ると、松田さんは大笑いした。
「何
かおかしいか?」
「いや、別に…。」
峰くんは頬を少し赤らめた。
「家族とね。久しぶりだか
ら…。」
そう言って、松田さんは空を見上げた。
おかしいです。
のだめ…。今、ちょっとズキンと胸が痛んだような…気がしました。
何
故ですか?
「沙悟浄はどうする?」
「いや、僕は…。」
「お前もデートか?」
峰
くんはにやけて、木村君に迫った。
「べ、別に、いいじゃないか。」
おいおい、と峰くんは木村君につっかかってい
た。
「あ、のだめちゃん。」
松田さんが横に来て、呼びかけた。
「は
い。」
「明日、空いてる?」
「え?」
「夕方。」
明日は特に予定がな
かった。ピアノ弾いて、裏軒に行って…そんな感じで過ごすものだと思っていて…。
「いえ、特には。」
「そう。
じゃあご飯食べに行かない?一緒に。」
「え?」
突然のお誘いにビックリした。
「いいんです
か?」
「ふふ、ギャラが入ったんだよね。」
そう言って笑った。
「そなんですか。」
「ま
あね。」
「いいんですか?のだめなんか誘っちゃって…。」
「僕はいいんだけど…、そっちは?彼氏とか気にならな
いんだったら…。」
あ…そか…。でも、いいですよね。食事くらい。
先輩だって、それくらい気にしないはず
だし…。
「はい、じゃあ、よろしくお願いします。」
「じゃあ、明日。電話するから。」
あ、何だか、胸が…。
ドキドキします。
そう言えば、先輩とはこんな事なかったような…。
食事くらい当たり前でしたからね…。
でも…最初のデートはやっぱりドキドキしたかな?
と、なると、久々の感覚になりますかね…。
明日が、何となく楽しみのような…
気がします。
******
次の日。
松田さんから電話が掛かってきたのはお昼過ぎだった。
「5時に池袋でいいかな?」
「あ、
はい。」
「丸の内線の…。」
えっと、何着て行きましょうかね?
と、言ってもそんなに今は持っていないんですけ
ど…。
あ、あの白いワンピース持ってくればよかったです。
…何、考えているんでしょう…。
先輩以外の男の人と食事なんて、滅多にあるわけじゃないですからね…。
ファミレスとか
じゃなくて…
あ、そんな事より練習しないと…
第一章、届かぬ思いの切なさと…
夕方5時。
会社帰りの人たちが徐々に増えていく時間。
人
ごみの中を掻き分けて、約束の場所へ向った。
約束の時間の10分前に着いて、ずっと行きかう人を観察していた。
楽しそうに笑ってい
る学生ぐらいの若い子達、何かを待っているOL風の女の子。
寄り添う若いカップル。
その向こうから、待ち合わせている人が来た。
のだめの姿を見ると足を速めてこちらに駆
け寄ってきた。
「やあ、お待たせ。早く着いたね。」
「あ、思ったよりも早かったです。」
松田さんは黒の麻のジャケットにグレーのストライプのシャツに、濃いグレーのパンツ姿でいつもよりカジュア
ルな格好で現われた。
「さすがにここは混むね。じゃあ、行こうか。」
そう言って券売機で切符を買いに向った。
「あ
の、いくらですか?」
「ん、いいの、いいの。」
「え…でも…。」
「僕が誘ったんだし…、今
日はご馳走するんだから。」
「いいんですか?」
そう言うと、こっちを見てニヤッと笑った。
「誰
が誘ってると思ってるの?」
「…さすが…売れっ子なんですね…。」
そう言うと、プッと吹き出した。
「ま
あね…。そう言う事にしておいて。」
降りた駅は御茶ノ水だった。
学生街と言うだけあって若い子が多い
気がする。
その人ごみを抜けて、少し落ち着いた路地に入るとちょっと洒落た大人の店が並んでいた。
その一角、上
品な和風な店構えの前に立ち止まった。
「ああ、昔と変わってないんだな。」
そう言って松田さんは笑った。
「こ
こで、いい?」
「ふおお。」
看板には「地鶏専門店」と書かれていた。
「あ、はい。」
「ん、
じゃあ、行こうか。」
カラカラと引き戸を開けると、薄暗い照明の店内は落ち着いた雰囲気だった。
真
ん中のカウンター席を案内されて、二人で腰をかけた。
漆黒のテーブルの上には石の箸置きの上に箸が置かれていた。
店員さんが尋ねてくると、コース料理を二つ頼んでくれた。
あと
は、飲み物…。
「焼酎とか…どう?」
「あ、はい。お願いします。」
「こういう所って滅多にこないんじゃない?」
松田さんは声のトーンを落として、そう
言った。
「あ、そうですね…。学生時代は敷居が高くて、とてもじゃないけど来れませんでした。」
「デートとかで
は?」
「…あまり…。」
「そっか、千秋くんは欧州育ちだもんな。」
そう言って微笑んだ。
「ど
うかな〜好みに合うかな?」
「あ、はい。のだめは好きですよ。」
「ならいいけど…。」
氷の入ったグラスの中に、透明の液体が注がれる。
「演奏会の成功を祈って…。」
二
人で乾杯をした。
しばらくして前菜が届いた。旬の野菜がお皿の真ん中に上品に盛り付けられていて、
その
上には
「生肉?」
「そう、ささみの肉。」
そういえば、地元で食べたかも
しれない。
「どう?」
「美味しいです。」
素直にそういうと、松田さんは嬉しそうに笑った。
「学生時代にね、ちょっとリッチなデートで使った事あったんだ。」
「そうなんです
か。」
「でも、金なかったからな〜。滅多に来れなかったよ。しかも、一月くらいは質素な生活をして…。」
はは
は、と二人で笑った。
「うちは、サラリーマンにしてはまあまあ裕福な家庭だったのかも知れないけど、音大は金かかるものな。随分、親
に無理させたよな〜。」
松田さんはしみじみ語る。
あ、そうですよね。のだめも無理させ続けています…。
「少しは出世したから、恩返しできるのかなって思ってね。」
「だから、お食事です
か。」
「そう。滅多に実家まで帰れないからね…。」
そう言った松田さんの目は優しかった。
少年みたいな顔になったり、少し悪そうな顔になったり、優しげな顔をしたり、
不思議な
人なんだな〜って思いました。
ドクン、ドクン…
酔いが回ってきましたかね?
そんなに飲んでいないのですが…。
その後、次々とお料理が運ばれてきて、二人で食べ続けた。
食事中の会話は音楽の話は殆
どせず、学生時代の話とか地元の話、小学校の頃の話まででてきて盛り上がっていた。食事もお酒もぺろりと平らげ、最後は松田さん一押しの鶏雑炊で締めた。
「お
いしいです。」
「でしょ。何故か入るんだよね。」
鶏ってこんなに上品な味だったんですね。
峰
くんの「オヤジ」の料理ももちろん美味しいのですが、これは特別な食事で本当に美味しいです。
「ご馳走様でした。」
お店を出たら、酔っ払いで賑わう夜の街に
なっていた。
「どういたしまして。」
酔いも回って、とっても気分が良くなっていました。
松
田さんは自分の時計を確認した。
「まだ9時か…。デザート食べに行こうか。」
「え?」
「こ
れも俺のお奨めなんだ。」
そう言ってのだめを手招きすると、繁華街の真ん中へスタスタと歩いていった。
しばらく歩くと、大きな公園の前に辿り着いた。
そこは、ちょっと
人通りが少なくなっていました。
「こっち、こっち。」
そう言って、公園の中を迷うことなく入って行きました。
あれ?
人影はよく見るのですが、大体がカップル。
…しかも、ア
ムールの真っ最中…。
あ、あのカップルはキスしてますよ。あれ、手は…?
ぎゃぼ、斜め後ろの人たちって…。
「ほほう、社会科見学だね。」
松田さんは平然とそう言った。
「ほ
え?」
「僕達も傍から見たら、そういう二人なんだろうね。」
「え、ええ?」
それって、どう
言う事ですか?
松田さんはこっちに振り返ると、急に手首を掴んで勢いよく引っ張った。
「む…な、何を
するん…。」
そのまま走り出して…。
「ま、松田さん…?」
息を切らせながらそう話しかける。
い
つの間にか公園を抜けていた。
松田さんの足が急に止まった。
「ほへ?」
「あった。あった。良かった。」
松田さんはそのまま上を見上げた。
そ
こは小さな一軒家のようなお店だった