まなつのよるのゆめものがたり 4
「さあ、どうぞ。」
そう言って、松田さんは
扉を開いた。
「ふお…。」
「いらっしゃいませ。」
背の高い黒いエプロンを着けた女性の方が出迎えてくれた。
中
は広いスペースになっており、客席はそれぞれ離れていた。
手入れの行き届いたアンティークの家具で飾られていて、その中の一角に通された。
小さ
な丸いテーブル。一人掛けの椅子が2つ。暗めの照明、テーブルの上にはキャンドル…。
満席に近い状態であるにも拘らず、人の話し声が邪魔にならない。
二人きりの空間のよう
にも感じられた。
静かなピアノの音色が邪魔にならない程度に聞こえてくる…。
「ここは花街が近いからね。昔から、訳ありのカップルがこういう場所を使うんだろうな〜。」
「そ
うなんですか?」
確かに…そんな感じかもしれない。
席に着くと松田さんは手際よくオーダーを行った。
「この雰囲気は昔のままだな。」
「そなんですか?」
「ああ、懐か
しい…。」
そう言って、松田さんは目を細めた。
「お待たせしました。」
「ほあ…。」
他愛もない昔話で盛り上がっていたら、あっという間にオーダーした物が届いた。
ウエイ
トレスの女性は、のだめの前に白い丸皿の上にガラスの器に入ったデザートをそっと置いた。
花の形のガラスの器の中には、色鮮やかな夏の果実が透明のゼリーの上に彩られていた。
そ
の横にはティーポットとカップが置かれた。
松田さんの前には小さなコーヒーカップが置かれた。
「題して『真夏の夜の夢』試してみて…。」
「…いだだきます…。」
小
さな声でそう言って、シルバーのスプーンを手に取った。
冷たく瑞々しい夏の果実、そして爽やかな甘さにリキュールの香りがフワリと漂った。
「ふ
お…。」
「大人のデザートでしょ。気に入ってくれた?」
松田さんはコーヒーカップに口を付け、
ニコッと笑った。
ゆらゆらと揺れるテーブルの上のキャンドルは、じっと見ていると不思議な気分になる。
「こ
こは、特別な人しか誘わないんだよね。」
「特別?」
「そう?」
横を見ると目が合った。
そ
のまま、彼はじっとのだめの目を見て話を続けた。
「のだめちゃんも…特別。」
「…え…?」
ドクン、ドクン
あ…れ?心臓が凄い速さで動いている。
「のだめが…ですか?」
「そう。」
松田さんは静かに微笑んでい
る。
「あの…えと…・。」
思わず目を逸らした。
すると、松田さんは吹
き出した。
「へ?」
のだめは目を丸くした。
「何だかな〜、そこまで純粋だと
思わなかったよ。」
「…どゆ事ですか?」
あ、顔が熱い…。
「本来この流れなら、口説く所なんだけどな〜。」
松田さんは笑いながら言った。
「…。」
の
だめは思わず下を向いちゃいました…。
「…まあ、他人(ひと)のものに手は出さないって教育はちゃんと受けてきたから。これでもね。」
そ
う言って、息を大きく吸った。
そっと顔を上げると、松田さんは優しげな目でこっちを見ていた。
「…なんて言うのかな?君とだったら、やりたい音楽が実現できそうで…。」
「え?」
「楽
しみなんだよね、コンチェルトが。こんなに胸が躍るのは久々でさあ…。」
「…。」
「よろしく頼むよ。」
そ
う言って、右手を目の前に差し出した。
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします。」
のだめも右手を差し出して、握手を交
わした。
大きくて肉厚で…あったかい…。
頭の中が、ぼーっとしてきた。
あれ?これって、結構お酒利いているんですかね?
「そう言えば、千秋との共演が夢なんだっけ?」
突然、千秋先輩の名前が出てきてドキッ
とした。
「えと…あ、はい。あ、でも、その道のりはどうやら長いみたいで…。」
思わず、しどろもどろと答えてし
まった。
先輩と一緒の舞台にあがる…そんな夢を目標にしてからは、そこから遠ざかる一方で…。
先
輩は先輩でどんどん先に進んでしまって、のだめのいない所でたくさんの成功を実現しているし…。
のだめは、いつになったらそこに行けるんですか?
時には焦ったり、もがいたり、やけに
なったり、八つ当たりしたり…。
でも、自分ひとりが一向に、前に進めない気がしてしまって…。
しんみりとした顔をしていたら、松田さんはふっと口元に笑みを湛えた。
「…まあね。あいつだってまだまだヒヨっ子だからね。自分の事で精一杯なんだよ。」
「え?」
「俺
だって、この世界じゃまだまだの部類だしね〜。先は長い。」
「はあ…。」
「…互いに自分自身を確立してからじゃ
ないと、『一緒に』はできないよな。二人ともまだ若いんだし…。」
松田さんはそう言って、笑って宙を見上げた。
ふたりともまだ若い…ですか。
「そですね。のだめもまだ独り立ちできていませんからね…。」
そう言って少し笑った。
あれ…なんだか気持ちが落ち着いてきました。
「ふふ…、じゃあ俺が独立への第一歩の立会人って事になるのかな?」
「え?」
思
わず目を見開いて、松田さんの方を見た。
「だとしたら…光栄だね。」
彼の優しい声が耳に響く…。
これが第一歩になる?
この人と一緒の舞台が…。
心臓が凄い勢いで鼓動を打ち始めた。
それはアルコールの所為なのか、それとも違うのか
わからないけど、
壊れるんじゃないかって、心配するくらいで…。
目を閉じて呼吸を整えます。じゃないと本当に壊れてしまいそうだから…。
バフッ…。
部屋に帰ってきたら、そのまま大きなクッションに向って倒れこんだ。
---君とだったら、やりたい音楽が実現できそうで…
---独立への第一歩の立会人っ
て事になるのかな…
あったかい大きな手…。
夢、みたいな心地…
…なんだか、気持ちいい…。
RRRRR…
突然の着信音で現実に引き戻された。
「えと…。」
画面表示を見て、息を呑んだ。
ピッ…。
「…先輩?」
「あ、忙しかった?」
「いえ…ちょっと酔っ払っていて…大丈夫です。」
「飲んでたのか?」
大きく深呼吸をした。
「あ、えと…松田さんにご馳走してもらったんです。その時にお酒も…。」
隠す必要はな
いですよね。悪い事じゃないですし…。
「へえ、松田さんも気前いいな。」
…あれ、ひとりじゃないと思っているんですかね?
「…そですね…。」
まあ、いいですよね。どちらでも…。
電話機越しに、先輩の息の吸う音が聞こえた。
「帰国は…ギリギリになる…みたい…。」
「え?」
「空港から直接
になりそうだ。」
「忙しいんですか?」
「…ちょっとね。」
「開演には間に合うから…。」
「あ、はい。」
「あと、佐久間さん
と一緒に観るから。」
「…佐久間さん…。」
「そういう事だから、会えるのは公演後だな。」
「…
そですか…。」
あれ?
「悪い…。」
「いえ、いいですよ。こちらこそ、すみませんでした。お忙しいのに…。」
「い
や…楽しみにしているから。」
これって…。
「はい。」
「じゃあ、峰たちにもよろしく言っといて…。」
「わかりました。先輩もお仕事頑張ってください。」
何だかホッとしている自分がいます…。
「ああ、来週からリハなんだろう。頑張れよ。」
「はい。ありがとうございます。」
電話を切り、再び床に寝そべった。
そして目を瞑って、大きく息を吸った。
--- 題して『真夏の夜の夢』
そう、これは夏の夜の夢なんです。
いずれは消えてしまうもの…。
だから、少しだけ…
…ひとりで見させてください。
・・・・・
今日からオケとのリハが始る。
「のだめー。」
振り返ると、懐かしいアフロヘアーが目に入った。
「真
澄ちゃん。」
思わず嬉しくって飛びついちゃいました。
「痛いじゃないのよ。このバカ娘!」
真澄ちゃんはそう言いながらも、二人でぎゅっとハ
グを交わした。
「もう、ビックリしたわ。あんたと共演する事になるなんて…。少しは上達したんでしょうね。」
相
変わらずのこの口調…。
「任せてください。ちゃんと「おべんきょ」したんですから…。」
「…まあ、聴いてみれば
わかる事だけど…。」
真澄ちゃんはコホンと小さく咳払いをした。
「「のだめちゃん。」」
振り返ると、鈴木姉妹。
「お久しぶりです。薫ちゃん、萌ちゃん。」
「会いたかったわ〜。」
「のだめちゃんと共演できるって事で、ずっと楽しみにしていた
のよ。」
「のだめもです。」
わいのわいのと盛り上がる一角。とっても嬉しいです。
「あれ?」
ふと見上げたら…。
「黒木くん?」
後ろの扉から、オーボエを持って入ってきた彼が目に入った。
「あ、
恵ちゃん。」
黒木くんがこっちに向ってきた。
「黒木くんも帰国してたんですね。」
「うん。スケジュールの都合がついたからね。嬉し
いよ、一緒にできて。」
「はい。のだめも嬉しいです。」
懐かしい馴染みの面々の顔を見て、なんだか安心してしまいました。
「おお、皆揃ったか?」
峰くんが入ってきた。
そ
の後には松田さん。
松田さんは指揮台に上がった。
「じゃあ、今日は協奏曲のリハを始めるから。ソリストは…まあ、僕が紹介しなくても知っている人が多いと思
うけど…。」
そう言って、のだめを手招きした。
「野田恵さん。今はパリのコンセルヴァトワールに留学中で、日本では桃が丘音大のピアノ科に通っていまし
た。峰なんかと同級生になるんだよな…。」
そう言って、のだめの顔を見て微笑んだ。
「まあ、まだ無名な学生なん
だけど、素晴らしい可能性を秘めている…そういう意味では、まさにR☆Sにふさわしい人だと言えるので、是非期待して欲しい。」
そ
の瞬間拍手が沸き起こり、のだめは頭をピョコンと下げた。
「と、いう事だから…コンマス、よろしく頼むな。」
今回のコンマスは高橋さんと言う人だ。芸能人みたいなルックスの男の人。
…何だか、睨
まれていますか?のだめは…。
ブスッとした顔をしながら前に出てきて、手を差し出してきた。
のだめも手を差し出して握手を交わした。
「初めまして、よろしくお願いします。」
「…よろしく。」
「あれ?面識ないんだっけ?」
松田さんは意外そうな顔をした。
「あ、
はい。お話は聞いていますが…、会ったのは初めてです。」
高橋さんは少し頬を赤らめて目を逸らした。
「まあ、時間も無いことだから…早速始めようか。」
「第一楽章、初めから…。」
シンと静まり返った中で、松田さんのタクトが上がった…。
第一楽章 長い管弦楽の序奏から始る。
第1主題はオーケストラによる提示部。
…あ…。
全身でオーケストラの音を受け取ると、身体が楽器のように大きく響いた。
凄い…、目を瞑ってその衝撃をしっかりと受け止めた。
何かが自分の中で勢いよく湧き上がってきて…
第2主題、オーボエの提示。それを受け取ってピアノの独奏が始る…。
ピアノの音が響き渡ると、皆、驚いたような表情になった。
高橋さんは目を大きく開いて、こっちをじっと見ていた。
真澄ちゃ
んは嬉しそうな表情を浮かべ、峰くんは得意気な顔をしていた。
そして、松田さんはチラッとピアノの方を見て、満足そうに微笑んだ…。
「さすがだね。指揮者
の彼女やっているだけあって、ちゃんとオケの音が聴こえている。」
短い休憩時間、松田さんはのだめの所に来て、嬉しそうにそう言っ
た。
「どう?相手として不足はないだろう。」
松田さんは高橋さんに向ってそう言った。
高
橋さんはバツの悪そうな顔をして、頬を赤らめて俯いた。
「それにしても、これだけ違うものだとは…正直、想定外だったよ。」
松田さんは子供み
たいに目を輝かせて、そう言った。
「え?」
「オケの音を聴いてから、顔つきが変わったから…。」
「…。」
「これは、凄い事が起りそうだ。」
松田さんの興奮覚めやらぬ様子
に、のだめ自身も驚いた。
そして、先ほどの音の衝撃…。
オケの方を見上げると、峰くんが親指を立ててこっちを見て、真澄ちゃんはウインクをし
てきて、薫ちゃんと萌ちゃんは手を振ってくれてる。黒木くんもこっちを見て笑ってくれて…。
これから何が起るのかわからない…でも、待ち遠しくてお腹の辺りがソワソワしています…。