ザワザワとざわめ く会場

「面白いプログラムだね。まるで演劇が始るみたい…。」
佐久間さんがパンフレットを見 ながら言った。

辺りを見回すと、所々に知っている顔が見える。

前の方には…江藤先生(ハリセン)夫妻と、谷岡先生。
マスコミ関係の者もいるし、有名 プロオケのメンバーの顔も所々見られる。

皆が注目しているのか、この舞台を…。

 

いよいよ幕が開かれる。

 

声が徐々に静まっていく。
そして舞台の袖から、オーケストラのメンバーが登場する。
会 場中に拍手が起こった。


今回は初代のメンバーも多いと聞いていた。
懐かしい面々の姿に、 少し顔が緩む。


初演からの観客も多くいるみたいで、メンバーの名前を口にするのが聞こえてきたりもす る。

 


そして---

燕尾服姿の松田さんが現われると、さらに大きな拍手が沸き起こった。

自信に満ち溢れた姿で、観客を仰ぐ。

観客は沸き立った。

 

   ま なつのよるのゆめものがたり  6

 

 

静まり返った会場。
息を呑む音も響きそうだ。

この緊迫感が、なんとも言えない気持ちにさせる。

指揮台の上の男が振り上げるタクトに、皆の視線が集中する。

 


  フェリックス・メンデルスゾーン「夏の夜の夢」序曲 ホ長調 作品21


シェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を元に、17歳のメンデルスゾーンがひと夏で作り 上げた作品。
厳格なソナタ形式従って作られている。


木管の和音で静やかに導入される提示部。


静かな夜の 森の中で…


弦楽器の細やかな動きにより第一主題が奏でられる。その間を管楽器の和音が分け入って くる。


そよそよと 風が吹き込み…


そして、突然、光が差し込んできたかのように華やかな行進曲風の旋律が現われる。

ここで観客から笑みが零れる。
これから始る物語に、皆、心ときめかせる。


さあ、始る よ。妖精たちの宴が…。夏至のエネルギーを受けて妖精たちが踊り、跳ね回る。

奏者達は表情豊かに音を表現していく。

まるでそこに妖精が踊っているかのように…
真夏の夜の夢の物語がそこにあるかのよう に…

 

夢見るような第2主題が穏やかに歌われて、やがてファンファーレを伴ったクライマックスを経て展開部へ突入 する。

森の暗闇、動物の嘶き、そしては しゃぎまわる妖精たち。

様々な楽器がその様子を演じていた。そして、それを奏でる奏者達の表情もユニークで、皆がその音を楽しんで いるようだ。


賑やかな舞台の真ん中に立つこの男は、それらを自由自在に軽やかに操る。

 


「さすがだね。余裕がある。」
佐久間の呟きに、俺も頷いた。


奏者のレベルも上がったという事もあるが、それを統制するこの人の力も大きいのも分か る。
自由に楽しげにでも、でも、きちんとこの音楽を表現していて…。

これから、何が起こるんだろうか…すごく…

楽しみだ。

 


再び森に静 けさが戻り…

冒頭部と同じ木管の神秘的な和音で、静かに閉じられる。

 


わーっと拍手が鳴り響いた…。

 

 

 

 

 

「いよいよだね。」
「大丈夫?まきちゃん。」
「…大丈夫よ、のだ めだもん。」
「…。」
ギュッと握った手に汗がにじんでいた。

 


「いよいよ姉ちゃんの出番ばい」
「大丈夫やけん」
「そ うけ?……なんだか腹がいとうなってきたち……」
「今回は布代、奮発したけんね……」
「…何、言っとう と?」

 


「いよいよか…。楽しみだね。」
「…。」
「ん? 千秋君、緊張してるの?」
「え?いえ…。」
「ん?」
大きく息を吸った。
「楽 しみなんです。」
「楽しみ?」
「ええ。」

待ちきれないくらいに…。

 

 


「お待たせ。」

舞台袖に控えていたのだめの元に、松田が歩いてきた。

「はい。」

のだめはにこやかに答えた。

「どう気分は?」

松田はのだめの横に立って、尋ねた。

「嬉しいです。」

のだめは答えた。松田はそんなのだめに対して優しく微笑んだ。

 

 

 

「僕も嬉しい。」
「え?」
松田さんの顔を見ると、にこやかに微笑 んでくれた。
「君と一緒に演奏ができて…。」

しばらく、彼の横顔をじっと眺めていた。

「最高の舞台にしような。」
その言葉に、ふわっと胸の辺りが暖かくなった。
「は い。」
のだめは精一杯気持ちを込めて答えた。


すると目の前に、彼の右の手が差し出された。
「最高だよ。今日 は、本当に。」

心臓の鼓動が速くなった。頬が熱を持って熱い。真っ赤になっているかもしれないけど、顔をあげて真っ直ぐに この人の顔を見つめた。
松田さんは、優しく笑ってくれた。

のだめはその手に手を掛けた。

この体温が心強く感じる…。しっかりと自分の記憶に留めておこう。


「では、お願いします。」
のだめ達が呼ばれた。

「じゃあ、行こうか。」
そう言った、彼の瞳を見つめて

「はい。」

 


光の当たる舞台に向って、歩き始めた。

 

 


会場中に一際大きい拍手が沸き起こった。

 

 

今日のソリスト、野田恵が舞台の上に現われたからである。

身体のラインをやさしく覆う細い肩紐のシンプルな黒系のドレス。でも、光の加減によって色が違って見える。
しっ かりとメイクの施された口元は、鮮やに赤く染められている。
姿勢は真っ直ぐに伸び、目元は前を見ていた。そして、微笑んでるようにも 見える。

普段とは全く違った姿のあいつ…。


ドレスアップされたとはいえ、外見は本来の素材とはそれ程離れていない程度のはずなの だが、
でも、違う…。


それは全身から漂う空気みたいなものの所為なのか、
自信に溢れて いて…それでいて…

オケのメンバーも暖かくこのピアニストを迎えていた。


のだめは観客に向って頭を下げた。

 

 


のだめがピアノに着き、その後を付いて行くかのように指揮台に松田さんが着いた。

 

指揮者を伺うあいつ。それに目で応えるあの人。
解れた雰囲気に、二人の信頼関係がよく わかる。

 

人々の呼吸の音まで伝わってきそうな、静まり返った会場。
あいつは大きく息を吸った。

 


   フレデリック・ショパン ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21

1829年 ショパン19歳のポーランド時代に作られたもの。2番と名付けられているが、実際は1番よりも 早く作られた。(出版の関係でこちらが2番となっている)
若き日のショパンの、豊かな感性がストレートに表された曲である。


第1楽章 Maestoso

協奏曲風ソナタ形式。長い管弦楽のへ短調による序奏からはじまる。

オーケストラによる提示される第1主題。

届かない思いの苦しみが現われた、甘く悲しい旋律。
やがて、それは甘い夢となって昇華 されてゆく。


オーボエによって提示される変イ長調の第2主題。

それを受け継いで、ピアノの独奏が始る。


あいつのピアノの音が、鳴り響く----

 

息を呑んだ。
誰しもが、この情熱的な音に耳を奪われたのであろう…

「すごっ…。」

 

いろいろと表情を見せるあいつの演奏。色彩豊かで、繊細な旋律。
装飾的なパッセージを 経て、ピアノパートがどんどん高まっていく。

感情が曲に乗せられて、青春時代のショパンの思いがこの場に再現される。

 

松田さんはうしろのピアニストをちらっと見た。


そして、重和音のトリル(その音とその2度上の音を速く反復させて音を揺らす )で管 弦楽へ受け渡す。

軽やかなユニゾンで始る中間部。
技術的に一番難関とされる場所。鍵盤の上を絶え間なく 指が動き回る。

ピアノを生かすように、オーケストラが曲の流れを支える。

物凄い集中力であいつは向かう。まるで吸い込まれるように…。
その迫力にこちらも飲み 込まれる。


再現部。提示部で現われた序奏の断片が現われ、変イ長調の第2主題が始る。

そして、終結部。華やかなピアノのパッセージと重和音のトリルにより管弦楽に渡され、管弦楽のみで終結し、 最後は全合奏(トゥッティ)で力強く終わる。

 

しんと静まりかえった会場。
誰もがこの世界から抜け出せない。


第2楽章 Larghetto


3部形式。 甘く切ない変イ長調の旋律。

初恋の人コンスタンツィヤ・グワトコフスカの思いを込めて表現された事を、友人のティトゥス・ヴォイチェホ フスキ宛の手紙で述べている。

あいつは一音一音心を込めて優しく奏でる。

触れると壊れてしまいそうな繊細なガラス細工のようなメロディ。


所々で、甘いため息が漏れる。


----こんな音を、奏でるのか

誰もが心の奥にある、懐かしい気持ちに届くような音。

 

 


「のだめちゃん…。」
観客席から見ていた清良は呟いた。

淡く生まれたひと夏の恋心は、一つの曲となってここに成就されるんだ。

それはただ単に、彼女の恋を表現したのではなくて
誰しもが持っている、初めて恋をした 時の切なさや、喜びや、ほろ苦さを目の前に映し出すように奏でている。

「素敵…。」
そう言って、少し涙ぐみながら、舞台の方を眺めていた。

 

 

 

 

「…なんて、甘い旋律なんだろう…。」

佐久間氏はそう呟いて目を閉じた。

「まるで、オーケストラの前で歌手がうたっているようだ…。」

「…。」

俺はただ、あいつの姿をじっと見つめていた。

 

中間部。変イ短調に転じる。弦楽器のトレモロ(単一の高さの音を連続して小刻みに演奏する)の中で、ピアノ が不定期に動くユニゾンを弾き続ける。

片思いの苦しみで悶える姿が曲に表れる。

あいつは眉を顰めながら、曲と一体になって弾き続ける。

 


やがて、その苦悩は昇華され、再びロマンティックな舞台へと変わる


のだめはちらっと指揮台を見る。
それを受け取るように、松田さん はピアノの方を見る。

そして、微笑み合った。

甘く悲しい夢からゆっくりと目が覚めるように閉じられていく。

 


第3楽章 Allegro Vivace

ロンド形式。ポーランドの民族舞踊であるマズルカが基となっている。

協奏曲は「お堅いものだ」と考えた当時の聴衆の意表をついて、自国ポーランドの民衆の踊りであるマズルカを ショパンは第3楽章で思い切って用い、大喝采を受けた。

スケルツォ風の第1主題、舞曲風の第2主題。

華やかで軽やかな最終章。

ロンドの主題は軽やかで、ピアノは軽快に音を鳴らす。
鍵盤の上を踊るように指が回る。

会場の空気もそれに合わせて軽やかに踊る。


中間部。

弦楽器にコル・レーニョ(弓の木の部分で弦を叩く)奏法が指示され、ピアノもユニゾンとなる。
よ り民族的効果が高まっていく。

そして、華麗なパッセージが延々と続く。ピアニストの独壇場だ。
観衆の目はあいつのピ アノに釘付けとなる。


その中の小休止として、弦のピッツィカート(弦を指ではじくことによって音を出す)に 乗って、クラコヴィアク風のリズムをユニゾンで刻む。

3連符による長いピアノのパッセージ。本楽章の最大の見せ場。
軽々と楽しげにあいつは 弾きこなす。

「…すご…。」
言葉が漏れるのが聞こえてくる。


再びロンドの主題。再現するたびに装飾音が増えていく。

そして…

コーダはヘ長調に転じ、ホルンのファンファーレにより華やかに終結する。

 

 


その瞬間、のだめは呆然として前を見ていた。

 

 

一瞬の静けさの後、割れんばかりの拍手と歓声が上がった。
ブラボーの歓声の嵐が沸き起 こる中、ただ呆然と観客席を眺めていた。

 

 


…その瞬間は、何がなんだか分からなかった。
オーケストラと一体 となって、この協奏曲の物語の中を生きていた気がした。

----もう、終わっちゃたんだ。

さっきまで、奏でていた音は人の歓声と拍手に変わって、それが今、のだめを包み込んでいた。

あっ…。

指揮台を眺めた。あの人の優しい笑顔が見えた。
そして、のだめを導くように、手を伸ば してきた。

---最高だよ。

あの声が、再び聞こえた気がした。


その手を頼りに立ち上がり、観客席の方を向いた。
皆がのだめ達の 方に向って、拍手をしている。
歓声を上げている。

----終わったんだ。

再び、松田さんを見た。

優しく微笑んでくれた。そして、のだめに向って拍手をした。
のだめも微笑み返して、そ して観客席に向って頭を下げた。

歓声が拍手が一段と大きく聞こえてきた。

 

楽しかった、本当に。
やっと、そんな言葉が心の中に湧き上がった。

 

 

 

「…素晴らしかったよ。」
佐久間さんは力を込めて唸るように言った。

「ええ…。」
俺は答えた。

「ショパンのコンチェルトはオケストレーションが未熟だって言われているけど、よく調和していた。そして、 ピアノ…心に直接突き刺さってくるくらい、印象的だったよ。若き日の、19歳の頃のショパンの瑞々しい心がここにあるようだ…。」
佐 久間さんは、目を閉じて何かを思い浮かべているように宙を向いた。
…彼の場合は、実際何かを思い浮かべているんだろうけど…。

俺は舞台の方をじっと見ていた。

 

 

 

ここまで、どうやって辿り着いたのか、よく分からなかった。
大喝采の中、舞台を降り て、それからスタッフの人に言われるがまま歩いていって…。


コンコン
ノックの音。

「あ、はい。」
「キヨラです。のだめちゃん、いいかな?」
清良さ ん…。そうだ、この後一緒に観ようって約束していたんです。

「あ、どうぞ。」
ガチャ。

「のだめちゃん、良かったよ。感動して、涙出ちゃった。」
ドアが開くと同時に、清良さ んは手を広げて入ってきた。

「あ…ありがとうございます。」
のだめは呆然として答えた。

清良さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑顔を見せてくれた。
「お疲れ様。」
そっ とそう声を掛けてくれた。

ホロっ…。

突然、涙が零れてきた。

それから、溢れるようにホロホロと次々に涙が零れ…。

「あ、あれ?なんなんでしょ?おかしい…な。」
手で涙を拭いながら、でも、止める事も できなくて。

清良さんは優しくのだめの事を見つめていた。

「悲しいわけじゃないのに…変ですよね。」
笑おうと思っても、上手く笑えなくて。

すると、ガバっと抱き締められた。
「うん、いいんだよ。それで。」
そ う言って、ギュッと腕に力を込めた。

「…。」
のだめはそのまま、清良さんの身体に抱きついた。

うえ、うえっ…んっく…。

声まで出して泣いていて。

「…私まで、涙出てきちゃったよ…。」

何故か清良さんも泣いていて…


そして、しばらく抱き合ったまま、二人で泣いていました。






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参考サイト

http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/Library_Mendelssohn_Sommernacht.htm
http://www10.plala.or.jp/frederic3/work/concerto.html