「では、R☆S夏の陣の成功を祝して…。」


かんぱーい

 

 

 ま なつのよるのゆめものがたり  最終話


「千秋さま。どうでしたか、今日の演奏は。」
真澄が目を輝かせ て、ビール瓶を両手に掴んでやってきた。

「ああ、良かったよ。」
グラスを差し出すと、嬉しそうに注いでいた。

「あたりめーだろう。みんな仕事や勉強の合間を縫って一生懸命やってきたんだからな。」
峰 は大きな身振りでそう言って、こっちに向かってきた。

 

懐かしい顔が本当に揃っている。
もちろん、知らない顔もあるけど、

『戻ってきた』そんな言葉が浮かんでくる。

 

「真澄ちゃん。久しぶり。」
そう言って、ビールを注ぎに来たのは相沢舞子。

「まあ、久しぶり。来てたの?」
「うん。清良に誘われてね。懐かしいメンバーが揃って いるわよ〜って。千秋くんも久しぶり。」
「ああ、久しぶり。」

今回の公演には参加していなかったが、やはり皆に会いたかったんだろうな。

「日本に帰ってきたんだ。」
「うん、夏休みだからね。あ、千秋くんの活躍は向こうでも 耳にしているよ。」

「ありがとう。で、そっちの様子はどう?」
「うん、そうね…。」


久しぶりであっても会話が弾む。
この感触は、本当に懐かしい…。

 

 

 


「やっぱりここはいいだろう、黒木くん。」
峰は俺の隣にいた黒木 くんに絡んできた。

「そうだね。でも、あの頃よりかなり上達していて、最初、焦ったよ。」
「だろう、だろ う。何てったって、進化し続けるオーケストラだからな。」
そう言って、黒木くんのグラスにビールを並々と注ぐ。

ご機嫌だな、こいつは(いつもだけど)。
大して飲んでいないくせに、もう出来上がって いる…。


「お、清良。のだめは?」
ちょうど二階から降りてきた清良に、峰 は尋ねた。

「あ、うん。ちょっと熱があったから、寝かせてきたわ。」
「熱?」
「ま あ、微熱だけど…。疲れが出ちゃったんじゃないかしら?」
「そうだよな…。帰国してすぐに準備だったからな…。」

 

乾杯の時まではここに居たはずだ。

その後、清良が気遣って連れて行ったのか…。

…あの後、俺達は言葉を殆ど交わさなかった。

 

 

「まあ、あいつも頑張ったよな。」
峰はしみじみと言った。

「ええ…。ショパンのピアコン素敵でしたわ。」
赤ワインが注がれたグラスを片手に、薫 がうっとりとした顔で言った。

みんな頷く。

「甘酸っぱい…気持ちを思い出しましたね。」
萌はそう言って、隣の木村に向かって笑顔 を見せた。

「まあな。俺の目に狂いは無かったよな。」
峰は親指を立て、皆に向かって胸を張った。

「コンマスも頑張ったよね。最初はやり辛そうだったけど…。」
菊地はいつもの笑顔で 言った。

「まあ、こんなもんだけど…。」
そう言って、高橋は少し頬を赤らめて言った。

「松田さんも、一生懸命だったよな。大きな仕事抱えながらも、決して、手抜かなかったし…。」
峰 は宙を見ながら呟いた。

するとこの場が一瞬、シーンとなった。

「そうですわね。心強かったです…。」
「のだめちゃんも、頼りにしてましたね…。」
し みじみと語る声。

「かっこよかったよな。やっぱり。」
「さすが若手ナンバーワンだけあるよな。」
次 々に飛び出す賛辞。

 


「…って事だから、そこらは寛大にな。千秋。」
峰は突然、俺に向 かって言った。

「え…。」

すると、みんなの視線がこっちに向いた。

「…別に…なんとも思ってない…。」
俺はその視線にたじろぎながらも、そう言って、す ぐに俯いてグラスの中のビールに口を付けた。

「そうか、それなら良かった。のだめの『初めて』が奪われて、ヤキモチでも焼いてるんじゃねーかと思った ぜ。」

ブッー。
吹き出したじゃねーか…。

「…何言ってんだ、お前は…。」
峰は舌を出して、ウインクした。

みんなも安心したような顔になって、再び歓談を始めた。

…皆、気にしていたのか?

 


「千秋さま。もう一杯いかがかしら?」
真澄はビールの瓶を差し出 した。

「そんな薄情な女なんか放っておけばいい。」
「え?」
高橋が真澄 を押しのけてこっちに来た。

「僕なら君一筋だよ。千秋君。」
「ひいっ。」
俺の手を握ってき た…。

「ぬぁ〜に言ってんのよ。」
真澄は起き上がって、高橋の手を掴んで思いっきり振り払っ た。

「ついこの間、修羅場を作ったのは、どこの誰よ。」
真澄の頭からは、おそろおどろしい ものが立ち上っていた。

「あ、あれは、勝手に向こうが勘違いしていただけだ。」
「よく言うわよ。他のオケのメ ンバーにも次々と手を出しておいて…(もちろん全部男)。私のお友達まで手を出さないでよ。」
「だから、あれは僕の所為じゃない。」
バ チバチバチ…睨み合う両者。

…俺はその場から少し離れた。

 

 


「高橋くんのシェヘラザード良かったわよね。」
舞子はワイングラ スを片手に菊地の横から顔を出した。
それを聞いた清良は眉間に皺を寄せた。

「あ〜あ、仕事の都合が付けば私がやりたかったんだけど…。」
清良は焼酎のグラスを片 手に、テーブルに肘を付いて、こっちまで聞こえるように呟いた。
高橋は怖い目で清良を睨んだ。

「なによ。」
清良も睨み返す。

「ふふ。でも、清良だったら『王さま話を聞いてくださいませ。』じゃなくて『ちょっと、話を聞いてよ。』っ て感じになりそうよね。」
舞子は笑いながら、菊地に言った。
「なんでよ〜。」
清良は顔を赤 くして反論した。
「じゃあ、シャーリアール王は峰くんみたいな人じゃないとね。」
菊地は笑顔で答えた。

「もう、どういう事よ。」
清良の叫びに、笑い声が広がった。

 

「千秋もさあ…たまにはこっちで振れよな。」
いつの間にか峰が横に来ていた。

「いいねえ。是非、ヨーロッパ仕込みの腕を見たいもんだね。」
菊地は微笑みながら言っ た。

「そうよね。初代指揮者は千秋くんだもの…。それでこそ創立メンバーが揃うって事よね。」
舞 子は言った。
「じゃあ、私がコンマスね。」
清良は手を上げて言った。

何か言おうとする高橋を、真澄は力尽くで取り押さえる。

「黒木くんも、もちろん出るよな。」
「そうだね。是非…。」


「千秋さまが指揮してくれるんですか?」
「萌も是非、出させてく ださいね。」
ぞろぞろと人が集まってきた。

みんな…。

「おおう、楽しみになってきたぜ。お前、いつが都合いいんだ?」
「峰…。」

皆の笑顔でこっちを見る。

「…ああ、俺も是非、そうしたいな…。」

わーっ。
皆の歓喜の声が響いた。

 

 


「次のソリストは私やりたいな〜。」
「えー、私よ。」
「俺 だろう。」
「今度の公演はいつなの?」

酒は回り、テーブルの上の食事の減りが徐々に遅くなってきた。

それにしても、みんなよく飲むし、食うな…。

 

「千秋くんも、疲れたんじゃない?」
横から黒木くんが話しかけてきた。

「あ、ああ。…ちょっとね、眠い。」
黒木くんは優しく笑って、俺の空のグラスに透明の 液体を入れた。

「みんな、変わらないね。」
「そうだな…。」
騒ぎ立てる姿を見な がら答えた。

「黒木くんも大変だっただろう?マルレの後にすぐ帰国して、こっちだったから…。」
「う ん、ちょっと疲れた。でも、気持ちいい疲れだよ。」
「そう…。」


…沈黙。何故か…緊張する…。

「…どうだった?初代指揮者が見たこのオケは。」
黒木くんは前を見たまま聞いてきた。
俺 はちらっと彼を見て、それから答えた。
「…みんな思った以上に上手くなっていて…ちょっと驚いた。」

黒木くんは笑った。

「じゃあ、恵ちゃんのコンチェルトはどう思ったの?」
目を合わせないまま、冷静な口調 で聞いてきた。

…。
俺はしばらく黙っていた。

「…良かった。素直にそう思った。想像以上の出来だった…。」

黒木くんは俺の顔を覗き込んだ。
「…どうしたの?」
「え?」
「何 か、さっきから、浮かない顔しているから…。」

探りを入れる視線に耐えられなくなって、目を逸らした。
容赦ないよな…。

俺はため息を吐いた。

「…もっと冷静に観れると思っていた…。」
声を抑えて言った。

「冷静に…観れなかったの…?」
黒木くんは小声で聞いてきた。
「…。」

「松田さんが、相手だったから?」

俺は息を飲んだ。
黒木くんはじっと俺の方を見ている。

 

「…あいつの感受性が強いことは知ってる。」
「うん。」
「だか ら、気持ちが、必要以上にそっちに向かうことくらい…容易に想像できる…。」
「…。」

大きく息を吸う。
「でも……。」
「でも?」

「…頭では理解できるけど、感情はそうじゃないみたいで…。」
「…。」

「…そんな自分自身に…腹が立つ…。」
俺はそこまで言うと、息を大きく吐いた。

プッ…。
黒木くんは吹き出した。

「な…。」
俺は顔を真っ赤にして、黒木くんの方を見た。

「いや…千秋くんも、所詮はただの男なんだな〜って…。」
笑いを堪えて顔を赤くしなが ら、彼は言った。

「ただの…。」
俺は恥ずかしくなって顔を背けた。


「でも、僕は安心したよ。」
「…何…それ…(ボソッ)。」

…思わずムカッときた。

「舞台から降りたら、また君だけの彼女に戻るんだから…。安心しなよ。」
そう言って黒 木くんは、グラスの中の酒を口にした。


俺は彼の方を見た。
目を合わせ ると、フッと笑った。

「…。」
俺は目の前のコップの中の酒を、一気に飲み干した。

 

真夏の夜は更けていく。

 

 

 

 


------長い曲を弾き続けていた。
終わりのない曲を永遠 に…。

鍵盤の上を右へ左へと指が走り回る。

繰り返し、繰り返し。

 


「出番だ。」
遠くから声が聞こえた。
その方 へ視線を移した。

「さあ、行こう。」
目の前に手が差し出された。

行かないと…。

椅子から立ち上がって、導かれる方へと歩き出した。

手はこっちだと招いている。
そこに引っ張られるように、身体は歩いていく。

 


ガバッ。

 


目を開けると、明かりの灯されていない部屋で一人眠っていた。
薄 いカーテンからは、青白い月の光が差し込んでいた。

…静かな部屋。


「汗、びっしょり…。」
さっきまで横になっていた布団はのだめの 汗で湿っていた。

えと…。

そだ、コンサートが終わって、それから、峰くんちで打ち上げをして…。

 


あの後…

先輩は前を見たまま、のだめの手を引いて早足で歩き続けていた。
握られた手には力が込 められていて、

ちょっと痛かった。

 

「あ、先輩、荷物取りにいかないと。」
「ん…。」
その時になっ て、やっとこっちを見た。

 

衣装の入った大きな鞄を先輩は持って、再び前を歩いた。
のだめはその後を必死に付いて いった。

満月に照らされた夜道は、やけに明るく、静かで、奇妙に感じられて、
そのうち段々身体 が重くなって、どこを歩いているのか、どれくらい歩いているのか分からなくなっていて…。

 


「のだめちゃん…熱あるんじゃない?」
乾杯の後、清良さんにこの 部屋に連れてこられて、熱を測ってもらった。

「今日はもう、休んでいいよ。」
「でも…。」
「大丈夫よ。後はみ んなで馬鹿騒ぎするだけだから。」
「…。」

そのまま、一人で寝ていました…。


「今、何時なんでしょう?」
布団から立ち上がって、廊下に向かっ て歩き始めた。

 


夜風が…気持ちいい。どこかから流れ込んできている。
その風の方 に向かって歩いていくと、ベランダが見えた。

戸が開いている…。

外を 見ると、あの人の後姿が見えた。

カラ…
ガラス戸に手をかけて開くとまん丸の月が目に入った。


「ここに居たんですか?」
のだめが話しかけると、驚いた顔をして 振り向いた。

「…ああ…。」
少し疲れたような、でも穏やかな先輩の顔が見えた。

 


* * * 

 

満月。夜中。

本当に丸い月だ…。


酔いで少しボーっとした頭を、夜の風が覚ましてくれる。
さっきま での騒々しさが嘘のような、静けさだ。

空を仰いで、大きく息を吸った。

 

「ここに居たんですか?」

突然後ろから声を掛けられて、振り返った。
少しやつれたようなのだめの姿が、そこに あった。

 

のだめはゆっくりと、俺の隣まで歩いてきた。
毒気の抜けたような、すっきりとした顔を していた。

「どう?具合は。」
「あ、はい。だるさは抜けました。」
「熱 は?」
「たぶん、もう無いと思います。」

そう言って、俺の横に座った。

「それ、お酒ですか?」
俺の持っていたグラスの中を覗き込んで聞いてきた。

「いや…麦茶。ずっと、いろいろな酒を飲まされたから、喉が渇いた。」
「のだめも ちょっと貰っていいですか?喉乾いちゃって…。」
俺が差し出すと、嬉しそうに受け取ってコクコクと飲んでいた。

「はぁ。全部飲んじゃいました。」
「汗かいたの?」
「はい、たっ ぷりと。」
のだめは湿り気のある重たい髪の毛をかき上げた。


「宴会、終わっちゃったんですよね。」
「まあ、終わったって言う か、そうせざる負えなくなって…な。」
「そですか…。結局、ご挨拶できませんでした。」
「まあ、気にするな。最 後はみんな訳わからなくなっていたし…。峰なんかは下で酔い潰れて寝てる…。」
「そなんですか。」
のだめは目を 丸くした。
「明日があるからって、帰ったのが大半だけどな。」
俺は腕を上げて身体を伸ばした。

「コンサト…。」
「ん?」

「…どでしたか?のだめのピアノは?」
穏やかな声で話しかけられた。
俺 はこいつの顔を見ると、少し緊張した面持ちをしていた。

「…良かった。本当に…。」
そう言うと、ほっとしたような顔で笑った。

「頑張ったんだな。」
「…はい…。」
のだめは空を仰いで、月を眺 めた。


「…終わっちゃいましたね。本当に夢のよう…。」
「…。」
名 残惜しむかのような声で、話し始めた。

「あの時…。」
「ん?」
「コンチェルトの時…。」
「…。」

「オケストラの音を全身で浴びて、自分自身がその中に溶け込んでいくような気がしました。」
そ の時の記憶を味わうような、甘い声で呟いた。

「そう…。」
「舞台の上ではお客さんの空気も混ざって、リハの時とは違うものでし て…。」

蘇るピアノの音
そして、舞台の上での演奏。


「不思議な体験でした。」
「そうか…。」


「先輩はいつもそれを感じているんですよね。」
「え?」
横 を見ると、のだめは俺の顔を見ていた。

「…そうだな。」

「羨ましいですね。」
そう言って、ニコッと笑った。


俺の中で消化できない感情が、何故かこの時は落ち着かせることが出来た。

それは疲労からくるダルさの所為か、まだ残っている酔いの所為か、この静かな月夜の所為か
そ れとも全然違ったものの所為なのか、わからないけど…。

月の光に照らされて微笑んでいるこいつは、まだ、半分夢を見ているようで、ふわふわと浮かんでいるようにも 感じられる。
こいつの心は今、どこをさ迷っているのだろうか…。

俺はただそんな姿を、ボーっと眺めているだけだった。

 

朝。


俺が大学に顔を出すといったら、のだめも付いていくと言い出した。

「これからお借りしていた部屋を峰くんと掃除しに行くんです。先輩も付き合ってください。」
「お、 そうだ。お前も付き合え。」
「…また、散らかしてるんだろう…。」

「むきゃ。今回はキレイに使いましたよ。峰くんにも散々言われていましたから…。」
の だめは頬を膨らまして不服そうに言った。


この後、のだめは実家に帰郷する予定だ。
でも、由衣子の希望で今 日は三善家で一泊する事になっている。


「荷物は実家に送っちゃいます。」
「なんで、ほんの数日でこんな に荷物が増えるんだ?」
「だって、こっちにはお宝グッズがたくさん売ってますもの…。」
「…。」

 

大学に行き、先生に挨拶をした後、のだめがピアノを一緒に弾きたいと言い出した。

「学生がお休みですから、せっかくですし…。」
「…。」
「久しぶ りですね。」
嬉しそうにのだめは笑った。

「先輩とは一緒にピアノが弾けますからね。」
「ん?」

ピアノの蓋を開けるとコトンと音が鳴った。

「で、何、弾くんだ?」
「…そですね…。」
のだめは少し考える と、何か思いついたような明るい顔になった。

「ショパン…。」
「え?」

「ショパンのピアコン2番をお願いします。」
「…。」



夏の夢は後を引くようで、なかなか消えようとしない。
学 生の姿が殆ど見られないキャンパスに、ピアノの音が響いていた。

 

 

のだめは時々目を閉じては、音に気持ちを合わせていた。
昨日、全身で感じたあの音を思 い出しているのかもしれない。

それでも、俺の顔を見て、目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
そして、俺の音に身を委ねる ように、身体を揺らして…。

やっぱり、こいつとの音楽は楽しい。

わだかまりも、気だるさも、全て音になって昇華されていくように感じた。

 

 * * *

 

窓から風が入ってきて、髪の毛を揺らした。

先輩との二人だけのコンチェルト。
久々にこの人の音楽と合わせることができた。

…違うんだ…。
身を持って感じることができた。

どちらがいいとか、そいったものは無いのですが、
違うんですよね。


…最高だ よ。

そっと目を閉じた。
ああ、あれはもう終わったことなんだ。


たぶん、あの時、あの人と、あのオーケストラでしか出来ない音楽であり、気持ちでもあ るんだ。

…そうです、最高でした。

この先、松田さんと再び共演する機会が巡ってくる事があるかもしれない。
でも、たぶ ん、同じ曲をやったとしても、違うものになるんだろう…。

そして、先輩とも…。

学生時代に一緒に弾いたあの頃とは違う。
この先、共演する機会があったとしても、その 時はまた違った音が生み出されるんだ。


あの時感じた、あの気持ちは、あの場所でしか味わうことの出来ない事なんですよね。

まさに、夢だった…。真夏の夜の夢。

でも、夢はいつか終わりが来るもの。

今年の夏にみた長い夢は、甘 く、少し苦い後味を残して去っていったのだった…。

 

 * * *

 


あいつはピアノの鍵盤をじっと見つめていた。

「どうした?」

「…全然、違うんですね…。」
そう呟いて、俺を見るとニッコリと微笑んだ。

その表情(かお)はいつも見るものだった。

……舞台から降りたら、また君だ けの彼女に戻るんだから…

こいつの初舞台は今、終わりを告げた。

 

 

 * * *

 


「先輩と共演するまでに、もっとのだめは進化しないといけません。」
「え?」
「先 輩が焦るくらいまで、頑張りますよ。」
むんっとこいつは握りこぶしに力を入れた。

「何、突然。」
「覚悟していてくださいよ。」
そう言って、俺の前 に拳を差し出すとヘンな笑い声を上げて、前を走っていった。


外に出ると、まだ真夏の強い日差しが照りつけている。
蝉の鳴き声 が騒がしく響いていた。

fin