密室





た まには外で食事をしようと、珍しく千秋が言い出した。
仕事、仕事でのだめをほったらかしにしているのを、少しだけ
申 し訳なく思ったのかも知れない。
もちろんのだめに異存は無かった。

「ふぉぉ…。ここです か…」

パリ市内の高級ホテル。
そこの最上階のレストランが、夜景がとても美しいと評判であ り、
何事にもそつがない千秋はそこを指定してきた。
ちゃんとしたレストランで食事をするということで、のだめも ちょっぴり
オシャレして、とっておきの黒のワンピースに千秋からもらったネックレスをしている。
ロビーにはふか ふかの絨毯が敷いてあり、豪華なシャンデリアの光に
のだめは少しとまどう。

「先輩…ずいぶ んはりこみましたネ〜」

こんなところで食事をするといくらくらいするのだろうか。
まだ駆け 出しの指揮者である千秋の財政は大丈夫なのか…といらぬ心配をしたりして。

「少し遅刻しちゃいましたネ〜また、 怒られる…。最上階、最上階…と」

千秋から渡された店名の書いてあるメモを見ながら、エレベーターを探す。
目 的の場所はすぐに見つかった。
乗り込もうとしてボタンを押しかかる。

ーと。

横 からにゅっと手が出てきて、のだめより先にボタンを押した。
振り返ると、その人物ー松田幸久はにっと笑ってのだめに言った。

「こ んばんは。…千秋くんの彼女さん」



のだめはあまり記憶力がいい方では ない。
黒いスーツを着込み、髪をかき上げ不敵に笑う男性の名前を、一瞬思い出せなかった。
そのまま下半身に目が 行き、ポンっと思いついたように手を叩く。

「ああ、変態の松田さんですネ」
「…なんなんだ よ、今の視線は…。君に変態と言われるのは非常に心外なんだけど」

お互いに似たような感想を持っているようだ。
そ う言いながら、松田はのだめの全身をじろじろと不躾に眺めた。

「なんだよ、今日はずいぶんオシャレしてるじゃ ん。こないだがパジャマ姿(と入浴中)だったからなー。
あ、わかった」

ニヤリと笑う。

「千 秋くんとデートなんだろう」
「ハイ、そうですヨ」

にっこりとのだめが満開の笑みで答える。

「… からかいがいがないな〜。つまらん」
「松田さんこそ、こんなところでどうしたんデスか?」
「あー俺は打ち合わ せ。よくここのホテル利用してるんだ。ロビー歩いてたら、
どっかで見たことのある顔がいたから」


チー ン。

音がしてエレベーターが着いた。

「デートって最上階のレストラン だろ?俺も付いていっていい?」
「絶対に駄目デス」

即座に拒絶するのだめ。

「い いじゃん、久しぶりに千秋くんにも会いたいし(からかいたいから)」
「やです!せっかくの久しぶりのまともなデートなんですヨ!。つ いて来ないでくだサイ」
「そんなこと言わずにさ〜」

有無を言わせずに松田はのだめとともに エレベーターに乗り込んだ。

「何階?」
「…20階デス…」

の だめはため息をついた。


キュイィィィン。
静かに音を立てながら上昇す るエレベーターの中で松田はのだめに話しかける。

「のだめ…ちゃんだっけ(変な名前…)」
「ハ イ」
「相変わらず、変態なの?」
「松田さんこそ、相変わらず小をする時にもズボンを下ろしてるんデスか?」
「… それは個人の習慣でしょ。ってゆうか千秋くんはしないの?」
「先輩のはまだ確認したことがありまセン」
「…確 認って…やっぱ変態だ。千秋くんのを見たことなくってどうして俺のやり方に文句をつけるんだよ!」
「父と弟のよっくんはズボン下ろし てませんから」
「家族のトイレを覗いているのか!」

ギャーギャーと子供のように言い合う二 人。
ちなみに話している内容はあまり人に聞かせられないないものだったりする。
すると。


グ ラリッ。


足下が激しく揺れた。



そ のころ千秋は、最上階のレストランの喫煙室で、いらいらと煙草をふかせていた。
…遅い。
相変わらず時間にルーズ だ!。
来たら思う存分とっちめてやろうと心に決め、広い窓から眼下の夜景を見やる。
パリ市内のネオンが宝石の絨 毯のように美しく広がっていて、これを見たらのだめが
「しゅてきしゅてき〜」とかなんとかまた奇声をだして喜ぶんだろうな…と思って
千 秋はフッと笑った。
まあ、いいか。
少しくらい遅刻しても許してやろう。

こ んな綺麗な夜だから。


そのとたんに激しい地面の揺れに立っていられなくなり、思わず足をつ く。

「地震だ!」

と誰かが叫ぶのが聞こえた。
あ ちこちからあがる悲鳴。
ガシャーンとグラスや陶器の割れる音が響く。
シャンデリアが天上にぶつからんばかりに激 しく揺れて…次第に揺れが小さくなり…そして止まる。


辺りには静けさだけが残った。
… 地震…だったのか…。
千秋は周囲を見渡す。
かなりのガラスの破片が飛び散り、人々が恐怖の表情でざわついてはい るものの、
とりあえず出火したりケガ人が出たということはないようだ。
…結構、大きかったな。
そ れとも高層ビルの最上階だからよけいに揺れを大きく感じられたのか…。
その瞬間、千秋ははっと気づく。


… のだめ…!!


「ビックリしましタ!。すごく大きな地震でしたネ〜。…松田さん何やってるん デスか?」

のだめはエレベーターの隅の方で小さく丸くなって震えていた松田に声をかけた。

「… 俺、小さい頃に大きい地震にあってサ…倒れた本棚の下敷きになって以来…
地震…ダメなんだよ」

顔 が真っ青だ。

「ふぉぉ…松田さんにもそんな弱点が」
「ー誰にも言うなよっ!『黒髪の貴公 子』が地震に弱いなんて!」
「…別にいいませんケド(指揮者って皆トラウマがあるんデスかね)」
「だいたい、君 もあのくらい大きい地震だったんだから『きゃ〜怖い』とか言って、俺に
すがりついてくるのが普通だろ」
「嫌です ヨ。先輩が相手じゃないんだし。それに普通普通ってばっかり言わないでくれマスか?
のだめはのだめなんデスから」
「な んだよ、その理屈…ってなんだかエレベーター…止まってないか?」

そういえば、さっきから全然動いている感じが しない。

「ぼへえ〜!本当だ!」

室内灯はついてはいるものの、ボタン のランプは全て消えたままだし、階数表示のパネルにも
何も表示されていない。

「…まだ、 20階にはついてないとは思いマスけど…」

のだめは手当たり次第にボタンを押してみるがまったく反応がない。

「お いおい、こんな時はあまり無茶苦茶しない方がいいぞ」

松田は冷静な口調で、のだめの手を止め、非常用コールのボ タンを押した。

『はい、システムセンターでございます』

とスピーカー から女性の声が聞こえてきた。

「あのー俺たちの乗っているエレベーターがさっきの地震で止まっちゃったみたいな んだけど、
なんとかしてくんない?」
『大変申し訳ありません、お客様が乗っているエレベーターの識別番号が近く に表示されて
あるかと思われますがご確認いただけますか』
「識別番号?」

松 田は、辺りを見る。

「これか。○○○○…の○○○○…」
『はい、確認できました。場所は ○○○○の○○○○ホテルでございますね。至急、担当の
ものがうかがわせていただきます』
「よろしく」

の だめがほー…と感心したように松田を見る。

「…松田さん、大人の男で冷静ですネ〜。のだめ一人だったら慌てふた めいてどうしたらいいか
わかりませんでしたヨ」
「別にこれくらい…惚れたか?」
「イエ、別 に」
「あ、そ」

その瞬間、のだめの携帯が鳴った。


『… アロー』

携帯からのだめの声が聞こえてきて、千秋は安堵のため息をついた。
…良かった…無 事だったみたいだな。

「オレだ。大丈夫か」
『あ、先輩!良かった!。のだめはピンピンして ますヨ〜。先輩こそ大丈夫ですか?』
「こっちも何とももない。お前、今どこにいるんだ」

待 ち合わせをしていたのだから、近くには来ているだろう。

『ホテルにはいるんですけどネ〜なんだかさっきの地震で エレベーター止まっちゃったみたいなんですヨ』
「は?」
『のだめ達、閉じこめられちゃったみたいデス』
「閉 じこめられちゃった…って…、どこのエレベーターだ」
『えっと…ホテルの中のフロントの正面にある奴です』

千 秋は携帯を耳に当てたまま駆け足でフロント側のエレベーターに向かう。
エレベーターの扉は固く閉ざされており、上の表示は15の数字 の所で止まっていた。
ボタンを押しても何も反応が無い。
千秋はため息をついた。

「… あいかわらず要領の悪い奴だな…。ちゃんと時間通りに来てればこんなことにならなかったのに…」
『はぅぅ…すみません…。でも松田さ んが、今修理の人を呼んでくれたから大丈夫ですヨ』

ーえ?

「……松田 さん?」
『ほら、先輩の家に一回来たことがある、変態の指揮者の人ですヨ』
「ーえ?、なんで松田さんが…」
『偶 然に乗り合わせちゃったみたいで…』

ピイー。
のだめの携帯から音が鳴り出した。

「お い、この音。お前の携帯…電池切れなんじゃ…」
『ーあ〜、そういえば最近ずっと充電してなかったデス』
「あのな あ」

プツッ。
電話が切れた。


「はぅ 〜電話切れちゃいました」

泣きそうな顔でのだめが言う。

「何?今の電 話、千秋くんなの?」

松田がのだめに問いかけた瞬間。トゥルルルルル…。

「あー 今度はオレか」

松田のスーツのポケットから鳴り響いているようだ。
携帯を取り出し耳に当て る。

「アロー」
『……松田さん…?』

携帯から聞 こえてくるこの声は…千秋真一だ。

「よお。千秋くん、久しぶり」

どこ となくいつもと違い、遠慮深そうな彼の声に松田は嬉しそうにニヤニヤ笑う。

『ーすみません、そこに、のだめいま すか。』
「あーいるよ」
『すみません、ちょっと替わって…』

言いかけ た千秋の声を妨げる。

「大丈夫、大丈夫!のだめちゃんにはちゃんと《俺が》ついててあげるよ」
『い や、そうじゃなくて』
「まあね、なんてったって《密室に二人きり》だからのだめちゃんも心細いだろうし、
俺が ちゃんと面倒見てあげないとなー。うん、優しいなあ、俺って」
『…』
「救助も、地震の後だから時間かかっちゃう かもしれないよね〜。でもその方が《都合がいい》
っていうか、いろいろ《ゆっくりできる》しね」
『あの…松田さ ん…』
「ピイー(口真似)。おっといけない、俺の携帯も電池切れだ!じゃあまたな千秋くん」
「ちょっ」

プ ツッ。
松田は指でボタンを押して携帯を切る。
トゥルルルルル…。
次の瞬間にまた鳴り出した 電話をやれやれと言った顔で松田が受ける。

「ーお客様がおかけになった番号はただいま電源が入っていないか電波 の届く所にありません」
『ーおい!』

プツッ
今度は携帯の電源を切られ る。


ーなんなんだっ!あの人はっ!!


千 秋は怒りにぷるぷる震えながら携帯を握りしめた。



「…松田さん…なん だかすごく楽しそうデスね…」

壁に手を当てながらクックックといかにも愉快そうに笑う松田を、のだめが呆れた顔 で見る。

「えー、なんだって?」
「いや、だからすごく楽しそうだなと」
「あー、 楽しいよ」

笑いすぎて出てきた涙を拭いながら松田はのだめを見る。ーすごくいたずらっぽい目で。

「ー なんだかすごく…楽しくなってきた」



その頃、千秋は別のエレベーター で1階に下り、フロントに向かった。

「友人があそこのエレベーターに閉じこめられているみたいなんですが、早く 対処していただけませんか」
「まことに申し訳ありません、お客様」

フロントにいた若い女性 がすまなさそうに言う。

「ただいまシステム会社の担当の者を呼んでおりますが…地震の影響でパリ市内ひどく渋滞 しており…
こちらに到着するのが遅れるとの連絡が入りました」

ーくそっ、こんな時に!
千 秋は頭を抱えた。



立っていても疲れるだけなので、二人は救助が来るま で床に座って待つことにした。
並んで座り壁に背中をもたれかけさせる。

「そういえば、のだ めちゃんて結構胸大きいよね」
「…なんデスか…そのいきなりのセクハラ発言は…」

さすがの のだめも一歩引く。

「はっ!さてはお風呂に入ってた時見たんデスね!!ムキャー!このスケベ!!」
「見 たのはお互い様じゃないか!。
泡風呂だったし俺も酔ってたから、はっきり見えたわけじゃないけどね。
…でも…あ の感じだと…」

松田は手のひらでふくらみを作る。

「C…カップ…?、 いや、D…かな」
「ムッッキャー!そっ、その手つきがすでにエロオヤジデスーっ!!」

のだ めがポカポカと松田を叩く。

「千秋くんは、彼女の胸は普通だって言ってたのにな〜。まあ、そもそも変態の彼女の ことを普通だと
言い張るくらいだけどね〜」
「…二人で…いったい何の話をしてるんデスか…」
「知 りたい?」

松田がのだめを見てニッと笑う。

「俺の知りたいこと教えて くれたら、話してあげてもいいよ」



千秋は落ち着かなかった。
エ レベーターの修理担当者が来るまで、何もできることはないとわかってはいたが、
うろうろと歩き回らずにはいられなかった。

ー 松田さん、何を考えてるんだ…。

松田幸久はパリ・ルセール管弦楽団の常任指揮者を6年間つとめ、現在は日本のM フィルの正指揮者となっている。
そして千秋が去ったR☆Sオケの新しい指揮者である。
名実ともに若手No.1で あり、千秋にとっては尊敬できる人物だ。
ー音楽に関しては、だ。
野心家で傲慢かつ強引な彼は、人の迷惑など考え たりしない。
どうも後輩として名を上げてきた千秋の存在を快く思ってないようだ。
むしろ千秋をからかうのを面白 がっているようなふしがあり、千秋としても先輩としては尊敬していても
出来る限りは近寄らないようにしていた。

今 までは。

ーなのに…。

よりにもよってこんな時に会わなくったって…。
女 関係が派手だという噂もちらほら聞いている。
…まさか…後輩の彼女には手は出さないとは思うが…。
ーいくら、俺 のことからかいたいからって…さすがに…そこまでは…。
のだめのことはもちろん信じている。
だけど、どうものだ めはぽやや〜んとしてるところがあり、はっきり言って隙だらけである。
彼にとっては格好の狙い目だろう。
あの二 人が閉じこめられた空間にいるなんて…。
千秋は神を呪いたくなった。



「… 知りたいことって…なんデスか」

のだめがおそるおそる聞く。
彼女にも一応人並みの警戒心は あるようだ。

「んー、例えばサ〜、どうして千秋くんがシュトレーゼマンの弟子になれたのか、とかさ」
「あ 〜そういうのデスか」

のだめは少しホッとしたように言う。

「それは先 輩が桃ヶ丘音楽大学の学生だった時に、ミルヒー…シュトレーゼマンが来日してきて、
先輩の才能に目を止めたのですヨ。ー先輩の指揮が とっても素晴らしかったから」
「ふ〜ん、でも千秋くんはピアノ科だったんデショ」
「ハイ。でも指揮科に転向した がってましたヨ」
「どっちにしても彼ほど才能があって、財力のある実家だったら普通は外国に留学とかさせるよね。
な んでそうしなかったの?」
「それはー」

と言いかけて、のだめははっと口を押さえる。

ー 危ない。

やはりこの男危険だ、と思う。

「それは…何?」
「… それは…内緒デス!」
「ふうん、内緒ねえ」

松田はニヤニヤと笑う。

「じゃ あ、質問を変えようか。千秋くんはあの世界的ピアニスト千秋雅之の息子なんでしょ。
両親は離婚してるけど、何故彼だけ千秋姓を名乗っ ているのかな?」
「そんなの…知りまセン」
「彼は父親のことに話が触れられるのを異様に嫌ってるけどー何か確執 でもあったりして」
「…」

のだめは唇をきゅっと結んだまま口を開かない。
松 田はのだめの顔をのぞき込む。

「だんまりですか?お嬢さん」
「のだめは何も知りまセン…質 問する相手を間違ってマス」
「彼女なのに?」
「…」

のだめは俯いて下 を見る。

ーいじめ過ぎたかな?。

松田はそんな彼女を見て、ほくそ笑ん だ。
もとから彼女から答えが聞き出せるなんては期待はしていない。

それにしても。

ず いぶん子供っぽい娘だなと思う。
可愛くない訳ではないが、あの千秋が選んだ女性というのはにわかには信じがたい。
才 能もありルックスもいい彼なら、どんな女性もよりどりみどりな筈なのだが。
ふと、俯く彼女の剥き出しのうなじに惹きつけられたように 目が止まる。
陶器のような透き通った白い肌。
悪戯心が湧いた。
こんな状況だし…ちょっとく らい…手を出したって…いいんじゃないだろうか。
なんてったって、あいつのものは俺のもの(?)。
よくわからな い理屈をつけながら…そっと…顔を近づけて行くと…。

ーガツン!!

急 にのだめが顔を上げたため、松田の頭は壁に叩きつけられることになる。

「いっ…て…」
「…?… 松田さん、どうかしたんですか?」

…この娘、わざとだろうか。それとも獣のような防衛本能でも働いているのだろ うか…。



「…煙草吸ってもいい?」

松 田が聞いてきたので、のだめは頷いた。

「でも、あんまり煙くなると火災報知器とか鳴るんじゃないデスか?」
「今 の状況で何を今更。まあ、そしたら少しだけ」

そう言うと、松田は胸のポケットから煙草を取り出して火をつけた。
ふーっ と息を吐いて狭いエレベーター内に煙をくゆらせる。
ふとのだめが思いついたように言う。

「そ ういえば、松田さんエリーザベトとは仲直りできたんデスか?」

ゲホゲホッとむせる。

「何ー?」
「先 輩が言ってましたよ。松田さんはコンサートの後で金髪美人のエリーザベトに逃げられて、
仕方なく押さえていた金持ちの娘に走ろうとし たけど、あまりのその娘の馬鹿っぷりに切れて
電話で怒鳴りちらしていたから多分ダメだったろうって」
「…」
「結 局はエリーザベトに平謝りに謝って、よりを戻してもらうんじゃないかな〜って言ってましタ」

…おのれ…千秋。
ご ごごご…と怒りのオーラが松田の背後から立ち上がる。

「ーあのねえ。俺はこの通り、男前で才能があってブイブイ いわせる指揮者だから、女には不自由
してないんだよ!。世界各地に恋人だっているしね」
「へえ〜」
「何、 感心してるんだよ。千秋くんだってそうだろう?」
「ぼへ?」

きょとんとするのだめに、松田 は意地悪く言う。

「彼も、事務所の仕事で結構世界を回ってるらしいじゃないか。絶対いるぜ、各国に現地妻」
「ー 松田さんと一緒にしないでくださいヨ!」

のだめはムッとして言い返す。

「先 輩は浮気なんかしまセン!」
「どうだかなー」

と松田は笑う。

「… ちょっとだけそれっぽいこともあったことはあったけど…」
「ほら、そうじゃない」
「…でも、先輩とのだめはいつ か共演してゴールデンペアになるという、大きい夢があるんデス!
今は浮気なんてしている余裕なんてありまセン!!」


「… そんなことが、本当に彼の夢だと思ってるの」
「えっ…」

突然真剣な顔つきになった松田にの だめは言葉を失う。

「男ってのは…女が考えているようなそんな単純な生き物じゃないんだよ。
例 えば女だったら、そりゃあ大好きな彼氏と共演していい演奏が出来て世界中の人に聞いてもらえたら、
それでハッピーハッピーだろう。
め でたし、めでたしって奴だ。
だけど、男は違う。
ーもっと複雑に入り組んでいて、そして誰でも野心を持っている」
「…」
「こ の世界に入ったからには巨匠と呼ばれる最高地位を手に入れ、歴史に名を刻みたい。
ーすくなくとも、俺はそうだよ。
そ のためにはなりふりなんてかまっちゃいられない。
利用できるものはなんでも利用しなきゃ」
「…利用…」
「俺 とかさ…共演する女性とはなんだかんだで結構あったりするんだよ。
練習で一緒にいる時間も長いし、その方がお互いに都合がいいから ね。
相手に好意を持ってもらえればもらえるほどいい演奏が出来る。
ーそういうのは、シュトレーゼマンとかが得意 とする分野じゃないかな」
「…」
「ーもちろん、どっかで線は引いておかないといけない。
向 こうが思い詰めて刃傷沙汰にでもなったら演奏どころじゃなくなるし。
相手に期待を持たせつつも、一方では冷徹に突き放す。
こ の兼ね合いが難しいんだよね〜」
「それはー」

意味深に話しかける松田にどういう意味なのか とのだめは聞こうとしたが、その声は遮られる。

「…興味あるよね」
「ーえ?」
「ー あの千秋くんがこれから先、君のことをいったいどうするつもりなのか。
君がもし本当に才能のあるピアニストなら、ただ彼女としてそば に置くだけじゃもったいないだろう?。
誉めて伸ばして育てて、ーどうやったら自分の目標のために、有効的に扱えるかっていうことを、
彼 だって一度も考えたことがない訳じゃないと思うよ」
「なっ…!」

のだめはかっとなって言い 返す。

「先輩は…そんなことしまセン!
のだめのことを…そんな…物みたいに扱ったりなん か…。
…松田さん…どうしてそんな意地悪なコト言うんデスか…」
「俺は優しいよ」

半 分涙目になってキッと睨み付けるのだめに、松田は冷たく言い放った。

「君が将来、傷つかないように忠告してやっ てるじゃないか」

ーその時

ガラガラガラ。
またエ レベーターが大きく揺れた。のだめが叫ぶ。

「…また地震デス!」



千 秋はエレベーターのシステムサービスの人間が修理しているのを傍らで見守っていたが、
突然の揺れに思わず壁に手をついて天井を見上げ た。
余震だ。

…のだめ。ー大丈夫なのか…。



「う わあ!」
「ムキャッ!」

エレベーターの振動と同時に松田がいきなりのだめに抱きついた。
い きなり前方からタックルされるような形となり、のだめは思わずよろけた。
松田はのだめの胸に顔を押しつけ、まるで子犬の様に縋り付い て背中をガタガタと震わせている
…あ、そういえば…松田さん、地震が苦手でしたっけ…。
今度の揺れは余震だろ う、先刻のものよりも小さいがその割には長い。
のだめは震える松田を見て、えーと、と天井を見上げる。

そ れから…ゆっくりと松田の背中に手を回すと、ふわりっと抱きしめた。

「…大丈夫…大丈夫デスよ…」

頭 に頬をすり寄せ、子供をあやすかのように静かに背中をさする。

「…すぐに、この揺れはおさまりますから…」

… ドクン…ドクン…ドクン。

「…大丈夫デスよ…のだめがここにいますからね…」

… ドクン…ドクン…ドクン。

松田はのだめの柔らかい胸から伝わってくる心臓の鼓動を聞いていた。
ー 恐怖で押しつぶされそうだった気持ちがだんだん落ち着いて来るのを感じる。

まるで、母親の胎内に戻ったようなー そんな安心感。
松田は目を閉じて、そのリズミカルな鼓動と心地良い感触に身を任せた。


ー どれくらい時間がたったのだろう。

いつの間にか揺れはおさまっていた。

辺 りには沈黙だけが漂う。
地震で揺れなければこのように抱き合っている理由などないのだが、なんとなく離れがたくて
松 田はのだめにしがみついたままだ。

ーあー…このまま、押し倒しちゃおうかな…。
そんな不埒 なことを松田が考えていると。

「松田さん…」

のだめがポツリと呟い た。

「何?」
「…ヤバイです」

思いがけない言葉 に、松田は思わず身体を話して顔を見上げる。

「…ヤバイって何が…」

の だめは顔を真っ赤にしてもじもじとしている。

「…のだめ…トイレに行きたくなりましタ」


…  … … はあ?。


「…実は、ここに来る前から行きたかったんですケド…行きそびれちゃっ て」
「…おい」
「さっきから我慢してたんですが…もう限界デス」
「…いや、限界って言われ ても」
「どうしましょう…」

縋り付くように言われて、思わず松田は頭を抱える。

「そ んな…じゃあその辺でしたら?俺、向こうむいてるから」
「ムッキャー!!レディに向かってなんてこと言うんですかーっ!!」
「他 に言いようがないじゃないか!だいたい普通のレディはそんなこと言わないだろう!」
「ーだって、これは生理現象デス!しょうがない じゃないデスか!」
「だからそこでしろったら!君、変態だからそういうの好きだろう!」
「ムキャー!!な…なん てことを…」

もう、お互いに極限まであせっているので何を言っているのかわからない。
のだ めの顔が、みるみる赤くなっていく。

「…あ……やだ……もう……」

キュ イィィィィン。
突然、電源が入ったかのようにパネルのランプが点灯し、エレベーターがゆっくりと下り始めた。
の だめと松田は放心したかのようにその場に立ちつくしていた。
やがて、エレベーターは一階に着くと静かに止まった。
ド アが開く。

「大丈夫ですか!」
「ケガとかはありませんか!」

次 々と作業員達が声をかけてくる。
千秋は後ろの方から心配そうにエレベーター内を覗き込んだ。
のだめと視線が合 う。

「…のだめ…」

ゆっくりと近づいていき手を伸ばす。
ー 大丈夫かと言いかけた瞬間、のだめが勢いよく飛び出してきた。
千秋の手を取ることもなく目を逸らしたまま、するりとその脇をすり抜け ていく。
そしてバタバタと音を立てて、その場から走り去っていった。

ーのだめ?。

そ の横顔はとても紅潮していて、目には涙がたまっていた。
…いったい…どうしたんだ…。
ふと、考えたくない想像に 突き当たる。
ーまさか。

「千秋くん、ご苦労さん」

実 にタイミングが悪く、松田がへらへらと顔に笑いをうかべて千秋の方へやって来た。
千秋は俯いて、ぎゅっと拳を握りしめた。

「い やあー大変だったよ。なんてったって君の彼女ー」
「松田さん…いったい…のだめに何をしたんですか?」
「ー は?」

尋常ではない千秋の声の響きに、松田はきょとんと首を傾げる。

「と ぼけるな!彼女に何かしただろう!」

頭ごなしに怒鳴られて、ようやく千秋の怒りの原因が思い当たり松田は慌て た。

「ちょっ…ちょっと待ってよ、千秋くん、話を聞いて…」
「ーうるさい!!」



「は 〜、スッキリしましたネ!」

先ほどとはうってかわって爽快な気分で女子トイレから出てきたのだめは、
エ レベーターの前に大勢の人だかりが出来ているのに気づいた。
どうやら誰かと誰かがもみ合っているようだ。

「… あれ?なんでしょう…」



「ーどうも…本当に申し訳ありませんでし た…」

千秋は深々と松田に向かって頭を下げる。
そのついでに隣にいたのだめの頭も、ぎゅう ぎゅうと押さえつけて頭を下げさせた。
痛いデス!と抗議の声が上がったが無視する。

「いい よ、いいよ。ーまあちょっと痛かったけどね」

松田はハハハと笑ってそう言ったが、目は笑っていない。

「… すみません…」

彼の頬は、先ほど千秋から殴られたおかげで赤く充血している。
その箇所をの だめのハンカチで押さえつけながら、松田は言った。

「まあ、千秋くんの意外な一面が見れたことだし」
「…」
「貸 しにしといてあげるよ」

とんでもないところで一番嫌な人間に弱みを握られた千秋は、苦虫を噛みつぶしたような顔 になる。
怒りの矛先は当然ながら、のだめに向かう。

「だいたい…お前が紛らわしい行動とる から…」
「のだめだって必死だったんデスよ!。もう限界だったんデス」
「ーお前は、それでも女かーっ!」
「ハ イハイ、夫婦喧嘩はそこまでにして」

パンパンっと手を叩き、松田が二人の間に割って入った。
そ れからのだめに向き直ると、ハンカチをそっと手に握らせた。

「のだめちゃん…今日はどうもありがとう」

に やっと不敵に笑いかける。


「…君が抱きしめてくれた時の…あの胸の感触…忘れないよ…」


「ぼ へ!?」
「なっ!」

突然の松田の言葉にのだめは、身体を硬直させて耳まで赤くなった。
あ まりのことに千秋は口をパクパクさせたまま言葉も出ない。
松田はそんな二人を無視してふわっとのだめの両手を包み込む。

「あー、 もちろん君が《他人の弱み》を簡単に人に話したりする人間じゃないことを俺は信じてるよ」

さりげなく釘をさす。

「そ れじゃあ、また会おうね!」

呆然と立ちつくす二人に背を向けて、松田はホテルの出口に向かって歩き出した。

や がて、のだめが呪文が解けたように動いて、遠ざかる松田に叫ぶ。

「もう、二度と会いたくありまセン!!」

べーっ と舌を出す。
ハハハっと笑いながら松田は背中越しに手を振って去っていった。
むすーっとした表情で松田を見送っ ていたのだめは、ふと背後から異様な気配を感じてそ〜っと振り返る。

…そこには、こめかみに青筋を浮かべながら 口元をひくひくさせている怒りの形相の千秋の姿があった。

「……抱きしめた…ってのは…どういうことだ…」
「… え…えっと、その、あの」

…何も言えない。

「……後から、きちんと説 明してもらうからな…。…覚悟しとけよ…。」
「ぎゃ…ぎゃぽん…」




終 わり。