野田家にいらっしゃい
こ
こは福岡県の大川市。
千秋は実家に戻ったのだめを説得しに、はるばる新幹線に乗ってやって来ていた。
自分の渡欧
とともに、ヨーロッパにのだめを一緒に連れて行こうと考えていたからだ。
強制されることに拒否反応を示すのだめを、説得するのはかな
り難航すると千秋は思っていた。
しかし、予想に反してのだめはあっさり留学を決意していた。
千秋は思わずそんな
のだめを抱きしめてしまう。
ーこれはその後、千秋が連れて行かれた野
田家での話。
空いたコップに父親の辰男からどぼどぼと酒を注がれて、
千秋は深くため息をついた。
…どうしてまたここに戻ってきてしまったのだろう…。
3ヶ
月ピアノの練習をしなくて指がなまってしまったのだめの特訓をするために、一刻でも早く東京に
帰りたい千秋だったが、なんとなく流さ
れるままにまたこの野田家に帰ってしまっていた。
ーすると、いつのまにかこたつの上には寿司や魚の活け作りなど、宴の準備が整ってい
た。
(のだめの弟は、手作りの餃子まで作っていた)
とても、すぐに帰るとは言い出せない状況になっていた…。
「酒
が飲める人間が娘の彼氏とは嬉しかよね〜」
「オヤジも酒飲むの好きばってんね!」
嬉しそう
に餃子をつつきながら言うのは、のだめの弟の佳孝。
ちなみに彼の海苔餃子はなかなか絶品だった。
「娘
の彼氏と酒を酌み交わすのは、父親として最高の夢とよ!今夜は明け方まで飲もうばい!な、千秋くん」
ーもう、彼
氏と言われても否定する気力もない。
千秋はやけになったように、コップの酒をぐいと飲み干した。
辰男はこたつの
上の寿司に目をやると、うほっと嬉しそうな声を出す。
「ほ〜。今日の寿司は特上ね!。すごか〜!。いっつもは並
ばっかりやもんね〜。並だけに『涙』が出る。な〜んつって!」
「ギャハハハッ!」
「オヤジそれくだら〜ん!!」
「お
父さん、相変わらずつまらないダジャレ言ってますネ〜!」
「…」
ーハイテンションで突っ走
る家族に、千秋はどうにも入っていけそうにない。
頭がズキズキと痛む。
その時、佳孝がごそごそと何か冊子のよう
なものを取り出してきた。
「なあなあ、義兄さん、面白かもん見せてやるたい!」
「あー、そ
れ、のだめの高校の時の卒業アルバムじゃないデスか」
パラパラとページをめくる佳孝。
ふ
と、あるページに行き着くと、一箇所を指さして千秋に示す。
「これこれ、これが高校時代の姉ちゃんとよ」
写
真に写っていたのは、のだめが何人かの友達とともに笑っているショットだった。
今よりも長い髪を垂らし、セーラー服を着ているその姿
は…なかなか悪くない。
いつか「可憐で清楚」と言っていたどこぞの誰かの言葉がちらりと千秋の頭をよぎる。
「へ
え…」
「この頃、何故か姉ちゃんもてよったとよね〜。俺、友達から『お前の姉ちゃん紹介して〜』っていつも
言わ
れよったもん」
「よっくん、そんな話初めて聞きますヨ」
のだめが首を傾げながら言う。
「当
たり前たい!こんな変態な姉ちゃんじゃいうことがわかったら、俺が恥かくもんね!」
「ーひどか!!」
ギャー
ギャーと姉弟喧嘩を始めた二人を横目にしながら、千秋はため息をついてまた酒を口にする。
「ー
それで結婚式はいつ挙げると?」
にこにこと嬉しそうに言う祖父の善三郎。
千
秋は口に含んだ酒をブーッと吹き出す。
「留学する前に挙げるんだったら、早めに式場押さえとかんといけんね。ど
こが良かろうか…やっぱマリトピアかね」
「…ちょ、ちょっと…」
祖母の静代の具体的な話の
詰め方に千秋はあせる。
「ーあへ〜。のだめ白いウェディングドレスが着たいデス…」
「まか
せとき!もちろん千秋くんは白かタキシードやろかねぇ」
「もちろんデス!あとーお色直しは春らしくピンク系のドレスで…」
「白
無垢と色打ち掛けも、かかせんばい!」
「あ、あの…」
のだめと母親の洋子は異様なほど盛り
上がりを見せた。
先ほどこの最強ユニットに押さえつけられ、サイズを無理矢理測られた千秋は思わずぞっとする。
「い
や、結婚とかそういう話以前に、つき合ってないですから!俺達!!」
「先輩〜。もう面倒くさいですから、東京に帰る前に式あげちゃい
ましょうか〜」
「人の話を聞け!お前は!」
思わず、声が大きくなる。
ー
やばい…。…このままではこの変態の菌床に取り込まれてしまう!。
その時。
「あ、そうだ。
千秋くん、お風呂沸いてるばってん、先に入りんしゃい」
洋子が思い出したかのように言う。
千
秋はほっと救われたかのように息をついた。
この妄想のループから逃れられるのであれば、なんだっていい。
「は
い…では、そうさせていただきます」
「着替え、脱衣所に置いてあるけんね」
「すみません」
「じゃ
あ、恵、あんたも一緒に風呂に入る準備しんしゃい」
………は………?
「…
あの…」
「あー、うちは夫婦は一緒に風呂に入るごとなっとっとよ。家族も多いから回転良うせんといけんし、
夫婦
の絆も深まるけんね」
「ーいや…その…」
「遠慮せんでよかよか!もう公認の仲じゃけん!」
はっ
はっはと高らかに笑って度量の大きい父親な所を見せる辰男。
さすがののだめも赤くなっている。
「は
うん…先輩と一緒にお風呂…」
「そこで妄想するな!」
ー駄目だ!そんな既成事実を作ってし
まっては…。
「…せっかくですけど、今日は風邪気味ですので…早めに寝させていただきます」
「そ
う?大丈夫と?ーじゃあ、昨日の奧の客間に布団敷いてあるから」
「…すみません。それじゃあ、お先に失礼します」
千
秋は頭を下げて茶の間を後にした。
廊下の奥の突き当たりに、昨日寝かせてもらった客間がある。
するすると障子を
開ける。
そこには、ぴったりと並べて敷かれた二組の布団と枕。
ー
千秋は、そのままピシャリと障子を閉めた。
くらくらする頭を抱えながら、廊下を戻りトイレの前を横切ると。
「あ、
千秋くん」
トイレのドアは全開に開かれていて…中から善三郎が用を足しながら背中ごしに振り返る。
「便
所、使う?」
「い、いえ!別に!」
慌てて前を通り過ぎた。
ーなんで、
トイレのドアを開けたまましているんだ!
茶の間に青ざめて戻った千秋を、野田家の面々が迎える。
「ー
どうしたと?具合悪いから寝るんじゃなかったと?」
「…すいません…あの布団はいったい…?」
洋
子は口に手を当ててぷぷぷっと意味ありげに笑った。
「恵の布団も一緒に敷いてやったとよ。昨日はバタバタしてい
てそれどころじゃなかったけんね〜。
大丈夫!奧の部屋だから、声は聞こえんとよ〜」
「いや…そうじゃなくて…」
「久
しぶりの再会じゃけんね〜。ゆっくり二人でつもる話もあろうばってん」
「はう〜ヨーコ、気が利きますネ!」
頭
がズキズキしてきた…。
…この家族はなんだ?。無理矢理にも俺とのだめをくっつけようとしているのだろうか…?。
千
秋は、こたつの中に座り直した。
「あの…せっかくですので、まだ皆さんと飲みたいと思います…」
「そ
うね!いや〜義兄さんが引っ込んでしまって、寂しいと思っとったとよ!」
佳孝が嬉しそうに笑う。
千
秋はこっそり隣ののだめに囁く。
「おい…お前のじいさん…トイレのドアが開けっ放しだったぞ…」
「あー、
うちの家族の男性は全員、開けっ放しでするんですヨ〜。やっぱり、開放感があるんですかネ〜」
「…」
「あ、そう
だ、納豆食べようっと」
のだめは、鼻歌を歌いながら台所に立ち、冷蔵庫の扉を開ける。
「納
豆、納豆〜♪。ーあれ?」
冷蔵庫から納豆のパックを出して、洋子を呼ぶ。
「ヨー
コ〜。この納豆、賞味期限が1ヶ月前ですヨ〜」
「あー大丈夫大丈夫。納豆って、もとから腐ってる物だから、いつまででももつたい!」
「そっ
か〜。そうですネ〜」
ー違うだろ…!それは…!
千秋は心の中で百万回突っ込みを入れる。
…
濃い…。…濃ゆすぎる…この一族…。
ーこうなったら、ここでとことんねばって、こたつでごろ寝するしかない。
千
秋は諦めたように、コップを手に取った。
ま
ず最初に善三郎と静代が寝室に引き上げた。
年寄りの朝は早いのだろう。
その次に、早朝から仕事があるからと辰男
が腰を上げ、チャットの時間だからと佳孝が部屋に消えていった。
最後までガチャガチャと台所で洗い物をしていた洋子も、風呂に入りに
いったようだ。
茶の間には千秋とのだめだけが残された。
「ーほら、のだめ、まだ飲むぞ!」
「ほ
へ〜、のだめもう飲めません…。先輩、どうしてそんなにぐいぐい飲んでいるんですか?」
「…誰のせいだと思ってるんだ」
ー
こんな魔物の巣窟みたいな所に素面でいられるか。
「はう〜」
のだめは
息を吐きながら、こたつの上に顎をのっけた。
そのまま、千秋を見てふふっと笑う。
「…
でも、…のだめ…なんだかすごく嬉しいデス…」
「…何が…」
「ーこうやって…また先輩と会うことが出来て…」
「…」
「…
もう、会えないんじゃないかって…思ってたから…」
「…」
千秋は黙っ
たままコップの中の酒を見つめた。
透明な液体の表面に、天井の電気が映っていてゆらゆら揺れていた。
「ー
お前、…どうして留学することを決めたんだ…?」
千秋はずっと疑問に思っていたことを口に
する。
ーあんなに嫌がっていたのに。
「ーどうし
てって…言われても…何ででしょう…」
のだめは、こたつに入ったままごろんと仰向けに寝こ
ろんだ。
電気が眩しいのか、目を右手の肘で覆う。
「ーなんだか…こっ
ちに帰ってきてから…考える時間がたくさんあって…いろんなこと考えて…」
「…」
「…今までの…いろんなこ
と…」
「…」
「…いろいろ…考えてるうちに…訳がわかんなくなって来ちゃって。…でも…一つだけわかったことが
あって…」
「…何だ」
「…のだめは…何があっても…本当に…ピアノが好きなんだって…思っ
たんデス」
のだめはふわあと欠伸をする。
だいぶ意識が朦朧としてきた
ようだ。
「ーそれから、あと一つ…」
「…?」
「……
千秋先輩……大好きです…」
ふわっと笑って目を閉じる。
ーすうっと息
を吸う音がしたかと思うと、そのまま身動き一つしない。
部屋に沈黙が漂う。
「…
おい」
次の言葉を待っていた千秋は、しびれを切らしてのだめに声をかける。
反
応がない。
ー見ると、のだめはすうすうと寝息を立てながら、完全に夢の世界へと行っていた。
千秋の体ががくっと
崩れる。
「…あのなあ…」
…
人を焦らすだけ焦らしやがって…。
千秋はそっとのだめの顔を覆っていた腕を外した。
急
に光が当たったことで、のだめは眩しそうに顔を歪めたが、それも一瞬のことだけですぐに安らかな寝顔になる。
幸せそうに微笑みを浮か
べている寝顔。
千秋はなんとなく…その寝顔をずっと見ていたくなって、一度こたつから出た。
それからもう一度の
だめの隣にもぞもぞと入り直し、横に転がって畳に頬杖をついてじっと眺めた。
『ーもう、会
えないんじゃないかって…思ってた…』
先ほどののだめの言葉が頭をよぎる。
ー
そうだな…のだめ…。
俺も、同じ事を思っていたよ。
千
秋は寝ているのだめの手を取った。
その女性にしては大きい手を開き、ゆっくりと指で掌をなぞる。
…
もう、この指から奏でられるあの演奏を一生聴けないかと思っていた…。
残された懐中時計を
握りしめた時の、どうしようもない絶望感と言葉にならない苛立ちを思い出した。
どうしてこんなにもこいつに執着してしまうのだろう。
今
までそのような気持ちを他の誰かに抱いたことは一度だってなかった。
ーあの彩子にだって。
どうしてこいつの音で
なければならないのか。
こんな辺境くんだりまでやって来て、こいつを共に海外へ連れて行こうと躍起になるのは何故なのか。
千
秋はポツリと呟く。
「…のだめ。…俺も…好きだよ…」
の
だめが起きている時には絶対に言えないような言葉を吐く。
「…
だけど……ごめんな。…俺は絶対にお前には恋愛感情を持たない…」
そ
のことをいつからか、千秋は心の中で決めていた。
今でさえこんなにも執着しきって、普段の彼では考えられないような行動を起こしてい
るのだ。
ーもしも。
もしも、自分がのだめに恋愛感情を抱いていると確
信してしまったら。
もしも、二人の気持ちが通じ合ってしまったら。
ー自分の心は完全に彼女
に囚われてしまうだろうと思った。
…いつか、のだめも自分から離れて遠いところへ行ってしまう。
そ
のことも千秋には確信があった。
世界へ飛び出し、遙か遙か遠く千秋の手の届かない所へ。
も
しもその時、彼女に依存しきっていたならば、彼女だけを信じ愛し続けているとするならば、
ー自分の心は粉々に砕かれて、もう二度と立
ち上がれなくなってしまうだろう。
最初からいずれ離れていくであろう相手に心を動かすことは、絶対にあってはならないことだ。
ー
もう、誰か一人を必要として、期待して、その帰りを待ち続けていくことには耐えられないと思った。
「…
だから……ごめん…」
のだめはムニャムニャと寝
言のようなことを言っている。
「ーまた…逃げて
るって言われるだろうな…」
千秋はのだめの指を
上下に撫でさする。
指の先から根本の方まで、ゆっくりと愛撫するように。
それから千秋は表
情を改める。
深く真剣な眼差し。
「…
だけど…のだめ。…俺は、お前を必ず世界へ連れて行く…」
例
え海外に行けても、自分達二人が成功するなんてそれはだれにもわからない。
海外での生活は今まで以上に波瀾万丈になることだろう。
ー
しかし、自分とのだめの二人ならきっと乗り越えて行けるだろうと思った。
「…
俺が、お前を高いところにまで絶対に引っ張り上げてやる…。だから、俺様の後ろを死ぬ気でついて来い…」
「ー
これは命令だ」
へにゃあとのだめが寝ながら笑
う。
「…その鯛焼きはのだめのですヨ…あー…わさびはつけすぎないで
くだサイ…」
「…いったい何の夢見てるんだよ…」
千
秋は苦笑する。
「相変わらず色気のない…」
ー
それから体を起こすと、両脇に手をついてのだめに覆い被さった。
ゆっくりと顔を近づけて行く。
唇
と唇が触れ合うまであと少し…の距離に近づいた時。
ーガラッ。
戸
が開けられて善三郎が何故か股間を押さえて入ってきた。
「取り込み中、すまんの〜ちょっと
便所に行かせてくれ〜」
ー千秋はのだめの上で硬直したまま動けない。
そ
んな二人の脇をすいっと通り抜けながら善三郎はトイレへと行く。
「…まったくじいさんはこ
らえ性のない…」
「年寄りは辛抱きかんとよ」
「…後、少しやったとに…」
「残念ばい…」
い
つの間にか野田家の家族が全員、戸の所に集まっていた。
どうやら皆して先ほどからこの部屋の様子をうかがっていたようだ。
ジャー
ゴボゴボゴボ。
トイレから水の流れるような音がして、善三郎が戻ってきた。
「い
や〜すまんすまん」
「じいさん、はよこっちゃ来い!」
「ーそれにしても…年を取ると、がばい良かもの見られるた
いね〜」
「お義母さん、この調子じゃ、ひ孫の顔を見られる日もきっと早かよ〜」
「ばい〜」
「佳
孝!子供はさっさと部屋に戻っち寝らんか!」
「…もう、大学生やち子供じゃなかとよ。それにパソコンするよりよっぽど面白かもん!」
「あ
〜なんだか大も、もよおして来たばい…」
「ーまったくじいさんは…」
そ
れから、全員して申し合わせたかのように、千秋を見る。
「ーあ、こち
らのことはどうぞ気にせんと続けて」
千秋はプルプルと体を震わせた。
「ーっっ
出来ませんっっ!!」
真夜中の家に千秋の叫び声が響き渡った。
ー
次の日、東京へ発つのだめと千秋を見送りに、全員が玄関まで来ていた。
「恵、体に気をつけてね」
「ハ
イ。また、連絡しマス。留学する前にはも一度帰りますネ」
「………お世話になりました」
「千秋くん、恵のことを
よろしゅうね。ーまたいつでもいらっしゃい」
家族全員のにやにやした意味ありげな笑いに千秋は耐えられない。
「今
度は絶対に邪魔せんから」
「ーっ!!」
「…何の話デスか?」
不思議そ
うに首を傾げるのだめ。
「ーいいからっ!ほら、行くぞ!!」
ぐいっと
のだめの手を強く引っ張る千秋。
後ろを見ながら手を振る。
「じゃあ、行ってきマス〜」
手
を振って見送る野田家の人々を名残惜しげに振り返りながら、のだめは言う。
「皆が先輩を気に入ってくれて、本当
によかったデス!。先輩、また来てくださいネ」
千秋は顔を赤くしたまま叫んだ。
「ー
二度と来るかっ!。こんな変態屋敷っ!!」
「…ぎゃぽ?」
終
わり