『の だめの伝言』




(このお話は、リコが運営している サイトで3、4万Hit記念で連載したお話にの番外編となっております。)



『松 田さん、約束します。』

『この先、何があっても俺はのだめを泣かさない。』


あ の約束をしてから、早半年。

「もーいいデス!!先輩のバカーッ!!」


の だめが、泣きながら千秋の部屋を飛び出した。


「あ…おい…っ!」


あ の約束以来、千秋は初めてのだめを泣かせてしまった。


のだめが泣いた原因は、のだめが大切 にしている一つの指輪。

それを今でも鎖に付けて持ち歩き、何かに行き詰まった時には握りしめているのに、千秋が 文句をつけたから。

些細な、しかし恋人としては重大な事。


そ の指輪は、かつてのだめの恋人であった松田が、のだめに贈ったものだったのだ。


『自分とい う恋人がいるのだから、昔の恋人からのプレゼントなんていつまでも持っていないで欲しい』

それが千秋の言い分。

『こ れはのだめの大切なお守りデス。手放すことなんかできマセン』

それがのだめの言い分。

お 互いに譲れぬ主張は、いつの間にか口喧嘩にまで発展した。


そして、冒頭に戻る訳である。


の だめが部屋を飛び出してすぐ、千秋は後悔した。


彼との約束を、破ってしまった。

千 秋にとって、松田とは最も尊敬できる人の一人だった。

のだめを通して触れた温かさ、深い愛情。

あ れ程まで他人に心を閉ざしていたのだめが、唯一信じていた人。


(泣かせないって…決めたの にな)


もし、泣かせてしまったら…もし、のだめを泣かせる事があったら、俺はそれ以上にの だめを笑わせます。のだめは、俺が守ります



自分で言った言葉を心の中 で反芻して、深呼吸をひとつ。


『ごめん、言い過ぎた』


そ う言って謝ろう。

理不尽だけど、泣かせるよりはずっと良い。



そ う思って、自分の部屋を出た。


コンコン

「のだ め」

だめの部屋の扉をノックしても、誰も出なくて。

何となく違和感を 感じてのだめの部屋のドアノブを捻ると、あっけなくドアは開いた。

「のだめ…?」


の だめの名前を呼びながら、室内に入る。


やはり、そこに彼女の姿はなくて。

バ スルームの扉を開けると、そこにあったのはシャワー、トイレ、そして洗面台。

その洗面台を目にした千秋は、文字 通り固まった。

洗面台の、鏡。

そこには、オレンジ色に近い色味の口紅 でこう書いてあったのだ。



『ジッカに帰らせて頂きマス!!』


そ の口紅(ルージュ)の伝言を見た千秋の脳裏に、あの有名なアニメ映画の主人公の可愛らしい顔が浮かんだのは言うまでもない。





ピ ンポンピンポンピンポーン!


「はい…うわっ!」

激 しくチャイムを連打され、何事かとドアを開けた松田の胸に、何かが飛び込んで来た。

「のだめ、やっぱりあの人嫌 デス!!幸久さんの側にイマスーっ!!」

うわあああんっと胸に抱き着いてくる、半年前に別れた恋人。

新 人ピアニスト、野田恵。

背中に酷い傷を負い、現在音楽活動を自粛しているが、フランスではアイドル並の人気があ る。

「の、のだめちゃん…取り合えず中に入って…」


松 田は、元恋人であるのだめを今でも愛している。

それは恋というより娘を溺愛する父親の愛情に近いものだが。


ぽ んぽん、と軽く頭を叩いてやり、松田はのだめを部屋に入れてやった。


「適当に座ってていい から、座ってて。な?」

松田はのだめにホットチョコレートを作ってやるために冷蔵庫からチョコレート出して、溜 息をついた。

のだめの大好きなホットチョコレート。

松田は昔、のだめ が悪夢にうなされて起きる度に作ってやった。


今思えば、まるで子育てのような、ままごとの ような恋愛だった。


しかし、その時の『彼女を守りたい』という気持ちに嘘はなかった。


守っ て、

愛して、

癒してやりたかった。



突 然、目の前に降りて来た翼を怪我した天使を。



松田は携帯電話をポケッ トから出すと、千秋にひとつメールを送った。

『のだめちゃんがうちに帰って来たぞ』

奴 ならこれだけで分かるだろう。

携帯電話を閉じたその時、松田の背中に柔らかな衝撃が襲った。


の だめが、抱き着いてきたのだ。


「…のだめ、ホントは分かってるんデス…」


ぽ つっと呟くのだめに、松田は手を止めた。


「のだめだって、もしセンパイが前の彼女からも らったモノ大切にしてたら、ヤデス…」

その言葉に、松田は今回ののだめの行動の原因を悟った。


「ま だ、持っててくれてるんだ…」


ほわりと、背中にあたる温もりとは別の温かいものが松田の胸 に込み上げてきた。



三年くらい前。

の だめと付き合い出して、間もない頃。

二人で露店のたくさんある通りを歩いていて、偶然目についた指輪。


『ふ おーっ可愛い!』

シンプルな指輪。

飾りは、ピンク色のキラキラした ビーズで。


こんな安物に目をキラキラさせる女は初めてだった。

ま あ、欲しがってるなら…と軽い気持ちで買ってやったそれを、のだめは驚く程喜んでくれた。

『ありがとうゴザイマ ス!大切にシマス!お守りにシマスね!』

それ以降、のだめはその指輪を大切に大切に扱ってくれた。


ピ アノを弾くからと指にはめる事は少なかったが、鎖に付けて毎日肌身離さず持っていてくれた。


そ してそれは今でも続いているらしい。


「のだめにとっては、1番大切なお守りなんデス…もち ろん、センパイがくれたハートのルビーだって大好きだし大切にしてマスけど…」


大切にす る、土俵が違うのだ。

のだめにとって松田は、もちろん恋人だったけれど、それよりも『1番信じられる人』だっ た。


父親や母親に対するのと近い愛情。


もっ と、近いかもしれない。


のだめが松田から貰った指輪を大切にするのは、身内から貰ったもの を『お守り』にするのと同じだ。

それを理解するのは千秋には難しいかもしれない。

二 人の関係は、誰が見ても特殊だったから。


それでも。


松 田はのだめの肩をそっと両手で包み込んだ。
背中には、触れられないから。


お 互いを大切にしていた温かい日々とその優しい気持ちに、嘘なんかなかったから。

恋じゃなくなっても、大切に思っ ている。


「大丈夫。あいつはそのうち血相変えてここに来るよ。『のだめー!』ってな」


松 田がそう言った直後。


ピンポンピンポンピンポーン!

再 び、部屋のチャイムが連打され、松田は苦笑した。

「のだめー!」

勝手 にドアを開けて飛び込んで来た男に、松田は呆れたように溜息をついて。


「…な?」

の だめと目を合わせ首を傾げると、彼女は一瞬だけ首を傾げて。

そして、やっと微笑んだ。


リ ビングでふうふう言いながらのだめが一生懸命ホットチョコレートを飲んでいるのを尻目に、キッチンでは二人の男が話しをしていた。


「せっ かくだから昼飯食っていけよ」

そう言って棚からパスタの入った容器を取り出した松田に、千秋は気まずそうに返事 をした。

「はぁ…」


「そこの棚に鍋が入ってるか ら、お湯沸かして」

「はい」


千秋が言われたまま に鍋にお湯を沸かしている間に、松田はシーチキンの缶を開けた。


手際よく油を切っている松 田に、千秋はぽつっと聞いてみた。


「すみません…」

「ハァ? なんだいきなり。気持ち悪りぃな」

「約束したのに、のだめを泣かせて…」

「あー、 こういうのは泣かせた内に入らないから、良い」

そう言ってふいと視線を手元に戻す松田に、千秋は驚いた。


「お 前とのだめちゃんは、全く違う人間だ。理解し合う為にぶつかる事はあるだろ」


お前が、少し 羨ましいよ。

口には出さず、松田は呟いた。

自分たちは、理解し合おう とする以前に感じ合っていたから。


魂が近すぎて、想いの形が全然違った。


「お 前が思うような事はこの先もないから、安心しろ」

千秋の不安を見透かしたように松田は言った。

「幸 久さん!のだめ手伝いマス!」

嬉しそうにリビングに飛び込んできたのだめに、松田は笑って振り返った。

「あ りがと。じゃ、これ洗いながら切って」

のだめにサラダ菜を渡して、松田は微笑んだ。


昼 食を作っている間、松田とのだめは楽しそうにじゃれ合っていた。

肩をぶつけあったり、水を飛ばしあったり。

(子 供かよ…)

楽しそうにはしゃぐ二人を前に、千秋は溜息をついた。



松 田のマンションからの帰り道。


「お前さ…何で実家が松田さんの所な訳?」

の だめと手を繋いで歩きながら、千秋は聞いてみた。

恋人と喧嘩したからと言って元カレの部屋に行く理由が分からな い。

「…1番、身近な人だからデスカネ?」

「…ふーん」
(じゃ あ、俺の存在って何?)

複雑な思いだ…。
ふと空をを見ると、燃えるような夕日が目に染み る。

夕焼けが懐かしいのは、日本人の特徴だろうか。

その時、隣を歩い ていたのだめが鼻歌を歌い出した。

曲はやはり夕焼け空の定番、『赤とんぼ』。


「の だめ昔、『おわれて見たのはいつの日か』…って所、夕日をバックに赤とんぼの大群に追い掛けられたのはいつの日かっていう意味だと思ってマシタ」

「ど ういう解釈だ…」

ふとのだめは足を止め、夕日に向かって手をのばした。

「キ レーですね」

そんな無邪気な仕種をするのだめの横顔が、夕日に照らされて。

す ごく綺麗に見えた。


(ああ、そうか…)

『これは のだめの大切なお守りデス。手放すことなんかできマセン』

(『お守り』か…)


あ の人とのだめの関係、俺とのだめの関係。


あの人の存在は、のだめの身内で、俺はのだめの恋 人。


ただ、それだけの事。



こ んな単純な事。


「…帰るか」

千秋は、もう一度の だめの手を握り直した。


繋いだ手は、柔らかくて、温かかった。





end