「え……
と、ええと、それは交際の申し込みデスか?」
のだめがぱちくりと目を瞬かせながら言う。
「そ
うだね、そういうことになるかもね」
相変わらず菊池の表情は読めない。
「は
うう……そんなこと言われたのって生まれて初めてだから、なんだか感動しちゃいますネ!」
「そうなの?のだめちゃん可愛いから周りの
男がほっとかなさそうだけどなあ」
「そんなこと全然ないですヨ〜」
「案外、告白されてても本人が気づいてなかっ
たりして」
「それはないデス」
のだめが笑い、菊池も声を合わせて笑う。
「ー
で、どうする?僕とつき合ってみる?」
あくまでも軽い口調だが、菊池の視線はまっすぐにのだめに向いていた。
の
だめは菊池に向き直ると笑って言った。
「駄目ですネ。菊池くん本気で言ってないから」
菊
池はぽりぽりと頭を掻いた。
「そうかな?」
「ハイ。そうデス」
「本気
じゃない訳じゃないよ。あわよくば隙があればこのままなだれこもうかという……」
「よけい駄目じゃないデスか」
の
だめはくすくすと笑う。
「やれやれ」
菊池は苦笑いをして肩をすくめ
た。
そしてふと表情を改める。
「ー千秋くんは、なかなか難しいと思うよ」
「………」
「あ
れは難物だよ……それはのだめちゃんもわかってるんでしょう」
「………」
のだめは黙ったま
ま眼下で輝いている夜景を見つめた。
ゆっくりと口を開く。
「……先輩の……」
「え?」
「千
秋先輩の心は……すぐそばにあるようでとてもとても遠いところにあるから……」
「………」
「ずっ
とずっと音楽だけを追い続けて……音楽だけを見つめて……音楽だけを愛して……」
「………」
「先
輩の中にある音楽という存在に勝つのは並大抵のことでは出来まセン。
そもそも勝つ勝たないの以前の問題デス……。
……
何故ならのだめが目指しているものもそこにあるから」
「………」
「先
輩が音楽を追い続ける背中をのだめも必死で追いかけなければいけまセン。
………走って、走って……全速力で追いかけても、全然差が
縮まらないけれども……それでも途中で立ち止まる訳にはいかないんデス。
少しでも気を抜いたら置いて行かれて二度と追いつけないよ
うな気がするから……」
「………」
「だ
から……のだめは……走って……走って……息が切れても……つまずいて転んでも……追いかけて……追いかけて……」
「の
だめちゃん……」
菊池がのだめに近づいてその肩に手を置こうとしたときー。
「だ
からその男はどこにいるんだ!直接話をつける!」
「ちょっと……そう興奮しないで……」
ガ
サッと角の茂みが揺れて言い争う男女が出てきた。
外灯の光に照らされてお互いの顔が認識出来る。
女性の顔には見
覚えがあった。
「………
亨!」
「いずみちゃん……?」
のだめはあっと声をあげかけて慌てて口を押さえる。
確
か……彼女は、菊池の前の彼女じゃなかっただろうか。
彼を追っかけてわざわざ九州までやってきたと言っていた。
い
ずみの隣に立っていたのはいずみより少し年上くらいの背広を着た真面目そうな男性であった。
その男はいずみの視線の先にいた菊池に目
をやる。
「……亨って……例の……?」
いずみは顔をそらせたまま何も
答えない。
男は唇の端をくっと上げて皮肉な笑みを浮かべながら菊池に近づいた。
「……初め
まして。私はいずみの夫です。……妻がいろいろ世話になってるみたいで……」
菊池は内心の驚きを表情に出さない
ようにつとめながら心の中で呟いた。
まいったな……。
これは……なかなか、好ましくない展
開になっているみたいだ。
「……最近、彼女の態度がおかしくてね。
いろいろと調べさせた
らどうやらつき合っている男がいるらしい。
男の方は面倒ごとを恐れてそうそうに彼女に見切りをつけたらしいけど……彼女の方は未練
たらたらでね。
……急に友達と旅行に行くだなんて出掛けたもんだから怪しいと思って後をつけて来たら……案の定だ。
こんなところで密会だなんて……」
ガサッ。
男が足を一歩足を踏み出すと足下の草が鳴った。
「ど
うでしょう?。結婚している身でありながら他の男にうつつを抜かすなんて許されることだと思いますか?」
「………」
菊
池はうっすらと冷や汗をかく。
男の言葉はもの静かではあったが、その目は尋常ではない怪しげな光をたたえており、そのことがいっそう
不気味な雰囲気を醸し出していた。
「……ねえ、どう思います?
私は自分でいうのもなんな
んですけど、いい夫なんですよ。
お金には不自由させないようにと……洋服も宝石も外車も……彼女の望むものは全て買い与えて自由に
お金を使わせてますし……。
……いったい……何が不満なんでしょうね……。」
男はゆっく
りと菊池に近づいて行く。
いずみはただならぬ気配に男の服の袖を掴んだ。
「ーちょっと……
あなた……何をする気……?」
「……離せ」
男はいずみの手を無造作に振り払うと、ポケット
から何かをごそごそと取り出した。
小型のナイフが外灯の光を受けてキラリと光った。
お
い……マジかよ。
菊池は知らず知らずのうちに一歩……また一歩と後ずさりしていく。
カサッ
と音をたてて足下の小石が転がり落ちていった。
どうやらすぐ後ろは下の庭園に下りる階段になっているようだ。
ど
うにかこの場を切り抜けないと……と思っていたら、のだめがすっと菊池をかばうように前に出た。
「……落ち着い
てくだサイ」
「誰ですか?あなたは」
「菊池くんの友達デス」
「……なるほどね。新しい彼女
ができたから私の妻とは縁を切ったという訳ですか。……もてる男はやることが違いますね」
男はナイフを構え直す
と今度はのだめに向かって突進してきた。
「ーみんなで私をバカにしないでください!!」
「危
ない!のだめちゃん!!」
菊池は目の前に迫ってきたナイフの切っ先から、のだめをかばおうと覆い被さった。
ズ
ルッ。
そのまま足を踏み外し、菊池はのだめを抱えたまま階段を転がり落ちる。
のだめの視界
がぐらりと揺れて菊池の背中ごしに星空が見えた。
二人は回転しながら転がりコンクリートの階段の中腹に作られた踊り場でようやく止ま
る。
「きゃああああ!!」
女性の悲鳴があがった。
多
分、いずみの声であろう。
倒れていたのだめは意識朦朧としながらも、体にケガがないかどうか手足をそおっと動かしてみた。
か
なりの高さから転がり落ちたにも関わらずにとりあえずは自分はケガ一つしていないことにほっとして息を漏らす。
そこで自分の体の下に
あるのが固いコンクリートでないことに気づいた。
横たわった菊池がううっと苦しそうに呻く。
菊池がのだめを抱き
抱えて自らがクッションになり、落下した衝撃から守っていたのだ。
のだめは菊池の肩を揺さぶった。
「……
菊池くん!。菊池くん!大丈夫デスかっ!!」
「そ
れにしても、こんな大事な話をしているのにのだめはどこに行ったんでしょうね?」
大河内と峰と清良が総譜を買い
に大分市内の専門店に出掛けて行ってからしばらくがたつ。
演奏会でR☆Sオケのメンバーでもないのだめにピアノを弾かせる……という
千秋の発言に、一部苦情があがっていたが(主に高橋と真澄)。
時間もないことでもあるし、結局は指揮者である千秋の決めたことだか
ら……というようにまとまりかけていた。
「のだめちゃん部屋にもいないみたいよ。私、今タオルを取りに戻ったけ
ど誰もいなかったから」
舞子が障子を閉めながら言う。
「そういえば
さっきから菊池くんもいないわね。二人ともどこに行ったのかしら」
そう言ったのは萌。
「………」
「………」
何
故か黙り込む千秋と黒木。
お互いに考えていることは一緒のようだ。
「あー菊池はあの女を
追っかけていったんじゃない?僕にはその気持ちは理解できないけど、今頃あいつを口説いている真っ最中かもね」
高
橋がせせら笑うように言う。
「………」
「………」
「……千秋く
ん……。探して来た方がいいんじゃないの……?」
「なっ……黒木くん、なんでそんなことを……」
「いや……で
も……心配じゃない?」
「………」
またしても黙り込む二人。
その時
だった。
ピーポーピーポー。
遠くから救急車のサイレンの音が響いて来
たかと重うと、この旅館の近くでピタリと止まった。
「誰か急病人かしら」
「さあ……」
そ
の時、部屋の障子がガラリと急に開け放たれる。
そこに立っていたのは息を切らした仲居である。
「た……
大変です!。お客様達のお連れの方が………」
全
員はタクシーに乗り込み指定された救急病院に向かった。
時間外ということもあり通常入口は閉じられていたため、裏に回り夜間受付に先
ほど救急車で運ばれた怪我人の居場所を聞いた。
処置室の前まで行くと、ちょうどのだめが治療を終えたらしく部屋から出てきた。
う
なだれた様子ののだめは皆が駆けつけた気配に真っ青な顔を上げた。
顔やむき出しの手足には絆創膏が貼られておりよく見ると浴衣がかな
り乱れて土や枯葉などで汚れていた。
「いったいどうしたの?のだめちゃん」
薫
がのだめに近づきその体をそっと支えて廊下の椅子に座らせる。
「……菊池くんと二人で階段から落ちてしまっ
て……」
そうして顔をくしゃくしゃに歪める。
「階段から!?」
「そ
んな……」
「それで……お前……大丈夫なのか」
心配そうにのだめに聞く千秋にのだめは小さ
くハイと答える。
「菊池くんがのだめを庇ってくれたのでのだめはすり傷ですみました。……でも……菊池くん
が……」
「……菊池が?」
「よくわかりませんが…すごく左足を痛がってて……今、先生に診察してもらってます」
千
秋は大きくため息をついた。
「なんだってまたそんなことに……」
「それは……」
千
秋の問いかけにのだめは口を開きかけてまた閉じる。
菊池は救急車で運ばれる直前に苦しそうな息でのだめに『悪いんだけど……二人で
誤って階段から落ちたことにしてくれない?』と言ったのだ。
騒ぎに紛れていずみとその夫はいつのまにかいなくなっていた。
警
察沙汰にでもなれば事態が深刻になり、R☆Sオケにも迷惑がかかると考えたのだろう。
黙り込んで視線を逸らすのだめに千秋が不審気な
視線を送る。
その時、隣の処置室の扉が開いて、白衣の医師が姿を見せた。
「菊
池さんの関係者の方ですか?」
「友人です」
「そうですか。どうぞお入りください」
皆
は言われるままにぞろぞろと中に入る。
考えてみれば皆、浴衣姿のままだった。
すぐそばの白いベッドに菊池が寝か
されており、千秋達を見るとやあと弱々しく手を上げた。
医師は机の前に貼られたレントゲン投影図を指さして言った。
「ど
うやら階段から落ちた際に左足首を骨折なされたみたいですね。場所はここです」
医師が示した骨の写真の場所には
うっすらと黒い影が映っていた。
「骨折……」
「でも幸い腓骨骨折ですので手術の必要はあり
ません。
とりあえず明日整形の担当医師が来たらギブスで固めるなどの処置をしてもらいます。
今日は入院です
ね。ご家族の方は……」
「僕たちは旅行でこちらの方へ来ているので、実家は遠方にあります」
「そうですか。じゃ
あご家族に連絡をとっていただいて入院の手続きをしていただけますか?。
それが済んだら今日のところは帰っていただいても結構なの
ですが……」
「あの……」
のだめがそっと手をあげた。
「今
晩……菊池くんに付き添っててもいいデスか?」
「それは、もちろんかまいませんが……」
皆
が一斉に注目する。
「のだめちゃん……」
「菊池くんはのだめのせいで……ケガしたか
ら……」
「そんなことないよ」
菊池が苦しそうにでもはっきりした口調で言う。
「こ
れは……ボクが悪かったから……自業自得だよ。のだめちゃん、巻き込んじゃってごめんね」
「でも心配だから」
の
だめは俯いたまま首を横に振る。
こうなったらテコでも動かないだろう。
「でも、のだめちゃ
ん一人だけに付き添いをさせる訳には……」
「大丈夫デス。ちゃんとやれマス。
……それに、みんなは明日の演奏
会があるじゃないデスか」
「あ……」
皆、この騒動にすっかりそのことを忘れていたらしい。
「そ
ういえばそうだった……」
だけどこんな状態で演奏会なんかできるのだろうか?
ためらうメン
バーを見ながらのだめは力強く言った。
「大丈夫デス。菊池くんのことはのだめに任せてくだサイ。
入院の手続きも家族への連絡も付き添いもしっかりやりマス。
明日の演奏会で何もすることがないのはこの中でのだめだけデスし……」
「そ
れなんだけど、のだめー」
千秋様は貴方に……と言おうとした真澄を、千秋は手を上げて遮った。
確
かに家族が来るまでは誰か付き添いが必要だろう。
それを考えれば、この中では確かにのだめが適任だ。
予定してい
たピアノ演奏曲は俺がやればいい。
だけど……。
千秋は一抹の落胆を覚えていた。
地方の飛び
入りゲストとはいえ演奏会でこいつの演奏を披露できるチャンスだったんだがな……。
やはり……まだ、時期ではないということか。
「……
のだめ。じゃあ、お前に任せていいのか?」
「ハイ。先輩達は明日の演奏会に心おきなく備えてくだサイ」
にっ
こりと笑うのだめに誰も何も言うことができなかった。
旅
館に皆が帰りついたら、峰や清良達がちょうど車から降りてくるところだった。
「おい!千秋、今聞いたんだけ
ど……菊池の奴が足をケガしたんだって?」
「ああ、とりあえず入院になった。のだめが今付き添ってる」
「……
そっか……大変なことになったな」
「………」
暗く重苦しい雰囲気が皆を包む。
清
良が千秋に手に持っていたものを差し出した。
「千秋くん、とりあえず言われた総譜があったから買ってきたんだけ
ど……」
「……ああ、ありがとう」
「でも、菊池くんが出られないってことは……明日の演奏会はやはり中止した方
が……」
「ダメだ!もう約束しちゃっただろーが」
峰が叫ぶ。
「……
龍はそんなこと言うけど、菊池くんがいないってことは低音部の楽器がないってことよ。それじゃあちょっと演奏は……」
「ーそれはなん
とかする」
千秋が静かに口を開く。
「なんとかするって……?」
「俺
がピアノでベースを弾く。低音域はピアノと……あと少しヴァイオリンがフォローだ」
「でも……でも千秋くんがピアノをするってこと
は……指揮者は?このうすらトンカチにやらせるの?」
高橋が大河内を指さしながら言う。
「ー
誰がうすらトンカチだっっ!!……まあ……さあ……そこまで言うなら……指揮をやってあげてもいいけどね」
口で
はそんなことを言いながら、大河内の体はふんぞり返り、顔はすごく嬉しそうにキラキラと輝いている。
ところがメンバーから強いブーイ
ングが出る。
「ええーーっっ!」
「いやだ〜」
「千秋様の指揮でないと
納得できないわ!!」
「………みんなどうしてそこまで拒否するかな………」
がっくりと肩を
落とす大河内。
そんな大河内を横目で見て軽くため息をつきながら千秋は言う。
「……もちろ
ん、大河内に頑張ってもらうという手もあるが……そもそも俺は指揮をやらないとは言ってないぞ?」
「え?でも千秋くん、ピアノをやる
んでしょ?」
「ああ、ピアノをやる。ーだが、指揮もする」
「……それってもしかして……」
千
秋はにやりと笑った。
「弾き振りをする」
続
く